長唄三味線/杵屋徳桜の「お稽古のツボ」

三味線の音色にのせて、
主に東経140度北緯36度付近での
来たりし空、去り行く風…etc.を紡ぎます。

無意識下のアイドル

2011年02月14日 13時13分00秒 | マイノリティーな、レポート
 ♪おすもさんにィは どこがよくてぇ惚れえた~稽古帰りの乱れ髪
 街を歩いていてお相撲さんに出会うと、なぜか無闇と嬉しいものだ。
 商店街の向こうから自転車に乗って、すーっとやって来るだけで感激する。なんとまあ、絶妙なバランス能力、心技体。そしてまた、同じ電車に乗り合わせると、ものすごくいい匂いがする。鬢付け油の匂いだ。新幹線のホームで見かけると、同じ車輌じゃなくてよかった、と安堵する半面、同じじゃなくてちょっと残念。どこに行くのか、ちょと気にかかる。
 これは京都を歩いていて、舞妓はんに出会ったのに似て、かつまた、都内で思いもよらぬところで富士山と東京タワーが見えた!というのと一緒で、気がついたらそこにいて、存在がなぜかものすごく嬉しい、というようなものだ。
 かくもお相撲さんは、日本人にとって日常なのだ。夕暮れ時、家に帰ると、明治生まれのバアちゃんが飽きもせず、茶の間に座ってずーっっっつと相撲中継を見ている。呼び出しと柝の音にかぶさるように、お豆腐屋さんのラッパの音が聞こえる。昭和の市井の風景。

 私は別に相撲命!なわけじゃない。毎場所楽しみにしているわけでもなく、ただ、そういうわけで、空気のように水道の水のように、ごく身近に感じて生きてきたので、そういう、みんながそれと気づかずに心の奥底で養っていた、無意識下のアイドルを、そのようなぶしつけで無遠慮で分からんちんの輩の手に、むやみと貶められると、もう黙っちゃいられないのだ。
 以下は、そそっかしい人の蚊柱と思ってお読みください。

 いい加減に相撲取りいじめはやめたら、と思う。
 八百長は、博打の世界では禁じられていますよね。そうしなきゃ賭場が成り立たないもん。東映のヤクザ映画、日活の無国籍アクションなど、フィクションの世界では八百長をすれば、たいがい落とし前をつけるために指の一本や二本、詰めることになっている。
 でも、相撲で八百長をしたからってどうなの。そんなに追及して、あんたは懸賞幕の一本でも出したことがあるのか。

 国技なのに恥ずかしいってどういうこと。オリンピックに「スモウ」って競技種目に入ってましたっけ?
 相撲はスポーツじゃなくて文化だ。競技じゃなくて興行だ。文化まで欧米化してどうするのだ。西洋的でないものイコール野蛮で破棄すべきもの…って図式って、明治の人の考え方かと思ってました。
 そも、相撲は、神様を喜ばすために誕生した力較べであって、西洋の競技とは発想が異なるものだ。だいたい、あんな巨漢が、本気で殴り合いするボクシングのように、力だけで押して行ったら、みんな体を壊して即座に廃業だ。

 柔、よく剛を制す。小さいけれど力持ち。見た感じ、どうしたって勝てそうにもない小さきものが、怪力のおっさんに立ち向かっていく。であるからして技が必要だし、くふうも生まれる。そういう技術と技巧を愛でるのが日本における勝負だし、相撲だ。
 ただただ力が強いものだけが王者になるという、西洋式の分かりやすい単純な勝負のつけ方とは違う、そういうところが日本の文化なのだと思う。

 さて、「八百長」って言葉に過剰反応して、かなり感情的になって、論点が横滑りしました。
 要するに私が言いたいことは、杓子定規に、清廉潔白さの枠でもって世の中の総てのことを測って、「子どものお手本」というような切り札で、それにちょっとでも反するような事どもを、いっしょくたに薙で切りにして排斥するのは、筋が違うンじゃないでしょうか、ということだ。
 そりゃ、子どもの前ではみんないいかっこしたいよ。
 でも、大人の世界はそうじゃないでしょ。弱肉強食だし。正しいってことだけですべてが快刀乱麻に解決されることは、フィクションの中でしかない。また、正しいってことだけで一刀両断しても、決して正しいことにはならない。
 大人の事情って切ないんだね…と子ども心が切なさを斟酌できるようなことに触れさせないといけないんだ。
 そういう切ないところで、大人は生きている、ということもあるのだ、という情操教育をしないと、ただただ黒白をつければそれでいいと思っている、コンピュータのような人間が出来上がってしまうぞ。
 そして本音と建前の折り合いをつけられず、その存在を容認できずに、ただ頭でっかちになって、現実社会にうまく溶け込めない、不器用な人間も増えていくのじゃないだろうか。

 どこまでが正しい八百長で、どこまでが正しくない八百長なのか…なんてことあたしゃ知りません。
 悪いことをすれば当然、因果はめぐる…いや廻らない人もいるかもしれない。それが人間社会だけれど、それだからこそ、正義を貫くのだ、という熱血漢も生まれてこようという素地があるのが、世の中です。
 生活がかかっている人の職業を、まったく無関係の人が、独自の一見正当な倫理と正義論で押しつぶしていって…それは相撲世界のことに限らないけれど、どっちが人権無視なんだ。

 生きるために、みんなそんな業を背負ったり、日々、自分自身の矜持を試されながら生きていくのだ。
 白と黒だけではなく、グレーとか、いろんな色があるンです。大人の世界って、線引きできないものが存在するんです。
 でも、それだからこそ、子供は大人になっても、生きて行こうと思えるのじゃあないだろうか。

 …人生の機微。
 もうそんな言葉の存在が許されないほど、世の中は機械的風紀委員的感覚の人々に支配されつつあるということか。

 このたびの騒動は、そういう日本的風土から誕生した文化で、前時代的だから、総体的に見直したらいい、という動きの始まりなのだろうか。私は好きではないのだが、柔道の胴着がブルーと白になったのは、国際化だし近代化だし仕方ないか。
 歌舞伎座の座席の番号が、コンピュータが導入されて以来、いろは…から情緒も何もない1、2、3…と機械的に合理化されたのも仕方ないか。
 日本の伝統文化も、そんなふうに発想の転換をして、欧米化していくことになるのか…そして日本人は滅亡していくのだけれど、それは時代の流れで仕方ないのかもしれない。
 それだったら、組織も前時代的だし、もう糖尿病になるし、不健康だから、あんなふうにアンコ型とか一切やめて、みんな筋骨隆々の体型にして、予期せぬ事故に備えてスクール水着の上から回し締めて、やればいいじゃない。
 そうなったら、レスリングとどこが違うというのだ。そんなもん、アタシは二度と観ませんけどね。

 …とか啖呵を切ってやろうと思ったら、先週の学校巡回(中学生の体験学習の時間)で、予期せぬ出来事が起きた。そして私は脱力した。
 この記事も書きあぐねて時期を逸した感あり…で、載せるのはやめようと思ったが、兆候の前段ともなるので、敢えて…嗚呼。
 この続きはまた明晩。

コメント (4)
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