関東大震災の瓦礫を埋め立てて出来上がったのが横浜の山下公園
此処は、横浜を代表する観光名所であり、また、此処を拠点にマリンタワー、中華街、
元町、そして外国人墓地などが徒歩圏内であり、いつも大勢の人で賑わっている
そして山下公園と言えば「氷川丸」
ちなみに、港湾人の隠語で「氷川丸」といえば“仕事ができない奴”を指す
つまり、岸壁に繋がれ、生涯“出港しない船”だけしか使えない!?ってーこと
さて、公園のやや西側に童謡「赤い靴の女の子」の銅像がある
この像を見た大多数が「ハマから赤い靴の女の子は旅立ったのか~」と思いに耽る
また、横浜には、画像の市営バスをはじめ、赤い靴に関連したものが溢れるように
存在しており、あのような「どんでん返し」を誰しも予想などしていない
たまたまオイラが北海道に赴任し、行く先々で「赤い靴をはいた女の子」と遭遇!!!
詳しく調べてみた結果、このような結末を知ることになった
さらに調べてみたら、赤い靴の女の子の生涯が分かったのはこの歌が作られたずっと後で、
昭和53年(1978年)のこと。北海道のあるテレビ局が、この歌の由来を追いかけているうちに
判ったそうだ・・・
昭和48年(1973年)、北海道新聞社にある投書が届く
投書したのは「赤い靴の女の子・きみ」の義理の妹だった
彼女は、「きみ」が宣教師にあずけられた後に、志郎とかよの間にできた
つまり、「きみ」の妹ということになる
妹の投書には、自分が生まれる前、異人さんに連れられて行った姉の「きみ」の消息が
なんとしても知りたい!ということ。また、もし姉が元気で生きているのなら、会いたい!
そう書かれていた・・・
この記事がきっかけとなり、北海道テレビのスタッフは執念をもって、「きみ」の消息を
追いかける。「きみ」が転々とした日本の各地、はてはアメリカまで・・・
そしてついに真相がわかり、昭和53年(1978年)テレビで真相が伝えられた・・
赤い靴の「きみちゃん」は、現在、東京 六本木・鳥居坂教会の共同墓地に眠っている
その縁もあり、この鳥居坂教会の近く、麻布十番に「きみちゃんの像」が建てられた
平成元年のことだそうだ
この像の台座は募金箱になっており、その浄財は世界の恵まれない子にユニセフ等通じて
寄付されているという・・・
さて、最終回にあたり、こんなことを想像してみた・・・
北海道の母「かよ」は、死ぬまで自分の娘「きみ」は、宣教師夫妻と一緒に元気で暮らして
いるものと信じていただろう・・・
だからこそ「きみ」の妹さんは母の背中をみてきたから、ずっと後に、投稿記事で姉の
「きみちゃん」に会いたいと書く・・・
また、作詞した野口雨情も「きみちゃん」の真実を知っていれば、童謡「赤い靴」は、
この世にでることはなかっただろう・・・