さんぽみちプロジェクト

さんぽみちプロジェクトの記録。
和歌山新報で日曜日一面に連載中の「WAKAYAMA NEWS HARBOR」と連携。

「小豆餅と銭取」 450年語り継がれる物語

2017-04-23 17:19:22 | WAKAYAMA NEWS HARBOR
前号では「三方ヶ原の合戦」から浜松城への敗走中、空腹を覚えた家康が立ち寄った餅屋に由来する「小豆餅」という町名について取り上げた。
町名になるほど語り継がれるのにはわけがある。餅屋の店主であった老婆の行動がそれを物語る。
今週は地域で語り継がれる物語を紹介したい。

時は「三方ヶ原の合戦」が終わった直後。武田軍の追手が迫り、食べかけた小豆餅を置いて代金を払わず馬に乗り逃げ去った家康。様子を察した店主は代金を貰うことを諦めるであろうが、この餅屋の老婆は違った。いかなる場合でも代金を貰おうと逃げた家康を追ったという。

逃げた家康を老婆が発見したのは、餅屋から南へ約2㎞の地点だった。すかさず老婆は家康から銭を受け取ったという。
まさにその場所が「銭取(ぜにとり)」という名で現在も呼ばれている。小字としての地名であったが住居表示に伴い「小豆餅」のような町名こそ残ってはいないが、現在もバス停の名称として存在している。


【写真】バス停の名称として残る「銭取」

地元の観光ボランティアによると「実話ではないかもしれないがロマンのある話」という。
実際のところ合戦の最中に餅屋が営業することは考えづらく(地域の人々は身を隠すか合戦に動員されていた)、合戦の死者を弔うため小豆餅が供えられたことから「小豆餅」、たびたび山賊が現れ銭を取られたことから「銭取」として町名や小字として残ったのではという説もあるらしい。

実際のところはわからないが、合戦の歴史を伝えるエピソードとして作られた物語が「小豆餅と銭取」として、450年もの年月をかけ今なお語り継がれていることは事実。地域の人々の家康への思いの強さを感じた。

(次田尚弘/浜松市)

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三方ヶ原の合戦に由来 町名に残る「小豆餅」

2017-04-16 23:01:59 | WAKAYAMA NEWS HARBOR
前号では、家康の人生観を変えたとされる「三方ヶ原の合戦」の詳細と古戦場の石碑について取り上げた。
武田軍の追手が迫る中、命からがら浜松城へと逃げた家康の足取りを追っていきたい。
今週は合戦にまつわる地名を紹介したい。

古戦場の石碑から南東へ約5キロ。浜松城とのほぼ中間地点に「浜松市中区小豆餅(あずきもち)」という町名がある。小豆餅は三方原台地の中央部に位置する。


【写真】幹線道路に面した「小豆餅バス停」

三方原台地は近くを流れる天竜川の扇状地が隆起してできた東西10㎞、南北15㎞の台地で標高は25mから100mほどで坂が多い地域。

かつて付近にあった3つの村が共同で燃料や肥料になる草の採集に利用していた入会地(いりあいち)であったことから「三方の村のための原」という意から「三方原」という地名になったとされる。

明治に入りお茶の栽培が盛んとなり、軽便鉄道が開通(昭和39年に廃線)、航空自衛隊浜松基地(浜松飛行場)が作られ、現在は基地の周囲に住宅地が広がり、静岡大学浜松キャンパスが建つ。
では、ここになぜ小豆餅という町名が付いたのか。

時は「三方ヶ原の合戦」。合戦に敗れ浜松城へと敗走する家康の、とある行動がその名の由来とされる。
家康がここに差し掛かった際、空腹を覚えたという。たまらず近くにあった餅屋で小豆餅を注文し空腹を満たしていた際、武田軍の追手が目前に現れた。慌てた家康は代金を払わずすぐさま馬に乗り、浜松城の方へと逃げ去ったという。

小豆餅屋があったことが地名の由来といわれるが、町名になるほど語り継がれるインパクトのある逸話が続く。
それはこの餅屋の店主であった老婆の驚くべき行動である。次週に続く。

(次田尚弘/浜松市)
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家康公の人生観を変える 「三方ヶ原の合戦」の軌跡

2017-04-09 21:24:46 | WAKAYAMA NEWS HARBOR
前号では「三方ヶ原の合戦」で敗退を期した家康が命からがら浜松城へ戻り、解いた鎧を掛け一息ついたと伝わる「鎧掛松」と合戦の概要を取り上げた。今週から合戦の軌跡を紹介したい。

合戦の発端については前号で紹介の通りであるが、元亀3年(1572年)12月22日の午後4時頃、武田信玄が率いる2万5千の軍勢と、家臣の反対を押し切り武田軍の策略にはまった徳川家康率いる1万1千の軍勢(徳川軍8千、織田の援軍3千)が、現在の浜松市北区の三方ヶ原台地で衝突。

ピラミッド型に兵を配置し大将を背後に据える「魚鱗(ぎょりん)」という武田軍の陣形に対し、前方へ兵を張り出すV字型で大将を中心に据え敵を囲い込む「鶴翼(かくよく)」という陣形で戦いを挑んだ徳川軍であったが、敵の勢力と戦法の誤りにより2時間余りで総崩れとなり浜松城へ退却することとなった。
時は真冬の夕刻で、浜松では珍しい雪が降っていたという。

この合戦で家康の家臣の多くが命を落としている。
先に武田軍により攻められ開城を余儀なくされた二俣城主の中根氏や青木氏は屈辱を果たそうと奮闘するも叶わず。
味方の敗戦が濃厚であることを浜松城の櫓から確認し、戦場へ赴き家康に早期退却を進言するも受け入れられず、家康を逃がすため自ら武田軍へ突撃し身代わりとなり討ち死にした夏目氏など、大きな痛手となった。

現在、合戦跡には「古戦場」と記された石碑が建てられ「家康公ゆかりの地」として紹介されている。


【写真】古戦場の石碑

戦場から浜松城までの距離は直線で約10キロ。武田軍の追手が迫るなか城へ辿り着くことは容易ではなかった。
家康の足取りを追うと、様々な言い伝えやそれに由来する地名が見えてきた。

(次田尚弘/浜松市)
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憔悴した家康公を癒す 浜松城に根差す「鎧掛松」

2017-04-02 13:31:15 | WAKAYAMA NEWS HARBOR
前号では家康による浜松城築城の歴史と背景を取り上げた。今週は浜松城の程近くにある「家康公鎧掛松(よろいかけまつ)」を紹介したい。


【写真】「家康公鎧掛松」(左奥に浜松城を望む)

家康公鎧掛松は元亀3年(1572年)「三方ヶ原の合戦」で敗退を期した家康が命からがら浜松城へ戻り、解いた鎧を掛け一息ついたと伝わる松の大木。

もとは浜松城内の堀のそばにあったとされ、現在の松は三代目。初代は大正4年(1915年)に台風で枝が折れたことで松枯れを起こし、二代目として植えられた松は空襲により焼失。三代目は城近くの住民らにより植樹されたもの。

当時の鎧掛松の近くには清水が沸いており、合戦で疲れた馬の体を冷やしたことから「馬冷(うまびやし)」といわれ、城の南東部に地名として残っている。
敵方に追われようやく城内に辿り着いた家康と、荒い息遣いの馬の姿が目に浮かぶ。

三方ヶ原の合戦は家康の人生観を変えるほど心理的な苦痛を強いられた戦いとされ、城へ逃げ帰り憔悴した自らの姿を絵に書かせ、この合戦での敗北を慢心の自戒として生涯座右を離さなかったという、通称「しかみ像」(徳川美術館所蔵、三方ヶ原戦没画像)をご覧になられたことがある方もおられるだろう。

そもそも、三方ヶ原の合戦は浜松市北区の三方ヶ原付近で起きた武田信玄と家康による戦い。
合戦前、二俣城(浜松市天竜区)を武田軍に落とされた家康は、織田信長からの援軍と共に浜松城に籠城。
浜松城が次なる標的であると考えた家康であったが、城を横目に西へと向かう武田軍に焦りを感じ出陣を決意。
武田軍の戦略にはまり、徳川と織田の連合軍は僅か2時間で敗退を期すこととなり、ここから浜松城への帰還を目指す家康の苦闘が始まる。

(次田尚弘/浜松市)
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