さんぽみちプロジェクト

さんぽみちプロジェクトの記録。
和歌山新報で日曜日一面に連載中の「WAKAYAMA NEWS HARBOR」と連携。

水戸で最期を迎える 斉昭を祭る「常盤神社」

2020-01-26 13:39:18 | WAKAYAMA NEWS HARBOR
前号では、徳川家康と頼房を祭る「水戸東照宮」と、斉昭が孝明天皇から戊午の密勅(ぼごのみっちょく)を受けたことに起因する、水戸での永蟄居(安政の大獄)に至る経緯を取り上げた。
今週は斉昭の最期と、斉昭を祭る「常盤神社(ときわじんじゃ)」を紹介したい。


【写真】斉昭を祭る「常盤神社」

斉昭が水戸での永蟄居を命じられた安政6年の翌年、自宅の一室に籠る生活が負担となり斉昭は処分が解けぬままこの世を後にする。
謹慎生活が心不全の原因となる脚気を引き起こし、満月を観賞し厠へ立った後に倒れたといわれることから心筋梗塞が死因とされる。

強い気質で幕末を生き抜いた斉昭の功績を称え「烈公(れっこう)」というおくりな(称号)が付けられ、現在の常陸太田市にある水戸徳川家の墓所である「瑞龍山(ずいりゅうさん)」に葬られた。
この墓所は水戸藩2代藩主・光圀が初代藩主・頼房の遺志のもと設けられ、儒教形式の珍しい様式。歴代の当主が祭られ、一般には公開されていない。

墓所以外で斉昭が祭られているのが偕楽園に程近い場所にある「常盤神社」。
光圀と斉昭を祭神とする神社で、明治の初期、両者の功績を称える水戸藩士らにより、偕楽園内に祠堂が建てられたことに始まる。
明治6年に社号と両祭神の神号が勅旨により定められ、明治7年に社殿が造営された。
境内には、斉昭の腹心として知られる水戸藩士・藤田東湖(ふじたとうこ)を祭る「東湖神社」もある。

偕楽園東門からすぐ。斉昭の生涯を感じることができ、偕楽園と同時に訪れたい。

(次田尚弘/水戸市)
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家康と頼房を祭る 「水戸東照宮」と斉昭の政治

2020-01-19 13:35:17 | WAKAYAMA NEWS HARBOR
前号では、徳川斉昭(なりあき)が設計し現存する、日本最古の鉄製戦車とその時代背景を紹介した。
今週は鉄製戦車が残る「水戸東照宮」と攘夷論や将軍継承問題で幕府との対立が深まる斉昭のその後を紹介したい。

水戸東照宮は水戸市中心部に位置する神社。市民からは「権現さん」と呼ばれ親しまれている。徳川家康を主祭神とし、水戸藩初代藩主の徳川頼房を配祀している。


【写真】水戸東照宮

元和7年(1621年)景勝地である霊松山に頼房が創建。和歌山市の紀州東照宮と同様、長い階段を上った先に社殿が設けられている。
中央に東照大権現、左に山王権現、右に麻多羅神が祭られ、三社権現と呼ばれたという。

創建以来、祭事は仏式で行われていたが、天保14年(1844年)寺社の整理を進める斉昭により神式に改められ、僧侶を罷免。東照大権現の左右で祭られていた二座を移した。
同時に東照宮を寺社の整理対象としたことから幕府からの批判を浴びたという。
社殿は大正6年に現在の重要文化財にあたる特別保護建造物に指定されたが、昭和20年に戦災で焼失。現在の社殿は昭和37年に再建された。

幕政に携わる斉昭は将軍継承問題の争いに敗れ、紀州藩13代藩主であった徳川家茂(とくがわいえもち)が将軍となる。
井伊直弼が大老となり安政5年(1858年)日米修好通商条約に調印。これらの出来事を巡り、無断で江戸城へ無断で登城し井伊を詰問したことから謹慎を命じられるが、それに対抗した斉昭は、孝明天皇から水戸藩に幕政改革を指示する勅書「戊午の密勅(ぼごのみっちょく)」を受ける。
それに激怒した井伊により水戸での蟄居を命じられ(安政の大獄)、斉昭は江戸を後にすることとなる。

(次田尚弘/水戸市)
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日本最古の「鉄製戦車」 斉昭による国防の取り組み

2020-01-12 13:38:07 | WAKAYAMA NEWS HARBOR
前号では、徳川斉昭による藩政改革の一環として作られ、生涯学習を提唱、実践された日本最大の藩校「弘道館」の歴史を取り上げた。

水戸学の視点から攘夷派として知られる斉昭は、ペリーの浦賀来航を機に海防参与として幕政に関わるなど、国防への取り組みを進めることとなる。
今週は斉昭が設計し現存する、日本最古といわれる鉄製戦車とその時代背景を紹介したい。

これまでに取り上げた偕楽園の建造物や竹林がそうであったように、太平洋に面した水戸にとって外国からの脅威に備え、斉昭は国防への注力を強める。
藩士を集め「追鳥狩(おいとりがり)」と称する軍事訓練や、大砲の製造所を備えた「神勢館」での砲術訓練を実施。
潜水艦や大砲の設計にも乗り出し、領内に設けた反射炉で「太極砲」と呼ばれる大砲を作り、江戸防衛のため幕府へ計74門を献上するなど、藩を挙げての取り組みとなった。

そのなかで斉昭が考案、設計したとされる「安神車(あんじんしゃ)」は非常にユニーク。


【写真】現存する「安神車」

木製の車の上に、周囲を鉄板で覆ったまるで釣鐘のようなものを載せた「戦車」であり、鎧を付けた牛に曳かせるというもの。
戦車の内部に人が入り、四方に設けられた小窓から小銃を撃つことができるという仕組み。

実際に使用されることはなかったとされるが、水戸東照宮で2基が現存し境内で見ることができる。昭和42年に水戸市の指定文化財に登録。

幕政に関わり攘夷論を提唱する斉昭は、開国を推進する井伊直弼と対立。
将軍継承問題では実子である一橋慶喜を擁する一橋派と、紀州藩第13代藩主・徳川慶福を擁する南紀派を形成する井伊との争いが更に対立を深め、やがて安政の大獄へと進むこととなる。

(次田尚弘/水戸市)
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日本最大の藩校・弘道館 藩政改革で「生涯学習」を提唱

2020-01-05 23:57:34 | WAKAYAMA NEWS HARBOR
前号では、徳川斉昭による「一張一弛」の心得を体現した、水戸市の偕楽園と弘道館の美しい梅林を取り上げた。
偕楽園と合わせて訪れたい弘道館の歴史を紹介したい。


【写真】重要文化財に指定された「弘道館正門」

弘道館は、旧水戸潘の藩校。斉昭による藩政改革の重点事項に掲げられ開設。
建学の精神として「神儒一致(神皇の道と儒教は離れ難い関係にあること)」「忠孝一致(主君に忠節を尽くすことと、親に孝行を尽くすことは同じであること)」「文武一致(学問と武道の両立)」「学問事業一致(学問の成果を政治に活かすこと)」「治教一致(政治と教育が付かず離れずの関係にあること)」の5項目を、斉昭自ら定めたという。

天保2年(1841年)8月に仮開館式を行い、安政4年(1857年)5月に本開館式の日を迎えた。
当時の敷地面積は約10.5haで、藩校としては日本最大の規模であったという。
ここでは儒学にはじまり、礼儀や歴史、天文、数学、和歌、音楽に加え、剣術や兵学、馬術、水泳など、文武両道で多種多様な科目が用意された。
また、医学を志す者のために医学館を設け、製薬に関しても扱ったという。

特筆すべきことは、藩士とその子弟を対象に、15歳で入学し40歳まで就学が義務づけられていたこと。
卒業という概念がなく、生涯にわたり学びの環境が用意されていたというもので、今でいう「生涯学習」そのもの。

平成27年4月には、「近世日本の教育遺産群―学ぶ心・礼節の本源―」の構成文化財として、日本遺産に認定され、多くの観光客が訪れている。

(次田尚弘/水戸市)
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