さんぽみちプロジェクト

さんぽみちプロジェクトの記録。
和歌山新報で日曜日一面に連載中の「WAKAYAMA NEWS HARBOR」と連携。

「水戸学」に触れる 歴代藩主の足跡を辿るコース

2019-11-17 19:03:08 | WAKAYAMA NEWS HARBOR
前号では、徳川光圀が講談や歌舞伎、テレビドラマの主人公「水戸黄門」として描かれた背景について、修史事業を目的に作られた「彰学考」の史館員の活躍と共に取り上げた。

光圀の修史事業を通し代々受け継がれた学問は「水戸学」といわれ、藩政に限らず幕政にまで影響を与えた。
水戸市は明治維新150周年を記念し、水戸城跡周辺地区の道路を「水戸学の道」として整備。
今週は、道路整備を通じた地域と観光振興の取り組みを紹介したい。


【写真】水戸学の道

水戸学の道は平成30年1月、水戸城周辺地区の新たな道路に付けられた愛称名。
道路は赤褐色にペイントされ、両側に広い歩道を設置し電線等を地中化。
二の丸付近では新たに作られた白壁塀が城下の面影を感じさせてくれる。

整備が進む水戸城周辺を観光で訪れる人に限らず、地域の魅力の再発見を後押しする取り組みとして、水戸市や観光協会、商工会議所やJRで構成する協議会が散策マップを整備。

光圀の足跡として杉山門や大手門を辿る「光圀ルート」に加え、水戸藩9代藩主で尊王攘夷論を示し、水戸では偕楽園や弘道館を整備した徳川斉昭(なりあき)に関する「斉昭ルート」、15代将軍で知られ大政奉還を行った徳川慶喜に関する「慶喜(将軍)ルート」の3ルートを設定。

いずれも、前号で紹介の「水戸黄門助さん格さん像(水戸駅前)」を起点とする、2㎞~3.3㎞、約1~2時間で周遊できるコース。

後に、明治維新や近代の日本の形成につながる水戸学に触れられる、学びと観光の道。ぜひ訪れてみては。

(次田尚弘/水戸市)
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「水戸黄門」の由縁 光圀と史館員の関係と歴史

2019-11-10 22:25:50 | WAKAYAMA NEWS HARBOR
前号では徳川光圀が行った修史事業である「大日本史」の編さんについて取り上げた。
古典研究をはじめ、様々なことに好奇心旺盛であった光圀は、日本各地に藩士を派遣し調査や研究を行ったとされる。
今週は、光圀が講談や歌舞伎、ドラマの主人公「水戸黄門」として描かれた背景を紹介したい。

修史事業を目的に設けられた「彰考館」の史館員で、光圀の側近として知られる儒学者「佐々宗淳(さっさむねきよ)」は幼名の島介に因んでか、通称・介三郎(すけさぶろう)と呼ばれ、水戸黄門で光圀の傍に仕える、佐々木助三郎(助さん)のモデルとなった人物とされる。

助さんと同じく光圀に仕える、渥美格之進(格さん)のモデルとなったのは、同じく彰考館の史館員で佐々宗淳の同僚である「安積澹泊(あさかたんぱく)」。
佐々宗淳は、「友人として、おおらかで正直、細かいことにこだわらない、よく酒を飲む人」などと安積澹泊を称しており、光圀を取り巻く両者の関係がよくわかる。

各地を歴訪した史館員であるが、実際のところ光圀が各地を巡ったという記録はなく、旅した範囲は、日光や鎌倉、金沢八景、房総など、関東周辺の範囲に限られている。

しかし、新しいもの好きの性格から、餃子、チーズ、牛乳酒、黒納豆などの外来品を日本で初めて食べたという記録や、オランダ製の靴下の着用、インコの飼育など、未知のものを取り入れるという積極性が際立ち、更に、五代将軍・徳川綱吉が出した「生類憐みの令」を無視するなど、将軍に物申せる存在であったという。

史館員の各地歴訪と光圀の際立った行動の数々が、水戸黄門という物語を生み出し、庶民に慕われる存在となったのだろう。

(次田尚弘/水戸市)


【写真】水戸駅前に建つ銅像
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藩主としての行動指針に 光圀の修史事業「大日本史」

2019-11-03 13:50:53 | WAKAYAMA NEWS HARBOR
前号では水戸藩2代藩主・徳川光圀の城閣整備のなかで、紀州から「熊野杉」を取り寄せ、城内に植樹したという歴史を取り上げた。

水戸徳川家としての成り立ちを確固たるものにした光圀の事業として知られる「大日本史」と呼ばれる歴史書の編さんは、光圀の没後も、二百数十年に渡り継続して行われるほどの一大事業。
今週は、大日本史にかけた光圀の思いを紹介したい。

大日本史は、初代天皇である神武天皇から、100代天皇である後小松天皇(ごこまつてんのう)までの百代に及ぶ天皇の治世を扱った歴史書。
全397巻226冊で構成され、明治39年(1906年)水戸藩10代藩主・徳川慶篤の孫にあたる徳川圀順が完成させた。

これらの修史事業の契機は、光圀が18歳の時に読んだ中国の歴史書「史記」に感動し、日本の史書を編さんしたいと考えるようになったとされ、歴史を振り返ることで、直面する課題を解決するための行動指針にしたいという考えがあったという。

明暦3年(1657年)光圀は修史事業のための史局を、江戸の駒込邸の一部に開設。藩主就任後は事業が本格化し史局を小石川邸に移し「彰考館(しょうこうかん)」と名付けた。
元禄3年(1683年)、光圀が隠居した後は、主な史局員を水戸城内へ移転させ「水戸彰考館」を立ち上げた。

光圀の死後、正徳5年(1715年)本記・列伝の完成をもち、修史事業は完了(最終的には明治まで続く)とされ、3代水戸藩主の徳川綱條(つなえだ)が「大日本史」の名を定めた。

これらの活動は水戸藩の政治思想「水戸学」の基礎となる学問として明治まで続き、政治を執る者の行動指針を作ろうと企画した光圀の思いが後世に受け継がれるものとなった。

(次田尚弘/水戸市)


【写真】「水戸彰考館跡」に建てられた石碑

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