さんぽみちプロジェクト

さんぽみちプロジェクトの記録。
和歌山新報で日曜日一面に連載中の「WAKAYAMA NEWS HARBOR」と連携。

紀州から「熊野杉」を移植 水戸城・杉山坂に光圀の施策

2019-10-27 13:31:08 | WAKAYAMA NEWS HARBOR
前号では、水戸藩2代藩主で水戸黄門の主人公として知られる「徳川光圀(1628-1701)」の生誕から、藩主に就いて初期の政策や城下町整備の実績について取り上げた。
光圀の城郭整備のなかで、紀州藩とのつながりを感じさせる記録がある。
今週は、水戸城二の丸へと登城する際に潜る通用門として設けられた「杉山門」を紹介したい。


【写真】復元された「杉山門」

杉山門は水戸城二の丸の北口に位置する。寛永2年(1625年)初代藩主の頼房が行った水戸城大改修により整備された、城下町から城内へと続く杉山坂という急な上り坂の先にあり、敵の侵略を防ぐ要所とされた。
門の内側には土塁で枡形が作られ敵の侵略を遅らせる工夫がされていたという。

杉山坂の中ほどには「矢来門(やらいもん)」という門があり、そこから杉山門までの間に、駕籠や馬から降りることを促す「下乗札」や「下馬札」があり、城への重要な玄関口であった。
この道路が整備されたのは頼房の時代であるが、これに工夫を加えたのが光圀である。

光圀は道路の周囲に杉林を設けることとし、紀州産の熊野杉を取り寄せ植樹したという。
やがて植樹した杉が育ち、杉山門の周辺は大きな杉林を形成。杉山門や杉山坂という名が光圀による植樹の前からか、杉林が出来てから付けられたのかは定かでないが、紀州から移植された大量の杉が水戸城の防衛に一役買ったことは間違いなさそうだ。

光圀が藩主に就任した寛文元年(1661年)、紀州藩では頼宣の時代。
光圀が伯父を慕い杉の移植を求めたのか、従兄弟にあたる紀州藩2代藩主の光定との関係からなのか、その時期は不明確であるが、徳川御三家として紀州とのつながりがあったことは確かである。

(次田尚弘/水戸市)
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水戸黄門として知られる「徳川光圀」の一貫した政策

2019-10-20 17:22:12 | WAKAYAMA NEWS HARBOR
前号では、水戸藩主・徳川頼房の歴史と題し、その生い立ちと水戸藩主が「副将軍」と称される理由について取り上げた。
今週は、頼房の三男にあたる徳川光圀(みつくに)の歴史を紹介したい。


【写真】徳川光圀公像(水戸市千波湖町)

徳川光圀(1628-1701)は、水戸藩第2代藩主で、徳川家康の孫。テレビドラマ「水戸黄門」の主人公として知られる。
寛永5年(1628年)水戸城下の家臣・三木氏の屋敷で生まれ、幼少期は三木氏に育てられる。寛永9年(1632年)水戸城に入城。翌年、頼房の世継ぎとして決定し、江戸の小石川邸で教育を受けた。

明暦3年(1657年)火災により小石川邸から駒込邸へ移った光圀は、国史の編さん事業に着手。以降、水戸藩で二百数十年に渡り続き、明治時代に完成を遂げたとされる「大日本史」がそれにあたる。大日本史については改めて紹介したい。

寛文元年(1661年)頼房が水戸城で死去した際、当時の武家社会の慣例とされた家臣らの殉死を禁じ、「殉死は頼房への忠義であるが、後を継ぐ私に対しては不忠義ではないか」と家臣の家々を巡り伝えたという。
2年後には幕府が殉死を禁止する令を出すこととなり、そのきっかけを作った人物とされる。

藩主となった後は、低湿地帯で井戸が濁るという課題があった水戸の下町への水道敷設を命じ、現在の水戸市笠原町にある湧水を水源とする全長約10kmを岩樋でつなぐ「笠原水道」に着工。
約1年半で完成し、以降、明治時代までこの水道設備が使用された。

また、領内の寺社改革も行い不道徳とされた寺を破却。神社については神仏分離を進め、由緒ある寺院や神社には支援や保護を加えるなど、一貫した政策を執り行ったとされている。

(次田尚弘/水戸市)
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「副将軍」と称される 水戸藩主・徳川頼房の歴史

2019-10-13 20:06:29 | WAKAYAMA NEWS HARBOR
前号では、水戸城の成り立ちから、魅力向上を目的に現在進められている復元・整備事業を取り上げた。

水戸徳川家の居城として発展を遂げたのは初代藩主・徳川頼房の時代から。
今週は頼房の歴史を紹介したい。


【写真】水戸城二の丸御殿跡

徳川頼房(1603-1661)は家康の11男で伏見城の生まれ。紀州徳川家の祖である頼宜の弟にあたる。
3歳にして常陸下妻城10万石、6歳にして水戸城25万石を領するも幼少であることから、家康の許で育てられたという。
紀州藩の歴史書として知られる「南紀徳川史」によると、33歳で徳川姓を名乗るようになり、それまでは頼宜の分家とみなされていたといわれる。

家康の死後、17歳で初めて水戸に就藩するも2ヶ月で江戸に戻る。
その後、寛永2年(1625年)から7年(1630年)までは毎年水戸に就藩し、水戸城の修復や城下町の造営など城下の整備を行った。

2代将軍・秀忠が死去し、3代将軍・家光の時代となると江戸へ戻り水戸への就藩は僅かとなった。
頼房と家光は1歳違いで、学友のような仲であったとされ、謀反の疑いがあった尾張藩主の義直や紀州藩主の頼宜と溝があった家光として、頼房は頼りになる存在。
水戸藩主でありながら江戸の常駐を認めたことから、俗に水戸藩主を「副将軍」と称されることになったという。
それが故に、水戸藩は参勤交代を行なわず、江戸の将軍に仕える「定府」になったとされる。

頼房は寛文元年(1661年)、水戸就藩中に城内で死去。以後は頼房の三男である光圀(みつくに)が、水戸藩2代藩主として藩政を継ぐこととなる。

(次田尚弘/水戸市)
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「水戸城」の魅力向上に復元・整備で歴史のまちづくり

2019-10-06 13:41:22 | WAKAYAMA NEWS HARBOR
前号では、紀州徳川家の祖として知られる徳川頼宣の歴史と、かつて藩主を務めた水戸の地に「紀州堀緑地」と呼ばれる公園の存在を取り上げた。
紀州堀は水戸城の外堀の名称。今週は水戸城の成り立ちと現在を紹介したい。

水戸城は水戸市の中心部に位置し、丘陵を利用し建てられた連郭式平山城。
城の北を流れる那珂川(なかがわ)、南にある千波湖(せんばこ)を天然の堀とし、西には5重もの堀、東には3重の堀を設け、堅牢な作りとなっていた。
石垣はなく、広範囲に渡る土塁で囲まれた土づくりの城で、同じ御三家の名古屋城や和歌山城とは違った構えとなっている。

1190年頃、当時この地を治めていた馬場氏により築城。江戸氏、佐竹氏を経て、慶長14年(1609年)徳川頼房が水戸に入り、水戸徳川家の居城となった。
頼房により三の丸や外堀が拡張され、二の丸に御殿と三階物見という大きな櫓を設けた。

天守を構えることは幕府の方針に則り行われることがなかったため、三階物見(角櫓)が天守閣の役割を果たすこととなった。
明治以降、三階物見は解体を免れ、市民のシンボルとして親しまれてきたが、昭和20年の水戸空襲で焼失し現存していない。

現在、水戸市は「水戸城大手門、二の丸角櫓、土塀整備基本計画」を策定し、これらの復元・整備を開始。


【写真】復元工事が進む「水戸城大手門」

周辺エリアの整備も行われ、歴史的景観の向上により水戸城の魅力を高めようと、工事が進んでいる。
完成の際にはぜひ訪れてみたい。

(次田尚弘/水戸市)
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