長唄三味線/杵屋徳桜の「お稽古のツボ」

三味線の音色にのせて、
主に東経140度北緯36度付近での
来たりし空、去り行く風…etc.を紡ぎます。

逆転

2011年02月22日 01時10分00秒 | 直球でいこう
 数年ほど前。上野の国立博物館の、徳川家の秘宝展だったかで、すばらしい名筆の書簡を見た。悲しいことに、誰の手だか忘れてしまったのだが、それはそれはうつくしい水茎の、けれど美しいだけではない、驚くべきくふうを凝らした手紙だった。
 それは、文中に頻出する、とある仮名文字が、すべて違う変体がなで綴られている、というものだった。つまり、たとえば「あ」だったら、漢字の「阿」から崩したのと、「安」から崩したのでは、くずし方で文字のスタイルが違う。
 全部のかな文字がさまざまに変体仮名だったら、また逆にやり過ぎで興ざめなのだが、その手紙の文中の、たしか「な」の字だったように記憶しているのだが、ひとつとして同じようなくずし方で書いてはいなかったのだ。
 美しい。形もそうだが、その着想、思想性のありようも美しい。
 …これだ。これこそが、日本文化が内包する深い豊かさ、多様性、そして、ほどのよさなのだ。

 邦楽と洋楽のニュアンスの違いを感じてほしい…ということから、中学校の体験授業で、同一メロディを、ピアノの音階に合う弾き方と、長唄本来の音色での弾き方の2パータンで弾き分け、聴いてもらう、というのをやっている。
 なにしろ三味線にはフレットがない。どんな音でも出せる。
 つまり、同じ曲中の同じ音でも全部をまったく同じにしないで、勘所(ツボ)を微妙にずらし、音の表情を変えるのだ。
 ただそれは当然のことながら、明らかに音が外れている、ということではない。それじゃのべつ幕なしに日本国内全家庭の台所の糠味噌が腐っちゃう。
 微妙なピッチの差で音の深みを出し、音色の豊かさを表現するものである。
 それは、現代邦楽の調子の取り方(三本の糸の音程の取り方)と、古典の調子の取り方が違うことからも、お分かりいただけると思う。
 そしてまた、均等に刻むのではなく、間という無音の間隔の微妙な移り変わりによっても、音曲の味わいがグッと増してくる。この、間の取り方も、西洋式に何分のいくつ、と均一に計れるものではないので、マニュアル化できないもののひとつである。

 同じ音でもこの曲中のこの部分は、もう少しくぐもった音を出すと、ぐっと表現力が増すし、雰囲気が出る、もしくはもう少し明るく溌剌とした感じを出すのにこの部分はこの間合いで…というように、平板さを嫌う日本人の美意識からくるものだ。
 これは、音を理論的に区切って合理的に整理した音律のみで音楽を表現する西洋音楽とは発想が根本的に異なるものである。であるから、西洋音楽は、違う音色の多数の楽器で、音を多重に重ねていく表現へ進化した。

 さて、この聴き分けをして、生徒さん達に、どちらの表現が好きか、各クラスごとに訊いてきた。どっちがいいか、悪いか、とかいうことではない。これは感性の問題であって、音楽に対する好悪は、善悪で測るものではないからだ。
 この試みを始めたのは何年前だったろう…学校巡回を始めたのは、もう十数年以前からだが、そのころは三味線の授業自体を、そんなもんおいらはうけねーよ、というような頼もしいツッパリくんもいたから、そんな覇気のあるアンケートを取る気持ちも起こらなかったような気もする。
 たぶん、「さくらさくら」よりも、三味線を弾いた!という実感がしみじみと湧くので、むしろ古典曲を教材にしてほしい、というような積極的な要望が学校から寄せられるようになってからのことだから、ここ十年ぐらいだろうか。

 何が嬉しかったかって、あーた、最初にそのアンケートをしたときにビックリしたのが、予想に反してまったくほとんどの生徒さんが、昔ながらの音色が好き、というほうに挙手したことである。
 むしろ私たちは、昔の音色がいいという生徒さんは、もっと少ないと思っていたので、単純に喜びを覚えた。音の持つ深みと饒舌さ、間が生む余韻、単純でないものの面白さ…そんなものを若い人たちは感じ取って、心地よさを感じてくれているのだ。

 …そうか、そうなのだ。みんな生まれたときから横文字の音楽ばっかり聴いて育ってきたけれど、この、三味線が表現する音の深みがいいナァ、と思う感覚…日本人のDNAの為せるワザとでもいうのでしょうか、そういう感性を持っているのだなぁ…と感じて、むやみやたらと嬉しかったのだ。
 それ以来、学年やクラスによって違うけれども、好き嫌い調査の結果、古典的音色がしっくり来て好き、という生徒さんの割合は意外と多く、つねに八~九割ぐらいを占めながら推移していた。
 去年ぐらいからだったか、明朗で平板で日常耳なれた音階で表現されたほうが好きだ、という感性の生徒さんが五分五分というクラスもあったけれども、世相とは不思議にマッチしていなくて、むしろマイノリティであった。
 そんなわけで、私は、わが日本人DNAは永遠に不滅です…的感慨に浸っていたのである。

 ところが、である。平成23年になったとある中学校の中学一年生のクラスで、その「不滅です」神話は、私の大いなる幻想だったと思い知った。
 いつものように聴き分けをしてもらったところ、好き嫌いの割合が、完全に逆転していた。なんと、昔ながらの音色がいいと思った人は、31人中、たまたま参観していた校長先生と、一番後ろの席に座っていた背の高い女子生徒の二人だけだった。
 私は愕然とした。
 …つまり彼らは、もはや新人類とかいうのでもなく、生まれながらの欧米人なのだ。
 虫の声を、日本人は芸術をつかさどる右脳で聴くけれど、西洋人は左脳で聴くので雑音にしか聞こえないという話を、以前、このブログに書いた(2010年3月19日付「秋の色種」をご参照いただけますれば幸甚)。
 つまり、平成10年前後に生まれた若き人々は、生まれたときから、そのような自然界の雑多な音を、左脳で聴くタイプの人々になっている、ということなのだ。
 味わいや情緒のようなものを、いいナァ…と思う感情、愛で慈しむという気持ちが、存在しないということなのだろうか。

 受け手が変われば、教える内容も変容する。
 でもさ、ドレミを三味線で弾いたって、何の意味もありゃしない。

 奏でる音がそんなものでよいのだったら、三味線である必要がない。
 それじゃほんとに、三味線という楽器に触れてみましたという、体験でしかない。
 まあ、でもそんな体験でも、ないよりはましか…もはや三味線音楽は、そんなめずらかしいものに触れてみちゃいました的、見世物…博物館に収蔵されてへーえ、と、いっとき関心を持たれるだけのもの、好奇心を満たすものでしかなくなってしまうのか。
 …いや、こうなると、もう、ソウナッチャッテイルンデスワヨネ。
 わたしはイササカ…いや、かなり脱力した。

【追記:2021.11.27】
…という記事を記してから、この10年の間、逆転の逆転現象に遭遇する度、この記事の続篇を書かなくては…と思っておりました。
昨日伺った中学二年の授業でも、久しぶりに好みの音アンケートを行いましたところ、逆転の逆転現象、すなわち、サワリのある雑音で雑多な音質が好きだなぁ…という生徒さんが98%となりました。

不安神経症になりやすいのが日本人の気質だと、コロナ禍で騒がれる風聞を得ました。
そりゃーしょっちゅう地震が来たりして、大自然の脅威に影響を受けがちなのだから、当然の帰結としての生き物の特質なのではないかと感じます。

…であるから、ことさらに、感情を司る右脳に優しい癒される音を求めて、日本人は伝統的な日本の音楽文化を温め、連綿と続けてきたのではないかと思うのです。

コメント
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