~医介輔とは~
①歴史的背景
太平洋戦争終盤の1945年4月1日、米軍は沖縄本島に上陸し、米国海軍軍政府布告第1号(ニミッツ布告)を公布。琉球列島米国軍政府が設立され、沖縄は米国の軍政下に置かれる。
1943年に163人いた医師が戦死などによりわずか64名にまで激減。マラリアや結核などの感染症が蔓延していたため、1945年4月、琉球列島米国軍政府は米国海軍軍政府布告第9号を公布。軍隊の衛生兵、医師の手伝いをしていた者、医学校中退者など医療の経験を有する者に医師助手という資格を与えることになる。
1945年8月15日、終戦。
1950年12月15日、沖縄の長期的統治の為、琉球列島米国軍政府は、琉球列島米国民政府に組織を改める。
1951年、琉球列島米国民政府は、それまで公務員として医療に従事していた医師の個人開業と完全な自由診療を認める。完全な自由診療に移行したことにより、医師が都市部に集中し、離島や僻地で医師のいない無医地区が多数出来る。
この対策として同年5月5日、琉球列島米国民政府は、医師助手制度が廃止し、代わって医介輔制度を創設。医介輔は「保険所長の監督の下に」という制限つきで治療ができ、医師配置委員会によって十分な医療が保障されないと認められた地域での個人開業も認められることになる。
1951年から翌52年にかけて実施された計3回の試験によって、126人(沖縄96人、奄美30人)が医介輔として登録される。
②『医介輔』の法的位置づけ
1951年、琉球列島米国民政府の公布した米国民政府令第37号により、医介輔は「保健所長の監督の下に」という制限つきで治療ができ、医師配置委員会によって、十分な医療が保障されないと認められた地域で個人開業することが出来るようになる。
ただし、医介輔に許された医療行為は、米国民政府の下部組織である琉球政府の立法機関、立法院が1958年に定めた規則第108号(介輔及び歯科介輔規則)によって次のように制限される。
1) 重症患者に対する診療禁止。ただし、応急処置はこの限りでない。
2) 入院治療の禁止
3) らい患者に対する診療禁止
4) X線検査およびX線治療その他の理学療法の禁止
5) 大手術の禁止
6) 外科手術的抜歯の禁止
7) 広範なる化膿性歯科疾患の診療禁止
8) 保険所長または医師もしくは歯科医師の指示によらなければ抗生物質を使用してはならない。
③沖縄本土復帰と『医介輔』の変遷
1969年、佐藤栄作首相とリチャード・ニクソン大統領による首脳会談で、「1972年の沖縄本土復帰」が決定。この沖縄本土復帰の流れの中で、医介輔の身分保障問題がクローズアップされる。日本には医師法第17条が存在する。「医師でなければ、医業をなしてはならない。」というこの法律に従い、このまま沖縄本土復帰となれば、医介輔の存在そのものが違法となってしまうという問題があった。
日本政府は、沖縄本土復帰時も沖縄の僻地医療は改善されていないとして、1971年「沖縄の復帰に伴う特別措置に関する法律」を制定。これにより1972年5月15日、沖縄が本土復帰を迎えた後も、これまで通り医介輔は個人開業し患者を治療出来ることが保障される。しかし、その身分は一代限りとなる。
1979年、国民健康保険加入者の医介輔利用率は、沖縄県全体で4.7%。しかし、地域によっては、医介輔利用率が39%に上る所もあり、本土復帰後も医介輔は一次医療の重要な役割を担い続けた。
また医介輔達は、定期的に最新医療に関する講習会を開き、お互いの医学の知識を高めあった。
そして、2008年10月6日。最後の医介輔であった宮里善昌さんが診療所を閉め、戦後沖縄の地域医療を約60年にわたり支えてきた医介輔の歴史が幕を閉じた。
(参考文献:社会福祉研究所報 第32号(熊本短期大学付属社会福祉研究所 著)
琉球新報 2008年11月19日付)
~最後の医介輔・宮里善昌~
最後の医介輔・宮里善昌さんは戦前、1936年から1941年の6年間にわたり、地元の病院で医師助手として働き、その経験がきっかけで、戦時中はソロモン諸島ブーゲンビル島に衛生兵として従軍。
ブーゲンビル島で宮里さんが目の当たりにしたのは、兵士が餓死していく姿だった。
「白いお米が食べたい」と言う兵士に、宮里さんが「白いお米だよ」と近くの雑草を口に入れると、その兵士は「美味しい」と言ってそのまま息をひきとったこともあったという。
宮里さんの地元の集落から16人が出陣したが、生きて帰ってきたのは宮里さん一人だけだった。
宮里さんは、「あなたは人を救うために生かされた」という母親の言葉で、医介輔になる事を決意。1951年、米国民政府が実施した医介輔の試験に合格し、医介輔になる。
まだ、医療保険制度もない時代。宮里さんは、貧しい家からは診察代を取らなかった。また、大きな病院での治療が必要な重い病気を患った患者さんには、宮里さんがお金を渡して、病院に行かせたこともあったという。
医介輔になってからは、昼夜問わず住民の為に尽くした宮里さん。そんな宮里さんの一番の支えになったのが、宮里さんの奥さんだった。
戦前、医師助手の頃、病院の近くで雑貨店を営んでいた看板娘に宮里さんが惚れ込み結婚。村一番の料理上手だった奥さんは、医介輔の仕事にも理解があり、養豚や農業などを一人で行い、家計を助けた。
医介輔が正式な医師でない為、宮里さんは時に「ニセモノ医者」と偏見や差別に晒されることもあった。
ある日、診療所にやって来た患者さんを肋膜炎と診断した宮里さん。車で大きな病院まで連れて行くと、病院の医師は肋膜炎ではなく肺炎だと診断。さらに、その医師は患者さんに「宮里は医者ではない。俺の言う事を聞いていればいいんだ。」と言った。
しかし、その患者さんは医師の診断を信じず、その後再度検査を要請。再検査の結果は、肋膜炎だった。
医介輔の仕事を「90歳までやる」と話していた宮里さん。
しかし、聴診器を使う耳が聞こえづらくなり「誤診しては大変」と引退を決意。沖縄県うるま市勝連平敷屋で、診療所を開業してきた最後の医介輔・宮里善昌さんは2008年10月6日、87歳で診療所を閉める。
(宮里善昌さんご本人および長女・光枝さんへのインタビュー、
琉球新報 2008年11月19日付、
より引用)
~沖縄と医介輔の歴史~
1941年12月8日 :太平洋戦争開戦。
1942年~ :ブーゲンビル島のあるソロモン諸島での戦いが激化。
1944年10月10日:米軍による空襲で那覇市の90%が壊滅。
1945年4月1日 :米軍が沖縄本島に上陸、ニミッツ布告を公布。※1
沖縄が米国の軍政下に置かれる。
1945年4月 :米国軍政府が、医師助手制度を創設。※2
1945年8月15日 :終戦。
1951年 :医師助手制度に代わって、医介輔制度を創設。※3
医介輔の試験が実施され、126人が医介輔に合格。
1971年 :日本政府が沖縄の本土復帰後も医介輔の存続を認め
る。※4
1972年5月15日 :沖縄本土復帰(沖縄県になる)
2008年10月6日 :最後の医介輔である宮里善昌さんが引退。
関連法
※1 米国海軍軍政府布告第1号(ニミッツ布告):沖縄における日本国の全て
の行政権の行使を停止
※2 米国海軍軍政府布告第9号:医師助手制度の創設
※3 琉球列島米国民政府令第43号:医師助手廃止および医介輔制度創設
※4 沖縄の復帰に伴う特別措置に関する法律 第100条:本土復帰後の医介
輔存続
僕も「沖縄ロケ」でドラマのモデルになった宮里善昌さんにお会いしたが、89歳と思えないほど、元気でしっかりしていて、明るい人柄だった。