長唄三味線/杵屋徳桜の「お稽古のツボ」

三味線の音色にのせて、
主に東経140度北緯36度付近での
来たりし空、去り行く風…etc.を紡ぎます。

お正月の朝のこと

2022年02月01日 23時30分12秒 | 近況
 今みたび目(個人的印象)の、コロナ禍波襲来警報中。
 新暦のバタバタで、旧来のお正月らしい伸びやかな新春を寿ぐ心持ちを長らく失っておりました。
 なんと、2022年2月1日は旧暦2022年正月朔日でもあります。
 令和四年と書かなかったのは、はて、元号が唯一残っている日本国に置いて旧暦は破棄されてしまった概念であるから、そう記述してよいものか…と迷ったからであります。旧正月を祝う中国でさえ、とうに皇帝暦を廃絶しておりますからねぇ。

 しかし、本日、三味線の体験授業で伺った中学校を失礼する際に、ちらと「今日は小正月で旧暦のお正月に当たります…」と給食の献立を説明なさる先生のお声が廊下越しに聞こえて参りました。
 うれしいですね。
 文化はこのように伝わって、新世代の方々にもお正月を祝う細やかな精神性、EQが育まれてゆくのですね。

 今年度の下半期は、コロナ禍で中断しておりました学校への三味線体験授業が再開され、一年度分を冬季の三カ月ほどに集約して行うスケジュールとなりました。
 先週伺った中学校は、講師の控室が暖かいカウンセリングルームで、偶然にも、その教室に備えられていたライブラリーで、私はとてもとても懐かしい、旧友に再会したのです。

 草思社 刊、谷川俊太郎 訳、堀内誠一 画、『マザーグースのうた』全五巻。
 “○×学級 昭和61年…”と、見返しに蔵書印が押してありました。
 とても綺麗な保存状態で、要支援学級のために、当時の在勤の先生がご用意なさったものでしょうか。
 懐旧の想いもありましたが、教職という使命に対する先生方の情熱を感じ、胸が熱くなる思いで、手に取ってしばし眺めました。

 その時、子ども時代にすっかり諳(そら)んじていたとある詞章、「お正月の朝のこと」が、ついと、脳裡に浮かびました。
 そして驚くまいことか、私の目の前に、ボッティチェリのVenusの誕生をイメージした、貝殻の舟に乗って水平線のかなたから、笛、ヴァイオリン、唄で新年をことほぎ、どんぶらことやって来る三人の女性(にょしょう)の絵が…堀内画伯の懐かしいクレパス画が、半世紀の時を超えて出現したのです。



 文部科学省では一緒の管轄になっていますが、スポーツ庁と文化庁は分離した方がよいと思います。
 オリンピック予算に圧迫され、せっかく備品として各学校でお持ちの三味線のメンテナンス予算が不足しているようです。
 日本の文化は、御存知のように使い捨てするものではなく、修理して代々受け継がれる道具類が、その仕手の技術と同時に存在することで、文化を担っているものです。

 そして、教育はとても大事なものですから、子供のみならず、人間が人間らしく生きていくうえで生涯に亘(わた)って、学習することが肝要です。
 こども庁は、なるほど必要なものでありましょうけれども、統合して教育庁とし、間断なくボーダーレスな役割を持つものとして、世代に跨(またが)る情緒教育、健全な精神を育成する努力をする部署を存続せしむることが、文化国家の繁栄を齎(もたら)すものではないかと、感じる次第です。



 令和四年、お正月の夕空です。
 
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壬寅、或いは令和長短。

2022年01月01日 14時29分29秒 | 近況
 “みずのえとら”の年がやって来た。
 昔、私が生まれた年と同じ干支である。
 なるほど、十二支十干とは、生きているものの時を数えるのに分かりやすい便利な指標である。
 短いようで、しかし悠久の暦日を表記するのに、人間の尺で出来ている。
 


 昨年暮れの強風から、揚羽蝶のお母さんが当家の檸檬樹に託した葉付きの卵のうち、一つだけが残った。









 我が家の四人の越冬サナギ。ファラオの墓におわすミイラにそっくりである。
 昆虫すごいぜ!の香川照之に教えられるまでもなく、人間の歴史における昆虫の存在は切っても切れぬものであるのだ。



 新年早々、台所仕事の耳のおともに、志ん朝の芝浜をかける。
 なんて巧い、そしてなんと面白い藝でありましょう。
 さげの、よそう、夢になるといけない…で、思わず泣きそうになってしまいました。

 20世紀中、私は談志のオッカケをしていて、生前の志ん朝には冷淡な落語ファンでありましたが、お二方が故人となった今、CDを何度聴いても面白い、飽きない、唸る(その上手さに)のは、志ん朝でありました。
 贔屓とは愛ですから、身びいきである余り、ほかの芸人に対してバイアスが掛かったり、目が曇ったりするのでしょう。

 思い入れが過ぎると、自分自身や贔屓の藝に対する、客観的な評価が出来なくなります。
 キャラクターに魅せられた贔屓というものは、対象者の存在だけで、また存在するものと空間を一とするだけで嬉しいと思ってしまう、私も含めて御目出度い人々なので、その魔法が解ける…ご本尊と同じ美意識・価値観を共有できなくなると離れていきます。
 普遍的な藝の力、というものは、誰が見ても聴いても、心をとらえ、感心させるものであるのです。

 それにつけても同じ文言だのに、どうしてこんなにも違うものか。
 長唄だって、おんなじ曲を弾いてるのにねえ…という思いはよくする。
 伝統芸能の恐ろしさよ。

 …志ん朝はなんであんなに早く死んじゃったかねぇ、
 「稽古のし過ぎじゃないの」 
 「ぅぅむ、落語に魅入られちゃったんだねぇ」
 「そうか、命懸けの芸だったんだね…」
 あーぁ、因果とアタシは長生きだ……
 
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sunみつ

2020年08月21日 09時55分01秒 | 近況
 …拝啓 外出を思い切るにはちょうどよい暑さの夏も過ぎようとしております…

 思案投げ首、新たなる職探しをも視野に入れて日を送る、若き芸能者の消息も伝え聞かれる令和二年、春、そして夏。
 自分のことで何かと物要りでありましょうに、盆暮れ正月、欠かさずお心尽しのご挨拶を下さる、律義なお弟子さんへの御礼状をしたためておりました。

 なんだか妙にやせ我慢というか、向こう意気というか、存外自分らしい時候のご挨拶が書けてしまったので、勢いづいて新暦八月になってからこの方、開けてもみなかったパソコンを開いてみました。
 人間は暑さに弱いものでござんすね。
 こう立て続けに自分の体温とそうそう変わらぬサウナに入りっぱなしの状態で日々を過ごしておりますと、脳内が混濁してまいります。
 太陽が濃密、略してsunみつ。
 南の島に行ってぼーーっと太陽が磯の汀の彼方に沈んでいく様を見暮らしても、それで万事OKな気も致します。それでも絵をものしたゴーギャンは偉大だなぁ…
 人生は、死ぬまでの暇つぶし…とおっしゃっていたのはどなたでしたっけね。
 弱気な肚とは裏腹に、自分でも思いも掛けぬ大胆不敵なことが口から出てしまう、負けず嫌いな談志師匠だったかしらん。

 亡き談志の前名を襲がれた柳家小ゑん師匠(私が寄席通いをしていた昭和末期、新作派としてプラネタリウムで寄席をなさったりした新進気鋭の落語家さんでした。現在もジャズ通と電気機器・鉄オタ…etc.に磨きがかかり、数年前、池袋演芸場でアキバぞめきを拝聴、堪能いたしました)が、SNSで彦六の正蔵師匠のご本『噺家の手帖』の噂をなさってらして、やれ、懐かしやと、検索してみたら、なんという便利な世の中でしょう、翌日には手元に実物が届いたという、通販流通業界の皆さまの日々のご苦労に頭が下がります。
 古本屋通いを日課としていた20世紀中の自分には想像もつかぬ今日の有様…。
 街に出でて何かしらを探す作業が愉しかった時代を経て、一か所に引きこもり自分の来し方行く末人生のありていを掘り下げる作業に没頭する、人間、逆境もすべからく天国となり得ます。

 さて、1982年3月、彦六師匠が亡くなられて間もなくに一声社という版元からこの世に送り出された御本を手に取り、“芸人の意地”という一話目から滂沱の涙を禁じ得ませんでした。引用させていただきます。

  ……根性と云ってもよいし、心意気と云ってもいいのだが、芸人に意地ッぱりな背骨がとおっていても世渡りに不都合はあるまい。
  自分の田に水を引くようで恐縮だが、私のように才覚のない金に恵まれない噺家が、一生涯じぶんで建てた家に住めず借家で命おわったとしても、たかが寄席芸人だという意地ッぱりな背骨がモノを云って他人が憐れむほど当の私は悲しんではいないのだ。
  寧ろ名誉だとさえ思っている。
  今を時めくTVラジオの定連である若手落語家〈主として咄しでない番組の人気者〉の真似をせずに己れの境地を認識して本当の咄しに精進して行こう〈古典落語というと兎角せけんでは、ただ故人の糟粕を無条件でナメているという解釈だが間違っている〉と貧乏に堪えて生きている若人も私の周囲には多数いる。この人達こそ真に芸人の意地ッぱり立派な背骨を持っている者だといえると思う。
 (1967年初出)

 感涙にむせぶとともに、このように素晴らしい文章は、誰かにもっと読まれるべきである、広めなくてはならない…という生来のそそっかしさと義侠心で皆様にご紹介したかったのであるが、春先中止になった演奏会の代替に、急遽9月に舞踊連盟さまと合同公演をしなくてはならぬ事態となり、時間もさることながら灼熱に痛めつけられた体力もままならぬ。
 昨日までで、やっと120ページほど読み進めたのであるが、鼻濁音の衰退や、マスメディア・政治の堕落に対する意見などなど、つねひごろから自分も痛感する事柄で、果たして55年前の随想であろうか、と驚くほど、世の中は変わっていないのである。

 至極もっともだと、ただただ共感してしまう、ともすれば多分に昔気質である考え方。
 彦六の正蔵師匠の異名・トンガリから改めて拝察するに、マイノリティなリポートを書かずにはいられないお人柄は、やはり世間では少数派なのであろうか。

 しかししかし、彦六師匠のご子息・花柳衛彦先生という、日本舞踊界のすばらしき才能を生み出したことこそ、ハコモノではなく優秀なるソフト、無上の文化的所産ではないかと、私は思うのだ。


        *     *     *


 そんなわけで、文体各種入り乱れておりますが、9月6日日曜日、吉祥寺駅前の武蔵野公会堂にて正午より、武蔵野市民芸術文化協会自主イベント、和を紡ぐ邦楽と舞踊 が、ございます。
 三密にも充分留意の上、令和元年まで行われていた公演とは趣きも異なりまして、観客の皆さまのご協力を頂きながら、舞台を勤めさせていただきたく存じます。
 
 また改めましてご案内いたしますが、番組中に、童謡「紙にんぎょう」から着想を得ました杵屋徳衛作曲作品「Paper Doll」に、新たに衛彦先生が振付して下さり、お弟子様が立方を勤めてくださることとなりました。
 地方は徳衛社中(協力・武蔵野邦楽合奏団/わたくしも参じます)にて、お贈りいたします。

 どうぞよろしくお願い申し上げます。
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断捨離のワルツ

2020年05月10日 11時30分00秒 | 近況
 平成三十年に心不全で急逝した父の遺品整理の凄まじさを知っているので、この機を天佑と捉え、断捨離作業に没頭しようかと思ったが、なかなか捗らない。
 本、CD類(レコードは10年前に殆ど処分してしまった。手許に残ったのは、処分するに足る物ではないと特に大切にしていなかったものが、偶々適当な場所に置いてあったので、一括大処断の網を逃れ、何の未練も無いものだったりするのが忌々しい)などを、処分するために分類する作業で(つまりお料理のまだまだ下ごしらえの段階なんですけれどもね…)、茫然としてやる気をなくした。
 つまり、山頭火風に言えば……分け入っても分け入っても、断捨離の山。

 …そうだ、管理会社から毎月配布されるリビング誌に、片付け(大掃除)の極意特集があったのを取っておいたのだった。
(実を言えばその雑誌を取っておいたことすら忘れていて、今回の断捨離作業着手の途中で、書類の山から発掘したのである)

 心得特集の、箇条書き心得その1、片付けるものの中身を見ない…そうか! そうだそうだ、それでいつも片づけ転じて回想の…追憶の時間になってしまったのだ、クワバラクワバラ。
 しかし、職業上の必要性から、古典籍・歴史資料や音楽関連を分別せずして捨てるわけにもいかない。
 更衣えの時季でもあったので、そうだ、洋服を片付けよう、と気がついた。

 この三十数年来捨てられない、日本が世界に冠たる経済大国だったあの昭和の終わり頃の、オーダーメイドでない、単なるレディメイドの吊るし、出来合いの服であるのに、生地がしっかりしていて、仕立ても丁寧だし、裏地だって…昔、お裁縫の時間で習ったように、三つ折りで、きちんとまつり縫いしてある。ミシンの糸だってほつれないように、きちんと片側に出して始末している。
  すべからく丁寧で完璧だ。
 20世紀の我々は世界で一番ハイレベルな基準値…鑑識眼、審美眼、自らの仕事に対する責任感と誇りを持っていたんだと思う。
 縫製技術もそうだが、まず、品質が違う。生地を組織する繊維自体が、今市場に流通しているペナペナで1シーズン着用するとへたれてしまう軟弱な素材とは、次元を異にする手触りと張りのある強靭さがあった。


*愛機リッカーマイティで縫製途中のまま放ったらかしにされた、ワンピースの切れ端まで発掘…
生地の耳に“カネボウ print 1981”とある

 今はとんと見かけないが、1970年代から80年代半ばにかけて、オシャレのかなめはトラッドだった。私が大学生になったあたりから、ニュートラとかハマトラとか、バリエーションが進化し、やがてイタリアブランドのスーツがバブル期を席捲するようになるのだが、トラッドといえばブリティシュで決まりだった。19世紀末のイギリス紳士の格好をしたくて、憧れが高じた挙句、私は男に生まれなかったことを酷く悔やんだ。
 …某ブランドの、茶の杉綾ツイードの共布カフス付のワンピース(これは前世紀に懇意にして下さったが今は泉下にいらっしゃる菊五郎劇団音楽部の唄方の先生と銀座で忘年会をしたとき着ていたもの)とか、コロニアル調ジャングル味シダ植物柄のベスト&スカート(これは道路拡張工事による立ち退きで最後となった、浅草にあった旧友のご実家のビル屋上での隅田川花火大会鑑賞会に着て行ったもの)とか、テーラード衿にステッチを入れた茶の細身のパンツスーツ(20世紀の終わりに池袋演芸場の二階の喫茶店でとある噺家さんと待ち合わせをしたときの出立ち)とか…

 もう絶対着ない、物理的理由からも着られない青春の脱け殻を、何度ため息混じりに箪笥から出し入れして来たことだろう。
 一般庶民が高品質の衣料を、日常的に手にすることができた時代への追慕、そして、時と場所を共有した方々との想い出。二度と手にすることがかなわぬ品物も惜しいが、付随する記憶が捨てられないのである。



  片付けの心得何か条かの一、過去の自分に対する執着を棄てよ。

 金曜日は古着を出す日である。思い立ったが吉日、捨てるのだ、捨ててしまうのだ!
  映画「ゴッドファーザー」の愛のテーマじゃない方の、♪ターリラリ…ターリララ…というもの悲しいメロディが脳内に流れていた。

 ところが、どうしたことでしょう、私は妙にウキウキして、心が軽くなった。
 腹に一物、手に荷物。財布も軽いが、心が軽いという、この解放感。
 もう本当に、落語のあたま山で言えば、百年ぶりに散髪したようにさっぱりした心持ちがして、そうだ!街に出られないのだから、本を捨て、抜け殻を捨てるべく家にいよう‼…という新たなスローガンが胸に去来するに至った。

 それからだいぶ落ち着いて、着手しつつあるCDの断捨離を進めるべく、これまた前世紀ぶりにチャイコフスキーのバイオリン協奏曲(ダイナミックなのに繊細で、まったくもって、なんという名曲なのでしょう! ヤッシャ・ハイフェッツの躍動する弓が目に浮かぶ‼ 録音されたのはもう60年以前だというのに…)をヘビロテしながら、スケジュール帖の空白を埋めるに余りある、今日も今日とて断捨離作業にいそしむのだ。


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寄せては返す波の鼓

2019年08月27日 11時33分41秒 | 近況


 所用まで時間があったので、ふと、九十九里の砂浜に降り立つ。
 夏の終わりの遅い午後の海岸…というものは、どうしてこうも1970年代の記憶を呼び覚ますのだろうか。
(♪砂山を…指で掘ってたら~~……はもっと古い記憶……)
 寄せる波、引く波、時折生じる三角波…悠久変わることなく繰り返される海の営み。



 ♪寄せては返す波の鼓…長唄『岸の柳』の一節。
(岸の柳の前半の一節 ♪緑の髪に風薫る~~→エメロン♪振り向かないで~~につながるのが、ジャスト昭和な世代……)
 岸の柳は初夏の風物を描くすがすがしい唄だけれど、もう晩夏の初秋で、見上げる空の雲は鱗。



 ……てなことがあった翌日の午前中、先週までは植木に水を遣るほか、寸時の滞在も躊躇するようなありさまだった日向のベランダに出てみたら、虫よけ網の向こうでブンブンと緑葉に取り掛かろうとするつわものがいた。
 あらあらと、そのけたたましさに度肝を抜かれて、ただぼんやりと傍観していたら、枝に近寄れないまでも、網のクロス目に尻尾をつけて、卵を産んだ。極々小さい、透明な翡翠色の一粒。

 ぁーーー………。

 オオスカシバか、くちなしか。
 またもやもたらされた、究極の二択。
 
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雨宿り、風待ち(風葉記のうち)

2019年06月11日 09時54分14秒 | 近況
  ……幼虫の行方は杳として知れない…
 雪之丞変化かっ!?と独り突っ込みをする5月末の状況から、はや十日余りがたち、それでも蛹化を目撃・所在を把握しているサナギのうちから気の早いものが羽化し、また旅立ち、日曜日の午後、三頭目の羽化に立ち会えなかった何となくしょんぼり気味の月曜日。
 ベランダの鉢周りを、前蛹化が近く彷徨う青虫の様子を見ておりましたら、鈴蘭の鉢の裏からひょこひょこっと蠢くものがあります。
 
 
 呼ばれず飛び出て、ジャジャジャジャーン!
 くしゃみはなけれど大魔王のようにひょっこり飛び出す、揚羽蝶の成虫が一羽。

 なんとなんと、ベランダのキャビネットの裏にもぬけの殻になった蛹を発見しました。
 こんなところで秘かに羽化していたのか……(\(^o^)/)

 しかし、外は雨。土砂降りの雨。
 何度も翅を羽ばたたかせ、飛ぶ稽古をしていたようでしたが、気温が低い。
  ※窓ガラスの線は5センチ幅です



 そのまま夜を迎え、早朝。



 いつ飛び立つのか、心配しながら見守っておりましたら、外気温が上がった7時半を過ぎたころ、ベランダの鳥除けの網目につかまってバタバタしております。
 網をひょいと持ち上げる親心にも気づかず、網目をくぐろうと躍起になっております。
 あらまー………

 どうしたものかと見ておりましたら、やっこさん、するりと網目を抜け、外界へ旅立っていきました。
 お前さんは引田天功かぃ……
  ※網目は2.5センチ四方です

 雨上がりの朝、旅立つアゲハチョウが一匹。

 それから小一時間経ち、旅立った後の空の様子が見たくて、またまたベランダに出てみましたところ、鉢と鉢の間の網の辺りでバタバタ蠢いているものがおります。



 なんとなんと。これまた把握していなかった隠れ蛹が羽化した模様。
 


 小刻みに羽ばたいて、網目の上部へ。



 風に吹かれて心地よさげ。
 網の下を捲って出られる空間をつくったのですが、気がつかないかなぁ……

 空が青いうちに早よぅ、旅立ちなされや…
 (先ほど様子を見に行ったら、まだ居ました)

 
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シロツメクサは見ていた

2019年04月14日 17時14分50秒 | 近況
 何たる不覚。何たるプロ意識の欠如。なんという不心得者。
 …なんということでしょう、4月早々のど風邪をこじらせ、2週間ほど臥せってしまいました。
 処方薬が体に合わず、快方と悪化を数日ごとに繰り返し、万事休す、もうどうしていいか分からない状態に陥ったのが先週中頃。
 土曜日の二時間待ちの診察室をやり過ごして、やっと新処方のお薬で、こうしてコンピュータに向かう心のゆとりが…
 申し訳ないことでございます。お稽古を休んでしまってごめんなさい。

 我が喉頭蓋は不思議なことに二股に分かれており(古びたこと二十年といわず、生まれた時から猫又なのです)、のどの奥がぴたっと閉まらず、黴菌の侵入を防ぐに不利なので、幼少期は季節の替わり目に必ず熱を出していた扁桃腺持ちなのです。
 (熱が出ると桃の缶詰を食べさせてもらって元気になるという、昭和のころありがちな類型なのでした)

 しかし、無類の桜好きの日本人の端くれとして、一年にたった一度のこの時季に、桜を見ずに過ごすなんて考えられない!! ちょうど西暦二〇〇〇年、平成12年の春、千鳥ヶ淵に友人と花見に行き、花冷えにあてられ体調を崩して寝込んで以来の不祥事でありました。
 (それだって、花見に行ってから熱が出たのであって、見過ごしたわけではないのです)
 しかも平成年間、最後の花見なんですぜ……

 そんなわけで花見に対する執念を家人が憐れみ、時間が取れたある平日の昼下がり、遠出はできないけれども都下で何とか満開の桜に巡り合えぬものか…と桜狩に出掛けました。なんとまぁ、ありがたい。関東平野と武蔵野台地の丘陵地、標高差・気温差に感謝。

 病床にて見えぬ桜を思い描いておりましたところ、小学校高学年だったか…の時に読んだ福永令三著『クレヨン王国の十二か月』の、三月だったか四月だったか、嘘ばかりつく鳥が桜の花びらに巻かれるシーンを不意に想い出し、あの鳥はウソだったか、シジュウカラだったか…まったくたどり着けない記憶の底を情けなく思っていたところ、お隣町の耳鼻咽喉科2時間待ちの待合室で、本当に吃驚するほど偶然に、しかし、当たり前のように、端然と病院の本棚に微笑むように在ったのが、その、クレヨン王国の十二か月、その本そのものだったので、とてもとてもびっくりしました。
 (手に取ってみて、しかし、むかし私が読んだのと若干内容が違うような気もいたしました。実を申せば昭和45年前後の小学生の私は、その作品に惚れ込み、図書館で借りたものだったので、手元に残すために本文を四百字詰めの原稿用紙に写したのです。ただ、何章分だったかは忘れました。自分の性格として全部が写文できたとは思えませんし…)
 ぁぁ、もう明日は日曜日か…と昨晩またまた脳裏をよぎったのは『らいおんみどりの日曜日』という児童書のタイトルでした。
 
 走馬灯のように子ども時分の記憶が…ぁぁ、もういけないかもしれない………

  名残りの桜


【追記】
 カタカナの“シ”と“ツ”の書き分けができない手書きの文字を見ると、心が波立ちます。
 昭和の国語の先生はきちんと教えてくれたのです。
 ひらがなの“し”の派生なので、縦にチョンチョンがつづいて、しゅっと右上にはね上げるのが、シ。
 同じく、ひらがなの“つ”から生まれたので、横にてんてんが並んで、シュッと左下にはらうのが、ツ、です。
 お習字は英語より必修だと思います。
 日本文化を世界に発信したいのなら、尚更。
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ワタシ ハ ケイコ

2019年02月23日 02時23分00秒 | 近況
 目が覚めたら、私はケイコになっていた。
 …つまり、宵寝から目覚めた母が、私をケイコさん!と呼んだのだ。

 そして、自分が声に出した、ケイコさん、という言葉に、そうだ、そうよ、あなたの名前はケイコだったわ!!
 ケイコ、ケイコ、ケイコよね?と、やっと思い出せた、という自分の確信に満足げに同意を求めるのであった。

 あのなぁ…と再び私は探偵物語の松田優作になった。

 なぜに、なにゆえ、ケイコ。
 もちろん私の戸籍上の名前はケイコではない。重なる子音すらなく文字数さえ合っていない。
 
 11か月前、父の通夜で7年ぶりに再会した母は、それからずっと私の名前を想い出せずにいた。
 つい1週間前、町内会の新年会で出席者の名簿を見て、苗字が自分と同じ方のフルネームを指差し、これ? これはあなた??と、目で訊いてきたので、いえいえ、そうではありません、第一私は苗字が変わっているでしょう、と説明したら、ふうんと、分かったような分からないような顔をしていた。

 ハクさまですか、千と千尋の神隠し??

 娘の名前が分からないならまだしも、母は自分の名前すらおぼつかない。
「私はどこへ行くのでしょう?」
 と、妙に哲学的な質問を、突拍子もなく聞いてくるのだった。

 そしてはたと思い当たったのが、日常、我が家での会話…稽古しなきゃ、稽古が間に合わない、はい、これから稽古の時間ですから静かにしていてね、ケイコ、ケイコですよ、ケイコの邪魔をしてはいけません…ケイコという言葉がすべてに優先していたのを、母は8か月の間、脳に刻み付けて蓄積され、ここへきてその記憶が発露されたのかもしれない、ということだった。

 翌朝、恐る恐る様子を見ていたら、そんなケイコさんのことはすっかり忘れて、私はお母さんに「おかあさん」と呼ばれる日常に戻っていた。
 あどけない子どもに戻っていると思うと、妙に理屈めいたことを言う日もある。
 脳内の神経細胞のシナプスがどうの…というよりも、母の様子を見ていると、脳の中が多数の部屋に分かれていて、一つのドアを開けて別の部屋に踏み込むと、前いた部屋のことは全く忘れてしまう、という喩えがしっくりくるように思った。

 ドアを開け閉めして、行ったり来たりできるときと出来ないときがある。部屋は突然なくなったりもする。
 襖を外せば自由自在…というような日本間ではなく、孤立している洋室なのだ。
 母を日々観察していると何かしら学術論文がかけそうな気さえしてきた。

 …いやまー、よしましょう。私はケイコなのだから。

 稽古を、さ、し、す、する、すれ、せよ。……サ変です。

 ケイコは強かれ。私にはそれが総てでなくてはならないのですから。
  
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寒き東都の ここかしこ

2019年01月23日 23時45分00秒 | 近況
 ♪ひびや あかがり かかとや脛に…(ご存知、長唄『供奴(ともやっこ)』!!)

 手の甲の中指の付け根(拳を握ると一番尖がる部分ですね)が、なんだか痛いなぁ…と思っていたら、なんと、ひびのような、あかがり(皸=あかぎれのことですね)のようなものが出来ていた。
 踵やすねでなくともできるんですねぇ…
 ぁぁびっくり。平成31年の初春の乾燥たるや半端なかった。
 わが愛用の特効薬、三宝製薬のトフメルA軟膏をすかさず塗りました。

 朝一番、月一回の母の診察後、久しぶりに公園を突っ切って帰ろうと、井の頭七井橋へ立ち出ずる。
 冬枯れの汀の眺めは、これまた何とも言えぬ風情があります。
 とはいえ…水際立つ、とは人の形容なれども、実際のところ寒中の池の畔りは寒すぎて、立ち止まって暫し、逆しまの樹影の面白さ、水鳥のきびきびした潜りっぷり、波紋の行方など、愉しむには厳しいもの。

 お茶の水の井戸の滔々たる水量に、ここは以前、毎朝、井戸端を箒で掃き清めてくれる寒山拾得なおばちゃんがいたんだよなぁ…と時の移るを悲しく思いながら、武蔵野の雑木林を見え隠れする家への近道も…
 先だって整備された折、除草剤が撒かれたのか下草の藪もなくなってしまった。夏にはオシロイバナが群れて咲いて、素敵な日陰の小径だったのだけれども…
 と、いつになく枯野の寂しい心地を宿しながら、公園から通りに至る、これまた昭和のころから大分すり減り細石の趣きさえ生じた段々を登ったら…白き囲いのとも移り、と、プチ替え歌したくなるような、可憐な水仙がひともと、咲いておりました。
 


 端然として清々しい。
 水仙といえば、ミュシャの絵にナルキソスを含んだのか鼻がツンと上を向いたポーズをとる艶やかに美しい女性(ニョショウ)を描いたものがありまして、20代のころ、その絵葉書を後生大事に持っておりました。
 年ふるとスタイリッシュな美の極致に食指が動かなくなるのは、人間の嗜好の不思議というものでしょうか、遠い目で懐かしく想い出します。

 しかし今朝は、この水仙花の印象から、さらにもっと遠い記憶の、八重咲スイセンを想い出したのです。
 …岩波子どもの本の中の一冊。もう50年も前に読んだお話です。

 猩紅熱にかかった坊やのぬいぐるみが、庭先で焼却されてしまうことに…。
 そこへ現れたのが、ツムラ順天堂の中将姫のように、裳裾をたなびかせ、黄色い水仙の花芯の口からついと出てきたかのごとく空中浮遊する仙女。その挿絵が、脳裏に浮かんだのでした。
 そのストーリーの顛末も忘却の彼方で、毅然としてぬいぐるみたちに残酷な運命を申し渡したのか、彼らの状況に寄り添い、何らかの手当てを講じて去っていったスーパーウーマンな妖精だったのかすら、まったく覚えていないのでしたが…。
 木漏れ日の微かな陽だまりの中で、ひっそりと佇むその姿が、遠い日の子どもの心を呼び起こしたのでした。
 
 あまりに気がかりだので、帰宅すると同時にありがたや文明の利器、インターネットで検索してみましたところ、『スザンナのお人形/ビロードうさぎ』であった、ということが判明。

 長唄には♪…花の姿や 若衆ぶり…「水仙丹前」という、供奴の女性版ともいうべき賑やかで華やかな踊りがありますけれども、そんなわけで、わが里の花、水仙は、元禄スタイルのあでやかな立方さんの魅力にクラクラする、その丹前舞踊ではなくて、瑞々しくもひっそりと、寒中に咲き誇るイメージだったりもするのです。

 この時季、お具合を悪くなさった方々にお見舞いを申し上げます。
 よくご養生なさって、くれぐれもお大事に…
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消息

2018年10月03日 10時03分38秒 | 近況
 初夏、馥郁たる星の如き白い花をつけた檸檬の樹。
 ベランダ栽培ながら、三株あるうちの二株ほどが、一本につき一つずつの青い実をつけ(あんなに花が咲いたのに受粉とは難しいものですね、私も筆でお手伝いしたのですが…)、徐々に太り始めた初秋。

 嵐の晩に、私は彼らの身を守るため、風当たりの強くない物陰に鉢を移動したり、防護ネットが飛ばないように紐で括ったり、幹ともつかぬ茎のような樹体を添え木で補強したり…大わらわとはこういうときに使う言葉と思い知ったのでした。
 個人的な趣味の園芸でさえこのような有様であるのに、本職の方々のご苦労はいかばかり…お見舞い申し上げます。

 もう20年前に時々、昼の憩い、というNHKのラジオ番組を聞くのを楽しみにしていたのですが、久しぶりにつけたAMラジオから、同番組が流れてきて感激しました。当時は、お手紙を寄せていた方々が○○通信員、という敬称で紹介されていたので、明るい農村のような、共同体のイメージでその番組をとらえておりましたが、今ではそのスタイルはなくなったようでした。
 いろいろなものが解体、変容したのが、この西暦2000年からの時の流れというものなのでしょうか。

 今年は金木犀が遅いなぁ…と案じておりましたところ、人間の心配などどこ吹く風、ちゃんと先週木曜日には、ご近所の金木犀が香り始め、昨日、往きがかった御濠端の公孫樹並木では、銀杏の実が匂い始めておりました。

 さて、だいぶ前からパソコンの具合が悪かったのですが、一昨日の朝、バッテリーの充電中に、シュワシュワッと白い煙を吐き、グツグツ言っているのを発見。慌ててバッテリーを外し一昼夜ほど放置し、案じながら電源を入れましたら、どうにか使えて、こうして日記をしたためておりますが、いつどうなることか知れません。
 (ウルトラシリーズの再来のような今日この頃、それでも使えるパソコンの謎…)
 見学ご希望の方のメールも届いていないことが昨日発覚し、まことに申し訳なく思っております。

 すわ、バミューダ三角地帯に突入? 消息が途絶えたのでは…?と、お気にかかることがありましたら、ご遠慮なく、お電話いただけましたら幸甚です。
 写真は、嵐の過ぎた月曜日の夕暮れです。富士の山影は、関東者には心の拠りどころだったりいたします。
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おとうさん

2018年09月22日 07時45分41秒 | 近況
 「あっ、お父さんだ!」
 テレビを見ていた母が叫んだ。指さすほうを見ると、大岡越前の加藤剛であった。
 あれ? 昔聞いた母のお父さん、つまり私の母方の祖父は、高橋幸治から甘さを抜いた感じの男前だった、と言っていたように思ったけど……
 待て待て、そいえば、この前は、田村高廣を、隣に住んでいた人、と言ってたしなぁ。
 街の風情が21世紀になってすっかり変わったように、しゃべる言葉や食べるものが変わって顎の筋肉の動き方が変化したためか、人間の顔もやはり昔とはずいぶん違ってきた。昭和のころ撮影されたフィルム群を見ていると、記憶の中の知り合いによく出会う。

 親戚付合いが先代で絶えて、消息はもう分からなくなってしまったのだけれど、子ども心に鶴田浩二にそっくりだと思っていた母方の大叔母の弟は、予科練の生き残りであった。
 婚約者が不治の病で入院していた時に、お見舞いに来た婚約者の友人との間に恋愛感情が芽生え、駆け落ちした。
 戦後のゴタゴタした時代には、身近に様々なことが起きるので、劇作家はドラマチックなストーリーを編み出すのに、今ほど苦労はしなかっただろう。

 さて、母の父は、ずいぶん風邪が長引くなぁ…と周りが思っているうちに、母が高校生のとき白血病で急逝したので、私は祖父の顔を知らないのだ。
 きりっとした鼻が高い大正生まれの好男子で、第二子出生の折、連れ合いを亡くした。曾祖父の代に内陸のT県OT原から海に面したI県K浜に出て、主にランプとその油を商い、電気が浜辺の町に通い発展するにつれ、塩やたばこの専売品、郵便切手、生活雑貨、青物、食料品などを扱うようになった。
 夏になると、店の横合いに床几を出し、ところてんを、今でいうセルフで出していた。水を張った大きな桶の中に、心太が一本売りされている。その中から、ところてんを取り出してもらい、自分で突いて、酢醤油で食べるのがおいしかったのを覚えている。

 母が学校から帰ってくると、おとうさんは女の人に誘われて、いつもお茶屋さんに行ってなかなか帰ってこなかった。母はそれが嫌だった。それを案じてか、商店を切り盛りし、残された二人の子供の面倒をみていた曾祖母が、祖父に後添えを迎えた。
 曾祖母は、私が中学1年生の時に亡くなった。気持ちのしっかりとした、頭脳明晰な刀自であった。子どものころはあまりにも長いこと生きている時代がついた古びた感じの、その存在がとても怖くて、私は曾祖母と話ができなかった。曾祖母の葬式の時、“スイ(萃…という字だったか翆という字だったか…)”という、彼女の名をはじめて知った。…ぁぁ、おばあさんにも名前があったのだ、同じ人間だったのだ…と、うかつにも気が付いた。


 お彼岸に、妹夫婦が母を墓参りに連れて行ってくれるというので、小旅行用の鞄を探していたら、戸棚の中から大事にしまっていた平成16年・東方出版刊『柴田是真 下絵・写生集』が出てきた。いや、出てきたのではなくて、いつもそこにしまってあったのを、改めて取り出してみたのである。

 夏の終わりに、母の新しい塗り絵帳を探しに出向いたら、なんということでしょう、『柴田是真の植物画 季節のぬりえ帖』というのを、書店の棚の中に見つけたのだ。
 がびーーーん、世の中は再び進化した。青月社、という美しい名前の会社が版元だった。

 やはり蛙の母はカエル。元気なころは美術館の解説ボランティアをしていた母も、柴田是真がたいそう気に入った様子で、ここ2週間ほど、一心不乱に塗り絵に没頭した。
 しかし、それがために宮沢賢治の書き取り帳がおろそかになり、先週、字が読めなくなっていたので、私は慌てた。
 そんなことがあって、今まで見せたことがない画集を母に見せてみようという気になったのだ。

 何年ぶりであろうか、帙入りの大判の本をテーブルに広げ、二人で眺めた。
 母は歓声を上げて、ページを繰っている。
 「おとうさんはねぇ、何でも買ってくれたの…」
 と、いつの間にか、祖父が母に買ってくれた本であったように錯覚したらしい。

 「こんな本があったの? はじめて見た…」
 もちろん、この本を見せたのは初めてであるが、「こんなのはじめて」というこの言葉は、このところ母の口癖であった。記憶の消失とともに、はじめてのことが矢鱈と多くなったのだろう。母が無邪気で、いつも新鮮な気持ちでいられるのは私にとっても嬉しいことである。

 懐かしい、しかしいつ開いてみても常に新しい、瑞々しい生命力に満ちた是真の筆致。
 “筆”文化の極致。血の通った流麗さは、日常筆に親しんだ者が為せる粋。
 そうだった、母は書道も好きで、殊にかな文字を嗜み展覧会にも出品していたのだった。

 …母が時折、私のことを「おとうさん」と呼んだりするのは、わたくしを自分の保護者と思っているからなのか、それとも、生前の私の父に呼びかけていた日常生活の記憶の断片が、傍らの人に呼びかける無意識の「もしもし、」という感嘆詞になっているためなのか。
 
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私をころして

2018年08月10日 11時00分02秒 | 近況
 「私を殺してからにしてくれ!」と今朝のニュースでどこぞの首長さんが啖呵を切った話を聞きましたが、あらら?
 コンチ、流行言葉なのかなぁ、思わず笑いました。このところ矢鱈と聞いちゃう言葉なんです。

 ひと昔、ふた昔…いぇもう何昔も前かなぁ、推理小説、サスペンスドラマにもよくある手法で、タイトルに持ってくることによって読む者にショックを与える物騒な言葉だったりしますが、それが、ふた月ほど前から同居している垂乳根の母のことなんでございます。
 母がときどき、「私を殺して!」と、夜中に迫るんだよなぁ。

 …というのは、海馬がだいぶ委縮して、先生の見立てでは新しい記憶が入らない状態らしく、五歳児のような言動でむしろ微笑ましいことも多いのですが、そこはさすがに年を経た八十路のオババ、いろいろなんですねぇ。
 自分の身の回りのことはそれなりにできて、御不浄なんかもきちんとはしているのですが、時々深夜に粗相をしてしまう、そんなとき人間の尊厳が冒されるのか、自己嫌悪に陥って、先の台詞で寝ている私をいじめるのです。

 「私は死にます、こんなに馬鹿になって生きていてもしょうがないもの…!」
 夏目漱石の夢十夜にも「私は死にます…」って話が在りましたね。

 「あのなぁ…」
 抗うすべのない理不尽な仕打ちに、探偵物語の松田優作の如く、眠気のとりこになって朦朧としている私は絶句します。
 (おかあさん、何もそんなにシンコクにならなくても……)
 母は戦中生まれの真面目な人間なので、一大事なのです。
 まったくもう、近松の心中ものかしらん…

 「ちょっと、オカーサン、娘を殺人犯にするつもり?」
 なんだ何だ何だねぇ、面倒に巻き込まないでほしいなぁ、日々の生活の苦難に朗らかにけなげに立ち向かう無力な芸人風情に、これ以上むつかしい問題を持ち込まないでほしいなぁ…
 「あたしゃー、人殺しになるのなんて真っ平ですからね」
 もう眠いから明日にしようよ…と、適当にお茶を濁しているうちに、情熱の嵐ならぬ妄執の嵐は過ぎゆき、台風一過の秋の空のようにカラッとはいかないけれども、八月の朝。

 「オカーサン、水羊羹、おいしゅうございますょ」
 「あら、そう?」なんて言って、無邪気に可愛らしいのですけれどもね、人間の脳って不思議なもんですねぇ。

 それにつけても、このところの世の趨勢を見てるとなんだか、酷いねぇ…数の論理でもって道義も何もない理不尽がまかり通るんですねぇ。

 どうなっちゃうんだろうねぇ、どうしたもんかねぇ…と、田村高廣になって、小林桂樹の梅安先生に相談したい今日この頃。
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母来る

2018年05月25日 14時30分03秒 | 近況
 父が逝ったのは如月の三日月の頃だった。
 昭和の熱血教師であった父は戦後の激動の中学校、バブル期を迎えんとしていた昭和60年代の小学校、定年退職後は幼稚園の園長先生を勤め、多くの教え子に愛され、愉しい晩年だったらしい。
 …らしい、というのは、父が心不全で急逝するまでのこの7年間、とある事情から私は父と絶交状態にあった。
 亡くなる一と月前、何の偶然だったのか、懇意にしていた虫が知らせたのか、ふと近況を知らせる葉書きを父に送ったのが最後となった。
 今となっては、それが私の心の救いともなったのだったが、鬱病と認知症を併発していた老々介護の母が残された。

 そんなわけで、めずらしく心のどかに朝の公園を散策する、という日常が私にも訪れた。
 それは、ふんだんにある檸檬の葉を食べ尽くしつつ、見事に育ちつつあったアゲハJuniorを、野鳥の思惑から守れなかった失意の私に訪れた一筋の光明でもあった。

 もう紫陽花が色づく季節となった。
 幼生のアジサイたちは、蟹がハサミを振って招く姿にも似ている。



追:慣用的な日本語の修辞法が、21世紀に働く方々に伝承・取得されていないことを痛感する日々である。
  例えば、読み方。
  ゴジラが来る→ごじらが「くる」
  ゴジラ来る→ごじら「きたる」
  そんな感じです。
 
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インセクタ派

2018年05月16日 11時17分03秒 | 近況
 昨日今日の暑さはなんとしたことか。私の半世紀ほどの記憶の蓄積によれば、今朝は7月になったんだなぁ…と思える体感である。
 移りゆく季節の中で、春を愉しませてくれた株1号の旭山桜は、青い子房を太らせ、このままいけば初めてサクランボが実るのではないか…と嬉しさに胸をどきどきさせて眺めていたのだが、その嬉しい予感もつかの間、おいしくなる予感を感じた次の日に、卒然として枝から消えた。

 姿は見ぬが、野鳥もやはり私と同じ気持ちだったのだろうと思う。

 それから我がささやかなる株2号3号4号の檸檬たちが爽やかな白い花をつけ、ジャスミンのような馥郁たる匂いをともなって、私の傷心を慰めてくれたのだった。

 さて、花に嵐の先週の荒天で、檸檬の花も子房を残してざんばらの姿、よく伸びてきた緑の葉のうちの一枚に、一昨日、黒と白のまだらの鳥の糞様の…幼虫を見つけた。
 ぉぉ! 何とうれしや、こんなささやかな植物たちをも、アゲハチョウは見逃していなかったのである。
 
 そして、また何ということでしょう!! 昨日糞だった我が宿の幼虫は、一晩を過ぎて、美しい緑色に変容していた。
 脱皮したのか、擬態したのか…すごいですねぇ、大自然の驚異たるや、日々我々を飽かすことがない。

 五月待つ花橘の香をかげば…古歌を想い出しながら、花が散ってもまだ馨しき匂いを放つ緑の枝に水をやりながら、檸檬の葉に育つ蝶は、何色の翅を拡げるのだろうと、考えていた。

 そんなわけで、ネコ派でも犬派でもなく、わたくしは虫愛でる…インセクタ派なのであります。
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ウラシマソウ

2018年05月08日 01時51分05秒 | 近況
 地球の磁極が転換した証拠ともなるチバニアンという地層が発見された、という昨年のニュースは、隠れ地学女子には胸躍るものであった。同じ関東平野の太平洋沿岸北岸には浸食された白亜紀層があり、もう60年ほど以前、地質学を学ぶ地元I大学の学生が新種の化石を発見し、新聞にも載ったことがあった。若き日の我が父である。のちに彼は理科の教師となった。
 そんなわけで、白亜紀層の海岸に白亜紀荘という旅荘が屹立しているのは、私には懐かしい風景なのだった。
 ウラシマソウは浦島草なわけだが、浦島荘という旅籠が日本のどこかの岸壁に建っているはずでもある。
 マイティー荘が、北欧のフィヨルドのどこかの断崖の上に立っていてもほしい。

 そしてまた、昔、射爆場だった跡地が整備されて海浜公園となり、瑠璃唐草という果てしなく乙女心をくすぐる和名を持つネモフィラが栽培され、海を望む丘が一面、空色の花で覆われているらしい。昔読んだ本に、つる性の青い花が海近くの村にはびこり、村全体を覆いつくして海に沈めてしまったという話があったのを想い出す。
 あれは何の物語だったのだろう。沈みゆく村とともに沈みゆく教会の鐘の音が断末魔の響きを奏でる…という幻想的な楽曲もあったはずであるが(ドビュッシーではないように思う)……。

 ウラシマソウはテンナンショウ(天南星)と漢字で表記する仲間らしい。海も浜も植物も、南澳の暗い群青色の夜空を思うとほのぼのしみじみと懐かしい。行ったことはないから前世の記憶なのかもしれない。
 ウラシマソウを見ると、どうしても深海の生物の姿を連想する。具体的に何々という名称が挙げられないのが無念である。



 さて、4月3日、早朝の公園で見かけたウラシマソウが、



 4月22日にはこのような実を結んでいてビックリした。
 
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