さんぽみちプロジェクト

さんぽみちプロジェクトの記録。
和歌山新報で日曜日一面に連載中の「WAKAYAMA NEWS HARBOR」と連携。

紀州藩からの出向者が活躍 200年に及ぶ、人と財政支援の歴史

2018-08-26 23:34:56 | WAKAYAMA NEWS HARBOR
前号より「西条藩を知る」と題し、寛文10年(1670年)から版籍奉還までの約200年間、10代にわたり紀州藩の支藩として栄えた愛媛県西条市の歴史を取り上げている。

西条藩2代藩主の松平頼致は、従弟にあたる徳川吉宗が将軍となった際に紀州徳川家を継ぎ、紀州藩6代藩主徳川宗直と改め本藩である紀州を治めるなど、本家とのつながりが非常に強かったとされる。


【写真】西条市内に建つ西条藩の石碑

西条藩に残る「文化七年御家中官禄人名帳」によると、藩主に限らず家来衆の人的交流も盛んであったことがうかがえる。
文化7年(1810年)当時、紀州藩から27名が西条藩士として西条藩に入り、中には家老を務める者もいた。
いわば本家からの出向のようなもので、西条藩の上級藩士は紀州藩で占められていたという。
そのため、藩士とその家族らが江戸を行き来する際は紀州に立ち寄るなど、紀州と西条の結びつきは強いものであったという。

また、これらの藩士がもらう俸禄(給与)は紀州藩から支給され、それに加え「豫州(よしゅう)」と呼ばれる西条藩からの俸禄もあったという。
豫州(予州と書くこともある)とは西条藩のことで、両藩から禄が支払われるこの制度は稀なものであったとされる。

人だけでなく、藩財政についても本藩からの支援を受けていたという。
西条藩初代藩主の松平頼純は西条へ入る前の寛永八年(1631年)から紀州藩内で5万石を分知されていた。
西条藩へ入るにあたり分知されていた領地を返し、西条藩3万石の領地を手にするも、差額として2万石が発生。
この差額を紀州藩からの支給により補填されることとなり、合力米の名称で、紀州藩の財政状況により支給量は変動するも支援は版籍奉還まで続いたと、南紀徳川史に記されている。

(次田尚弘/西条市)
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紀州藩の支藩として栄える 愛媛県西条市「西条藩」の歴史

2018-08-19 22:14:11 | WAKAYAMA NEWS HARBOR
74週に渡りお伝えしてきた「家康紀行」に続き、今週から「西条藩を知る」と題したシリーズを始めたい。
愛媛県西条(さいじょう)市は紀州藩の支藩として栄え、かつてから紀州とのつながりが深い地域であることをご存知だろうか。
和歌山市から西へ約200㎞離れた西条市の歴史と魅力を取り上げる。



西条市は愛媛県の東部、東予(とうよ)地方に位置する。人口は約10万6千人。松山市、今治市、新居浜市に次ぐ、愛媛県内で4番目の人口。瀬戸内海に面した穏やかな気候であるが、山間部は積雪がありスキー場があるほど。隣の今治市から瀬戸内海を経て尾道市へと続く「しまなみ海道」があり中国地方からのアクセスに優れた地域である。

かつてこの地域は「伊予国西条藩」として、寛永13年(1636年)から「一柳直盛(ひとつやなぎ なおもり)」が治めることとなったが、入封の途上で没し、3人の息子により領地を分割。
直盛の長男「直重(なおしげ)」が藩主となるも、藩主を継いだ息子の「直興(なおおき)」が職務怠慢のため、寛文5年(1665年)に改易処分となり、この地域は天領となった。

5年後の寛文10年(1670年)、紀州藩初代藩主「徳川頼宣」の三男「松平頼純(よりずみ)」が紀州藩の支藩として3万石で入封。紀州徳川家が途絶えた場合に備えるための、紀州徳川家の分家とされる。
頼純の息子で西条藩2代藩主の「松平頼致(よりよし)」は、従弟にあたる徳川吉宗が将軍となったため紀州徳川家を継ぐこととなる。
名を「徳川宗直(むねなお)」と改め、紀州藩6代藩主として41年に渡り紀州の地を治めるなど、本家とのつながりの深さがうかがえる。

西条藩は版籍奉還まで10代に渡り、紀州藩の支藩として治められ、西条市内には現在もその歴史が息づいている。

(次田尚弘/西条市)
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名古屋城天守閣の木造復元 寄付・記録で支える市民の思い

2018-08-05 17:16:04 | WAKAYAMA NEWS HARBOR
前号では、数々の個性的な名古屋めしの味の決め手となっている岡崎市名産「八丁味噌」の歴史と特徴を取り上げた。
今週は、5月から入場が禁止された名古屋城天守閣の木造復元を支援する市民の動きを紹介したい。

名古屋城天守閣は家康の命により1612年に完成。1930年、名古屋市に下賜され城郭としては初めての国宝に指定されたが、1945年の空襲により天守や本丸御殿などの主要部を焼失。終戦後、市民による寄付で鉄筋コンクリート造の天守閣が再建された。

再建から50年が経ち、老朽化や耐震強度の問題が顕著になり、その課題の克服と本質的な価値を理解しようと、創建時の姿をできる限り忠実に再現した木造天守への建て替えが決定。2022年の竣工を予定している。

昨年7月から始まった「金シャチ募金」は名古屋市が主導。既に2億円を超える寄付が集まっているという。

寄付の方法は複数ある。「10縁募金芳名札」に募金者の氏名と共に、未来の子どもたちへのメッセージや名古屋城への思いを記載し募金。天守閣と共に次世代へ受け継ごうと企画されたという。名古屋市の区役所や支所、名古屋城内の募金箱で受け付けている。


【写真】市の施設に設置された「金シャチ募金」

他にも、ふるさと寄付金(納税)の対象となる寄付を受け付け、金額に応じて、竣工後の内覧会への案内や、「金シャチ手形」と呼ばれる無料入場券の発行、特別見学ツアーなどの体験型の催しへの案内など、様々な特典が用意されている。

木造天守の復元には、空襲による焼失までに名古屋市民が撮影した写真や、国宝指定時の計測図、江戸時代の修理や改築の細かな記録など、他の城と比べ情報量が膨大であったことが鍵であるという。
城への市民の愛着が、復元事業を支えている。

(次田尚弘/名古屋市)
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