前号より、西条市の名誉市民で東海道新幹線建設の推進者として知られる、十河信二氏の功績を取り上げている。
国鉄再生を託され71歳で第四代総裁に就任。東海道新幹線建設推進のため、和歌山市出身で鉄道技師として知られる島安次郎氏の息子である、島秀雄氏を副総裁格の技師長に招き、夢の超特急への挑戦が始まる。
1956年5月、島氏を会長とする「東海道線増強調査会」が国鉄内に設置され将来展望について検討が行われ、最終的に従来の東海道線とは別線とし、在来線よりも線路幅が広い規格である広軌を採用する方針を固めた。
1958年7月、新幹線建設に関する答申を当時の運輸大臣へ提出。この時、建設費が5年間で3000億円と高額な予算となったが、1959年、十河氏は1972億円で国会承認を受ける。
予算確保のため十河氏は世界銀行へ1億ドルの資金借款を申し入れ、東京オリンピックまでに開業させるという条件で8000万ドルの借款を受け入れることが決定。
1961年5月に調印が行われ、オリンピックを前に東海道新幹線建設は世界から注目される存在になると同時に、開業は国際的にも必達の目標となった。
これを受け国鉄は1961年度から第二次五ヵ年計画を掲げ東海道新幹線の建設を推進。
1963年5月、十河氏の2期目の任期が終わることとなり、政府は後任の総裁を国鉄関係者以外から起用する方針を立て、十河氏も新幹線の建設費が嵩み国鉄の財政に影響を与えたことを理由に再任を望まず勇退。開業を総裁で迎えることは叶わなかった。
十河氏の退任後、当時の大蔵大臣に就いた田中角栄氏が、国鉄に代わり新線建設を行う日本鉄道建設公団を設立。
予算審議で建設予算の増額が承認され、1964年10月1日、東海道新幹線は開業を迎える。
(次田尚弘/西条市)
新幹線の父と呼ばれた十河と島、1964年東京オリンピックの開会前の10月1日に無事に東海道新幹線は開業を迎えましたが、彼らは国鉄から新幹線の開通式には招待されませんでした。
開業当初の車両0系は各所で保存されており、名古屋の「リニア・鉄道館」には歴代の新幹線車両が展示されています。
国鉄再生を託され71歳で第四代総裁に就任。東海道新幹線建設推進のため、和歌山市出身で鉄道技師として知られる島安次郎氏の息子である、島秀雄氏を副総裁格の技師長に招き、夢の超特急への挑戦が始まる。
1956年5月、島氏を会長とする「東海道線増強調査会」が国鉄内に設置され将来展望について検討が行われ、最終的に従来の東海道線とは別線とし、在来線よりも線路幅が広い規格である広軌を採用する方針を固めた。
1958年7月、新幹線建設に関する答申を当時の運輸大臣へ提出。この時、建設費が5年間で3000億円と高額な予算となったが、1959年、十河氏は1972億円で国会承認を受ける。
予算確保のため十河氏は世界銀行へ1億ドルの資金借款を申し入れ、東京オリンピックまでに開業させるという条件で8000万ドルの借款を受け入れることが決定。
1961年5月に調印が行われ、オリンピックを前に東海道新幹線建設は世界から注目される存在になると同時に、開業は国際的にも必達の目標となった。
これを受け国鉄は1961年度から第二次五ヵ年計画を掲げ東海道新幹線の建設を推進。
1963年5月、十河氏の2期目の任期が終わることとなり、政府は後任の総裁を国鉄関係者以外から起用する方針を立て、十河氏も新幹線の建設費が嵩み国鉄の財政に影響を与えたことを理由に再任を望まず勇退。開業を総裁で迎えることは叶わなかった。
十河氏の退任後、当時の大蔵大臣に就いた田中角栄氏が、国鉄に代わり新線建設を行う日本鉄道建設公団を設立。
予算審議で建設予算の増額が承認され、1964年10月1日、東海道新幹線は開業を迎える。
(次田尚弘/西条市)
【写真】十河信二記念館
新幹線の父と呼ばれた十河と島、1964年東京オリンピックの開会前の10月1日に無事に東海道新幹線は開業を迎えましたが、彼らは国鉄から新幹線の開通式には招待されませんでした。
開業当初の車両0系は各所で保存されており、名古屋の「リニア・鉄道館」には歴代の新幹線車両が展示されています。
【写真】リニア・鉄道館で展示されている新幹線車両