小諸 布引便り

信州の大自然に囲まれて、風を感じ、枝を眺めて、徒然に、社会戯評する日帰り温泉の湯治客です。愛犬の介護が終了しました。

通貨とは?Fin Techとゲーム・コイン:

2016年04月07日 | 社会戯評

通貨とは?Fin Techとゲーム・コイン:

何でも、LINE POP(公称、4000万ダウンロードと謂われているらしいし、未払い資金は230億円、スマホ・ゲーム市場全体の規模では、何と9450億円規模とかで、今後更に、拡大傾向にあるとされている。)とか云うゲームの件に関して、関東財務局によるLINEへの立ち入り調査がなされたという記事が眼にとまった。これでは、税収不足に喘ぐ当局も目をつけざるをえないのかも知れない。もっとも、こちらには、ゲーム自体が、全く、門外漢で、やったこともなければ、これから、ダウンロードして、やってみようとも、ゆめにも思わないが、そもそも、資金決済法なる法律の中で、前払い支払い方式に、まぁ、要するに、万が一の破産などのリスクを想定して、消費者保護の観点から、事前に、地方財務局へ、一種の発行保証金や資金保全のために、供託しておく必要があるとかで、これを、どうやら、内部指摘があったにもかかわらず、怠っていたという嫌疑がかけられたらしい。もっとも、こうした法律の先を行く事例に対しては、法律の解釈は、いつの時代でも後追いで在ることは事実であるし、解釈になると更に遅れがちであることは否めない。同様の事例は、ゲーム関係の業者に、結構、違反事例があると謂われているが、考えてみれば、一体全体、『通貨』とは、何を意味するのであろうかと、考えさせられる。人気の電子マネーなるものやポイント還元なるものも、マネーと謳われているから、通貨かと思えば、違うそうである。以前、ビット・コインの問題で、所謂、『仮想通貨』が、問題になったが、三菱UFJではないが、一部の銀行では、これを取り込んで、正式に、取り扱うようになったと謂われているが、海外送金の手数料に風穴が空くことを怖れた、初めから、囲い込みの一環なのであろうか?通貨とは、国家などによって、その価値を保証された決済のための価値交換媒体であると謂われているものの、等価交換の価値は、流動的なもので、今日では、外国通貨も含めれば、誠に、複雑化している。外国通貨の交換レートもそうであるし、ビットコインなどの仮想通貨も、或いは、ゲームでのダウンロードに課金される仕組みとか、誠に、ITが、公然と絡んだ、所謂、『Fin Tech』に至ると、もう、これまでの従来型の『信用と融資』などというものは、過去、営々と積み重ねてきたものが、まるで、一夜にして、崩壊してしまう可能性も否定しきれないものがある。マイナス金利もそうであろうが、銀行も、ウカウカしていられなくなるのかも知れない。我々世代が、創業独立するときには、最低限の個人資産を、担保にして、或いは、信用の実績がつくまで、我慢に我慢を重ねて、雌伏、何十年とチャンスが来る時を待ち、銀行による厳しい信用調査にも、パスするために、長年、待ったものである。しかしながら、今日、ベンチャーへ、成功報酬として、一部の株式を渡す代わりに、当座の運転資金を融通して貰って、起業する、所謂、『Fin Tech』活用術が、普及し始めているのも、事実であろう。もうこうなると、一体、通貨とか、資金とか、信用とかとは、一体、何だったのかと、首を捻りたくなってくる。どうしたものであろうか?考えさせられてしまう。

 


又、商品券なのか?!:

2016年04月06日 | 社会戯評

又、商品券なのか?!:

家電エコポイントやエコカー減税などの過去の経験を、踏まえて、消費の喚起に向けて、又ぞろ、商品券とか、額面を上回る価値のあるプレミアム商品券で、子育て関連のサービスとか、旅行券などへの消費を喚起させようと、画策されているが、そんなことで、本当に、消費増税実施が可能になるのであろうか?これまでの事例でも、瞬間的な、或いは、一時的、単発的な消費で、まるで、打ち上げ花火が打ち上げられた後のしょぼい、終わり方にならないのか?要するに、所詮、『需要の先食い』でしかなくて、持続可能な、永続性を伴う消費ではない。そんな小手先だけでの対応策で、可能なのであろうか?消費増税でも回避できれば、それでも、一時しのぎには、やらないよりは、マシであろうが、仮に、消費増税が延期されるようにでもなれば、果たして、どんな構造的対策が、考えられるのであろうか?既に、アベノミクスの潮目も変わりつつあり、財政金融政策も、やや、出尽くした感があり、一方で、依然として、実質賃金が上昇することなく、生活の豊かさが、本当に実感されない限り、或いは、新たな成長戦略の果実が、具体的に、力強く牽引してこない限り、なかなか、豊かさを実感することはなく、トルクダウンも知らぬうちに、汚染水同様、何処かに、漏れてしまい、円高・輸入の恩恵にも、又、円安・輸出の恩恵にも、どちらに転んでも、実感されず、更には、石油安でも、恵まれず、只、ひたすら、物価の上昇のみが、更には、株高の恩恵も甘受することなく、貧富の格差の増幅のみ、実感されかねないのが、現状なのであろうか?記憶に間違いなければ、もう何十年に亘って、景気が悪くなる度に、国内消費・国内市場の拡大政策が、とられたにも拘わらず、うまく、機能してこなかったのも事実であろう。既に、これまでのパターンとか、原理原則が、予想通りに進んでいないのが、現実である以上、これまでと同様の策を弄しても、果たして、うまく、筋書き通りに、機能するのであろうか?

 


晩年の愛犬の声を再び聴く:

2016年04月05日 | 動物・ペット

晩年の愛犬の声を再び聴く:

子供達が未だ小さい頃には、よく、ビデオを撮影したものであるが、未だその頃は、せいぜいが、テレビ画面に撮影した動画を再生したり、その後に出てきたビデオデッキで、DVDに焼き付けて、コピーしたりというくらいであった。もっとも、その後、デジタル化がが、進行するに連れて、我が家の機器は、対応に乗り遅れて、PC中心に移行してしまい、考えてみれば、デジカメで、撮影したものも、我が愛犬などは、子供の頃にカメラで撮影したものを、改めて、スキャン・デジタル化したものを、PCの中に、保存しておいたり、再び、写真に焼き直したりという具合であり、途中の成長過程が、空白で空いてしまったものである。もっとも、この間は、こちらも現役で、忙しかったし、愛犬も若かったから、写真や動画も、それ程、とっておくような必要性も感じなかったのかも知れないのが、実情であろうか?もう、我が愛犬も亡くなってから、3年弱ほどが、経過してしまったが、部屋のあちらこちらに、家族の想い出として、写真や絵が飾られている。たまたま、息子が、携帯で撮影した、晩年の短い30秒から1分程度の動画が、PCの中~、整理をしていたら、見つかったというので、早速、USBにコピーさせて貰った。もう、眼も耳もほとんど、見えない状態の中で、私が、何かを料理している時に、お座りをして、『私にも、頂戴よ!』とばかりに、一声、大きな声で、ワン!とおねだりの催促の一声が、記録されている。又、水飲み台の所で、ペロペロと必死になって、お水を飲んでいるところだったり、涎を垂らしながら、嬉しそうに、ペロペロといつまでも飽きずに、息子の手を舐め回しているところだったりと、この数ヶ月後には、18歳と4ヶ月の天寿を全うして、息を引き取ってしまうのであるが、最後の生命を一生懸命に燃焼しているさまが、短い動画の画面からも、伝わってくる。又、桜の季節がやってくるが、一緒に、よく花見にも家族と云ったものである。散りゆく花びらが、君の鼻先に、くっついたことを懐かしく、想い起こす。もっと、ビデオを撮っておけばよかったと、今更ながら、思う。

 

 


花桃を活けてみる:

2016年04月02日 | 自然・植物・昆虫

=花桃を活けてみる:

春のお彼岸の中日に、静岡の天竜川沿いにあるご先祖さまのお墓参りに、行けなかったので、夫婦、二人で、春のドライブも兼ねて、出掛けることにした。例年、途中で、お花を現地調達することにしているが、今年は、余りに、我が家の庭先の花桃が、二階の窓ガラス越しに眺めると、見事に咲き誇っているので、それではとばかりに、高枝切り鋏を使って、空に向かって、真っ直ぐに伸びた枝を摘めるのも兼ねて、何本かをカットしてみた。通りを行き交う人にも、お裾分けで、既に、2本づつ、20束ばかりを玄関先に、無料で、お持ち下さいと書いておいたところ、あっという間に、なくなってしまった。きっと、お花好きな人達が、多いのであろう。大きな枝を鋏で、少しばかり、カットして、長さを調節してみたところ、それでも、まだ、小さな枝に、白やピンクの花が、ついているので、お墓へのお供え用とは、別に、テーブルに、載せられるような小さな花瓶に、活けてみることにした。部屋の中は、暖かいので、きっと、小さな蕾も、すぐに、開いてしまうかも知れないが、なかなか、綺麗なものである。既に、樹木自体は、二階をはるかに、超える背丈にもなってしまい、枝を摘めて切るのも、一大事である。しかしながら、余りに、一挙に、切り詰めてしまうと、今度は、花が、来年、うまく咲くかどうかが、おおいに、心配になってしまうものでもある。花が終わると、大きな桃の実がなり、それを播いておくと、種から、発芽して、苗になり、ご近所では、今年、花が咲くほどに、大きく育ったと、話されていた。毎年、我が家では、東京で、花桃の花見をしてから、小諸で、ゴールデンウィーク頃にかけて、山桜や八重桜の花見である。都会では、花の終わった後が、大変で、花びらや落ちた実の後始末が、悩ましい限りであるが、それでも、毎年、道行く人が、花見を喜んで貰えれば、これも又、一種の趣向ではなかろうか?今度は、白いハナミズキの蕾が、随分と、膨らみ始めて、次の出番を待ち構えている。花ズオウ、小手毬と、続き、紫陽花へと、やがて、バトン・タッチすることになる。この頃には、毎年、シジュウカラが、樹にかけた巣箱に、営巣、抱卵する時期になろうか、果たして、今年は、どうだろうか?外では、鳥の声が、日増しに、大きくなり、今日は、不如帰の啼き声も、初めて、聞かれた。

 


いよいよ、春到来!:

2016年04月01日 | 自然・植物・昆虫

東京では、既に、桜が、開花宣言である。天気が下り坂にならない前に、女房殿と一緒に、運動不足の解消と健康促進も兼ねて、例年の恒例のサイクリングも兼ねた花見と洒落込むんだ。既に、猫の額ほどの我が家の庭では、白木蓮が、散ってしまい、雲南黄梅が、咲き乱れていて、おまけに、白とピンクの花桃が、今を盛りに、咲き乱れている。毎年、決まって、この時期には、見事に咲いてくれるので、道行く人達が、眺め、愛でて通ってくれる。今年は、余りに、大きくなりすぎたので、枝を摘めるのも兼ねて、ご近所の方や、道行く人に、その枝ごと、新聞紙に、包んで、玄関の門扉の外に、バケツに水を少々入れて、『ご自由に、お持ち下さい!花桃です。』と、見事に、二日間続けたところ、完売の盛況でした。毎年、暖かさが増し始めると、桜や花々を愛でることは、春到来を告げるとともに、楽しみのひとつである。別に、酒を飲んだり、歌を唄ったりするわけではないが、只、桜を愛で、春の花々を愉しむことが出来ると云う事は、有難い話である。戦争中には、人々は、どうしていたのであろうか?どんな風に、春の到来を愉しんだのであろうか?車椅子や、体の不自由な人達も、杖を突いたり、助けを借りながら、そろそろと、川沿いをゆっくりと、歩いている。亡き父や母と一緒に、或いは、愛犬と一緒に、歩いた桜並木は、もう、古木になっていて、花も、チラホラと、上の方にしか、ついていない。桜の木にも、人間と同じく、寿命があるのであろう。荻外荘の近衛邸の垂れ桜も、昔は、大きな鯉が泳いでいた池の畔にあったのに、相続のために、今や、池もなくなり、半分が、公園になってしまい、何気なく、淋しそうな装いである。徳冨蘆花の名前を冠した、芦花公園には、今年、始めて、桜並木を観に行ったが、なかなか、色濃くて、鮮やかな色彩であった。見事に、花壇の赤いチューリップや黄色の菜の花を背景にして、色鮮やかに、咲き誇っている。後一月ほどで、今度は、小諸の里山で、山桜の花見と、2回、愉しめようか?ゆったりと、時間が、過ぎ去ってゆく感じであるが、もう、1年も、4分の1が、過ぎてしまったとは、、、、、、、。早いものである。