続・黒柴ひめちゃんの葛塚村だよりⅢ

上野国山上・葛塚城堀之内に住んでます。ひめちゃんとおかあさんの見て歩きです。時には遠くにも出かけます。

正田隼人の娘・法屋性榮大姉の細腕奮闘記

2023-05-18 11:49:53 | 新田紀行

ひめちゃんは、どうも恋の季節に突入しているらしいです

動物病院の先生によると、15才でしっかり普通に出産した例があるそうです。

まだまだ可能性があります。

気を付けましょう

七海ママは娘に「恋の季節は、ママとのっかりっこするのよ。」と教え、自分は雄犬との交尾を望んでいました。

 

今朝も、タバちゃんのお尻をクンクンです。

タバちゃんは、避妊手術済なので恋の季節は来ません。

 

プーちゃんの前を通って帰ります。

プーちゃんは、立ち上がりました

ひめちゃんも声を出して反応です

でも、それだけでした。

ひめちゃんが大好きなのは、ケンくんだったのです。

大好きなケンくんとも、ちょっと触れあうだけでした。

ママに逢いたいよう

 

 

 

5月13日、この日の本当の目的は、「法屋性榮大姉」の墓石を確認することでした。

数年前に常広寺の和尚さんから、『粕川家の歴史』という本を戴きました。

古本市で、新里の粕川家の歴史だと思って買ったけれど、違うからいらないという本でした。

それは、新田郡粕川村の粕川家の歴史でした

そして家系図の中に、実家の親の名を見つけました

 

 

四代目の弟が分家したのです。

法屋性榮大姉は、実家の2代目の奥さんで、なんと徳川の正田隼人の娘だとあります

聞いてはいたけれど、正田隼人の娘が、しっかり嫁に来ています

 

世良田東照宮のHpによれば、徳川東照宮の由来について

徳川氏始祖義季公から八代目である親氏公は、南北朝の戦いで室町幕府による新田氏残党追捕の幕命により新田之庄を出国せざるをえなくなります。徳川郷の生田隼人は、親氏公の出国時に銭一貫文と品物を餞別とし、郷内の百姓とともに中瀬(現 埼玉県深谷市)までお見送りをしました。またその時に親氏公の領地を預けられたことで、以後 生田家が徳川郷主となります。
天正19年(1591)徳川郷主 生田家十六代義豊は、武州川越(現 埼玉県川越市)で家康公に謁し「新田徳川系図」の提出と生田姓から正田姓への改めを命じられます。同11月には、家康公より徳川郷へ三百石の御朱印を寄進、正田家に徳川遠祖の御館跡を子孫末代まで居屋敷として所持してよいと仰せつけられました。
寛永21年(1644)世良田東照宮勧請にともない、十八代正田義長は邸内に私的な東照宮を建立したました。祭祀は正田家が執り行い、世良田東照宮と同様に4月17日と正月に限り庶民の参拝を許しました。
明治5年(1872)邸内社であった東照宮の社地を徳川郷へ寄進。同40年(1907)11月6日、郷内4社各末社が合祀されたことにより、徳川郷の鎮守に崇められるようになりました。

大正3年(1924)6月3日、徳川郷内の永徳寺より「権現堂」を移築、それを拝殿とし現在に至ります。

 

分家の嫁であるけれども、一族にとっては、いい意味の大事件だったのでしょう

実家の一族の墓地です

かつては、成就院というお寺があったと言うことです。

大きな木々に囲まれた静かな墓地でしたけど、木々は切り倒され、墓石も整理され、墓地分譲も行われています。

実家のご先祖様達も整理されて、なんとなく少なくなってる感じです

 

法屋性榮大姉の墓石、あるかな?

ありました

でも、地味です

もっと華やかな墓石だと思ってました。

でも、逢えてよかったです

合掌

 

旦那さんは、最後列の一番右の方です。

ちょっとうまく撮影できません。

顔を削られたお地蔵様の姿で、高山良澄居士とあります。

 

 

墓地の整理前、2018年8月の、ご先祖様達の写真があります。

 

このお二方は、今回はおいででないようです。

信女・元禄の文字が見えるので、初代又は2代目の子供達かな?

 

右の方が2代目のご先祖です。

左の方は、今回見当たりません。

童子・童女の文字がみえるような

 

分家に出た初代ご先祖様、元禄3年(1684)からずっとここにおいでだったのに、まさか動かされてしまうなんて思ってなかったでしょう。

合掌

 

どうも、彼女・法屋性榮大姉がやってくる前、2代目の最初の妻とその子供達はなくなっていたようです。

彼女は、2代目の2番目の妻として、たぶん先妻の子などいない情況で、一家を背負うことになったのでしょう。

でも、夫は宝永三年(1706)死去してしまいます。

最初の妻が亡くなったのが元禄10年(1697)だから、2代目と法屋性榮大姉が連れ添ったのは10年足らず。

法屋性榮大姉の没年は元文5年(1740)です。

彼女は30年以上、後家の細腕で一家を切り盛りしていたことになります

時には実家の力を借り、本家の力を借り、後家の細腕で一家を切り盛りしていたのです

 

墓石に納得、深く敬意を込めて合掌です

 

 

ここは、新田郡粕川村の字本郷(ほんごう)です。

本家は、帰農するときに、最初にこの付近に屋敷を構えたのでしょう。

なんとなく本郷を走って、石田川を渡って帰ります

 

 

何だろう?

庚申塔がある野で、パワースポットだったかな?

 

まだ朱が残る石造物もあります。

手に何かを持ってる

薬師様?

あれ、左下に「富宇賀長左衛門」?

本家の系図によれは、初代の奥さんのは、「富宇賀長左衛門妹」とあります。

本郷をウロウロして、奇遇です

合掌

 

石田川を渡って帰ります

 

 

 

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