小諸 布引便り

信州の大自然に囲まれて、風を感じ、枝を眺めて、徒然に、社会戯評する日帰り温泉の湯治客です。愛犬の介護が終了しました。

改正電気事業法の成立に思う:

2013年11月14日 | 社会戯評
改正電気事業法の成立に思う:
遅々として、一向に進まない福島原発の収束・汚染水問題にも拘わらず、電気事業法の改正の方は、何とか、地域の電力会社の独占が崩れ、発送電の分離や、小水力発電、バイオマス発電、太陽光発電などの自然再生エネルギー促進などの課題はあるにせよ、これまでとは、少しでも、違った一歩前進を見せることができれば、良しとしなければならないか?むろん、スピード感というものは、大切なことであるが、、、、、、。それでも、以前よりはましであろうか、東京の家では、今年、駆け込みで、屋上に、太陽光発電パネルを設置してからと云うもの、売電が、常に、買電よりも、上廻っており、電気代も多いに節約できている。しかも、眼に見える形で、数値として、電力使用量と発電量が、毎日、毎月、グラフで時間毎に、確認出来るので、否が応にも、節電意識は、増してくるものである。それにしても、これまで、地域では、自前の電力会社になれなかった企業も、独自に、これによって、参入可能になり、自前の省電力会社に成れる可能性が出てくれば、それこそ、道路網と同じように、送電施設のインフラが整い出せば、各地域地域での本格的な「エネルギーの地産地消」、或いは、大都会への余剰電力の売電による事業も決して、夢物語ではなくなる可能性も否定しきれないことであろう。熱しやすく冷めやすい日本人のこと、どこかの企業のように、メガソーラーを大きく打ち上げ花火のように打ち上げたものの、その後、一体、どのような展開を見せているのであろうか?一部では、メガソーラー事業も、様々な問題から、反対意見も、一部地方では、出てきつつあるようであるが、小泉発言ではないが、又、やはり、格納容器底部からの汚染水漏れが、ロボット検査により発見された以上、一体、現状、国のエネルギー問題は、どうなっているのであろうか?もう一度、冷静に、考え直して見る必要があるのではないだろうか?




信濃毎日新聞、「怪しいTV欄」:

2013年11月13日 | 社会戯評
信濃毎日新聞、「怪しいTV欄」:
全国紙では、なかなか、読むことの出来ないコラムが、結構あるものである。その中の一つに、放送作家の町山広美女史による「怪しいTV欄」なるコラムである。その時々のテレビ番組や出演者に間して、一種の世相を斬るような切り口は、なかなか、面白いモノがある。最近では、坂上忍を、山城新伍に、模して、コメントしているところが、興味を引いた。成る程、潔癖症であり、結婚できない芸能人の代表格でもあり、男性優位の価値観や芸能人特有の価値観を正々堂々と口にするこの元子役上がりの、一時は、鳴かず飛ばずだった俳優を称して、「空気を読まない振りをして、実は、空気を読み込んで引っかき回ている」と、まあ、山城新伍の領域にまで、達するかどうかは、分からぬが、ベラエティーやお笑い番組を視ていても、最近では、いじりとか、いじられ役とか、トークが拡がり、転がって行く為の着火点的な役割を誰が、担い、そして、誰に振るのかと、まるで台本が、密かに、しっかりと煉られている場面では、確かに、こういう役どころの人物が、担う価値は、多いに、番組的には、大きいモノがあるのであろう。最近では、有吉先生も、すっかり、先生・教授と、祭り上げられてきて、もはや、かき回す役割から、コンダクターのような立場へと歩を進めて来つつあるようにも思えてならない。一度、業界の公式定理なるモノを素人である視聴者が、理解してしまうと、一体、その番組は、どんな価値が、残るのであろうか?それは、まるで、手品のトリックをあかしながら、やるようなモノで、本来であれば、その種明かしをしながらも、最期には、再び、謎の迷路に、立ち戻るかのような手品的な番組を期待したいものである。そんな役回りの出来るタレントは、今日、誰なのであろうか?ひな壇芸人達も、やや、パターン化されつつあるようにも思えてならないが、、、、、。コント作家とか、放送作家という職業も、時代のトレンドに合わせて、大変なものであることが分かろう。



今年、最初で最後の18H リハビリ・ゴルフを夫婦で愉しむ:

2013年11月12日 | 社会戯評
今年、最初で最後の18H リハビリ・ゴルフを夫婦で愉しむ:
前夜からの寒波の影響なのか、朝から、陽が出ている割には、体感気温がひどく寒い。小諸高原GCへ、段々と坂道を登って行くと、唐松の林の先端が、キラキラと輝き、白い綿帽子のような霧氷か何か、木々の先端が、真っ白くなっている。奧に控える山々は、頂きに、冠雪しているようである。それにしても、平日のプレイだから、前も後ろの組も、いないので、気が楽である。景色を見ながらどころの話ではない。遙かに、八ヶ岳を望み、近い山々は、唐松の林が、黄金色に、輝きを増して、パラパラと針のような葉っぱが、雪のように、チラチラと、落ちてくる。久しぶりのロング・ホールの挑戦であるから、フラットな軽井沢のコースとは、若干、異なり、違和感がある。ましてや、両脚が、杭のように、地面に、ぐいと打ち据えられるわけではないから、どうも、スィングも下半身が、安定しない。ましてや、傾斜地もあって、なかなか、ただでも難しいものである。それでも、練習もしていない訳であるから、贅沢を言っては罰が当たろうか?前半のINをかろうじて、49(15パット)後半のOUTを47(17パット):合計96(32パット)で、纏めることが出来たのは、良しとしなければならない。もっとも、シニア・ティーでのプレーですが、、、、、。何せ、1年半以上も、18H でのプレーをしていなかった訳であるから、、、、、、。霧氷が見れただけでも、偶然に、感謝しなければならない。そんなわけで、今年で最初で、最期の18Hリハビリ・ゴルフも、夫婦一緒にプレーでき、無事終了しました。プレー後の温泉は、これ又、独り占めで、ゆっくりと暖まることが出来ました。これも又、地方での楽しみであることに変わりありません。眺め良し、天気良し、(人生の)パートナー良し、これにスコアが、もう少し、良ければ、これに越したことはありませんね。




紅葉の懐古園と秋の万酔園庭園を歩く:

2013年11月11日 | 自然・植物・昆虫
紅葉の懐古園と秋の万酔園庭園を歩く:
春の桜の咲く頃には、とりわけ、小諸の懐古園の紅垂れ桜と天守閣跡から、見下ろす桜の花の雲海のような眺めも絶品であるが、秋の紅葉も、又、大変、宜しい。小諸マンズ・ワイナリーにある万酔園の日本庭園の眺めも、これ又、秋の赴きも、乙なものである。たまには、秋の紅葉の写真を、お気に入りのアングルで、何枚か、撮影してみることにした。存外、観光客も、平日である割には、賑わっていたように感じられる。御牧ヶ原の大地に連なる尾根も、今や、斑色に、いろとりどりの色彩である。又、遠く、高峰高原の山々も、その頂上付近には、白い綿帽子のように、雪化粧なのだろうか、冠雪の跡が、観られる。池の畔には、苔むした岩肌に、紅葉したモミジの落葉が、緑色の苔とは対照的に、降り積もり、池の底にも、赤や黄色の落ち葉が、水面からも、はっきりと、見透せるし、赤白の斑点模様の錦鯉も、悠々と泳いでいて、その色彩は、この季節ならではのものである。思わず、一枚、撮りたくなってしまった。もう、年寄りの羞悪な被写体よりも、自然な風景の方が、カメラ写真には、それ相応ではなかろうか?久しぶりに、夫婦2人で、ゆっくり散策して歩き回ったので、少々疲労感を覚えました。日帰り温泉の暖かい湯加減が、何とも、堪らなく、疲れを癒やしてくれました。春も良いし、夏も良し、そして、冬も宜しいが、何より、秋の紅葉は、一段と増して、景色が、明るくなったような気がして、これ又、お勧めですね。春夏秋冬、どれをとっても、堪らなく、美しい気がします。海外の友人達にも、是非、この自然の美しさを、直に、味わって貰いたいものである。




島倉千代子と「おっ母さん」と言う言葉:

2013年11月10日 | 社会戯評
島倉千代子と「おっ母さん」と言う言葉:
島倉千代子が、75歳で、逝ってしまったと報じられたが、自分の世代的な感覚で云えば、もっと、年上のような気がしてならない。ほんの10歳しか、年上ではなかったのかという驚きである。「この世の花」が、1955年に、200万枚のヒットであったとは、これ又、驚きである。恐らく、当時は、ラジオから、流れてきたであろうあの唄のメロディーが、改めて、この曲を耳にすると、子供心に、耳の底に、不思議と蘇ってくるものである。同様に、子供の頃に、ハッキリとはしていないが、恐らく、耳にしたであろうと思われる曲は、記憶の片隅に、何処かで、すり込まれているのであろうか?1957年の「逢いたいなぁ、あの人に」も、1958年の「からたち日記」も、からたち、からたち、からたぁ~ちの~花が、、、、、とどういう訳か、懐かしく、口ずさんでしまう。1957年の「東京だョ、おっ母さん」は、150万枚も売れたそうであるが、今や、この言葉も、絶滅危惧種の類であるのだろうか?確か、昔の駒場祭ノポスターだったか、何かの時に、「とめてくれるな、おっ母さん、背中の銀杏が、、、、、」と奇抜なイラストとともに、当時流行った高倉健の「唐獅子牡丹」の入れ墨になぞらえたキャッチ・コピー以来であろうか?もう、そんな「おっ母さん」と言う言葉を今日、使う人も、少なくなってしまったのではないだろうか?ましてや、二重橋を上京の観光案内に、手を取り合って、手を合わせる人も、今や、絶滅危惧種になりつつあるかも知れない。それにしても、借金返済とか、怪我、病気、離婚とか、「人生、いろいろ」あった生涯である。又、ひとり昭和の泣き節の歌姫が、逝ってしまったが、紅白歌合戦の相手側だった三橋三智也や春日三郎、三波春夫、フランク永井も、思えば、みんな、鬼籍に入ってしまったものである。わずか、10歳しか、離れていなかったことにも、どういう訳か、改めて、驚かされる。ご冥福を祈りたいものである。



秋深まれり、そろそろ、里山も、、、、冬の準備か?:

2013年11月09日 | 自然・植物・昆虫
秋深まれり、そろそろ、里山も、、、、冬の準備か?:
赤く色づく前に、緑色から、葉先が変色するのを愉しむのも、或いは、葉と葉が、秋雨で濡れて、そのまま、重なり合った結果、モミジの葉が、斑色に紅葉する様を愉しむことも、これ又、実に、一興である。しかしながら、今年のモミジは、どうも、いつもと違って、どうやら、赤く変色する前の過程で、橙色が、実に鮮やかであるような気がしてならない。もっとも、そんなに、きめ細かく、毎日、毎日、紅葉を観察しているわけではないから、そんな変化にも、普段は気が付いていないだけなのかも知れない。それにしても、緑色から、やや葉先が、赤みがかったり、あるものは、橙色に変色したり、或いは、黄色にと、一体全体、どんな要素で、そんなに、色々な色に、同じモミジなのに、変化するのであろうか?同じ樹ですら、枝によって、或いは、部位によって、様々な彩りである。既に、一部は、落ち葉として、地上に、はらはらと、落ち始めているものもある。やがて、地表をまるで、深紅の絨毯の彩りに、染め替えてしまうのは、もう時間の問題だけである。春に、桜の花びらが、水面に散りゆき、まるで、染め物の布を流したように、一面を桜色に染め替える様に、似ている。深まり行く秋の趣は、モミジの紅葉を置いて他にはないように思えてならない。やがて、それが終える頃になると、いよいよ、冬の到来も間近なのであることが、毎年、何とはなしに、感じるものである。丁度、同じ日の1年前に、モミジを背景に、我が老犬の勇姿をデジカメに納めたが、今年は、それも、果たされない。モミジの落ち葉の中で、まるで、すやすやと、気持ちよさそうに、眠っているようである。もうそろそろ、冬の準備に入られねばならいのだろうか、、、、、、。



和食の文化遺産登録勧告に思う:

2013年11月08日 | 社会戯評
和食の文化遺産登録勧告に思う:
会席料理でも、或いは、懐石料理でも、又、韓国の宮廷料理でもなく、「一汁三菜」の和食であるそうである。しかも、食に付随する「文化」が、鍵でもあるそうである。広範囲に、食器や、盛りつけなどの「美的感覚」も、文化の範疇に入るのであろう。食器も、和食器は、割れても、再び、漆で、張り合わされ、その上から、金粉で、まるで、モミジの葉脈のように、器が、リボーン、再生される手法があるそうである。それにしても、今日では、一汁三菜ではなくて、ワン・ディッシュ・プレート化で、とりわけ、食べ終わった後の食器の洗浄も、より少ない皿の量で、簡単に、手早く早めに終了することが、今日の食器洗いのコンセプトのキーのようである。こうなると、究極の理想の料理は、お茶漬けか、スープ・パスタなのであろうか?一皿に、スープの汁と、パスタ麺と具であって、野菜も中に、入っていれば、ベストなのであろうか?それにしても、実に、皮肉な傾向である。本来の日本の食文化が、家庭で、廃れて行く一方で、日本の和食文化が、世界に、発見されようとしているとは、、、、、まるで、絶滅危惧種を保存するために、ユネスコの世界文化遺産登録の手助けを借りるとは、、、、、或いは、世界的な和食の普及を、その本家本元が、ブランドのライセンサーとして、世界中のライセンシーに対して、「本物」を提示するのであろうか?一方で、吉兆の偽装もまだ、記憶に新しいものの、有名ホテルや百貨店での止まるところを知らない「誤表記・偽装表示」(?)問題など、素材の良さを生かした調理方法、昆布・鰹節だしなどの世界的な注視の中で、和食文化は、何処へ、行くのであろうか?和食の職人には、驚かされることが、多々あるが、お品書きの字すらも、寺の高僧について、書道を学び、お椀の器の蓋も、その図柄を自ら、デザイン創作したり、料理の旬の素材の特色や、その最善の調理方法だけでなく、ダシの取り方、醤油・塩等の調味料も、花器や季節の活け花も、食器も含めて、日本文化に精通し、素人にも、分かりやすく、丁寧に、蘊蓄をさりげなく、一品一品、出すときに、説明もしてくれる、そんな職人技の和食の料理人は、確かに、絶滅危惧種の如くであろう。「食育」・「農業再生」も含めて、「和食文化」が、これからも、身近な生活の中に、子供の頃から、根付くことを願ってやまない。



時代は、まわる:

2013年11月07日 | 社会戯評
時代は、まわる:
もう、随分と昔の事で、いつ頃のことだったか、良く想い出せないが、未だ、中島みゆきが、若かった頃、「時代」という唄の中で、「そんな時代もあったねと、いつか、話せる日が来るわ、、、、、、、、まわ~る、まわ~るよ、時代はまわ~る、喜び哀しみ繰り返し、、、、」と、謳っていたのを、何気なしに、夫婦で都会の街を歩いていると、ふと、想いだした。そこここに、工事現場の足場や、クレーンが、林立し、ドッカン、ドッカンと、大きな音を響かせている。生命保険会社の社宅も、4階建てから、新たに、高層マンションへと建て替えられるらしい。隣の資生堂の会社の寮は、とうの昔に、賃貸マンションに、衣替えしている。ほんの少しの間、東京を離れていたのに、もう、既に、そこには、昔の面影もない。東京電力や有名大会社の自然に恵まれた大きなグラウンドも、いつの間にやら、資産売却されて、マンションに様変わりである。商店街の懐かしいお店も、一店舗、又、一店舗と、まるで、櫛の歯が欠けるように、店が閉じられ、移ろいゆくことになってしまった。貸本屋の高田文庫も、駄菓子屋のピノチオも、小学校の校門の脇にあった小木多文房具屋も、松田果物店も、その斜め向かいにあったその従兄弟の八百屋も、今では、みんな、店替わりしてしまった。それにしても、街並みというものは、建物が建て替えられると、もう前に、どんな風景だったのかを想い出すのは、困難なものである。そんな風に、あっという間に、時代は、まわって行くのであろうか?結婚37年目の記念日に、食事を一緒に食べた帰りに、街を歩いて、ふと、そんな感慨を抱いた。もう女房殿も、37年間、当地に、棲んでいることになる。



E -TV特集、田中泯「人を動かす絵、ベーコンを踊る」:

2013年11月06日 | 映画・テレビ批評
E -TV特集、田中泯「人を動かす絵、ベーコンを踊る」:
絵画を鑑賞するとき、シュルレアリズムの絵画ほど、厄介なモノはないであろう。一体、何を描いたものなのかを分かろうと努力すればする程、迷路に舞い込んでしまうものである。前衛舞踏家の田中泯が、フランシスコ・ベーコンのアイルランド生家やロンドンのソーホーのパブを実際に、訪ね歩いて、その絵に触れて、感じ取った何ものかを、日本での美術展の開催に伴って、その絵の前に、踊るという映像である。ほとんど、絶滅危惧種と化してしまったテレビ番組の中でも、これは、なかなか、秀逸なものである。今後ともに、期待したいところである。それはさておき、何を描いたかを考えるのではなくて、画家自身が何を描こうとしていたのか、或いは、どうしても、描かねばならなかったそのもの、その衝動を考えなければ、否、考えるのではなくて、田中に云わせれば、「感じなければ」ならないそうである。感じると、自ずから、身体の中から、それが、「動き」となって、表現されてくるものであると、、、、、、、。「感じる」とは、形にならない何ものか、眼には見えない何か、粒子みたいなもの(まさか、ヒックス粒子ではあるまいが???)、それを、見える形に、その肉体を通じて、形として、表現するものが、「今回の舞踏作品:献上」なのだそうである。それは、30年ほども前に、かの土方巽をして、田中に、ベーコンの人物画から、まるで、顔の肉が、骨から、落ちて行く様を表現しろと云われたときの衝撃にも、似たような原点であったのであろうか、デフォルメされた顔に、描かれた絵の中の人物の側に、どんどん、吸い込まれて云ってしまう自分自身があると云う。そして、その画家の筆のタッチの感覚、息吹が、自身で、踊っている中で、「感じられる」ようになってくると、、、、、、。人間を肉の塊として描くその画家の感性は、門外漢の私などには、美術評論家の謂う所の「存在論的な欲望」とか、「暴力性」とか、「イノセンス」と呼ばれても、今一、良く理解は出来ないが、人間性の中に内在するある種の隠された何かか、確かに、謂う所の「美しさ」と呼ばれる物が(やや、危険な臭いがしないでもない、三島由紀夫の美学とは若干異なるものの、底流では、似通った何かも感じざるを得ないが。それはさておき)その画家の衝動やインスピレーションの中に、宿っているのかも知れない。それを、又、舞踏という別の形で、表現してしまう田中の踊りも、これ又、驚くべきエネルギーを秘めた表現力としか云いようがない。どこに、そんなこの白髪の老人の中に、宿っているのであろうか?その画家は、決して、絵が何を語ろうとしているのか、何を描いているのかを語ろうとしなかったそうである。そえは、確かに、観る側へのある種の形而上学上での闘いの挑戦状のようなもので、自身の同性愛と飲酒も含めて、時代という怪物に、現実の日常生活の価値観とも、対立、拒否して初めて、成立するというきわどいタイト・ロープ上でのバランスだったのかも知れない。心的な「不安」やある種の「恐怖」、無意識に、生きた時代のリアリティーを捜すという衝動は、やはり、何処かへと導かれる3枚の扉とカットされた樹の枝の絵に象徴される「不死」や「生」への思いなのであろうか?画家は、その描かれている世界を遊ぶことすらも、観る側に許すことはなかったし、理解されようとも決して思わなかったのかも知れない。だからこそ、現実に戦慄して生きることに恐怖し、所詮、悲劇的な存在でしかない、まるで、肉の塊のようなものであり、悲劇に欲望する生き物なのであると結論づけてしまうことになったのであろうか?それにしても、人間の内面に宿る潜在的な「感受性」とは、すさまじいものであることに驚かざるを得ない。画家が描かざるを得なかったそんな衝動を、存在の痛みとして根ざす眼に見えない力を、自分の肉体を通して、表現するとは????「人を動かす絵」にも、驚かされるが、「絵を踊る舞踏家」にも、又、同じように、驚かされる。(音楽に合わせて、ダンスを踊ると云うことには、格別、驚かされないのは、何故であろうか?)AKB48のフォーチュン・クッキーの振り付けも真似できないような自分には、言葉を発することが出来ないくらいの右脳への電気的な衝撃である。たまには、目をつぶって、エアー舞踏を頭の中で踊ってみることにするか?寝るときに、目をつぶる以外に、あまり、目をつぶらないから、たまには、目をつぶってみることにするか?現役の人は、電車で、乗り過ごさないように、気を付けて下さいね。よろしく、



映画、「そして、父になる」を観る:

2013年11月05日 | 映画・テレビ批評
映画、「そして、父になる」を観る:
是枝裕和監督による脚本であるから、原作の沖縄の「歪められた絆」とは、展開も、内容も異なることが、この映画だけからだと、分からないかもしれないし、それは、それで、逆に、監督の考えるエンディングに、沿っているのかも知れない。見方は、観る側の側によって、その立ち位置によって、映画の見方が、瑞雲と異なるものになるのかも知れない。血脈を大切に考えるのか、一緒に過ごしてきた共有する短くても、その子供にとっては、人生のすべてである時間を大切にするのかという究極の選択に対する答えとは、何か?暗示的なエンディングではあるものの、その観客の立ち位置によっては、随分と、色々と考えさせられることになる。昔は、子供のない家に、家系の相続のために、養子縁組や、里子・里親は、そんなに、珍しいことではなかった。実際、父方の祖母は、自分の子供を里子に、3歳の時に、出しているが、どんな気持だったのであろうか?犬や猫ではあるまいし、(もっとも、犬猫でも、駄目だと、作中、云われてしまっているが)人間の子供である以上、取り違いや、故意の犯罪でも、関係者には、当の子供本人も含めて、大変な精神的な影響を及ぼすことになる。野鳥の世界では、カッコウの托卵ではないが、親を欺いて、雛鳥を育てさせることが本能であるが、人間は、そういうものでもなさそうである。中国残留孤児ではないが、余程の戦争という極限での選択でない限り、育ての親と生みの親の葛藤も、今日では、稀な話であろう。むしろ、この仕事中心の失敗をしたことがないエリート・サラリーマンと、一寸、粗野で、生活に困っている個人商店主夫婦という構図や、対照的な父親像、異なる男親像のアンチ・テーゼ、一見似てはいなさそうである母親同士のある種の共感、男親には理解出来ない、生みの母同士の共感、夏八木勲演じる老親爺や風吹ジュン演じる義母との過去の確執、互いの夫婦間での価値観の微妙な相違、そんな中で言葉を発さない、ピエール瀧演じる看護師の夫や、樹木希林演じる義理の母親の物言い、國村肇演じる上司の奇策の物言い他、デジカメに記録された何気ない父親や母親の画像、父の日に作られたバラの工作物、お風呂場での他愛ないお遊び、エンディングでの暗示的なシーン、もう既に、30数余年も前の時間を巻き戻させられるような感慨である。そう言えば、長女が誕生した日の朝も、芝浦の場に、仕事の関係上で、行かざるを得ず、しかも、場で、廃ホルスタインが、されて、腹を裂かれて子牛が出てきたその時間帯に、長女が、誕生したという経験をいつも、誕生日には、想い起こす。もっとも、その1週間後には、海外出張で、平気で、家を空けていたわけであるから、「そして、父になる」と言うタイトルは、何とも、重たい響きを感じざるを得ない。それは、まるで、「そして、夫婦になる」とか、「そして、家族になる」とは、何かと、鋭く、改めて、問われているように思われるのは、この映画を観賞した私一人だけの感慨であろうか?まだまだ、修行がありません!帰ってきたら、明日は、「結婚記念日ですよ!」と言われ、「ハッと」したが、時既に、遅しであった。明日は、何の日ですか?と聴いてくれれば分かるものを、、、、、、、、。まるで、刑事の尋問のようである。


日本シリーズに思う:

2013年11月04日 | スポーツ
日本シリーズに思う:
毎年、日本シリーズのTV観戦をする時期になると、不思議と、子供の頃の、未だ、テレビが普及していなかった頃に、小学校の図書室に、放課後、土曜日だったであろうか、(まだ、デイ・ゲームで、ナイターではなかったような記憶がある)先生もうち揃って、観戦したことを想い起こす。あれは、確か、鉄腕、稲尾が、三原マジックを駆使した西鉄全盛の時代だったであろうか?野球の神様がいるのであれば、随分と、今年の日本シリーズは、粋な計らいをしたものである。被災地東北をこれ以上、元気づけることは、なかなか、ないであろう。あまり、元気を貰うとか、元気を与えるとかという言葉は好きでないが、まあ、今回くらいは、大目にみましょうか?雑草魂と金権エリート野球の戦いとでも、云った構図に、流石の「野球の神様」も、見かねてしまったのでしょうか?打倒巨人を人生の生きがいとする星野に対しても、この辺で、溜飲を下げさせてやるかとでも思ったのでしょうか?或いは、アメリカに行ってしまうであろう田中に対して、胴上げ投手の栄光を最期に、与えてやろうかとでも思ったのでしょうか?更には、巨人に対しては、指揮官、原に対して、まだまだ、エリート一流が揃っていても、指揮官としては、修行が足りないゾとでも、思ったのでしょうか?何はともあれ、シリーズ男ならぬ、逆シリーズ男に、なってしまった阿部捕手は、何とも、気の毒としか云いようがありませんね。日本シリーズは、よく、捕手の闘いだと云われていますが、まさに、嶋と阿部の闘いでもあったかも知れません。或いは、野村と長島の世代を超えた代理戦争だったかも知れません。楽天スタッフによるIT分析・情報・データ収集能力が、野村以来、優ったからなのでしょうか?それにしても、名だたる解説者が、自分の身になぞらえて云っているように、前日160球も投げきり、完投し、しかも、今季、初黒星で、敗戦投手になってしまった田中が、再び、最終回に、2死一発を浴びれば同点という緊迫した場面で、三振に打ち取る精神力というか、もう、こうなると、あの神様・仏様・稲尾様を、凌駕するような何かに憑かれたようなただならぬものを、気迫とか、精神力とかと言うような代物では言い尽くせない野球の神様が、何かを伝えたいとおもうようなものを、感じずにはいられないと思いました。これは、もう、サッカーや、他のスポーツでは、どうしても、感じられない野球の面白さ以外の何ものでもない気がしてなりません。川上・長島・王といった子供の頃の巨人ファンであった人間も、今更ながら、金権エリート体質化した巨大な既得権益化したエスタブリッシュメントの渡辺に、対して、三木谷の並々ならぬ挑戦状を叩きつけたかのように、思うのは、少々、穿った見方でしょうか?上原は、異国の地で、この件をどう見ていたのでしょうか?楽天の若い選手には、この緊張感と勝負の紙一重は、何よりの今後の糧になることでしょう。日本シリーズも終わり、いよいよ、今年も、残り少なくなってきました。



サイバー補導と法律の競争:

2013年11月03日 | 社会戯評
サイバー補導と法律の競争:
サイバー・テロの危機が叫ばれて久しいし、又、犯罪の進化のスピードも、年を追って、捜査技術を遙かに凌ぐような情況である。そんな中、「サイバー補導」という言葉には、やや、驚かされる。ネット空間や掲示板に、書き込まれるビッグ・データの中から、キーワードを検索して、発信元に、身分を明かさず、ステルス戦闘機の如く、近づき、現実世界の現場で、補導する手法であるモノだそうである。援助交際や下着の売買などの不適切なインターネット上での書き込みを見つけ出す捜査手法だそうである。スマホが普及したり、Lineなどのアプリを使用して、書き込みや、機動性が、素早くなりつつある今日、確かに、その機動性に対応するには、「取り締まる側」にも、それなりの機動性が求められるのは、当然のことなのであろうか?それにしても、サイバー空間での闘いは、「法律の後追い」が、実際、危惧されよう。とりわけ、おとり捜査手法ではないが、サイバー・パトロールなるものも、どのようにして、法的な縛りと効果とを、同時に、「両立」させうるのであろうか?どんどん、現実の空間の方が、そんな議論を差し置いて、進化していってしまうのであろうか?そんな議論とは別に、電子化は、進行中なのが、現実であることを思い知らされる。取り締まる側も、Line等各種のアプリにも、精通しておかなければならないとは、大変な時代である。警察官も、これからは、体格会系だけではなくて、ある種オタクの人達にも、就職の機会が、充分あるのではないだろうか?犯罪の進化に対抗する取り締まる側の警察の人事・採用担当者も、大変な時代でもある。



焼きりんごを作る:

2013年11月02日 | 男の手料理・食
焼きりんごを作る:
ずいぶんと、久しぶりのデザート作りである。旬のシナノ・スウィートを原料に、いつもは、りんごの「コンポート」を作るのであるが、今回は、新たに、より簡単で、しかも、失敗がほとんどないであろう安全確率の極めて高い「焼きりんご」とした。子供の頃食べた焼きりんごを想い出す。用意するのは、極めて、簡単である。耐熱容器に、りんごと各種ソースを配合した上で、200度、30分もベイクするだけである。まずは、りんごを横に、真二つにカットし、中心の芯と種の部分をナイフで、くり抜き、念の為に、スプーンで、丸く補正修正しておく。そして、その中に、常温で置いたバターをひとかけら、ラム酒と(グラニュー糖が、なかったので、三温糖)を使用して、シナモン・パウダーを振りかけておく。たまたま、ラム・レーズンを作っておいたものが残っていたので、その液をも活用する。後から、食味した感覚で云えば、りんごの皮は、事前に、剥いておいても、良かったかも知れない。もっとも、フォークで、突き刺しておくのも、必要だったかも知れない。後は、ベイクした後で、アイスクリームを熱いうちに、乗せて、食べるだけのことである。これならば、若いパパでも、子供と一緒に、ママのお誕生日にでも作ってみたら、大受けは間違いないであろう。それ程、安全・成功の確率は、高いものである。彼女も、彼氏のために、ちょこっと、作ってみたら、絶対、コロッと、やられることは、間違いなさそうである。写真は、アイスクリームを載せて、食する前の段階である。実に、美味しかった。詳しいレシピーは、クックパッドに、各種記載されているので、ご参考まで、「焼きりんご」で、検索可能です。



誤表記と不当表記と偽装との狭間:

2013年11月01日 | 社会戯評
誤表記と不当表記と偽装との狭間:
食品業界に、少しでも関わったことのある人間であれば、黒ムツとメロの違い、或いは、テラピアといずみ鯛の表記の違いくらいは、十分熟知しているであろうし、そういう違いも知らずに、仕入れや調理をしているシェフが、仮にいるとしたら、そのホテルは、一体、何なのであろうか?組織が大きすぎるとか、横の部署間の連携がとれていないとか、モラル・ハザードだとか、そんな類の問題ではないであろう。もっと、根源的なところで、何処か、狂っているとしか云いようがない。「未必の故意」、と言う言葉や、「不作為」と言う言葉は、法律上の解釈であっても、その当人の頭をかち割って、本当に、騙そうとした意図があったのか、なかったのかとメスを入れるわけにも行かないのが、残念乍ら、現状である。だからこそ、刑事罰による詐欺罪の立証や偽装の立証は、難しいわけであって、最終的には、ひとえに、個々人の個人的な「職業的な倫理観」にある程度、委ねられるという前提のもと、成り立っているところがないわけでは無い。そう考えると、「不当競争防止法」やら、「不当景品表示法」などによる刑事罰の強化とは別に、確かに、誤表記、とか、不当表示とかは、まるで、何処かの謝罪記者会見同様に、いつも、故意ではないが、業界の慣習に従って、誤った表示が、表記され続けていたという、謂わば、故意に、騙す意図は全くなかったものの、結果的には、信頼を裏切ってしまったなどと、それによる不当な利益を上げてきたことは差し置いて、自らの「不作為」を論う結果になっているのではないだろうか?今の世の中は、既に、何処かの一流芸能人と三流芸能人のグルメ見極め・格付け番組ではないが、自分の舌に自信を持って「味覚」に基づいて、判断するのではなくて、表記と称する「ある種の情報」で、判定することに、我々は、もはや、慣らされているとしか云いようがない。この「情報のお墨付き」に、過度に、依頼しすぎて、自らの以て備えられし本能的な「味覚」、とりわけ、「本物を味わう」という味覚文化が、何処かへ、消え去られそうになっているのではないだろうか?それは、丁度、本物の焼きプリンが、子供にとって、「お母さん、このプリン、焦げているよ!いつものプリンじゃないよ」というのと違いはないのではなかろうか?食を提供する側のモラルも、それはそれで、問題であるが、勿論、本当に消費者だけが、すべて、正しく、無謬性を常に、保っているのであろうか?そう言えば、昔、台湾へ出張したときに、初めて、味の素の使用されていない台湾料理を出されて、違いが、分からず、唖然とした経験があったことを想い起こす。何でも、使用していると、食べ終えた後、舌の感覚が、痺れるそうであると、、、、、、、、。それが、理解出来ないほど、小さい頃から、しっかりと、味の素の「味覚」に洗脳されし続けてきた私の舌は、既に、痺れきっていたのかも知れない。食材もさることながら、今度は、添加物なども、どうなるのであろうか???? 考えてみれば、情報に頼り切った味覚は、食に限らず、文化でも、同じなのではないだろうか?グルメでなくて良かった。因みに、私は、海老アレルギーなので、残念ながら、芝エビの海老チリソースは、食べられませんし、勿論、バナメイ海老も、ですが、、、、、。蛇足でした。(苦笑)