さんぽみちプロジェクト

さんぽみちプロジェクトの記録。
和歌山新報で日曜日一面に連載中の「WAKAYAMA NEWS HARBOR」と連携。

家康の教え、現代に 平和を表す「東照宮」の彫刻

2017-12-17 15:10:19 | WAKAYAMA NEWS HARBOR
前号では家康が故郷を思い建てられたといわれる、久能山東照宮の「神廟」を紹介した。
一周忌に合わせ、自らの命により下野国日光で東照社として鎮座した家康。平和を願う遺志と共に、家康紀行を振り返りたい。

日光東照宮は明治元年の神仏分離により神社の「東照宮・二荒山神社」、寺院の「輪王寺」に分けられ、これらの建造物群をとりまく遺跡が「日光の社寺」として世界遺産に登録。
中には国宝9棟、重要文化財94棟の計103棟の建造物群が含まれる。

現在も残る荘厳な社殿群は寛永13年(1636年)、3代将軍家光による「寛永の大造替」により建て替えられたもの。
全国から集められた名工による極彩色の建物や、施された数々の彫刻は観る者を圧倒する。
数々の動物たちの木彫像、見ざる言わざる聞かざるの「三猿」や「眠り猫」などは、よく御存知のことだろう。

これらの動物は平和の象徴とされ、猿は馬を守る存在であるという伝承から、合計8面で猿の一生が描かれ、見ざる言わざる聞かざるは、「悪事を見ない、言わない、聞かない」といった平和な人間の暮らしのあり方を表現した教えであるといわれる。

また「眠り猫」は家康を守るためにわざと寝ているふりをしてすぐに飛びかかれる態勢にあることを示しつつ、眠り猫の彫像の裏に描かれた雀たちが舞う姿からは「雀が居ても猫が眠るほど平和」であることを表現しているという。

年の初めより、家康が生まれた岡崎から浜松、そして駿府へと、家康の生涯を追い続けてきた家康紀行。
争いを好まず、平和を願い、周囲の支えをもって自らを高めていく。
現代の私たちに相通じる人間味を感じ、どこか親しみさえ覚えたのは筆者だけだろうか。

(次田尚弘/静岡市)


【写真】徳川家康像(駿府城公園・本丸跡)



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故郷を思い創建 遥かに岡崎を望む「神廟」

2017-12-10 13:40:16 | WAKAYAMA NEWS HARBOR
前号に続き、元和2年(1616年)から1年7ヶ月の歳月をかけ創建され、平成22年12月に本殿、石の間、拝殿が国宝に指定された久能山東照宮を紹介したい。

御社殿から更に奥へと進むと重要文化財に指定された「神廟(しんびょう)」がある。


【写真】久能山東照宮「神廟」

神廟は本殿後方の廟門(びょうもん)から40段程の石段を登ったところにあり、家康の亡骸が埋葬された。
創建された頃は木造の桧皮葺の建物であったが、寛永17年(1640年)に3代将軍の徳川家光により石造りの宝塔に作り替えられ現在に至る。
宝塔は約8メートル四方の広さで、そのほぼ中央に高さ約5.5メートルの塔が建つ。

この神廟は西向きに建てられており、家康の生母が子授けの祈願をしたという愛知県新城市の鳳来寺(ほうらいじ)、岡崎市の松平家代々の菩提寺である大樹寺、自らの生誕の地である岡崎城が西の方角にあることに由来し、これも家康の遺命によるものだという。

数々の家康の遺命により造られた久能山東照宮であるが、遺命はこれだけではない。
「亡骸は駿河国の久能山に葬り、江戸の増上寺で葬儀を行い、三河国の大樹寺に位牌を納め、一周忌が過ぎた後に日光山に小堂を建てて祈ってほしい、そうすれば関八州(関東の相模、武蔵、安房、上総、下総、常陸、上野、下野の8国)の鎮守になろう」と残している。

家康の命に従い元和3年(1617年)4月15日、久能山東照宮から下野国日光へ移され、同年4月17日、二代将軍秀忠はじめ公武参列のもと東照社として鎮座。
その後、正保2年(1645)に宮号を賜ったことから、東照宮と呼ばれるようになった。
言わずもがな「日光東照宮」である。

(次田尚弘/静岡市)
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家康の偉功を伝える 国宝「久能山東照宮」

2017-12-03 17:14:06 | WAKAYAMA NEWS HARBOR
前号では、駿河の守りの要として、武田信玄により久能城が築かれ、後に徳川家康が自らの埋葬地に指定した「久能山」の歴史を取り上げた。
今週は太平洋側にある登山口から頂上を目指し「久能山東照宮」を紹介したい。

昭和32年に日本平と久能山を結ぶロープウェイが開通するまでは、この登山口(山ノ下)からの17曲1159段に及ぶ参道が唯一の参詣道で、参勤交代で付近を往来する大名もこの石段を上り東照宮を参拝。
1159段にちなみ「いちいちご苦労さん」という洒落が参拝者らの間で広まったとされる。
山頂に程近い「一ノ門」からは駿河湾を一望でき、元日には初日の出を拝めることから多くの参拝者で賑わう。

家康の遺命により亡骸が久能山に移された後、二代将軍の徳川秀忠が家康を祭る神社の造営を指示。
大工棟梁には、徳川家の建造物の建築や修理を担う作事方として家康に仕え二条城や江戸城や駿府城の天守の建築、江戸の町割りを行った「中井正清(1565-1619)」選ばれ、元和2年(1616年)5月に着工、1年7ヶ月の歳月をかけ久能山東照宮は完成した。

「権現造(ごんげんづくり)」の社殿は、建築当時の最高峰の建築技術と装飾が施され、後に建造される日光東照宮を始め、全国にある東照宮は久能山東照宮が原型とされている。


【写真】久能山東照宮 拝殿

中井正清の遺作としても評価され、平成22年12月に本殿、石の間、拝殿が国宝に指定。
平成18年に行われた社殿の塗り替えにより、いっそう極彩色が映え細かな彫刻の技が際立つ様から、400年の歴史を持つ重み、当時の家康の影響力の強さを感じさせ、今なお見る者を圧倒し家康の偉功を後世に伝え続けている。

(次田尚弘/静岡市)
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