スペシャル対談 藤本裕子が各界トップに迫る!
姫路少年刑務所で半世紀近く受刑者と面接し、社会復帰の手助けをしてきた101歳の篤志面接委員、黒田久子さん。その善意と功績をたたえられ、今夏、法相感謝状の贈呈を受けたばかり。明治、大正、昭和、平成と4つの時代を生き、今なお、元気に支援活動に励む黒田さん。自らの人生を振り返り、一貫した信念、そして語り継ぐべきメッセージを伺った。
全国最高齢の篤志面接委員 黒田久子さん (105歳)
くろだ ひさこ 1903(明治36)年姫路市に生まれる。1923(大正12)年共立女子職業学校(現 共立女子大学)卒業。結婚後、夫の転勤で甲府、水戸、岡山、大分に居住。1945(昭和20)年姫路に帰る。1949(昭和24)年城陽校区婦人会長就任。以来、1992(平成4)年に姫路市連合婦人会長を辞任するまで婦人会活動に携わる。1957(昭和32)年篤志面接委員、保護司を拝命。1983(昭和58)年「姫路城を守る会」婦人部を結成して代表に就任、現在に至る。『黒田久子の明治・大正・昭和・平成聞き書き-姫路むかし語り』、著書『箪笥の取手』を出版する。
亡き夫の分も、社会に役立ちたい
藤本 先日、黒田さんのご活躍を朝日新聞で拝見し、「101歳の篤志面接委員!?」と驚きました。「とにかく一度お話を伺いたい」という一心で、面接日の今日、姫路少年刑務所におじゃましました。
黒田 ありがとうございます。白寿を過ぎまして、皆さんにお声をかけていただくことも多いのですが、私はこんな風で、何にも特別なことなんてしていませんのに。
藤本 今日まで篤志面接委員の活動はもちろんですが、101年という長い人生を生きてこられた、そのままの黒田さんを知りたいんです。こうしてお目にかかると本当にお若くて、とてもお歳には見えませんね。
黒田 おかげさまで、いまだに毎月刑務所から「予定表」が送られてきます。私を待っていてくれる人がいる。必要やといわれれば生きてもいけます。こうして皆さんに出会い、いろいろな経験をさせていただくのは、本当にありがたいことです。
藤本 篤志面接委員というお仕事について、少し教えていただけますか。
黒田 法務省から委嘱を受け、刑務所や少年院などの矯正施設で受刑者らの悩みを聞いたり、社会復帰に向けた支援活動をしたりするボランティアです。今は、全国で約1800人。姫路少年刑務所には、私を含め9人の面接委員がいます。
藤本 面接というのは、どのくらいの割合で、どんな風に行うものなのですか。
黒田 月に2回、隔週月曜日に、日によって異なりますが、1人から6人くらいと面接をしています。私は更生保護を担当していますので、おもに出所を控えている受刑者を相手に、個人的な悩みを聞いたり、社会復帰に向けた生活相談などを行います。ほかにも、書道や短歌など趣味や教養面の指導のほか、法律相談や就職相談などの活動を行う委員さんもおられます。
藤本 委員さんは、どのような方ですか。
黒田 弁護士やハローワーク職員のほか、教員OBや元刑務所関係者、教育関係者が多いでしょうか。受刑者が本音で接することができ、更生に少しでも役に立てばと、関わっておられる方ばかりです。
藤本 今日まで47年間、3000回にもおよぶ面接を続けてこられたそうですが、最初のきっかけは何だったのですか。
黒田 大学教授だった夫が定年を前に亡くなり、「夫の分も社会に役に立つ仕事がしたい」と思ったのです。
藤本 大変なお仕事でしょう。
黒田 婦人会の会長などをやっていました関係で、お話がきたようですね。最初から簡単な仕事ではないと、覚悟を決めてお引き受けしたのですが、それにしても想像以上に難しいことがたくさんあります。
人生は、なんぼでもやり直せる
藤本 これまでに、どんなエピソードがありましたか。
黒田 以前は、小指を落とした人や入れ墨をしている人が多かったですね。ここへ来て後悔し、元に戻したいと思っても後の祭り。「からだは元に戻らなくても、人生は気がついたときから、なんぼでもやり直せるんや」と、何度言い聞かせたことでしょう。
藤本 以前、本誌の対談(8月号)で、大阪市助役の大平光代さんにお話を伺ったときも、同じことをおっしゃっていました。
黒田 私も大平さんの書かれたご本を読んで、「ほんまにその通り。さすが、ええこと言わはる」と感心しました。出所して家庭を持ち、子どもを持ったときに「お父ちゃん、これ何?と聞かれたらどうするの?」と言うんです。それから最近は、覚せい剤で入っている人が多いのが気になります。
藤本 なかなかやめられないようですね。
黒田 歯がボロボロですから、すぐにわかります。悪いこととわかっていても直らない。低年齢化も問題です。出所するときには皆「もう二度とここへは来ない」と言いますが、また繰り返す…。窃盗も同じです。
藤本 本人の責任ですが、周りの環境も影響するのでしょうね。
黒田 ここにいるのは、比較的犯罪傾向が進んでいる人たちなので、出所後の引き受け先が問題です。親が引き受けられずに満期出所で出ていく人などは、やはり社会復帰が難しいのです。生活が安定しない、更生意欲がない、社会の受け皿がない…。
藤本 社会的にも、大きな課題なのかもしれませんね。
時代は変わっても、大切な人の心
黒田 面接では「親や家族に迷惑をかけたから、もう一度がんばって出直したい」と、時には涙を流して更生を誓う人もいます。
藤本 そんなときは、どういう言葉をかけるのですか。
黒田 「一生懸命育ててもらったのにこんなことになって、親の苦労も知らんと。親はな、哀れと思って引き取ってくれるんや。親子とはいえ、わがままは許せへんで」と、厳しく言うことが多いですね。
藤本 黒田さんから言われたら、それは心に響くでしょうね。
黒田 先日も4歳と2歳の子どもがいて、内妻のところへ帰るという受刑者に、「はよ改心して、きちんと仕事を見つけて籍を入れんとあかん。子どもを育ててあんたを待つなんていう妻はおらんよ」と言ってやりましたら、大きくうなずいていましたよ。
藤本 厳しさの中にある本当のやさしさ。黒田さんの人間性を感じるのでしょうね。
黒田 ここは26歳までの入所ですが、結婚して子どものいる人もいます。それぞれのケースに応じてですが、人生最高の幸せは「三惚」だとよく話しています。ずっと前のことですが、四国・高松の琴平のお土産に「三惚」というお菓子をいただきました。
藤本 三惚?
黒田 「三惚とは、仕事に惚れ、女房に惚れ、ところに惚れる。これ人生最高の幸せ」と書かれていたのです。私はこの先もずっと、三惚に徹して生き続けたいと思っています。
藤本 根本的には、やはり家族や周囲の愛情が大切なのですね。
黒田 親のない子、知らない子もずいぶんいます。家庭環境が複雑で、「崩壊家庭」とでもいうのでしょうか。やはり、根源が気になるのですが…。
藤本 面接を受けた方のその後というのは、どうなっているのでしょう。
黒田 出所後の彼らについては、一切わかりません。中にはまた罪を犯して戻ってきた人もいれば、もちろん幸せに暮らしている人もいるでしょう。それでも過去にはふれませんから、一方通行の地味な仕事です。
藤本 形になって見えないというのは、歯がゆい部分もあるのでしょうね。
黒田 「私たちの仕事は、水の中に絵を描くようなもの」と、同じ面接委員の人とよく話すんです。何事もあきらめてしまいがちな世の中ですが、一人ひとりに心を込めて接する。わずか20分ですが、一生懸命に相手を思って話すんです。「今からでも遅くない。もういっぺんやってみい」と。
藤本 黒田さんのような気持ちで、みんなが子どもたちに向き合っていたら、社会は変わるでしょう。
黒田 児童虐待や悲惨な事件や事故が次々と起こりますが、関わっている大人たちがその場その場でもっと真剣になっていれば、起こらなかっただろうと、時々思うこともあります。世の中のすべてのことが通りいっぺんでなく、もっとていねいに、もっと本気になったらと、しみじみ思います。
藤本 明治、大正、昭和、平成と4つの時代を生きてこられた黒田さんですが、昔と今では、何が変わりましたか。
黒田 古い明治の人間です。生まれた翌年に日露戦争が起きました。国は貧乏でしたから、質素、節約、勤勉、貯蓄。感謝と辛抱が信条でした。けれども人々には夢があった。希望や夢に向かって努力するのが当たり前の時代でした。ところが、質実剛健も誠実勤勉も死語に等しくなった今は、消費は美徳なりと。価値観を否定するのではなく、互いに理解を深め、歩み寄っていくことが大事と、自身を洗脳しています。
藤本 時代は変わっても、変わってはいけないものもたくさんあります。
黒田 大切なのは、モノではなく人の心です。何事につけ、教育が基本であり、教育は「人づくり」だと思います。
藤本 私自身、人に伝えるという意味で教育という仕事に関わらせていただいていますが、今は現場も大変です。
黒田 「教育」の意味を間違ってとらえている人があまりに多い。親ごさんもあまりわかっていないようですが、今は、就職のための教育になってしまっています。昔の教育には哲学がありました。
生涯を、美しい姫路城のために
藤本 黒田さんご自身も、若いときには東京へ出て勉強をされたとか。
黒田 東京の共立女子職業学校に通いました。「女かて、何か仕事を持たなきゃあかん」というのが母の口ぐせでしたから。母も婦人会をやっていまして、言うことだけはまともでした(笑)。昔の人ですからよく働いて、私たち子どもを育ててくれました。親が一生懸命に働く姿を見て育った子は、そう間違ったことはできません。
藤本 どうりで、黒田さんも働き者です。
黒田 ハハハ。夫の転勤で住まいを転々とし、いろいろなことをやってきました。最初の仕事は「婦人会」でした。翌年、民生委員のお話があり、保護司(※)、人権擁護委員(※)…と次々お役が回ってきました。面接委員になったのは昭和32年のことです。一緒にやっていた仲間は皆亡くなり、こうして私が生き残ったのと、この仕事には定年がないのが理由で、今も変わらぬ日々を送らせていただいています。
藤本 簡単におっしゃいますが、とても素晴らしいことだと思います。私くらいの年齢になると皆「もうあとがない…」などと言い出します。考えたら、黒田さんの半分も生きていない。何だか恥ずかしくなってしまいます。
黒田 人間、100歳で一人前。ようやく始まったばかりです。老いても夢をなくさず。生かされている今に感謝して、今日一日の仕事をしようと、日々、心しています。
藤本 その夢について、聞かせていただけますか。
黒田 定年がないといえばもうひとつ。世界文化遺産であり、国宝である姫路城を市民の力で顕彰し、保護していく「姫路城を守る会」の理事を、現在も務めています。昭和58年に3人で始めた活動が、300人の組織となって今も継続しているのは、うれしいことです。
藤本 どのような活動をなさっているのですか。
黒田 姫路城の清掃とお城の勉強から始め、次第にほかのお城見学にもまいりました。それらを参考にして毎年お茶会を開くことになりました。今も春と秋にお茶席を設け、姫路城の美しさの感動をさらに心に残していただけるようにと願い、来城者にお茶を接待しています。少女時代から生涯の心の支えになっている姫路城のために、命ある限り尽くしたい。そう思っています。
藤本 今日は幸いお天気にも恵まれ、美しい姫路城でご一緒することができました。お城の歴史もさることながら、黒田さんの歩まれた歴史を少しですが、感じることができたように思います。この素晴らしい出会いに感謝して、私も悔いのない人生を過ごしていきたいと思います。本当に今日は素敵なお話をありがとうございました。これからも、どうぞお元気でご活躍ください。
(トランタンネットワーク新聞社記事より引用)
「なんぼになったら辞めんならんとかいわれますが、
次々仕事があんのに、なんで辞めんならんのかなあ、
不思議ですねん」
1903年生れの黒田さんの仕事は篤志面接委員。刑務所や少年院に入っている受刑者等の社会復帰を助ける奉仕活動だ。
仕事場は姫路少年刑務所。54歳から隔週、休みなく通い続け、3000人近い受刑者の出所後の生活相談を受けた。
親を知らない子
面接委員を始めたころ、女子刑務所を参観した。父親は戦死、母子家庭で貧しさゆえの窃盗で刑務所へとういう受刑者が多かった。中には妊娠している女性もいた。
職員に聞いた。
「お産どこでしますの?」「産院」
「授乳は?」「人工です」と職員は答えた。
黒田さんは思った。「あぁ、この娘も我子を産み、ほかす……」。
面接の時には、中絶を勧めない。
しかし、これでいいのかどうか、正解はまだ出ない。
義務教育を施設で終え、養子に貰われた子供がいた。
直ぐに勤めに出たが、給料日には必ず養父がお金を取りに来る。
「びた一文もその子に渡さない、つまり労働力が必要やったんです」。
その子はとうとう我慢しきれず、家を飛び出し、パチンコ屋に住み込みで働いた。
ところが養父に見つかり、また給料を全部取り上げられ、食費が払えなくなり罪を犯した。
「私の仕事いうたらね、こんな因果な仕事でございます」。
これ以上どうする事も出来ないもどかしさをそう表現した。
〝三惚れ〟をアドバイス
最近は、親に捨てられた子が施設で育ちr、犯罪に手を染める例が増えてきたという。三人面接したら、二人が親を知らない。満期出所の面接では
「あんたな、どこ行ってもな、ごじゃごじゃするもんやないで。落ち着くところ、考え。そしてな、家庭、持ち。これならやっていけるな、いう仕事、見つけ。
あんた、家庭の味も何も知らんのやろ、だったら、それでやって行き」
と〝三惚れ〟をアドバイスする。
「仕事に惚れてね、女房に惚れてね、所に惚れてね。自分の居るところが一番いいんです。そしたら悪いこと出来しませんわ、ほんと」
半世紀の効果
「時代の流れを見ないといけないし、苦労もしてます。でもね、こないして私もよう喋りおりましたらね、ええことも有るんですな」
と差し出したのが『刑政』という冊子。
刑務所の中で産まれた子供を、1年半養育出来るように法が改正されたのだ。
「私の半世紀の活動の効果はここに出たと思うの。自分の子を、1年半も養うてごらんなさい。愛情も出てくるし、いずれ仮釈も出る思います。処遇がようなって、あの時は思わずバンザーイしました」
と我ことのように喜ぶ。
50年も訴え続ける、私たちには想像も付かない辛抱と根気のいる活動だ。明治生まれの気骨に頭が下がる。
性犯罪
最近気がかりなのが性犯罪。
「彼らは自分が悪いなんて思てない。それで、こんな事件は次から次へ起こります。その意味でも宮崎勤の死刑判決が出て、あれだけのことしたんやから、仕方がないと思いました。犯罪意識持ってもらわんと困るんや。今日もまた刑を終えたのが出てきよんの、野放しになる!」
と危機感をつのらせる。
南野前法務大臣から依頼の来た原稿にも
「性犯罪はね、病気や言うたん。病気やからね、医療施設をこしらえてくださいて書いといたん」。
定年は無い
この5月5日に黒田さんは103歳になる。
奇しくも、その同じ日に、私は還暦を迎える。 7年前に『にっち』を創刊して以来、私の毎日はにっちを発刊し続けられるかどうかの不安との闘いだった。
そんな時に、黒田さんのきりっとした生き方に出会った。
「私は仕事があって、片づかへんさかいする。もう自分がすんだと思たら、
辞めたらええ」。
この言葉、ゴチャゴチャ心配せんと仕事しなさい、黒田さんからの励ましに聞えた。
兵庫県生れ。共立女子職業学校卒業後、哲学者黒田英一郎と結婚。
戦後から、地元姫路のボランティア活動に多数携わる。民生委員、保護司、姫路市人権擁護委員、姫路市連合婦人会会長など。 1957年から篤志面接委員となり、現在全国最高齢。法務大臣表彰、全国篤志面接委員連盟会長賞藍綬褒章、勲五等瑞宝章などを受賞。
105歳で、こんな風に仕事ができるのは「人間が好き」「生きる事が楽しい」からなのだろうか。尊敬。





