長唄三味線/杵屋徳桜の「お稽古のツボ」

三味線の音色にのせて、
主に東経140度北緯36度付近での
来たりし空、去り行く風…etc.を紡ぎます。

サブカル懺悔1

2019年05月09日 22時33分44秒 | やたらと映画
 「もうそっちのほうに行くのはおよしなさいね」
 と、母が私に釘を刺したのは、入学式が済んで各種サークル勧誘のチラシが舞うキャンパスでのことだった。
 
 昭和50年代中頃中学生だった私は、高校受験間近いある年の共通テストで、全国で第3位という国語の成績を修めたのだったが、あまりにも神妙に受験勉強に勤しんだがゆえ、その反動で高校時代の三年間というもの、漫画研究からアニメーションや声優…という分野の藪に入れ込み、古文の先生を落胆させた。折しもテレビ版だった宇宙戦艦ヤマトがはじめて映画化され、小学生に交じって封切り館内売店のスチール写真グッズコーナーに並んだ私は、絵葉書のここからここまで、全カットくださいな、という大胆な行動に打って出た。初めての大人買いであった。
 同人誌や贔屓声優のファンクラブにも入り、声優が所属する劇団の芝居見物や、結成されたロックバンドのライブにも出かけた。学園祭で友人とコピーして歌った。コミックマーケットの前身の即売会にも出品したが、コスプレはやらなかった。当時上井草にあったスタジオサンライズへ見学に伺い、三文字のお名前になる前の富野喜幸氏にお目にかかった。急逝した長浜忠夫氏がとても紳士的で親切に案内してくださったことを覚えている。残念ながら、大学受験のための塾通いで、ガンダム一作目は1クールも見ていない。

 とはいうものの、冤罪事件に触発された多感な女子高生でもあった私は、無辜の民を悪官憲から救う弁護士になるべく法学部に進学し、当初は母の助言を守り、就活の助けともなる手に職を…ということで速記の通信教育や、社会悪を叩く新聞記者になるべく勉強を始めようと新聞学会なるサークルに入ったのだが、思惑が違った。その学会の主な活動は、当時まだ存在していた学生運動だった。一時の安保闘争からかなり下火になってはいたが、セクト争いで死者も出た時代だった。入会早々、軍靴の響き…という反戦の社説を書かせていただいたが、すぐに退部した。

 そんなわけで、五月病になる暇もなく、途方に暮れた私はつい、古巣に立ち寄ってしまった。
 アニメ研には、すでに漫画家に弟子入りしセミプロとして活躍している者や、制作会社でバイトしている者もいた。
 活動は当然、アニメーションの製作である。
 原始的なものではあるが、パラパラ漫画の延長線上にある企画で、各部員が同秒分を分担し、リレー方式で繋いでいくのだが、担当する頭のカットから全く別の物体であるお尻のカットまで、各自のアイデアのもとにメタモルフォーゼさせていくのだ。トレーシングペーパーに単色マジックで一枚ずつ動画を書き、一枚ずつ白黒の8ミリフィルムで撮影していく。
 …いや、エルモの16ミリだったろうか、渋谷区の16ミリ映写機操作講習会に私も参加し、資格を取った。
 
 そのアニメ研に特撮班なるものもあり、私はそこで戦隊ものの企画に誘われた。
 当時(アクリル絵の具が出回り始めたころだった)大人気イラストレーターだった生頼範義の筆致をまねるのが大層上手なМ君が、絵コンテを描きながら説明してくれた。どうやら私はトルネードクイーン(柏木たつみ)というヒロインのお役を頂戴できるらしい。
 やはり、当時カルト的人気を誇った、ジョン・カーペンター監督のザ・フォッグに似た恐怖映画テイストミックスの、若干のキッチュさを狙った特撮自主映画企画だった。

 昭和40年代を小学生で過ごした者たちにとって、円谷プロダクションは心の友…いや、なんと言ったらよいのだろう、友以上の、一種の信仰の対象ともいえるような存在であった。(小学生時代の私のイチ押しは何といってもセブンであった)
 М君の御父君のツテを最大限に活用し、さっそく、当時ウルトラマン❜80を撮影していた世田谷大蔵の東宝ビルトへ見学に行った。
 私は、特殊撮影の技法、という特集記事を父の本棚のカメラ雑誌から見つけ出し、レポートにまとめ、勉強会を開いた。

 しかし、その特撮映画も準備段階のまま、そうこうしているうちに、サークルの分派騒ぎというものが起き、1年足らずで私はアニメ研を退会し、大衆読み物研究会なるサークルへ移った。私のアニメ熱も1980年で終わり、フィルム映画…映像製作に対する情熱もついえた。
 その大衆読み物研究会・SF分会で出会ったのが、我が整いました、の心の友である。そこで子供時代のお笑い志向が本格再発し、大人の落語熱へと重症化していくのであるが、それはまた、のちの話。

 ここまでがざっと、長唄に出会う前の…長唄以前のこと、なのですが…

 …そんなことを想い出したのが、林家しん平師匠が4年半にわたる歳月を費やし、ほぼ一人で特撮部分を作成・完成させたという監督作「深海獣雷牙 対 溶岩獣王牙」の発表試写会でのことだった。
 昭和の終わりごろ寄席通いをしていた私は、一ツ木通りに在った今は亡きTBSホールの落語研究会にも行ったりして、当時新進気鋭だったしん平師匠のシュールな新作落語が好きだった。三角定規を頭に刺して自殺しようとして死にきれない男の噺とか、SF小説のショートショートのような趣きがあった。
 それから時代は下って21世紀になってから…10年ちょっと前でしたか、文化放送のかもめ寄席だったかで、新作の「鬼の面」を聴いたとき、その噺の完成度合いといい、独自性といい、高座っぷりといい、すごい技巧派になってらしたんだ…と感心したものだった。

 そんなこんな、あれやこれやで、終盤は怪獣同士の鉄火場の閃光と爆裂でよく分からなかったものの、映画作品が完パケに至るまでのなんと困難なことであることか、と、しん平監督の執念と情熱と不屈の魂をたたえるゲストの特撮界の巨匠お二方の監督のお話もあって、40年余りの長期的スパンで、林家しん平という落語家の来し方を、楳図かずおのおろちのようにそっと傍観してきた私も、不思議と何やら清々しい心持ちになった。
 人影もまばらな宵の冨士見町のアスファルト道路の真ん中で、旅笠道中を歌いながら、飛び跳ねて踵を打ち合わせたい…ふと、そんな気がした。


附:写真は、踊りの会の打合せのため、四十年ぶりで伺った西武新宿線・上井草駅頭(かつてサンライズを訪問したことは全く失念していた)にて遭遇した銅像。ガンダムは初放映時、4月から6月初旬までのみ視聴。
昭和の女子高生としては、前年度のダイターン3の、軽妙でコミカルなオシャレ感が好きでした。
銅像にたすき掛けをしてしまうという、モニュメントに対する侮辱的行為に対して苦情は出ないのでしょうか…
それとも……。
 
コメント
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