長唄三味線/杵屋徳桜の「お稽古のツボ」

三味線の音色にのせて、
主に東経140度北緯36度付近での
来たりし空、去り行く風…etc.を紡ぎます。

カエル天国

2010年08月13日 07時28分02秒 | 美しきもの
 どういうわけでか、カエルが好きなのだった。
 吸盤でぷっくりと丸くなった指先、キョロリと飛び出した目、比較的きちんと結んだ口角の上がった口元。凛々しくもユーモラスな、前方斜め45度から見た横顔。
 …可愛いくて仕方がなく、愛さずにはいられない。

 ことに、緑色の小さい雨蛙の可愛いことと言ったら…。
 昔、うちにあった、ナショナル・ジオグラフィクの大自然写真集に、南洋の珍しい赤みを帯びた綺麗なカエルが載っていた。…でも雨蛙の、ちょっと透き通った、薄い緑色の美しさに、私は軍配を挙げる。
 地面の色に似た、殿様ガエルや牛ガエルは、ちょっと苦手だ。

 カエルはやはり、青蛙に限る。
 …と言っても、別に、食べるわけじゃぁ、ありませんけどね。

 …とはいえ、ここ20年余りというもの、実物の雨蛙と触れ合いの時間を持った覚えがないから、この偏愛は、カエルキャラからもたらされたものなのだろうか。
 ケロヨン、薬局のケロコロコンビは言うに及ばず、ど根性ガエル、竜ノ子プロのけろっこデメタン。水木しげるの南方に棲むガマ人。
 セサミストリートのカーミット。パペット・マペットのカエル君。
 …でも、それほど好きだった記憶もない。

 10年ほど前のある時、グリム童話のカエル王子とおぼしき描画がプリントされた、舶来のコースターを手に入れた。
 あまりに気に入って、仕事机の上に置いて、ことあるごとに眺めていたので、仕事仲間にからかわれた。
 これから始まったのか…?
 高山寺の鳥獣戯画が織り出された錦の手提げは、着物のお供に使っている。

 一昨日、稽古場の隣町を歩いていたら、偶然にも、カエル屋さんを見つけた。
 実物ではなく、カエルを象ったあらゆる関連グッズや小物が店中に置いてある、まさに夢のようなお店なのである。
 …残念ながら、お盆休みです…の貼り紙がショーウィンドゥにあって、私は天国へ渡りそびれた。

 べし、というキャラクターがある。
 赤塚不二夫の『もーれつア太郎』に登場するカエル・キャラであり、ケムンパスやココロの親分さんと共に、地味ながらも忘れ得ぬ、動物変化キャラクターである。

 たしか、小学2年生だったと思う。学校で4人ぐらいずつのグループ毎に自習か何かをしていて、なぜだか私たちの班は、マンガの似顔絵を描いていた。
 べしを皆でそれぞれに描いていた時のことだ。
 誰か一人が、べしの目を耳だと言いだしたのだ。

 …それは有り得ないだろう、カエルなのだから…と、反論する私に、友人は、べしの鼻の穴を眼だ、と言い張るのだった。
 あまりのことに面喰らったが、しかし、グループの他の3人も、べしの眼を耳だと言い張る。
 …まさにキツネに摘まれたような状況に、呆然とした6歳児の私は、口をつぐんでしまった。

 ずいぶん後で、その時のグループの一人だった子に、あれは何でだったんだろうね…と聞いてみたら、自分も眼だと思っていたけれど、そう言えない雰囲気だったと、ぽつんと言った。
 私はますます不可解の念が募り、以降、べし事件として40年が経った今でも、鮮明に記憶に残っている。

 それは私にとって、多数決という民主主義の原則に、疑念が生じた瞬間であった。
 …ちょっと大袈裟ですけれどもね。
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絶滅種・かき氷

2010年08月03日 02時40分00秒 | 美しきもの
 最早こうなると、アイスクリームではこの夏を凌げない、と、思い至った。
 …かき氷、かき氷だ。
 ここ何年もというもの、そんな気になったこともなかったのだが、今日、町中を奔走して、かき氷を探した。
 甘味処でたかが氷に代価を支払うなんて…とか思ってやしませんか? ……とんでもhappened!
 日本の文化の素晴らしいところは、日常生活の隅々にまで、細かく美的感覚が行き届いている、余すところなく気配りというか、手と心が及んでいるところだ。
 たかがかき氷、されどかき氷。
 ひとひらの雪…とでも呼びたいような、うすく削がれた氷片は、口に入れるとふうわりと優しく、すーっと溶ける。

 昭和のころ、住宅街の普通の家の一角で、その家のおばちゃんが副業で、冬はお焼き屋さん、夏はかき氷屋さんをやっている家があった。駄菓子屋へ行くことを禁じられていた家の子どもでも、そのおばちゃんがやっているお店は、出入りが叶う。
 冬は、タイ焼きでもなく大判焼きでもなく、円いお焼き。要するに今川焼。
 そして夏は、かき氷。大きな業務用のカナ輪がついた機械に、これまた業務用の、大きな四角い氷柱を挟む。
 シャカシャカシャカ…と、小気味よい音とともに、雪が降る。おばさんは、斜めにした掌の器を、小器用に左右にかたげながら均等に雪山をつくっていく。
 うす雪が降りしくように、器のなかに、ひと固まりの冬景色ができる。
 途中でシロップをかけて、少し雪山が融けてくぼんだところへ、またシャカシャカ…と三角の頂上をつけてくれる。仕上げに再びシロップ。シャカシャカシャカ…。
 真夏の住宅街に雪が降る。

 口の中に入れると、ふうわり、ひんやりと溶ける。
 ……あのかき氷が、今はどこにもないのだ。

 現在、街なかに氾濫している、フラッペというようなものは、つぶ氷とでも呼びたいような代物で、昔の、あの鋭い薄いカンナで削った、天使の羽根とでも形容したいようなふんわり感が、まるでないのだ。
 食べている途中で融け出して、工事中の舗道に降りかかったみぞれが、春泥にまみれた態で、無残やな、練乳がけのかき氷…という景色になってしまった。

 ……どこにいるのだ、かき氷。
 どなたか、あの、正真正銘のかき氷の所在を、ご存じないでしょうか…。
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蝉の声

2010年07月31日 11時30分25秒 | 美しきもの
 昨年の夏、私は井の頭公園傍らの吉祥寺稽古場に籠って、日本歴史史上の、滅びゆく者たちの所業に関して、想いを致さねばならぬ仕儀に相成った。
 作業のまとまりのつかぬまま、思案投げ首していると、蝉が鳴く。
 夜明け前、明け方近くになると、もう、カナカナ哀し…という塩梅に、ひぐらしの大斉唱が聞こえる。平成21年の夏、都下西域の辺りでは、なぜか夏の始まりだというのに、夏の終わりを告げるひぐらしが、真っ先に鳴きはじめていた。

 昔、関東地方の夏は、ミンミンゼミが賑やかに彩り、それから……青い空に入道雲、虫採り網の長い柄、こんもりとした木陰、丈が伸びた雑草を踏み分けて走る雑木林の小道、氷をかくシャカシャカいう氷屋さんの機械の音…心躍る夏休みだった。

 カナカナカナ…と悲しげになくひぐらしの声に終日囲まれていた私は、なんだか三島由紀夫の『花ざかりの森』を想い出して、夕刻の森は憂国の森…という地口に陥りながら、蘇我入鹿や聖徳太子、菅公に大楠公、後醍醐天皇、驕る平家は久しからず…なんてことに精を出していた。

 今年の夏、ちょうど旧暦の五月が終わりを告げる頃、7月10日の夕暮れだったろうか、私は今年最初の蝉の声を聞いた。かなかなかな…とひぐらしが、武蔵野の林に響いて、消え入るように鳴いていた。
 それから3週間ほどが経って、今年は昨年と違い、今はアブラゼミの盛りである。
 暑さが体に沁み入るような、ジーという声が、静かに、熱い、陽炎の立つ舗道を縁取っている。
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青虫の旅路

2010年05月11日 01時30分00秒 | 美しきもの
 朝、レタスをむいていたら、葉っぱの奥に、芋虫がいた。小さくて、翡翠のように半透明のきれいな緑色をしている。2センチ足らずの可愛らしい虫だ。感動した。このレタスは、厳選された産地からお取り寄せした特別な無農薬野菜でも何でもなく、駅前の大手スーパーの野菜売り場から、無造作に買ってきたものだったからだ。20世紀の終わりごろ、十年も以前の話だ。
 「生きているのかしら…」じっとしている。ヒンヤリ程よく冷蔵されて運ばれてきたので、凍えているのだろう。常温の流し台の上に放っておいて、しばらくして見てみたら、葉っぱの別な場所に移動していたのでうれしくなった。
 そこで、久しぶりに生き物を育ててみるか、という気になって、しばらくの間、その青虫の日々の動向を観ているのが、やたらと愉しみになっていた。なにしろ、日々レタスを与えていればよいのだから、この上もなく簡単だ。

 子どものころ私は、むやみと図鑑を観るのが好きだったが、特に『幼虫の図鑑』というポケットサイズの図鑑が好きだった。一般の昆虫図鑑は、成虫の姿を載せているのが普通だが、その図鑑は、産み付けられた卵と、羽化する前の幼虫の絵をメインに載せていた。
 そうそう、私のこの昆虫観察志向は、小学2年生のころのタツノコプロ制作のテレビ番組「みなしごハッチ」によるものだ、たぶん。私はハッチの似顔絵を描くのが得意で、クラスの友人からお絵かき帳一冊にハッチの似顔絵を描いてくれ、というリクエストまで頂いた。この放送期間中、うちのテレビは白黒からカラーに変わったのだった。

 青虫の成長は目覚ましいものではなかったが、日々着実に、少しずつ成長していった。何回かの脱皮のあと4センチ程度にまで育って、ついにある日、白い糸で薄い繭をつくり、蛹になった。
 人間としてはかなりの成虫になっていた私は、大人らしくずぼらになっていたので、その青虫のひととなりを、あえて昆虫図鑑で調べてみることはしなかったが、私のかつての経験からの勘でいえば、彼女は蝶ではなく、蛾ではないかと推測された。

 蛹になってから数日、その勘からしてそろそろ羽化するのでは、と予測される日、私は仕事で名古屋に行かなくてはならなくなった。そこで、小さい紙箱にそっと蛹を入れて、新幹線に乗り込んだ。
 仕事に連れていくわけにもいかなかったが、箱の中で羽化して翅が曲がってしまったら一大事。ホテルの部屋のサイドテーブルに蛹を置いて、私は仕事に出かけた。用件もそこそこに、いそいで帰って蛹を見ると、もぬけの殻になっていた。
 …ああ、羽化に立ち会えなかった、という落胆と、あぁ、無事に羽化したのだという喜びがまぜこぜになって、私は室内を見渡した。
 天井に、黒いスレンダーな翅の、彼女がとまっていた。

 夕方、名古屋城大通りの街路樹に、私は彼女を放した。こりゃ、子どものころ読んだ、虫愛ずる姫君…じゃなくてオバ…じゃなくて、アネサンだね、とすがすがしい心持ちになった。…が、ひょっとすると私は生態系を壊していたのかもしれなかった。
 そのころ、日本列島西半分でしか生息していなかったクマゼミの分布が、徐々に東日本を脅かしている、というニュースを聞いていたからだ。…しかし、そのときの私にはこれが最善の策だった。

 上州か信州だかの高原で生まれた青虫くんが、はるばる都下23区はずれの西域までやってきて、今度は列車に揺られ、尾張のお城の御成り街道前で、飛び立つ。
 元気で暮らせよ~と旅がらす的な感慨に満たされた私は、彼女の、はるばる来ぬる旅をしぞ、思った。

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忘れじの桜②松林桂月

2010年03月28日 21時38分43秒 | 美しきもの
 歌舞伎座には多くの名画があって、その中でも特に私が好きだったのは、二階の西側の回廊に飾られている、松林桂月の桜の絵だった。
 墨一色と胡粉で描かれた満開の桜、その枝の向こうからさやけく顔をのぞかせる、朧月がほんのり輝いている。
 墨の濃淡で、春の朧夜のにおい立つような、何とも言えない、甘く切ない春の宵のかぐわしさが描き出されていて、心底酔った。墨だけでこのような風情が表し得るものなのかと、びっくりし、感服した。
 歌舞伎座のコレクションはたくさんあるから、時々掛け替えられる。ここ数年は見かけたことがなく、お別れの前にもう一度あいたいものだなあ…と残念に思っていた。
 写真は平成の7年前後だったろうか、本興行とは別の、長唄関係者の追悼記念公演があったときで、長唄協会から贈ったスタンド花の傍らで、同日撮った写真が出てきたので、たぶん、そのころだと思う。
 何かの展覧会で、北の丸の近代美術館でこの絵にあった時にはちょっとびっくりした。
 もう記憶が定かでなくて申し訳ないのだが、歌舞伎座から貸し出したものだったのか、桂月作品の模写がもう何枚かあったのか、そのときは腑に落ちた解説を読んだような気がするが、もう思い出せない。
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滝口入道

2010年03月21日 23時41分24秒 | 美しきもの
 高山樗牛の『滝口入道』を初めて知ったのは、昭和の終わりごろ、NHKのラジオ番組の朗読の時間でだった。文語体の小説なのだが、とても分かり易く、かつ、文章があまりにも美しくしみじみとして、日本の言葉、文学とはなんと素晴らしいものだったのだろうと、改めて驚愕し、打ち震えた。朗読していたのは嵐圭史で、その口跡のよさ、朗々たる読みっぷりも、素晴らしいものだった。
 昔のことで、記憶が定かではないが、さっそく本屋に走って岩波文庫に収録されていた『滝口入道』を手に入れた。いや、その時は絶版になっていて、しばらくして復刻されたのを手に入れたのだったかしら…。古本屋か図書館かで手に入れたかして、とにかく、むさぼるように読んだのだった。
 高山樗牛はこの素晴らしい小説を発表し、一時大層な喝采を得たのだが、当時の文壇で「時代考証が出鱈目である」というレッテルをはられ、何となく排斥された形になったらしい。こんなに素敵な本を、今までなぜ知らずにいたのか、不思議だったのだが、そうか…とちょっと悲しい気持ちになった。
 絵空事の面白さってのは、エンタテインメントの基本だ。リアルさも大切だけど、度を超すと鑑賞に堪えるものにならない。
 この小説がきっかけになって、私は海外小説から遠ざかっていった。英語ができて原文が読めるならいいが、翻訳ものの小説の文章表現が、何となく貧弱に思えてきたからだった。そして、ストーリーが面白いという物語の構築性とはまた別の、文章の巧みさという面白さを追い求めるようになっていった。
 何年か経ってから、鎌倉を散歩していてふらりと立ち寄った寺で、偶然、高山樗牛の碑に出会った。鎌倉の長谷寺に、晩年、寄寓していたらしい。横笛が結んだ草庵を想い出して、私はなんだかいじらしい気持ちで胸がいっぱいになってしまった。
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柴田是真

2010年03月17日 00時12分01秒 | 美しきもの
 初めて柴田是眞という絵師の存在を知ったのは、13年ほど前のこと。山種美術館所蔵の『墨林筆哥』に出会ったとき、その筆致のあまりにも流麗かつ情愛にあふれていること、画題の洒脱さ・軽妙さに心が打ち震えた。
 それから是眞を追い求めてアンテナを張り巡らせていたのだが、浮世絵のように量産されたものとは違い、現存する作品が少なかったのだろうか、この十年余りの間、天井絵や調度品などを集めた企画展が、藝大美術館で一度、開催されたぐらいだった。
 収録作品の少なさに物足りなさを覚えたが、大部の画集も躊躇せず手に入れた。とにかく彼の残影は、それほど見当たらなかったのである。
 ところが昨年の11月、偶然にも日本橋の三越の前を通りかかったとき、お隣の三井記念美術館開催の柴田是真展覧会のポスターを発見! がび~~~んと心の臓にショックが走るとともに、私は雀躍した。雑事に追われ、やっと憬れの是眞の本格的な作品群にめぐり会えたのは、会期終了の前日だった。
 なんと、コレクションのほとんどは、テキサス在住のアメリカ人夫妻が所蔵するものだった。幕末から明治にかけて日本文化の粋を凝らした文物の数々は、そのほとんどが海外に流出しているが、是眞も例外ではなかったのだ。
 柴田是眞の技術、発想、おのが仕事に対する凝り性ぶり…目の前に広がる作品の一つ一つが、是眞が創造した宇宙だった。あまりの素晴らしさに私は無言で、ただ眼をしばたたかせるだけだった。
 近くにいた若い観覧者のアベックが、何度も「すごいね、すごいね」とずっと言い続けて、ちょっとうるさかったのだが、私はなんだか自分が是眞の身内になったような誇らしげな気分で、嬉しくもあった。
 そこでふと、このような素晴らしいものを生み出した百数十年前の日本人の作品を、海外から借り、そしてただ「すごいね、すごいね」と言って観ているしかない現代のわれわれ日本人って、いったいなんだろう…と思ったのだった。
 
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