小諸 布引便り

信州の大自然に囲まれて、風を感じ、枝を眺めて、徒然に、社会戯評する日帰り温泉の湯治客です。愛犬の介護が終了しました。

「倫理的消費」とは、何ぞや?:

2015年05月13日 | 社会戯評
「倫理的消費」とは、何ぞや?:
倫理的、ethicalとは、何ぞや?何でも、新たなマーケティングのコンセプトとして、これが、注目されているという。モノが作られる背景を知ってから買おうというものらしく、新たな消費の掘り起こしを狙う小売業からのアプローチであると云う。今更、マックス・ウェーバーではないが、ピューリタニズムの倫理性と資本主義の精神どころの話ではない。まるで、貪欲な華僑が、流通業を制して、すべてのモノつくりの利益を一挙に、絡め取った如く、今日、今更、こんなコンセプトを持ち出されて、新たな需要を掘り起こされたくはないというのが本音であろう。そう言えば、ナイキではないが、あれ程までに、安い労働力を発展途上国で、違法にも、就学前の子供達を不当に安い労働力として、シューズ造りに活用していたり、バングラディシュでの縫製品にしても、同様に、これでもかこれでもかという程、安い低賃金労働者を使って生産していたことをおもうと、それ程までに、そういう資本主義の原理原則が、必要不可欠であったのであろうか?もっとも、我々は、平気で、安ければよいという、牛丼をたらふく食べても、それが、如何に、低賃金モデルケースとして、デフレの上に、成り立っていることを知ろうともしないし、同じ労働者で有りながら、気が付くこともない。一体、この倫理性の先に、何が見えてくるのであろうか?そして、我々、消費者は、どのような観点から、こうした資本の論点からの新たなコンセプトに、戦えるだけの強固な、且つ、対峙出来うるコンセプトを獲得できるのであろうか?ピューリタニズムの倫理性は、何処へ行ってしまったのであろう。何処かの爆買いを笑って見てはいられない。

一寸、気になるCM:虫コナーズ篇

2015年05月12日 | 映画・テレビ批評
一寸、気になるCM:虫コナーズ篇
そろそろ、初夏を迎える季節となると、小さな羽虫や小バエ、うるさい蚊などが生えてくる。玄関の扉にも、そろそろ、ネットも取り付けなければなりません。そんな時に、ふとテレビを観ていたら、例によって、殺虫剤のCMに混じって、虫がこないという例のベランダや玄関口に吊すタイプのCMがオンエアーされ始めました。あれれ!確か、この種の商品は、「蚊などには、効果がない」と、消費者庁から、是正勧告が出されたはずなのに、何の反省も、或いは、改善のコメントもなく、性懲りもなく、正々堂々と、主婦が躍っているでは無いか?誠に、見事に、消費者である主婦層が、「躍らされている」ではないか?一体、企業倫理とか、スポンサーに依存しているTV局側にも、どんな「倫理性」が、あるのであろうか?或いは、ほんのひとかけらすらも、そこにはないのだろうか?東南アジアのホテルなどでは、揮発性の植物性オイルを虫除けとして、廊下や部屋に使用していることを想い出して、こうした吊すタイプや、オイル系の虫除けを購入したものの、充分に期待するほどの効果も観られないのが、これまでの実情だった。ペット用も、屋外で試したが、結局は、蚊取り線香が、一番効いたような気がしないでもない。いずれにせよ、何の反省も告知もなく、性懲りもなく、CMを打つとは、消費者は、決して、消費者庁の勧告を忘れていないぞと、声を大にして、叫びたいところである。怖いスポンサーには、所詮、テレビは、鈴をつけられないと云うことの裏返しかも知れない。



八重桜のブーケを作る:

2015年05月11日 | 自然・植物・昆虫
八重桜のブーケを作る:
GWの後半をずっと、愉しませてくれた八重桜も、一房、二房と徐々に、萎れながら、ぽつり、ぽつりと、落ち始める。それが、針葉樹の若葉の上に、まるで、牡丹雪のように、ピンク色の花が、緑色の上に、浮き立つ。土の上に、落ちてしまった花房は、まだ、ピンク色で、とても綺麗である。樹の上に、咲いているときには、手で取れないから、地上に落ちてきた花房を萎れていないモノを中心に、手で拾ってみる。萎れてしまった花房は、力なく、花びらをひらひらと散らす。元気の良さそうな花房を10個づつ、束ねて、小さなブーケにしてみることにした。毎年ではないが、気が向いた年には、これを幾つか、束ねて大きなブーケにして、水盤の上に生ける。なかなか、綺麗なモノで、食卓をピンク色に染める。これは未だ一度もやったことはないが、何でも、八重桜の花びらを塩漬けにして、お白湯に入れて、自家製桜湯を愉しんでみたいものである。まぁ、気まぐれだから、いつのことやら、とんと、分からぬが、いつの日か、やり方を勉強して、実行してみたい物である。まるで、ブーケは、イチゴ氷のような様相を呈している。思わず、スプーンで、掬ってみたい衝動に駆られる。春の花々も、徐々に、散り始めてゆく。すずらんの小さな白い花が、ちらほら、咲き始めた。どんぐりの長い花房が、落ち始め、まるで、乾燥水苔のように、こんもりと、道端に、溜まっている。静かに、知らぬ間に、実を結び始めるじきなのであろう。徐々に、里山も、初夏の装いの準備に、移りつつあるのであろうか?ますます、新緑が、濃くなり始めるように感じられる。

樹を見る:

2015年05月10日 | 自然・植物・昆虫
樹を見る:
「木を見て、森を見ず」とは、よく言われることであるが、実際、一本の樹木それ自体をてっぺんから、幹の根元まで、なかなか、眺められるモノではない。ということは、実際、この木というモノは、所詮、枝葉末節的な樹の一部なのであろうか?秋から冬にかけて、落葉樹の葉が、落ち始めると、今まで見えていなかった巨木が、とりわけ、赤松の針葉樹林が、その姿を一本丸ごと、晒し始める。しかしながら、春先から、初夏に掛けては、逆に、今度は、その姿をまるで、「真理」が、何かの影に隠れてしまって見えないかの如く、その全体像が、見えなくなってしまうのは、何とも、面白いものである。一体全体、どうしたものだろうか?たしか、陶淵明の漢詩に、「東園の青松」というものがあったが、要するに、夏場には、ツタや蔓で、その松の姿は、見えなくなってしまうが、ひとたび、寒気に、触れると、青い松が、堂々と、姿を現すという風な意味合いで、逆境にあっても、いつの日か、順境な時が訪れるから、それまで、心して、待機せよという今のサラリーマンにも通じるような漢詩であるが、成る程、ベランダから、景色を眺めていると、「樹を見る」ことは、何とも、贅沢なことのようにも、思われる。都会では、現役の頃には、全く、公園にでも行かない限り、丸丸一本の銀杏の樹などは、上から下まで、眺められないものである。今は、広葉樹の淡い薄緑色の新緑の葉と枝に、蔽われてしまって、姿を隠してしまったが、当分は、この柔らかい緑溢れる樹海を森に抱かれるように、包まれて、楽しむことにしよう。

次の課題は、挑戦!という:

2015年05月09日 | 社会戯評
次の課題は、挑戦!という:
大きな組織で働いていたときには、大企業病という厄介な病気を如何に防ぐかということが、企業・組織にとって、おおいに、大切なことで、様々な研修も含めて、一人一人の各構成員に、鋭く迫ってきたものであることを懐かしく想い出す。トヨタが、決算の発表と同時に、今後の課題は、「挑戦である!」と断言したそうである。成る程、常に挑戦し続けるということは、組織にとっては、致命的なことであろうが、その個人レベルで、考察してみれば、30年でも、40年でも、或いは、生涯現役などと云われると、それは、それで、大変な事であると思わざるを得ない。個人的な体験からも、独立して、会社を興してやり始めると確かに、大変なことで、挑戦をし続けるためには、何が必要だったのであろうか?達成感や、満足感も、必要であろうし、マラソン・レースである反面、時には、瞬間的に、ターボ・エンジンではないが、急速ダッシュやアクセルを目一杯に、踏み込まなければならない時もあろう。想い起こせば、その連続で、組織にとっては、疲れ知らずであろうが、個々人にとっては、どのように考えてみたらよいのであろうか?エネルギーが蓄積され、消費され、そして、又、再生・補充されなければならない。余程、メリハリをしっかり作らない限り、そんなに長い間、全力疾走では、精神も肉体も消耗してしまうであろう。それにしても、企業という生き物は、どこまでも、果てしなく、無茶ぶりを迫ってくるものであることも、事実であろう。組織と個人の共栄、これは、国家と国民との在り方にも、共通する問題なのかも知れない。どのように、我々、個々人は、組織の永久革命の継続という永遠の課題に、どのように、対処しなければならないのであろうか?考えさせられてしまう。

声の再生ということ:

2015年05月08日 | 健康
声の再生ということ:
咽頭癌の摘出のために、声帯を除去してしまった音楽家のつんくの身を削っても命の選択という決断には、言葉を失ってしまう。音楽家として、声を失う、出ないという生活は、如何ほどのモノなのであろうか?それにしても、数多くの人達が、声を失っている現状があると云われている。それに対して、こうした危機を事前に、自分の声を録音しておいて、デジタルで、一音一音拾ってゆき、PCで、声を連続的に再生させるという方法が、どうやら、確立されつつあると云うではないか?こうすれば、機械的なロボットのようなボイスではなくて、その人の発していたこれまでの声の質が保たれて、しかも、ある種の訓練により、声を再生できるという技術であるらしい。そういえば、既に亡くなった人もその画像と共に、生前の声を再生しているCMを見たことがあるような気がする。iPS細胞による再生医療ではないが、機械でも何でも、活用して、声の再生や視覚や聴覚の再生が可能になれば、それに越したことはない。むろん、健康であれば、それに越したことはないが、それでも、救いになればおおいに宜しいではないだろうか?ひょっとすると、これからの世の中は、生前と云っては何であるが、事前に、健康なときに、何でも何処かの組織をバンク登録しておいて、声もあいうえお、と録音しておいて、来たるべき万が一の将来の不具合に対する措置を講じておくようになるやも知れない。薄くなってしまった髪の毛の再生も、可能なのであろうか?要らぬ過剰な期待を、手遅れだとは知りつつ、してしまうのは、どうしたものであろうか?



確定拠出年金に思う:

2015年05月07日 | 社会戯評
確定拠出年金に思う:
年金制度への改革が進まない間に、既に、2万社以上の会社で、確定拠出年金への加入が実施されているという。成る程、これまでの確定給付型の年金では、確かに、企業にとっては、決まった受給額を支給できない場合には、実際、負担が重くのし掛かり、既に、この種の企業厚生年金が、破綻し始めているという現実があることも事実である。その意味では、法人税減税ではないが、何らかの形での企業への年金制度での負担減を考えたときに、こうした方策が、試されても不思議ではないであろう。もっとも、これまでは、株式市場の長期に亘る低迷が故に、その収益力にも、力強さが見られなく、従って、確定拠出型の年金の利回りも、低迷していたものの、最近の株高により、一挙に、これらの環境にも追い風となりつつあるのが、実態なのであろうか?運用環境の好転が、これらの一連の動きが背景にあるとは云え、所詮、長期での運用益が、保証されている訳ではないことも無いという現実も、諸刃の刃としてあります。しかし、サラリーマンの妻に対する確定拠出年金の勧誘であるとか、恐らく、配偶者控除の廃止に伴う、将来の節税施策とかをも、包含したような制度を、年金制度の中に、取り入れようとしているのではないだろうか?それにしても、待ったなしに、既に、現在進行形で、現実的に、普及し始めている。これも又、既成事実のなし崩し的な動きなのであろうか?本当に日本人は、敗戦でもない限り、根本的な改革は、出来ない民族なのであろうか?リスクとメリット、利用する側は、金融商品ではないが、重要事項説明書をしっかりと、説明責任を果たされているのであろうか?もはや、こうなると、株式相場も、無理矢理にでも、維持しなくてはならない情況に絶たされることになるのか?

統計数字という厄介なもの:

2015年05月06日 | 社会戯評
統計数字という厄介なもの:
昔はというよりも、今もそうかも知れないが、本を読むときは、眼光紙背に徹すとか、数字を読むときは、その数字の背後に潜むモノを読み解けとか、良く言われたものである。最近の統計数字では、どうも、攻める方も守る方も、一方的な自分の都合の良い数字ばかりをあげつらって、議論するものであるから、一向に、議論が噛み合わない。官製春闘で、一部に、賃上げが浸透しても、一部の大企業だけで、なかなか、地方都市やら、中小企業へと拡がりをみせない。まだまだ、時間が掛かるのであろうか?ましてや、期待されるほどには、個人消費に力強い勢いが見られないのは、どうしたことであろうか?統計上の数字というモノも、一体、いつの頃からの実態経済の数字を補足しているのであろうか?私は、どうも、昔の較べてみて、産業構造の変革が激しく、行われている割には、労働統計上の数字というモノは、本当に、実態を反映している数字なのかと、かねがね、疑問に感じている。ましてや、労働組合に至っては、一部の大企業の組合、しかも、正社員ばかりを追いかけていて、非正規やパート労働者の実態を反映したような動きは、極めて、そのスローガンの割には、極めて、鈍い。上場株式会社の変遷に較べて、労働統計上の実態というモノは、どうも、労働者に即したような数字が、反映されていないような気がしてならない。人手不足ならば、単純に、賃上げでもしない限り、人手を補うことは出来ないのであろうが、実際には、高齢者や女性のパートやらの短時間労働者の活用で、若年層の雇用が必ずしも、ミスマッチから、解放されることがない。常に、弱者が、更なる弱者という二重構造の中で、或いは、多層的な構造の中で、犠牲を強いられてしまうのが、現実なのであろうか?日本の経済学者は、ピケティーのように、膨大な統計資料の中から、もっと、新しい理論を生み出すような人財が出てこないのは、何故なのであろうか?このままの現状でよいのであろうか?

ラザニアを作る:

2015年05月05日 | 男の手料理・食
ラザニアを作る:
新ものの玉ねぎが本格的に出てきたので、挽肉と玉ねぎとトマト缶を活用して、まずは、ソースづくりである。多目に作り置きしておけば、残りは、パスタにしてもよろしい。これも又、残り物であるが、以前作ったラザニアが、箱の中に、まだ、10枚以上、残っている。まぁ、乾燥しているから、使用可能である。これに、ホワイト・ソースと、とろけるチーズを交互に、挟みながら、層を重ね合わせて、後は、オーブンで、加熱するだけであるから、それ程、手が込んでいるというわけではない。仕上げは、粉状のパルメザン・チーズ(これからは、EUの産地規制から、パルメザン・チーズという名称が使用できなくなるそうであるが、、、、)を振りかけておけば、適当な焦げ目がついて、美味しそうに仕上がる。何せ、オーブンは、鹿本に強い味方である。マカロニ・グラタンもこの手で、ゆけば、これまで、ほぼ、問題なく、仕上がる。恐らく、焦げすぎなければ、ほとんど、85点以上の出来映えなので、加熱時間さえ、途中で、色目を再確認しておけば、間違いない出来映えが保証されようか?おおいに、男の手料理には、大変便利で、しかも、強い味方である。

ワークショップ、布引観音牛を塗る:

2015年05月04日 | 健康
ワークショップ、布引観音牛を塗る:
版画家の田嶋健氏による伝説の布引観音の牛を塗るというワークショップである。例によって、下は、3歳から上は、80代のご婦人まで、老いも若きも、一緒になって、同氏が、事前に、作ったおいた塑像に、アクリル絵の具で、色を塗るという単純な(?)作業である。何とも、説明によれば、塑像を作る過程のほうが、全く、手が込んでいて、申し訳ないくらいである。色を塗る方は、適当に、自分の好きな色を塗るだけであるから、それ程、難しいモノではないと考えていたら、これが、そうでもない。何でも、昔は、こうした手作りのおもちゃが、信州では、一般的で、脚のところに、丸い車をつけると、小さな子供達は、面白いように、喜んで遊んだそうである。結構、年寄りにも、どんな色を塗るか、事前に、構想を巡らしたり、眼をどのように塗るとか、身体の色を何色にするとか、別に、伝説の牛に拘る必要は一切ないそうである。現代ポップ・アートのように、サイケデリックな色使いでも構わず、自由である。私は、どうしても、そうした色使いが不得意なので、極めて、オーソドックスな色使いで、牛も、茶色を主体に、菩薩の化身である牛に錦の布を掛けて、最後に、布を引く様を象徴的に、白いリボンで、牛の角に、貼り付けて、後は、乾くのを待つばかりである。竹のひごは、色つけで、手が汚れないように、竹を持ちながら、製作して、後から、乾いたところで、抜くとのことであった。これで、完成である。色を塗るという作業でも、結構、頭を使い、脳を活性化させる物である。神戸からやってきた三歳の男の子の作品は、なかなか、サイケデリックな色あいで、お母さんに助けられながらも、素晴らしい作品に、出来上がっていた。7年に一度の長野善光寺のご開帳にも重なり、なかなか、良い記念になりました。

春蝉が、今年も又、鳴き始めた!:

2015年05月03日 | 自然・植物・昆虫
春蝉が、今年も又、鳴き始めた!:
茶色一色だった窓からの風景も、いつしか、春風と共に、桜が咲き、春の嵐にあっと言う間もなく、散ってしまい、わずかに、八重桜の花が、今を最後にとばかりに、咲き誇っている。ドウダンツツジの白い花や、山吹の鮮やかな黄色い花も、咲き誇り、若葉も春の温かさに誘われて、やっと、背伸びをするが如く、その新しい芽を伸ばし始め、薄緑色した柔らかそうな葉っぱを伸ばして、そよそよと、風に吹かれている。これまでは、どんな樹木の葉であるかは、ある程度は、推測できても、これだと、決めるには、どうも、自信が持てなかったが、今や、ハッキリと、葉の形で、自己主張をし始めて、モミジの葉であるとか、白樺の葉であるとか、認識されるに至った。柔らかいモミジの葉は、誠に、気持ちよさそうに、横枝を思いっきり、横に伸ばしながら、春風に、浮かぶように、そよいでいる。それを見ているだけで、何とはなしに、こちらの心も、和らいでくるようである。眼からの刺激というモノは、存外、コンクリート・ジャングルの中では気が付かないこうした小さな茶色から、緑への変化を教えてくれて、改めて、脳を刺激してくれるのかも知れない。ひょっとしたら、花見も、新緑の中でのドライブも、呆け防止には、おおいに、役立つのかも知れない、などとも、思ってしまう。気が付けば、どんぐりの花も、今では、無数の房を垂らしているようにも思われる。そんな中、今日、今年も又、ギィー、ギィー、ジージーと、陽が射し始めると、春蝉の鳴き声が聞こえ始めた。これから、初夏に掛けて、ニーニー蝉が出てくるまでは、当分の間は、春蝉の天下である。

ペットの絵をうまく描く方法とは?:

2015年05月02日 | 社会戯評
ペットの絵をうまく描く方法とは?:
月曜日の夜、NHKのEテレで、「ペットの絵をうまく描く」という番組が、あることを女房殿から、教えて貰って、これを見ることにした。成る程、これまでは、写真を見ながら、これを模写する方法をとっていたが、この方法によれば、ど素人の自分にも、簡単に、平均点以上は、出来そうな気がする。パソコンで、写真をスキャンして、これを適当な大きさに、拡大して、一度、プリントアウトして、これを、画用紙の上に、カーボン紙を使って、輪郭を描き、これに、色鉛筆で、陰翳をつけながら、まずは、下塗りをしてゆき、最後に、アクリル絵の具で、色づけをして完成させるそうである。自分の場合には、これまで、色鉛筆とクレヨンと水彩絵の具を使って、描いていたが、この方法で、一度、試してみたいものである。どんな絵が、描けるであろうか?おおいに楽しみなところである。PCに収められた亡き愛犬の写真から、お気に入りの何枚かを試してみたくなった。眼の陰翳の描き方が、ポイントでもあるそうである。まぁ、例によって試行錯誤は仕方ないから、何枚かを描いてみたうえで、製作してみることにしよう。邪道でも何でもよいから、絵を描くという事を愉しみたいものである。しかも、文明の利器を使用して、トライしてみたいところである。果たして、どんな作品の出来ばえになるのであろうか?やる前から、勝手に想像するだけでもワクワクしてくる。

外国人の子供達に絵本を読み聞かせる:

2015年05月01日 | 社会戯評
外国人の子供達に絵本を読み聞かせる:
何でも、去年の10月に、ロンドンを出発して、6ヶ月間以上掛けて、アジアなどを幼子2人と奥さんと一緒に、旅行しているイギリス人国際弁護士の家族と「茶房、読書の森」で、偶然、出遭いました。14年間、ロンドンから100キロばかり南に離れたブライトンという街から、毎日、6時半には、列車で、弁護士事務所に通勤して、夜遅くまで、会社法の専門家(M&Aなどの分野の国際弁護士)なので、アジアやらアメリカを除いたラテン・アメリカなどとのクライアントと超猛烈に、出張を含めて、働いてきたので、小さな子供達や家族と過ごす時間が、これまで、全くなかったとの説明でした。そこで、一念発起して、弁護士事務所を辞めて、家族旅行にアジアを中心に、これまで、インド、ネパール、日本、そして、これから、ベトナム、タイ、ラオス、カンボジア、韓国、中国、インドネシアなどを合計6ヶ月以上に、亘って、旅行してゆくそうです。家族で、ヒマラヤにも登山したと、写真を見せてくれましたが、地震に遭わなくて本当に良かった。東京では、子供連れだったので、ホテルで、到着した初日には、泊めて貰えず、困惑したそうです。全く、困ったホテルもあったモノですね。子供達は、男の子2人で、木製の玩具で、遊んでいましたが、絵本を見つけて、何やら、読んでくれとせがまれました。田島征三著の「海賊」という絵本です。せがまれてしまったので、仕方なく、これを、1頁づつ、めくりながら、英語で、即興で、飜訳して、絵を見せながら、説明して、読み聞かせました.海賊が人魚に、恋をしてしまいますが、海の汚染に、犯されて、鱗が剥げてしまい、海賊は、象徴的に描かれた大きな船達と戦いますが、運良く、最後には、小さな島に、逃げ込み、そこで、鱗が、月に向かって、流れ星のように、登ってゆき、海底には、人魚が死んだまま、横たわって終わるというご存じのストーリーです。それにしても、絵本の読み聞かせとは、面白いモノで、子供にも、絵を見せながら、これは、何?それは、何?と、双方向で、コミュニケーションしながら、創造力を掻き立てながら、そして、言葉と絵・文字、この場合には、残念乍ら、子供達は、日本語が、分からないから、結局、英語で飜訳しながら、何とか、読み終えました。上のお兄ちゃんは、真剣に、見聞きしてくれて、何とか、英語での会話にも、ストーリーが、理解して貰えたようでした。この子達が、大きくなったときに、いつの日か、日本で、絵本を読んでもらったという経験が、心の何処か、片隅にでも残って、想い出してくれたら、いいなぁと、思います。そして、再会出来れば、これに越したことはないでしょうが、それまで、こちらが、長生きできるかどうか、保証はありませんね。何でもこの弁護士のお父さんは、近い将来、5年以内に、ウェールズの美しい海岸近くに、英国式のフット・パス、(謂わば、ロング・トレールというか、歩きハイキングのような自然の中での途を歩むコンセプトに似ている)施設を創ってみようと考えているそうです。その観点からも、今回、こうした旅行を企画したそうですが、幼子を2人も抱えて、半年も、旅行し続けることは、並大抵のことではありませんね。昔、5歳と3歳の子供と家族で、アメリカに赴任した当時のことを想い出しました。それにしても、日本語の絵本を英語で、即興でも、読み聞かせることが出来て、安心しました。弟の方には、もう少し、やさしい、機関車のガタン、ゴトンという絵本を読み聞かせましたが、絵本は、世界共通のコミュニケーション・ツールかも知れません。海外の旅行者達には、いつも、こちらも、生き方に関して、色々な勉強をさせて貰う機会を与えて貰って、有難い話です。記念に、お父さんに子供達と一緒に絵本を読んでいる写真を撮って貰いました。これからの家族の道中の無事と楽しい旅行を祈りたいと思います。又、いつか、逢えるといいね!