ヒューマンドラマスペシャル
『ニセ医者と呼ばれて ~沖縄・最後の医介輔~』
12月9日(木)よる9:00~10:48放送で決定しました。
<みどころ>
沖縄で「最後の医介輔(いかいほ)」と呼ばれ、2008年に87才で引退した実在の人物・宮里善昌さんをモデルに描く。
1959年、アメリカ統治下の沖縄。医師免許を持たない代用医師である“医介輔”の宮前良明(堺雅人)は、満足な薬も治療設備も持てない医介輔という立場にジレンマや無力感を抱えながら、米軍基地のある村で、病やケガに苦しむ村の人々のために診療を行っていた。つつましい生活をしながら、治療費を払えない貧しい人には、逆に金を渡すような良明を、妻のハナ(寺島しのぶ)は黙って見守り、献身的に支えた。ある日、近くに住む漁師の妻が診療所にやってきて、自身の妊娠を告げる。しかし、彼女は3ヶ月前に米兵にレイプされ、お腹にいる子が夫の子か米兵の子かわからないという。警察にも夫にも相談できず苦しむ彼女に、戦場で死んでいった多くの戦友を見てきた良明は、「私には堕ろせとは言えない。できれば産んで欲しい」と告げるが…。
医介輔と患者の深い絆・信頼関係を軸に、戦後沖縄の現実を描く感動のヒューマンドラマ。
<内 容>
1959年、アメリカ統治下の沖縄。基地がある村で小さな「嘉手納北診療所」を開業する宮前良明(堺雅人)は、「医介輔」と呼ばれる医師免許を持たない代用医師だ。沖縄では戦後、深刻な医師不足に陥り、旧日本軍の衛生兵など、医療従事経験者を僻地や離島の医療に当たらせる制度があった。それが医介輔だ。未だ残る不発弾を触って負傷した子供など、今なお戦争の爪痕が残る村で、病やケガに苦しむ人々らを献身的に治療する良明。だが医介輔は使える薬や医療設備、医療行為に多くの制限が加えられていたため、良明は患者に十分な治療をしてやれないジレンマに苦しみ無力感を抱えていた。免許を持つ医師からは「ニセ医者」とあからさまに差別されることもあり、懸命に尽くしても認められず、その胸の内は虚無感に満ちてもいた。
貧しい人からは治療費を貰うどころか、逆に金を与えてしまうような良明。3人の子を抱える家庭はつつましい暮らしぶりだったが、妻のハナ(寺島しのぶ)はそんな夫を黙って見守り、自ら鶏を飼って卵を売るなどし、家計を助けていた。人前や家ではいつもニコニコと笑顔を絶やさない良明だったが、ハナだけは夫が誰にも言えない医介輔ゆえの心の闇を抱えていることに気づいていた。
ある日、漁師の妻で仲前由美(尾野真千子)という美しい女性が診療所に訪ねてきた。由美は妊娠していたが「うちの人の子供じゃないかも知れない」という。3ヵ月前に夫の雄太(阿部力)が漁で留守の時、突然家に押し入ってきた米兵にレイプされたというのだ。警察にも夫にも相談できず、良明に「どうすればいいんですか」とすがって、堪えていた涙をこぼす由美。夫の雄太は、愛する由美と結婚することだけを夢見て、ビルマの戦場から帰還し、ようやく所帯をもって幸せいっぱいだった。あとは子供ができることだけを楽しみにしていた。良明は途方もない現実を突きつけられて言葉が継げず、自分の無力を痛感する。ハナは帰宅した良明の様子に不穏なものを感じ取るが、良明は妻に心配をかけまいと、何も語ろうとしなかった。それがハナには寂しかった。
子供を堕ろすならもう時間はなかった。由美は「もし夫の子供なら…」と思うと決断できない。どうすべきか教えてください、と迫る由美に、良明は堕ろしたほうがいいとは言えなかった。良明は衛生兵として赴いたソロモン諸島ブーゲンビル島のジャングルで、生きたいと願いながら死んでいった、たくさんの戦友を見てきた。その島で生き残ったのは良明一人だった。戦争が終わり、一人生き残った自分を責め続ける良明に、「医介輔」をやらないかという話が舞い込んだ。“もしかしたら、これをやるために自分は生かされたのかもしれない”“死んだ戦友たちが、一人でも多くの人の命を救えと言っているのかも知れない”。そう考え、良明は医介輔になる決意をした。「だから、生まれようとしている新しい命を奪うことは、どうしてもできない。産んで欲しい」と良明。「もし、うちの人の子じゃなかったら」と怯える由美に、良明は「私が責任を持つ」と言い切った。そんな二人のただならぬ様子に気づくハナ。ハナには夫が何か秘め事をしているように見え、言いようのない不安がこみ上げた。
良明に背中を押されて産む決意をした由美。妊娠を告げられた雄太は、大喜びだ。良明は心のどこかで迷いながらも、お腹の子が夫の子であるよう、ただひたすら心の中で祈り続けた。
新垣真治(今井雅之)が胸の痛みを訴え、妻に付き添われて診療所にやってきた。良明は肋膜炎と診断する。だが、大学で医学部に通いながら、戦争で片腕を失い、医者になる道を断たれた新垣には、医介輔など認めたくない存在だった。新垣は良明の診断を信用せず、街の病院に連れて行けと言う。良明が付き添って訪ねた那覇の病院でも、医師が良明の診断を信用せず、肺炎と診断した。だが、のちにそれが誤診と判り、良明の診断が正しかったことが明らかになる。医介輔に負けたことが悔しいその医師は「あんたみたいなニセモノに人を救えるわけがないだろう」と吐き捨てる。良明は悔しい気持ちを必死で自制した。
由美がついに産気づいた。産婆が間に合わず、良明が取り上げることになった。ハナは2人の間の秘密が気になりながらも、それを手伝うことになる。激しい陣痛に苦しみながら「神様、神様…」と祈る由美。必死になって「大丈夫」と励ます良明。やがて、赤ん坊の泣き声が診療所に響き渡った。そして、生まれてきた赤ん坊は…。
<出 演>
宮前 良明 堺 雅 人
仲前 由美 尾 野 真千子
仲前 雄太 阿 部 力
新垣 真治 今 井 雅 之
○
院 長 津 川 雅 彦
○
宮前 ハナ 寺 島 しのぶ
<スタッフ>
脚 本 遊 川 和 彦
演 出 国 本 雅 広
チーフプロデューサー 堀 口 良 則
(読売テレビ)
プロデューサー 岡 本 浩 一
(読売テレビ)
大 森 美 孝
(日テレアックスオン)
制作協力 日テレアックスオン
制作著作 ytv
~医介輔とは~
①歴史的背景
太平洋戦争終盤の1945年4月1日、米軍は沖縄本島に上陸し、米国海軍軍政府布告第1号(ニミッツ布告)を公布。琉球列島米国軍政府が設立され、沖縄は米国の軍政下に置かれる。
1943年に163人いた医師が戦死などによりわずか64名にまで激減。マラリアや結核などの感染症が蔓延していたため、1945年4月、琉球列島米国軍政府は米国海軍軍政府布告第9号を公布。軍隊の衛生兵、医師の手伝いをしていた者、医学校中退者など医療の経験を有する者に医師助手という資格を与えることになる。
1945年8月15日、終戦。
1950年12月15日、沖縄の長期的統治の為、琉球列島米国軍政府は、琉球列島米国民政府に組織を改める。
1951年、琉球列島米国民政府は、それまで公務員として医療に従事していた医師の個人開業と完全な自由診療を認める。完全な自由診療に移行したことにより、医師が都市部に集中し、離島や僻地で医師のいない無医地区が多数出来る。
この対策として同年5月5日、琉球列島米国民政府は、医師助手制度が廃止し、代わって医介輔制度を創設。医介輔は「保険所長の監督の下に」という制限つきで治療ができ、医師配置委員会によって十分な医療が保障されないと認められた地域での個人開業も認められることになる。
1951年から翌52年にかけて実施された計3回の試験によって、126人(沖縄96人、奄美30人)が医介輔として登録される。
②『医介輔』の法的位置づけ
1951年、琉球列島米国民政府の公布した米国民政府令第37号により、医介輔は「保健所長の監督の下に」という制限つきで治療ができ、医師配置委員会によって、十分な医療が保障されないと認められた地域で個人開業することが出来るようになる。
ただし、医介輔に許された医療行為は、米国民政府の下部組織である琉球政府の立法機関、立法院が1958年に定めた規則第108号(介輔及び歯科介輔規則)によって次のように制限される。
1) 重症患者に対する診療禁止。ただし、応急処置はこの限りでない。
2) 入院治療の禁止
3) らい患者に対する診療禁止
4) X線検査およびX線治療その他の理学療法の禁止
5) 大手術の禁止
6) 外科手術的抜歯の禁止
7) 広範なる化膿性歯科疾患の診療禁止
8) 保険所長または医師もしくは歯科医師の指示によらなければ抗生物質を使用してはならない。
③沖縄本土復帰と『医介輔』の変遷
1969年、佐藤栄作首相とリチャード・ニクソン大統領による首脳会談で、「1972年の沖縄本土復帰」が決定。この沖縄本土復帰の流れの中で、医介輔の身分保障問題がクローズアップされる。日本には医師法第17条が存在する。「医師でなければ、医業をなしてはならない。」というこの法律に従い、このまま沖縄本土復帰となれば、医介輔の存在そのものが違法となってしまうという問題があった。
日本政府は、沖縄本土復帰時も沖縄の僻地医療は改善されていないとして、1971年「沖縄の復帰に伴う特別措置に関する法律」を制定。これにより1972年5月15日、沖縄が本土復帰を迎えた後も、これまで通り医介輔は個人開業し患者を治療出来ることが保障される。しかし、その身分は一代限りとなる。
1979年、国民健康保険加入者の医介輔利用率は、沖縄県全体で4.7%。しかし、地域によっては、医介輔利用率が39%に上る所もあり、本土復帰後も医介輔は一次医療の重要な役割を担い続けた。
また医介輔達は、定期的に最新医療に関する講習会を開き、お互いの医学の知識を高めあった。
そして、2008年10月6日。最後の医介輔であった宮里善昌さんが診療所を閉め、戦後沖縄の地域医療を約60年にわたり支えてきた医介輔の歴史が幕を閉じた。
(参考文献:社会福祉研究所報 第32号(熊本短期大学付属社会福祉研究所 著)
琉球新報 2008年11月19日付)
~最後の医介輔・宮里善昌~
最後の医介輔・宮里善昌さんは戦前、1936年から1941年の6年間にわたり、地元の病院で医師助手として働き、その経験がきっかけで、戦時中はソロモン諸島ブーゲンビル島に衛生兵として従軍。
ブーゲンビル島で宮里さんが目の当たりにしたのは、兵士が餓死していく姿だった。
「白いお米が食べたい」と言う兵士に、宮里さんが「白いお米だよ」と近くの雑草を口に入れると、その兵士は「美味しい」と言ってそのまま息をひきとったこともあったという。
宮里さんの地元の集落から16人が出陣したが、生きて帰ってきたのは宮里さん一人だけだった。
宮里さんは、「あなたは人を救うために生かされた」という母親の言葉で、医介輔になる事を決意。1951年、米国民政府が実施した医介輔の試験に合格し、医介輔になる。
まだ、医療保険制度もない時代。宮里さんは、貧しい家からは診察代を取らなかった。また、大きな病院での治療が必要な重い病気を患った患者さんには、宮里さんがお金を渡して、病院に行かせたこともあったという。
医介輔になってからは、昼夜問わず住民の為に尽くした宮里さん。そんな宮里さんの一番の支えになったのが、宮里さんの奥さんだった。
戦前、医師助手の頃、病院の近くで雑貨店を営んでいた看板娘に宮里さんが惚れ込み結婚。村一番の料理上手だった奥さんは、医介輔の仕事にも理解があり、養豚や農業などを一人で行い、家計を助けた。
医介輔が正式な医師でない為、宮里さんは時に「ニセモノ医者」と偏見や差別に晒されることもあった。
ある日、診療所にやって来た患者さんを肋膜炎と診断した宮里さん。車で大きな病院まで連れて行くと、病院の医師は肋膜炎ではなく肺炎だと診断。さらに、その医師は患者さんに「宮里は医者ではない。俺の言う事を聞いていればいいんだ。」と言った。
しかし、その患者さんは医師の診断を信じず、その後再度検査を要請。再検査の結果は、肋膜炎だった。
医介輔の仕事を「90歳までやる」と話していた宮里さん。
しかし、聴診器を使う耳が聞こえづらくなり「誤診しては大変」と引退を決意。沖縄県うるま市勝連平敷屋で、診療所を開業してきた最後の医介輔・宮里善昌さんは2008年10月6日、87歳で診療所を閉める。
(宮里善昌さんご本人および長女・光枝さんへのインタビュー、
琉球新報 2008年11月19日付、
より引用)
~沖縄と医介輔の歴史~
1941年12月8日 :太平洋戦争開戦。
1942年~ :ブーゲンビル島のあるソロモン諸島での戦いが激化。
1944年10月10日:米軍による空襲で那覇市の90%が壊滅。
1945年4月1日 :米軍が沖縄本島に上陸、ニミッツ布告を公布。※1
沖縄が米国の軍政下に置かれる。
1945年4月 :米国軍政府が、医師助手制度を創設。※2
1945年8月15日 :終戦。
1951年 :医師助手制度に代わって、医介輔制度を創設。※3
医介輔の試験が実施され、126人が医介輔に合格。
1971年 :日本政府が沖縄の本土復帰後も医介輔の存続を認め
る。※4
1972年5月15日 :沖縄本土復帰(沖縄県になる)
2008年10月6日 :最後の医介輔である宮里善昌さんが引退。
関連法
※1 米国海軍軍政府布告第1号(ニミッツ布告):沖縄における日本国の全て
の行政権の行使を停止
※2 米国海軍軍政府布告第9号:医師助手制度の創設
※3 琉球列島米国民政府令第43号:医師助手廃止および医介輔制度創設
※4 沖縄の復帰に伴う特別措置に関する法律 第100条:本土復帰後の医介
輔存続
沖縄ロケ コメント
堺雅人
「(最初にこのドラマの企画を聞いたとき)今まで医介輔のことは知らなかったので、自分自身もいろいろ勉強したいなという気持ちと、本や映像、ドラマを含め、初めて紹介されるといってもいい題材なので、責任を感じるというか…“なるべく正しい形でお伝えできれば”という、そんな気持ちでした」
「実際医者じゃないのに、医者のふりをして医者のような気持になっていく俳優と、制度上ぽっかり空いた医者と民間人の中間人である医介輔という存在は、少し重なっているところがあるかもしれないですね。まだ演じて2日目、3日目ですが、やっていくうちに医介輔の持つ“宙ぶらりんな気持”というのか、その宙ぶらりんのおもしろさを少しずつ実感していくような気がしています」
寺島しのぶ
「(医介輔・宮里氏の人生について)病は気から…じゃないですが、痛いのも、もしかしたら先生と喋っていたら飛んでいってしまうような魅力を持っていた方だったんじゃないでしょうか。そこにどういう葛藤があったのかは私には分からないですが、実際に医者が足りなくて必要でやっていたわけですから。傷を癒すとか、外科的なものだけじゃなくて、この先生は患者さんの心を開いてあげたり、いろいろなことやってあげていたのかなと想像しています。今回、医介補の妻を演じて、旦那さんのつらい気持、どうしていいのか分からない気持を、近くで感じ取れたらいいなと思っています」
宮里善昌
「16歳から病院の医師助手として住み込みで働いて、軍隊でも衛生兵を務めていたので、“これ以外にやれる仕事はない”と医介輔になりました。医療器具の面とか技術の面など、患者さんにしてあげられないこともありましたが、その時はほかの大きな病院に紹介してましたので、自分では特にこの仕事に苦労があったとは思っていません。ただ自分自身、小さいころは貧乏で苦労したので、お金のない人からお金は取れませんでした。家が貧しくて病院に行けず、2年間無料で治療した小学生の患者もいました。自分が診断した患者に、本物の医者が“あれは医者ではないから”といって、違う診断を下したことがあります。結果的に私の診断が正しかったが、本物の医者から“ニセ者”呼ばわりされたことが一番苦しかった。ここまでやってこられたのは、やはり患者さんがいたからです。患者さんが治った姿を見るときが一番うれしかった」
奥行きの深い、とても感動するドラマです。是非観て下さいね。