さんぽみちプロジェクト

さんぽみちプロジェクトの記録。
和歌山新報で日曜日一面に連載中の「WAKAYAMA NEWS HARBOR」と連携。

「白浜」ブランドを高め合う 伊豆の「白浜海岸」②

2014-04-27 13:37:07 | WAKAYAMA NEWS HARBOR

前号より、白浜町の「白良浜」とうり二つである下田市の「白浜海岸」について紹介している。
白浜」という地名は全国に複数あるが横のつながりなどはないのか。
伊豆白浜観光協会を訪ねた。


白浜海岸の「白浜大浜海水浴場」の南端に、伊豆白浜観光協会がある。

【写真】南国を思わせる伊豆白浜観光協会(下田市)


砂浜やソテツの木とマッチした建物と、屋根に付いた看板が印象的だ。
観光協会のスタッフの方に尋ねると以前は「白浜」という地名が付く全国の自治体や観光協会の関係者らが集まる催し(白浜サミット)が開かれ交流があった。
現在、定期的な催しはないが、白浜=綺麗な砂浜というイメージを発信し続けられるよう整備に尽力されているという。

白良浜白浜中央海水浴場は共に環境省の「快水(かいすい)浴場百選」に選ばれている。
年間利用者数に加え、水質や自然景観、環境への配慮や取り組み、安全性、利便性、海と人のかかわりが5段階で評価され選定。
白浜つながりでいえば三重県の御座白浜海水浴場も百選の一つとなっている。
和歌山県内では白良浜の他に、浪早ビーチ(和歌山市)、片男波海水浴場(和歌山市)、橋杭海水浴場(串本町)、那智海水浴場(那智勝浦町)が選ばれており、片男波海水浴場那智海水浴場は特に優れた12箇所の水浴場にランクインし特選に選定されている。

白浜」という地名のつながりから、同じブランド名を持つ地域同士が互いに意識し合いその価値を維持・向上させようという強い思いに気づかされると同時に、改めて和歌山の海の魅力を強く感じさせられた。
白良浜の海開きはまもなく。
和歌山県は本州最速で夏のシーズンを迎える。

(次田尚弘/静岡)

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白良浜と瓜二つ 伊豆の「白浜海岸」

2014-04-20 13:30:04 | WAKAYAMA NEWS HARBOR

まもなくゴールデンウィークの到来。
白浜町の白良浜は5月3日(祝)本州で最も早く海開きし、賑やかなシーズンを迎える。

伊豆半島の南東部に位置する下田市に、白良浜にそっくりなビーチ「白浜海岸」がある。

【写真】「白浜海岸」の標識と「白浜大浜海水浴場」(下田市)


この地域は「伊豆白浜」と呼ばれ、夏のシーズンには東京や神奈川から大勢の海水浴客で賑う。
最寄の伊豆急下田駅まで東京駅から特急列車で約2時間40分。
さらに伊豆急下田駅から路線バスで約10分の立地。
白良浜ほどではないが、周囲には民宿やリゾートホテルが建ち並ぶ。

白浜海岸の南側に位置する「白浜大浜海水浴場」は白良浜より少し広めの延長800メートル。
何より砂が真っ白でサラサラ。筆者が訪れた3月下旬では冬の季節風で白砂が飛ばされないよう設置された砂防ネットがあり、これもまた白良浜と同様。
春休みの親子連れやサーファーが見られ、夏の到来を待ちわびているようだった。
海開きは標準的な7月中旬だが、ゴールデンウィークから9月中旬まで泳げるという。

白浜」という地名は全国各地にあり、同時に白浜海岸も複数存在する。
例えば三重県伊勢市御座白浜海水浴場をご存知の方がいるかもしれない。
他にも北海道羽幌(はぼろ)町、青森県八戸市、千葉県南房総市、兵庫県姫路市にもあり、それぞれ海水浴や潮干狩りを楽しめるスポットだ。

全国に複数存在する「白浜」であるが、横の繋がりなどは無いのだろうか。
伊豆白浜観光協会を訪ねてみた。次号に続く。

(次田尚弘/静岡)

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歴史的価値を後世に受け継ぐ 静岡・松崎町「なまこ壁通り」

2014-04-13 13:30:00 | WAKAYAMA NEWS HARBOR

前号では紀伊田辺城と関係があった掛川城と城下町を紹介した。
城下町の武家屋敷といえば「連子窓」や「なまこ壁」が採用され、例えば和歌山市吹上に現存する長屋門からは、かつての城下町の街並みを連想できる。
しかし、災害や戦災、経年劣化を免れ現存する歴史的価値のある建造物は希少となってきた。

なまこ壁」を地域資源と捉え、保全・修復を行い技術の継承と観光資源化に取り組む町がある。
静岡県賀茂郡松崎町。三島市から南へ約70キロ、伊豆半島南西部の沿岸に位置し人口約7千人。
テレビドラマ「世界の中心で、愛をさけぶ」のロケ地にもなった長閑な町だ。

街の中心部、なまこ壁の建造物が立ち並ぶエリアは「なまこ壁通り」と呼ばれ、多くの観光客がカメラを向ける。
観光協会のスタッフに聞くと、これらの建造物が建てられたのは明治の後期から大正にかけて。
季節風が非常に強いという地形から、火災や潮風から建造物を守ろうと採用されたが、昭和30年頃から減少していったという。

【写真】松崎町の「なまこ壁通り」


平成8年、なまこ壁の街並みの消滅を危惧した町が「なまこ壁伝承事業」を立ち上げた。
平成16年には町民や左官職人がボランティア団体を形成し、なまこ壁の修繕や研修会、蔵巡りなどを、自治体と町民が協力し積極的に活動。
丹念に整備された景観から地域の文化や伝統を大切に受け継ごうという町民の方々の思いが伝わってきた。

歴史的価値のあるものを後世に受け継ぐことの意義は誰もが理解しているであろうが、実用性や維持費、資産運用の観点からそれらを維持することの難しさは永遠の課題。
文化財や伝統工芸に指定し保護することも方法であるが、同時に地域の人々が歴史的背景や価値を知り、協力して維持することで地域の資源が輝く姿を、松崎町で見た。

(次田尚弘/静岡)

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紀伊田辺藩主の元居城 木造復元天守 掛川城

2014-04-06 13:31:05 | WAKAYAMA NEWS HARBOR

静岡県掛川市。ここに、初代・紀伊田辺藩主であった安藤直次(あんどうなおつぐ)が治めた、遠江国掛川城がある。

 
【写真】復元された掛川城天守

安藤直次(1555-1635)は家康の側近として初期の幕政を取り仕切った。 徳川頼宣付の家老に任ぜられ、駿河国の政権への参画や、大坂の陣においては年少であった頼宣に代わって軍を率いるなど徳川家と深い関係にあり、1600年から1616年まで幕府老中を務めている。 1617年に遠江国掛川城主となり、1619年、頼宣紀伊国和歌山城に移る際、紀州藩附家老として掛川を後にし、紀伊国田辺城と3万8千石の所領を与えられるなど、頼宣から厚い信任を受けたという。 その後、安藤家は明治維新を迎えるまで18代に渡り、紀伊国田辺藩を治めた。

掛川城は、1854年の安政東海地震で天守を含む建物の大半が倒壊。天守は再建されずにいた。 平成になった1994年、掛川市在住の個人や企業の寄付を通じ再建。秋田県産のヒバを用いた日本初の木造復元天守で、当時の図面を使い、材料や工法に沿い忠実に復元されている。 一般開放されており筆者も訪れた。木造の味わいがあり、急な階段が歴史の重みを感じさせた。

周辺の市街地では景観への配慮による電柱の地中化整備など、天守の再建を機に城下町としての観光資源化も進む。奇遇にも、かつて紀伊国田辺城があったとされる田辺市上屋敷周辺の県道210号や29号でも同様の整備がされており、街の雰囲気が掛川と酷似しているように思えてならない。 安藤直次によるまちづくりの共通点が、掛川田辺にあるのかもしれない。

(次田尚弘/静岡)

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