刀 大和守源秀國
刀 大和守源秀國慶應三年二月日
刃長二尺三寸四分強、反り三分強。いかにも実戦を想定した造りで、慶応三年の年紀も騒乱の最中の作であることを物語っており、この刀が生きた背景や存在感に興味が及ぶ。この前年に大和守を受領していることもあり、時代を背負って活躍しようと意気盛んな秀國(元興)の様子が伝わってくる。秀國が多くの試断家の協力を得て截断能力を高め、自らの作刀に活かしたことも良く知られている。この時代に『業物位列』が行われていたら、固山宗次に次いで最上大業物作者に指定されたであろうと想像される。作行の下地には、先に紹介したように孫六兼元に倣った美濃伝の作風がある。この刀は、刃文のみを見れば美濃風とは言い切れないが、地鉄鍛えには美濃古伝の中の善定派にあるような小板目鍛えに直刃仕立てという作風が読み取れる。刃寄りわずかに流れて柾がかり、焼刃は匂口の締まった浅い直刃で、打ち合いを想定した作であることも理解できよう。飾り気を控えた実戦刀である。皺革包みの、時代の拵が附されている。□
刀 大和守源秀國慶應三年二月日
刃長二尺三寸四分強、反り三分強。いかにも実戦を想定した造りで、慶応三年の年紀も騒乱の最中の作であることを物語っており、この刀が生きた背景や存在感に興味が及ぶ。この前年に大和守を受領していることもあり、時代を背負って活躍しようと意気盛んな秀國(元興)の様子が伝わってくる。秀國が多くの試断家の協力を得て截断能力を高め、自らの作刀に活かしたことも良く知られている。この時代に『業物位列』が行われていたら、固山宗次に次いで最上大業物作者に指定されたであろうと想像される。作行の下地には、先に紹介したように孫六兼元に倣った美濃伝の作風がある。この刀は、刃文のみを見れば美濃風とは言い切れないが、地鉄鍛えには美濃古伝の中の善定派にあるような小板目鍛えに直刃仕立てという作風が読み取れる。刃寄りわずかに流れて柾がかり、焼刃は匂口の締まった浅い直刃で、打ち合いを想定した作であることも理解できよう。飾り気を控えた実戦刀である。皺革包みの、時代の拵が附されている。□