さんぽみちプロジェクト

さんぽみちプロジェクトの記録。
和歌山新報で日曜日一面に連載中の「WAKAYAMA NEWS HARBOR」と連携。

徳川家代々の祈願所 家康が身を隠した「雲立の楠」

2017-05-28 13:32:56 | WAKAYAMA NEWS HARBOR
前号では、犀が崖古戦場における戦没者のたたりを鎮めようと始まった伝統芸能で、浜松市の無形民俗文化財に指定されている「遠州大念仏」を取り上げた。
三方ヶ原の合戦で敗退をきした夜、夜営する武田軍を攻めた家康であるが、その行動にはひとつのきっかけがあった。
それは浜松城を目前に身を隠した「浜松八幡宮」にある。今週はここで起きた「雲立の楠(くもだちのくすのき)」という出来事を紹介したい。

浜松八幡宮は浜松城の北東約1キロに位置する。源頼家が東征祈願をしたという由緒があり、元亀元年(1570年)に家康が浜松に居城を移してからは城の鬼門鎮守の氏神として武運長久を祈ったという。
境内には楠の巨木があり、三方ヶ原の合戦で敗れ城へ敗走する家康がこの楠の幹に空いた洞穴(どうけつ)に身を隠し、武田軍の追手から逃れたとされる。
洞穴の中で武運を祈った家康は、楠の上部に、めでたいことの前兆として現れるとされる瑞雲(ずいうん)が立ち昇り、神霊が白馬に跨って城の方へと飛び立つ姿を見たという。
そこで、敗走中であるがこの戦いに利があるはずだと確信した家康は城内へと逃れ、犀が崖で夜営する武田軍の襲撃を決意したという。
以降、家康はここを徳川家代々の祈願所と定め、旗や弓を奉納し武運を祈願したとされる。


【写真】八幡宮の境内にある「雲立の楠」

境内には現在も幹回りが13メートル程、高さが15メートル程で、樹齢1000年を超える楠の巨木があり「雲立の楠」として静岡県の天然記念物に指定され、厚い信仰を受けている。

遠州鉄道「八幡駅」から徒歩すぐ。市の中心部に4500坪の境内を誇り、緑の木々が豊かで厳かなところ。ぜひ訪れてみてほしい。(次田尚弘/浜松市)
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家康公推奨の伝統芸能 無形民俗文化財「遠州大念仏」

2017-05-21 22:44:58 | WAKAYAMA NEWS HARBOR
前号では浜松市の「布橋」という地名の由来とされる「犀が崖(さいががけ)古戦場」を取り上げた。
崖下から聞こえる人馬のうめき声や付近で起きる不幸な出来事に対し、家康が講じたとされる奇策を紹介したい。

一連の原因を武田軍のたたりであると考えた家康は、三河から了傳(りょうでん)という僧侶を招き7夜に渡り鐘と太鼓を鳴らし供養した結果、たたりは収まったという。

以後、家康は鐘と太鼓を鳴らす「念仏踊り」を推奨し、その際に三葉葵の紋が付いた羽織を着ることを許したという。
さらに了傳の後を継いだ宗円という僧侶が遠州地方の広域に布教を行ったことから「遠州大念仏」として各地で盛んに行われるようになり、約280の地域で行われていたという。

三方ヶ原の合戦での戦没者を弔うために始まったものであるが、やがて初盆を迎える家の庭先で大念仏を演じるという風習が根付き、浜松市は遠州地方の郷土芸能として昭和47年3月、無形民俗文化財に指定している。

大念仏は30人を超える隊列を組み、「頭先(かしらざき)」と呼ばれる隊の責任者の提灯を先頭に、笛、太鼓、鐘、歌い手の声に合わせて行進する。
一行が初盆の家の庭先に入ると太鼓を中心に、「双盤(そうばん)」と呼ばれる並列に吊り下げた2個の鐘を撞木(細い布を束ねたもの)で叩く独特な楽器を置き、音頭取りに合わせて念仏や歌枕を唱和。踊るようにして太鼓を勇ましく打ち鳴らし故人の供養を行うというもの。
現在も約70の組が保存会を形成し活動を続けている。


【写真】遠州大念仏の模型(犀ヶ崖資料館所蔵)

犀が崖古戦場近くには遠州大念仏と三方ヶ原の合戦を紹介し、郷土の文化遺産の継承を目的とした資料館がある。
興味がある方はぜひ訪れてほしい。

(次田尚弘/浜松市)
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武田信玄も感服 「犀が崖古戦場」での夜襲

2017-05-14 16:08:23 | WAKAYAMA NEWS HARBOR
前号では浜松市で450年に渡り語り継がれる「布橋」の物語を取り上げた。
今週は物語の起源となる「犀が崖(さいががけ)古戦場」を紹介したい。

三方ヶ原の合戦で大敗した徳川軍がその夜、野営していた武田軍を奇襲攻撃し、崖にかけた布を橋と錯覚させ多数の死者を出したことは前号で説明のとおり。

「犀が崖」は三方ヶ原台地が水の浸食により陥没し、東西約2kmの区間に急な崖が連続した幅約30mの谷間で、合戦当時は深さが40mに及んでいたという。


【写真】史跡「犀が崖」の石碑

犀が崖資料館で説明員を務める男性によると、家康が浜松城に逃げ帰った夜、浜松城の近くにある「普済寺(ふさいじ)」の了承を得て、城が炎上したかに見せかけるため建物に火を放ち、それに武田の軍勢の興味をひかせ、城内に残る鉄砲をかき集めたという。

家康に仕え江戸幕府の創業に功績を立てた徳川十六神将の一人、大久保忠世(おおくぼただよ)や、三河(岡崎城)時代に奉行として活躍した三河三奉行の一人、天野康景(あまのやすかげ)らが中心となり、野営する武田の陣営の背後に回り込み、鉄砲で夜襲をかけた。
この出来事に対し武田信玄は「勝ちても恐ろしい敵かな」と、20歳もの歳が離れた家康を評価したという。
火を放った「普済寺」には家康が客殿を寄進するなどその後手厚い保護が行われたという。

一連の三方ヶ原の合戦が収束した翌々年頃から、この地域で奇妙な出来事が起きる。
夜更けになると崖の底から人や馬のうめき声が聞こえるようになり、イナゴの大量発生により農作物に甚大な被害を及ぼし、人々は犀が崖の戦死者の祟りであると恐れたという。
それを聞いた家康は霊を鎮める奇策に出る。

(次田尚弘/浜松市)
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家康公の反撃「布橋」 語り継がれるもうひとつの物語

2017-05-07 15:17:08 | WAKAYAMA NEWS HARBOR
前号では、450年に渡り語り継がれる「小豆餅と銭取」の物語を取り上げた。
銭取から南へ約2キロのところに、これまた三方ヶ原の合戦に由来する地名が残る地区がある。
今週はもうひとつの物語りを紹介したい。

「浜松市中区布橋(ぬのはし)」。浜松城から北西へ約1km、浜松駅から北西へ約2kmに位置し、近くに静岡大学浜松キャンパスがある文教地区に「犀が崖(さいががけ)」という史跡がある。

三方ヶ原の合戦に敗北した家康は、先に紹介した小豆餅、銭取でハプニングを起こしながら僅かな家臣を連れ浜松城へ逃げ帰った。
既に辺りは暗く、家臣の顔も見えない状況であったため、家康は傍にいる家臣の刀に唾を吐き掛けながら城を目指したという。
後に家康は家臣の刀を集め、自らの唾が掛かった者に、馬脇でしっかりと護衛してくれたと称賛し褒美を与えたといわれている。

命からがら浜松城に帰参した家康であったが目前まで武田の軍勢が押し寄せていた。
そこで家康はあえて城の全ての門を開きかがり火を焚く「空城計(くうじょうけい)」という戦術に出る。
これに敵軍の指揮官・山県昌景は躊躇する。徳川の兵が全滅し門が開け放たれたままであるのか、それとも罠なのか。悩んだ末に山県氏が下した決断は「突入せず退却する」であった。

それを見た家康は、休息を取る武田の軍勢を夜討ちしようと試みる。
浜松城から北西へ約1km。「犀が崖」という崖の近くで武田の軍勢が野営をしていた。
気づかれぬよう崖に布をかけ、背後から襲い掛かった徳川の軍勢。これに驚いた武田の軍勢は崖に架かった布を橋と勘違いし、次々に崖下へ転落したという。
これが「布橋」の名の由来とされる。

(次田尚弘/浜松市)


【写真】地名に残る「布橋」


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