「人を殺してはいけないのか?」という問いに向かい合ったことがありますか。僕はつい最近まで考えたこともありませんでした。「殺人は悪いことだ」という漠然とした確信を持っており、ある意味思考停止状態にありました。幼児に対して「いけないものはいけない」と言い聞かすことは場面によっては必要なことと思いますが、それとほぼ同じ状態にあったのだと思います。もちろん大人になった分たくさんのしがらみもでてきたわけで、単純に子どものころとは比較できませんが。
よく考えてみると、「殺人は悪いことだ」と確信を持って言えるのは、「法律の中で」だけだということが分かります。新井英樹『ザ・ワールド・イズ・マイン』というマンガでそういうことに気付かされました。もちろんだからといって僕は人を殺すことはしません。今の精神状態のまま生きていけるとしたら。ほとんどの人は一生の間に殺人をすることはないでしょう。ただ、(自分のことを常人だと思い込んでいる僕らの側から見ての)狂人が、殺人を「なぜしてはいけないのか?」という問いを出したときに、僕たちは根源的な答えを提示することができないということです。法律をもって答えるか、宗教をもって答えるかくらいしかないでしょう。
哲学者であるふたり、永井均と小泉義之の対談&解説本『なぜ人を殺してはいけないのか?』を読みました。
その中で永井均が論じている理屈に僕は感銘を受けました。かなり複雑な思考回路を経るので解説はできませんが、結論に近い箇所に出てくる言葉を引用します。
「きみは何をしてもよい。人を殺してもよい、私を殺してもよい、そうであるからこそ、きみは殺されてはならない、だから私はきみを殺してはならない。」
「つまり私は、人を殺してはならないという社会規範を一般的には破壊することによってのみ、その社会規範を自らに受け入れることができる。」
但し書きしておきますが、これは結論ではありません。永井均にとって殺人は究極ではないようです。それは僕も同感です。
この本を読んで改めて『ザ・ワールド・イズ・マイン』を思い返したとき、前読んだときはそうでもなかったセリフが、頭に“ガン!”とぶちあたりました。次のようなセリフです。
「ザ・ワールド・イズ・ユアーズ」
よく考えてみると、「殺人は悪いことだ」と確信を持って言えるのは、「法律の中で」だけだということが分かります。新井英樹『ザ・ワールド・イズ・マイン』というマンガでそういうことに気付かされました。もちろんだからといって僕は人を殺すことはしません。今の精神状態のまま生きていけるとしたら。ほとんどの人は一生の間に殺人をすることはないでしょう。ただ、(自分のことを常人だと思い込んでいる僕らの側から見ての)狂人が、殺人を「なぜしてはいけないのか?」という問いを出したときに、僕たちは根源的な答えを提示することができないということです。法律をもって答えるか、宗教をもって答えるかくらいしかないでしょう。
哲学者であるふたり、永井均と小泉義之の対談&解説本『なぜ人を殺してはいけないのか?』を読みました。
その中で永井均が論じている理屈に僕は感銘を受けました。かなり複雑な思考回路を経るので解説はできませんが、結論に近い箇所に出てくる言葉を引用します。
「きみは何をしてもよい。人を殺してもよい、私を殺してもよい、そうであるからこそ、きみは殺されてはならない、だから私はきみを殺してはならない。」
「つまり私は、人を殺してはならないという社会規範を一般的には破壊することによってのみ、その社会規範を自らに受け入れることができる。」
但し書きしておきますが、これは結論ではありません。永井均にとって殺人は究極ではないようです。それは僕も同感です。
この本を読んで改めて『ザ・ワールド・イズ・マイン』を思い返したとき、前読んだときはそうでもなかったセリフが、頭に“ガン!”とぶちあたりました。次のようなセリフです。
「ザ・ワールド・イズ・ユアーズ」