高度成長期、店舗がビルに建て替えられました。
倉庫に眠る過去の売れ残り品の「たばこ盆」いただきました。
灰を入れて長柄のキセルを乗せて飾ってみました。
石山寺の牛玉(ごおお)さんの市で、見つけた桜の木の皮細工で作られたキセル入れです。
短い方が入っていたキセルですがこちらが普通サイズです。
象嵌があります。
キセルでは「刻みたばこ」を吸っていました。
「あやめ」 15匁 明治38年4.1~昭和16年10月
メートル法施行に伴い15gとした。
昭和14年9.1 30gに変更。
販売当時は戦時中なので50銭なの?
「みのり」 30g 昭和16年12.18~昭和19年。
デザインテーマ「黄金の稲波」 田中富吉デザイン。
本品は昭和19~24年6.1
「ききょう」 30g 田中富吉デザイン。昭和4年6.1~ (昭和23年7.12~24.6.1色違い品)
昭和24年(1949) 大蔵省の外局であった専売局を分離して専売公社(煙草、塩、樟脳《昭和36.3.31まで》)となる。
「山吹」 30g 昭和34年(1979)ききょうが歴史を終えたので、専売公社がマカオから輸入。
あまりおいしくないそうで平成15年(2003)姿を消した。
私が幼児の頃の記憶です。
祖父に連れられて、たばこ畑にいました。
トウモロコシのようにまっすぐ伸びた茎に大きな葉が上へ上へとついています。
ムンムンする夏、背丈よりずっと高いたばこの間に入ると、ビロードのような葉の毛が頬をなでる。
突然私は畑の外に引きずり出され、叱られたおぼろげなる記憶。
国の統制品できびしく指導されていたらしい。
ランドセルを買ってもらったころ、乾燥したたばこの葉を膝の上で一枚づつ手でシワをのばしていたのを見た記憶があります。
地域でのタバコ栽培はそのころで終わったようでその後の記憶はありません。
祖父は、煙管の中に針金を通してヤニの掃除をしていました。
誰もいない中学生のある日、ちょいと吸ってみました。
ニコチン100%の煙は甘かった。
瞬時にグラッと頭が……そして転んだ。 バカになるんじゃないかと思った。なったかも。
山や、田畑で近所の男性同士「一服しよう、たばこにしょう」と揃って座っていました。
祖父の年代はキセルを持ち、父は紙巻きをパイプで吸っていました。
ニコチン100%のたばこを吸って、医者にも歯医者にもかからず老衰で90歳の幕を下ろした祖父。
文久3年に生まれて、昭和20年老衰で逝ったと聞く、曽祖父。
60歳でたばこをやめて、92歳で逝った父。
三代の先祖とたばこを思う時、ニコチンは100%だと、満足感が長く続くので、吸う回数が少ない。
ニコチン減らしは出がらしのお茶、紙の煙はどうなのか、お茶もたばこも元は薬として渡来した由。