濱の与太郎

祭り!ベイスターズ!なにより、ヨコハマが大好きだぁ~

縁は異なもの味なもの

2016年02月17日 | ひとりごと・・

これから公開されるエヴェレスト 神々の山嶺(いただき)
まだ見ていない作品を持ち上げるのはどうか?とも思うが、この作品は日本映画を
代表する一作であり、人々の記憶に残る名作となるだろう

先にも書いたが、プロデューサーの井上文雄氏
彼とは、40年来の親交があり、浅草の三社祭でともに神輿を担いでいる仲間のひとりだ
また、後に、本作品の脚本家!加藤正人氏は、オイラの幼馴染と親交があることがわかった

そして、NHKの演出家である梶原登城さん
彼との出会いも浅草だった。2003年、連続テレビ小説『こころ』を演出するにあたり、
主演の中越典子ちゃんと色川を訪れ、下町のうなぎやの娘としての役作りに励んでいた

色川の大将から元キャンディーズのらんちゃんが来るぞっ!!との知らせを受け、
そこで出会ったのが登城さんと典ちゃんだった
結局、典ちゃんの母親役をするらんちゃんには会えなかった・・・

また、紹介された典ちゃんもタレントのタマゴから朝ドラの主演に大抜擢されたばかり!
ほぼ知名度はなく、まったく素の状態。それでも彼女は礼儀正しく、頭のいい子で、
売れっ子になってもそれは変わることがなかった

一方、登城さんも活躍も素晴らしく、最近では、ヒット作品を連発!!
『龍馬伝』『あまちゃん』『マッサン』を手がけ、現在放送中の木曜時代劇『ちかえもん』、
この作品も登城さんが演出をしている

タイトルの「縁は異なもの味なもの」とあるが、近ごろは、男女の縁に関するもの!として
男女が、どこでどう結ばれるかはわからず、縁とは非常に不思議でおもしろいものだ・・・
ということになっているが、本来は、理屈では説明できない縁があるということだ

ただ、どちらも色川の大将がいたからこそ出逢いがあったわけで、
縁とは、結果として何かを生じさせる元となるものであり、人と人との繋がり・・・
そのきっかけをつくってくれた大将には本当に感謝している

しかし、考えてみれば、オイラだけではなく、他にも色川の若い衆が多くいるわけで、
大将は、オイラだけにこうしたチャンスを与えてくれた!ってーことがありがたい!!



早いもんで来月は大将の3回忌
菩提寺で法要が行われるけど、本当に逝ってしまったんだろうか?
いまだに大将にシメられないよう!?オイラは“まっつぐ!”生きている・・・つもりだ

ところで、
先に書いた「芝の若松屋さん(東京港醸造)」
NHK朝の連続テレビ小説「あさが来た」でディーン・フジオカ(福島出身!)演じる
“五代さま”こと五代友厚が先月放送分で最期を迎え、一部では、“五代ロス”!!
そう報じられていた

考えてみれば五代さんも薩摩藩士、もしかしたら若松屋さんを訪れていたに違いない!!
これも縁・・・


もうひとつの「あさが来た」

2016年02月17日 | ひとりごと・・

やがて維新の世となり「若松屋」も新時代を迎えるが・・・
それは、波乱万丈の幕開けとなる。明治12年に幕末の若松屋を支えた二代目の茂七が没し、
三代目を継いだ長男茂吉もその五年後に若くして亡くなってしまう

この時、一人残されたのが三代目茂吉の妻・しも
しもは幕末期、大奥に勤めていた人物で、天璋院篤姫のすすめで若松屋へと嫁いだという
なお、13代将軍徳川家定御台所となった「篤姫」については大河ドラマでご承知の通り

維新後、篤姫は、薩摩藩に戻ることをかたくなに断り続ける
それは、徳川家たちの養育を生き甲斐に、断固、徳川の女として生き、かつて大奥で
働いていた女性たちの就職先の面倒なども見ていたからだ

先の、三代目茂七の妻しもも、篤姫の推薦によって薩摩藩との関係から信頼のおける
若松屋へと嫁いで来たというわけだ

残されたしもは、初代・齊藤重三郎の親戚を夫婦養子に迎え入れ、若松屋の継続に尽力する
そして、四代目となった茂吉は「東京酒造組合」を設立し初代組合頭首に就任する
しかし、一方で随分な道楽者でもあったらしく、若松屋の経営はもっぱら、しもの細腕に
任せられていたという

まさに「九転十起」、NHK朝ドラ「あさが来た」のヒロインのモデルとなった女性実業家、
広岡浅子とオーバーラップする!その“しも”であるが、さすがに幕末の大奥を生きた女性、
その手腕は優れた物で、若松屋の経営も何とか続けてきた

ところが、明治41年、しもが61才で他界し、その一年後には四代目茂吉も亡くなる
ついに若松屋は娘のツル一人となってしまい、明治43年、とうとう若松屋は酒蔵業を
廃業するに至った・・・

酒造業の幕を下した若松屋は、その後、ツルが長野の親戚より婿養子を迎え入れ、
食堂として経営が続けられ、戦後は、雑貨業を生業に、その経営を続けてこられた
そして、約100年ぶりに酒造としての若松屋の再興を果たしたのが東京港醸造だ!!



西郷、三舟に坂本龍馬、水野忠邦と篤姫・・・
江戸、そして幕末から明治にかけての多くの歴史上の偉人と関係があった若松屋
これほどの「造り酒屋」は聞いたことも見たこともない!!

歴史のうえで名を遺した・・・というのはほんの一握りにすぎない
表舞台にはけして登場しない数知れない人がいたからこそ“偉業”は達成される
若松屋こそ、日本の夜明け!江戸城無血開城に至ったその地なのかもしれない

そして、しもさんのDNAを受け継ぎ、齊藤重三郎から7代目、8代目に当たるご当主
彼らこそ本当の江戸っ子かもしれない!家業を再興させようとする心意気!
さぞご先祖様も喜んでおられるはず

さて、「江戸時代の侍」そして、「明治維新の人材不足」に関する逸話がある
ある老婆は江戸幕末期の侍の姿を回想して、
「そりゃ、侍は全然わしらと違って雨が降っても走らないし、辻角を曲がるときも、
前を見据えて直角に曲がる」・・・というようなことを話している
つまり、侍は侍としての威厳を保たねばならない!それが侍をつくる!!ということだ

一方では、幕末維新が終わり、日本は新政府の体制作りに懸命だった
中央、地方で行政組織を‘突貫工事’で整えねばならない!ところが人材がいない!
ときには、無名の人物でも行政の要職に登用されたそうだ

ところが、その登用方法に疑問符が付く人物もでてくる
新政府の今でいうところの人事担当者は大久保利通だった
その大久保に対して「候補者Aはどうにも役職に相応しい威厳がない」と困り顔で相談

すると、大久保は「そのものを体裁の良い馬車にでも乗せて、東京の街中を一日回らせる
そうすれば自然と威厳などつくものだ」と答えたそうだ



近ごろは、馬車に乗って威厳だけついたが、まったく中身のない連中ばかりが多い
日本をよくするためには、若松屋さんのように、性根の座った本当の侍が必要だ
・・・・この項「おわり」

幕末の三舟と芝

2016年02月17日 | ひとりごと・・

明確なことは覚えてないが、過去、どこかの美術館、若しくは資料館で見たことがある
幕末の三舟といわれる賢人たちが遺した書を・・・

その三舟の書がこれだ
右から、
・勝海舟 花気渾(まじ)りて百花の如く香し 海舟散人  
・山岡鉄舟 芳草匂い碧雲乱る 鉄舟高歩書  
・高橋泥舟 進退優遊敬恭を守る 泥舟居士書

勝海舟は言わずとも知れた幕末・明治の幕臣であり政治家だ
幕府では軍艦奉行、維新後は新政府の海軍大輔・参議兼海軍卿・枢密顧問官となる

山岡鉄舟、通称は鉄太郎。あの!千葉周作の門下生であり、のち無刀流を開く
高橋泥舟は義兄であり、泥舟らと江戸治安維持にあたった
維新後は明治天皇の養育係となり、いまでいえば静岡県知事、茨城県知事を歴任した

高橋泥舟は槍の達人!若くして幕府の講武所の槍術教授となる
江戸城炎上の際、幽閉の身を犯して主君徳川慶喜公を警護したことは有名な話
勝海舟、山岡鉄舟とはかり、江戸城無血開城に尽力した
晩年、隠居の身の慶喜公と共に過ごし、世に出ざるの誓いをたて「泥舟」とした

オイラ、三舟のなかでも勝海舟の江戸っ子気質が大好きで、海舟語録を読んでいると、
つい!最後の江戸っ子といわれた雷門の大将(色川)と重なってしまう!!
如何にも海舟!ってーやつを幾つかを紹介しよう!今に通じるものばかりだ

・自分の価値は自分で決めることさ
つらくて貧乏でも自分で自分を殺すことだけはしちゃいけねぇよ
・どうも、大抵の物事は(外部からではなく)内より破れますよ
・やるだけのことはやって、後のことは心の中でそっと心配しておれば良いではないか
どうせなるようにしかならないよ!
・世の中に無神経ほど強いものはない

さて、マクラが長くなってしまったが、三舟に至ったのは、1通のメールからだった
差出人はいつもお世話になっている横浜のyasuさんだ
内容は、「芝の東京港醸造って知ってますか?」というもの

残念ながら存じ上げず、少しずつ調べていくと誠に興味深い話が次から次へと出てくる
こりゃ~歴史が刻まれたとんでもない酒蔵!!じゃん!!
そして、扉を開けるとその奥深くまで引き込まれていった・・・・

さて、「東京港醸造」をネットで検索、東京都港区芝にある造り酒屋さんであること
オイラの会社からも近く、歩いて行ける距離であること
しかし、申し訳ないけど、その存在はまったく知らなかった・・・・

とにかく、港区芝といえば都心のど真ん中!そこに造り酒屋があるとは驚いた!
しかも、単純に古くからある酒屋さんということではなかった!!
江戸、幕末にかけて「江戸城無血開城」とも関連のある酒屋さん!!
本当にたまげたね!!

その歴史は今から約200年前まで遡る
当時、芝近辺には、薩摩藩の上屋敷や蔵屋敷などが立ち並び、さらに以前にもブログで
紹介した「芝浜の魚市場」もあり、界隈は非常に活気に満ち溢れていた

この地に、訳あって、信州飯田藩の御用商であった「若松屋」の次男“林金三郎”は、
酒造りに通じた“齊藤重三郎”と連れ立って、江戸に居を移し、飯田藩主堀家の
下屋敷がある芝の地で造り酒屋「若松屋」を開業したのが「東京港醸造」の原点

東京港醸造の原点となった若松屋は、文化9年から、廃業となる明治42年まで続く
そして、それから100年後の平成23年、齊藤重三郎から7代目、8代目に当たる
親子さんが、酒造業の復活をめざし製造免許を取得!「東京港醸造」を再開させた



特に、創業当時からご近所である薩摩藩とは繋がりが強かったと伝えられている
若松屋では、勝海舟や西郷隆盛をはじめ、歴史上数多くの偉人が奥座敷を訪れては、
此処で“密談”が行われていたと推測される

奥座敷を利用したのは西郷隆盛の他、勝海舟や山岡鉄舟、高橋泥舟、それに坂本龍馬!
幕末史を彩る蒼々たる面々の名が伝えられているが、その理由は、
若松屋には、特別な要人を接待するための特別な奥座敷が設けられていたからだ



この奥座敷の裏側には寺院と墓地があり、その先が江戸湾に注ぎ入れる堀だった
つまり、緊急時の逃亡口として非常に最適な立地にあったからだと云われている
なるほど!かの!西郷隆盛も寝泊りした・・というのはこういうことだったのか!

さて、創業当時の「若松屋」であるが、酒蔵知識を持つ齊藤重三郎によってかなり
順調な滑り出しだったそうだ。さらに、ときの老中であり、天保の改革を実行した水野忠邦、
彼を支えたことで知られる十三代・後藤三右衛門は「若松屋」林金三郎の実の弟!

薩摩藩、そして、後藤家を通じて大藩の御用などを務めるようになった「若松屋」、
その繁盛ぶりはかなりのもんだっただろうね!
ところが、天保の改革の失敗で失脚した水野氏、これに連座して「若松屋」には
次々と不幸な出来事が相次ぐ・・・・つづく