さんぽみちプロジェクト

さんぽみちプロジェクトの記録。
和歌山新報で日曜日一面に連載中の「WAKAYAMA NEWS HARBOR」と連携。

和歌山城と姉妹城提携 「大阪城」の歴史

2016-10-30 13:53:14 | WAKAYAMA NEWS HARBOR
今年も残すところあと2ヶ月ばかり。年末に向けて1年のクライマックスの時期といってよいかもしれない。1月から放送されている大河ドラマ「真田丸」は九度山から大阪城へと舞台が移り、こちらもいよいよクライマックスだ。

冬の陣直前、大阪城の南方に真田幸村により築かれた「真田丸」。徳川方との激戦、幸村の最期が描かれていく。


【写真】大阪城天守閣(写真中央)を南方から望む

大阪城周辺はかつてから淀川・旧大和川と瀬戸内海をつなぐ水運の拠点であり、かつ、京都や住吉・堺をつなぐ陸運の要所として発展してきた。
上町台地の北端の小高い丘に位置し、台地が形成する坂に沿って町が作られた経緯から「大坂」の名が付いたという。

大阪城が築城される前は石山本願寺があり1580年に石山合戦で焼失。信長の死後、天下人に名乗りをあげた秀吉により築城を開始し1585年に天守が完成している。
その際活躍した秀吉の弟・秀長が和歌山城の築城に着手した経緯があり、昭和60年11月2日、大阪城と和歌山城が姉妹城提携を結んでいる。

秀吉により築城された大阪城だが大坂夏の陣で豊臣氏の滅亡と同時に焼失。その後、徳川が大阪城代を置き西日本地域の支配の拠点となった。
その際、豊臣時代の地面を高さ数メートルに及ぶ盛り土で覆ったため豊臣時代の遺構は地下に埋没した。
2代目の天守は1626年に完成したが1665年、落雷により焼失している。

現在は江戸時代に建てられた櫓や門、蔵など13棟が現存し、城跡は国の特別史跡に指定。
1928年(昭和3年)、当時の大阪市長が復興を提案し3代目の天守閣が1931年(昭和6年)に完成。空襲を逃れ、1997年(平成9年)国の登録有形文化財に登録された。

(次田尚弘/大阪市)

次週からシリーズで大阪城周辺の真田幸村ゆかりの地を紹介します。





【写真】 大阪城

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知ってつながることで地域を元気に 三重県伊勢市 5

2016-10-23 13:54:57 | WAKAYAMA NEWS HARBOR
今年1月から40週に渡り、熊野古道・伊勢路に面した三重県内5市8町の魅力と紀州とのつながりや歴史を紹介してきたが、遂に最終目的地「伊勢神宮」に到達。伊勢路旅の軌跡を振り返りたい。


【写真】参拝者で賑わう伊勢神宮

本コーナーの企画は昨年9月まで遡る。
「伊勢志摩サミット」を前に、国内外へ伊勢志摩と日本の魅力を発信しようという動きが活発化した頃だ。
伊勢神宮から熊野三山へと通じる熊野古道・伊勢路の注目度が増したが、かつては紀州藩の領地とされた三重県中南部(紀勢・東紀州)を和歌山県北部の私たちがどれほど理解しているか疑問に感じたことがきっかけ。

1年間で延べ20日、取材対象の地域を巡り沢山の方々からお話しをうかがった。感じたことは和歌山県新宮市とのつながりの強さ。
「交通が発展する前は東京からのアクセスが最も不便と言われた地域」などとおっしゃる方もいたが、東海地方に属しながらも「最も身近にある大きな街は新宮」という声が多く、和歌山(関西)の文化圏といって過言ではないだろう。

しかし、紀勢自動車道の整備により道路事情が改善され、中京圏からのアクセスが格段に良くなり人の流れが変わりつつあることも事実。
時の流れには逆らえず和歌山との歴史や文化が色あせていくこともあるだろう。
だが、最も理解があるであろう私たち和歌山県民が紀勢・東紀州の魅力を知ってつながることでそれは地域の資源として受け継がれ、更に多くの人に触れられることで、色あせることなくコントラストの強いものになっていくはず。

本コーナーを通じて興味をお持ちいただいたスポットがあればぜひ訪れて、その感想を地域の方々に伝え、更に家族や友人に共有していただきたい。
知ってつながることで地域はもっと元気になれると思う。

(次田尚弘/伊勢市)
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民間主導の地域再興「おかげ横丁」 三重県伊勢市 4

2016-10-16 16:40:04 | WAKAYAMA NEWS HARBOR
前号では20年ごとに伊勢神宮で行われる式年遷宮(しきねんせんぐう)の際、新たな御正殿の敷地内に地域住民が一体となり白い石を奉納する「お白石持(しらいしもち)行事)」を取り上げた。

伊勢神宮の門前町であるこの地域に、住民が一体となって地域の価値を高めた優良な事例がある。
今や伊勢を代表する観光地のひとつとなった「おかげ横丁」の歴史と地域の方々の奮闘を紹介したい。

「おかげ横丁」は伊勢神宮・内宮の門前町に位置する土産品店などが建ち並ぶ地域。
熊野古道・伊勢路が通る伊勢参宮街道に位置し江戸時代には年間400万人程の参拝客で賑わったが、交通機関の発達により横丁を訪れる客が減り、昭和60年代には20万人まで落ち込んだという。

この状況を打開しようと立ち上がったのが「赤福」の名で知られる和菓子店。
平成5年7月、140億円を投じ約2700坪の敷地に伊勢の伝統的な建築技術を用いた店舗や、洋館などを再現した27棟の建物と42の店舗を整備し、かつての街道の賑わいを再現。また、行政によるまちなみ保全事業として保全整備基準が条例化され、エリア内で新増改築を行う事業者への低利子融資や電柱の地中化、道路の石畳化が進められた。

結果、オープン初年の平成5年に60万人超、翌年には約200万人、現在は約400万人もの観光客が訪れ、かつての賑わいを取り戻している。
ちなみに「おかげ横丁」の名はこの地で300年も商いを続けていることへの感謝の思いと、江戸時代のお伊勢参りの意である「おかげ参り」に由来するという。
その思いが通じ訪れる客の8割以上がリピーターであるという統計もある。
地域の方々が民間主導で街の再興を図り門前町としての価値をかつて以上に高めた事例。
訪れて伊勢の魅力を感じてほしい。

(次田尚弘/伊勢市)





【写真】 おかげ横丁

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格別な奉仕活動「お白石持行事」 三重県伊勢市 3

2016-10-12 20:56:08 | WAKAYAMA NEWS HARBOR
前号では20年ごとに伊勢神宮で行われる式年遷宮(しきねんせんぐう)を支える地域住民が一体となった「お木曳き行事」を取り上げた。この他にも遷宮にまつわる諸行事がある。
今週は、新たな御正殿の敷地内に敷き詰められる白い石を奉納する「お白石持(しらいしもち)行事」を紹介したい。

お白石持行事の歴史は今から約550年前にさかのぼる。
寛正3年(1462年)の第40回の式年遷宮から始められたとされている。
同行事が行われる2~3年前から町ごとに構成された奉仕団(かつては神領民と呼ばれた)が、紀伊山地の大台ケ原から伊勢湾へと注ぐ全長約100㎞に及ぶ三重県最大の河川「宮川」の伊勢市~度会町付近を訪れ、河原の白石を採取。
採取した白石を町内の神社など清浄な場所で大切に保管し遷宮に備えるという。
白石は石英の一種で水晶のような透明感が特徴。子供のこぶし大で光沢があり適度な角ばりのあるものが望ましいという。

遷宮の時期が近付くと白石を樽に入れ各町から奉曳車で運ばれる。
内宮へは途中から五十鈴川を上り、さらに白石の一つひとつを白い布に包み参道を進む。
そして建築されたばかりの御正殿の周囲に白石を大切に並べていく。

そこは遷宮が行われた後は一般人が立ち入ることができない領域。
参加者はその領域に入ることができる唯一の機会として白石を納めることを誇りとし、奉仕団の一体感も増すという。
前回は地域の方々で構成される奉仕団と全国から集まる特別神領民の延べ23万人が奉仕したとされ、地域を挙げての行事であることは明白。

伊勢神宮へお参りされる際は、長年受け継がれてきた地域の方々の奉仕の心も感じていただきたい。

(次田尚弘/伊勢市)
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式年遷宮を支える「お木曳き行事」 三重県伊勢市 2

2016-10-02 22:05:19 | WAKAYAMA NEWS HARBOR
前号では夫婦円満、良縁成就のスポットとして知られる夫婦岩がある三重県伊勢市の「二見興玉神社」をお伊勢まいりの起点として参拝する「浜参宮」を取り上げた。
今週は伊勢神宮を支えてきたこの地域に息づく奉仕の文化を紹介したい。

原則として20年毎に伊勢神宮で行われる式年遷宮(しきねんせんぐう)をご存知だろう。西暦690年の第1回に始まり、途中戦乱により幾度かの中断や延期があったが直近の2013年まで62回に渡り行われてきた。

遷宮の実施においては1万本以上のヒノキが使われ、用材を伐り出す山を御杣山(みそまやま)という。
第34回(1400年代)までは近隣の山々であったが、内宮は第35回から三河国、外宮は第36回から美濃国に移り、第41回から46回までは紀州藩領の大杉谷(現在の多気郡大台町付近)が御杣山となった。

しかし原木の不足や伐り出しが難しい地形であったことから第47回から以後300年に渡り尾張藩の木曽谷に移されている(第51回のみ大杉谷)。
徳川家の歴代将軍は家臣に自らの代理として神宮に参拝させ太刀や馬を奉納するなど信仰が厚かったとされる。

伐り出された用材は、内宮へは川曳(かわびき)で、外宮は陸曳(おかびき)で奉納される。
川曳の際は用材に取り付けた縄を市民が曳きながら五十鈴川を進み、陸曳の際は奉曳(ほうえい)車という台車に用材を載せ川曳と同様に市民が運搬する。
これらの行事は「お木曳行事(おきひきぎょうじ)」といい、国の選択無形民俗文化財に指定。
伊勢神宮の門前町に住む住民(かつては神領民と呼ばれた)のみが参加できるものであったが、近年は神宮を崇敬する者であれば「一日神領民」として参加できる。

伊勢神宮の門前町として息づく奉仕の文化がここにある。

(次田尚弘/伊勢市)




【写真】 五十鈴川
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