小諸 布引便り

信州の大自然に囲まれて、風を感じ、枝を眺めて、徒然に、社会戯評する日帰り温泉の湯治客です。愛犬の介護が終了しました。

地震報道にみるテレビ・メディアの限界:

2016年04月17日 | 社会戯評

地震報道にみるテレビ・メディアの限界:

つい少し前に、ブラタモリでやっていた『熊本城』にみる火と水の都を、みたところだったのに、誠に、無惨にも、天守閣の瓦や石垣が崩れ去ったものである。活断層や断層の上にしか、日本という火山国は、住まいを作れない以上、いつ、何処にでも、同じ災害に見舞われるとは限らない。何も、古い家ばかりでなく、新築でも、ひび割れでも入れば、考えてみれば、そこで、生活するのは、難しいことになることは必至であろう。テレビの報道を観ていると、如何にも、テレビ・メディアというものは、『被災者の立場』に立った『必要な情報』が、提供されず、結局、他人事のような客観的な分析、地震のメカニズムとか、何秒、どんな揺れがありましたかなど、そんなことは、東日本大震災で、嫌と云うほど、その瞬間には、身を守ることが、最優先で、後追い以外の何ものでもない。そんなことよりも、交通手段、道路状況、水や食料・ガソリンの確保、避難場所、安否確認のやり方、携帯電話の電源確保、など、そうした被災者の必要とする情報は、結局、一部のネット・メディアでしか、機能していないことが、はっきりした。一体、どのようにして、災害時に、情報にアクセスするのか、そして、どんな情報が、求められているのか、などは、これまでの阪神淡路・新潟中越・東日本など、いくらでも、あるはずで、これこそ、メディアの役割ではないだろうか?気象庁などと云うところは、余震・本震・予震などや、活断層のずれの説明されても、一体、被災者の現場に、どれ程の効果と助けになるのであろうか?又、地震の予測などは、直下型に関しては、難しい以上、面白、可笑しく、外れたとか、当たったとか、囃し立てても、全く、被災者には、意味がなかろう。そういう意味からすれば、テレビの報道は、如何にも、改めて、その限界性を露呈したことになるが、それでは、どうするのかが、議論されなければならないであろう。