子どもの頃、階段を登って二階に上がってすぐのスペースがニ〜三畳ほどの広さで、壁に向って天井が斜めになっていて、壁際の高さは50センチほどしかなく、そこに覗き窓のような小さな窓がついていた。そんな屋根裏小屋の様なところに自分の場所を貰った。
最初は、その小さな窓際から外が見える位置に布団をひき、夕方の下界や朝焼けの山並みを見ていた。星空は残念ながら屋根の軒が邪魔をして見えなかった。
その窓から家の裏の通りの先に、そろばん教室が見えた。放課後、週3日ほど、子どもたちが賑わっていた。
そこに通っている子達が羨ましくて、小学生の頃、母親にお願いしたけど、通わせては貰えなかった。
教室が終わった後の子どもたちが集まって、かくれんぼや鬼ごっこをしている姿をその窓からいつも見ていた。
低学年の頃は遠慮も躊躇もなく、外に出て混ざることができたが、ギャングエイジに差し掛かる頃から、学校でもそれ以外の場所でも、自分の存在が歓迎されていないような事や言葉、雰囲気を感じるようになり、学校から家に帰ると、誰かから誘われるでもない限り、自分から外に出ることがあまりなくなった。
その小さな窓に届いてくる夕方の子どもの無邪気な声達が、ぎゅっと胸を締め付けた。
私が、中学生になって、弟たちは小学校中学年から低学年。次々とそろばん教室に通い始める。。。
私は、だめだったのにな。
小学校高学年で、家庭科の授業が始まったとき、私は、みんなが学校で注文していた裁縫箱を買って貰えなかった。
母が持っていた鋏や針をお菓子の箱の様なものに入れられ持たされた。
学校の授業は、みんながお揃いで持っている裁縫箱に沿って行われる。
同じものを持っていない私にだけ授業を中断して説明しなければならない先生のイライラが感じられて、恥ずかしかったし、辛かった。
そんなことはしょっちゅうだった。勉強が特別できなかったわけではなかったのに、でも私がいるせいで、授業に余計な時間と手間がかかる。
先生にも邪魔にされている気がした。
課外授業でみんなで自転車で出掛けたときも、私の自転車がまともに走れるものではなくて、みんなのペースについて行けず、クラスメートも先生も、こいつが居なければ。。。みたいな空気が出ているのが辛く、消えてしまいたかった。
でも、弟たちは裁縫箱も自転車も、学校で必要なものは買って貰ってたよなぁ。。。
私は、だから、6年生になってから、新聞配達を始めて、自分が必要と思ったものは、自分で買っていた。
それでも、中学に入ってから、部活で使う用具もなかなか買えず、Tシャツも持ってなくてジャージのまま部活して、汗臭いとバイ菌扱い。下着なんかも少ない枚数で回して着ていたから、意地悪な同級生が男子の前でわざとスカートめくって「またおんなじパンツはいてる!!!!www」なんて晒されたりした。
部活、夏休みとか長時間の練習になるのが辛くて、汗をかく自分も、それをネタにバイ菌扱いされるのも嫌だったし、それを処理するお金も知恵も持ち合わせていなくて、誰にも相談できずにいつも先生に無断で部活を休み、夏休み、冬休み明けはとっても学校に行きにくかった。
そのうち体育の授業も辛くなって、体調が悪いと保健室に行ったり、朝から体育のある日は具合悪い振りして学校休んだりすることもあった。
教室でもバイ菌扱いされたりバカにされるのがドンドン酷くなって、親に「学校に、もう行きたくない」と、登校拒否して問題が表沙汰になって、一応は収まったけれど、それは表面上の事で。
同級生たちとは卒業後はほとんど関わりはないし、親も世間ズレしたまま変わることなく。
私の存在は、学校の中ではいじめられても仕方ないものだったのかな。
親にとっても私って何だったのかな。
今は、旦那さんが、子どもたちが、私のことを必要な存在だと思ってくれているのが肌で感じられるので、とても幸せだと思っている。
日々、この家庭の笑い声は、子供の頃にはなかった暖かいものだと感じられる。
この先も、できるだけ永く(家族の形は変わっていくだろうけれど)暖かく笑える家庭でありますように。
最初は、その小さな窓際から外が見える位置に布団をひき、夕方の下界や朝焼けの山並みを見ていた。星空は残念ながら屋根の軒が邪魔をして見えなかった。
その窓から家の裏の通りの先に、そろばん教室が見えた。放課後、週3日ほど、子どもたちが賑わっていた。
そこに通っている子達が羨ましくて、小学生の頃、母親にお願いしたけど、通わせては貰えなかった。
教室が終わった後の子どもたちが集まって、かくれんぼや鬼ごっこをしている姿をその窓からいつも見ていた。
低学年の頃は遠慮も躊躇もなく、外に出て混ざることができたが、ギャングエイジに差し掛かる頃から、学校でもそれ以外の場所でも、自分の存在が歓迎されていないような事や言葉、雰囲気を感じるようになり、学校から家に帰ると、誰かから誘われるでもない限り、自分から外に出ることがあまりなくなった。
その小さな窓に届いてくる夕方の子どもの無邪気な声達が、ぎゅっと胸を締め付けた。
私が、中学生になって、弟たちは小学校中学年から低学年。次々とそろばん教室に通い始める。。。
私は、だめだったのにな。
小学校高学年で、家庭科の授業が始まったとき、私は、みんなが学校で注文していた裁縫箱を買って貰えなかった。
母が持っていた鋏や針をお菓子の箱の様なものに入れられ持たされた。
学校の授業は、みんながお揃いで持っている裁縫箱に沿って行われる。
同じものを持っていない私にだけ授業を中断して説明しなければならない先生のイライラが感じられて、恥ずかしかったし、辛かった。
そんなことはしょっちゅうだった。勉強が特別できなかったわけではなかったのに、でも私がいるせいで、授業に余計な時間と手間がかかる。
先生にも邪魔にされている気がした。
課外授業でみんなで自転車で出掛けたときも、私の自転車がまともに走れるものではなくて、みんなのペースについて行けず、クラスメートも先生も、こいつが居なければ。。。みたいな空気が出ているのが辛く、消えてしまいたかった。
でも、弟たちは裁縫箱も自転車も、学校で必要なものは買って貰ってたよなぁ。。。
私は、だから、6年生になってから、新聞配達を始めて、自分が必要と思ったものは、自分で買っていた。
それでも、中学に入ってから、部活で使う用具もなかなか買えず、Tシャツも持ってなくてジャージのまま部活して、汗臭いとバイ菌扱い。下着なんかも少ない枚数で回して着ていたから、意地悪な同級生が男子の前でわざとスカートめくって「またおんなじパンツはいてる!!!!www」なんて晒されたりした。
部活、夏休みとか長時間の練習になるのが辛くて、汗をかく自分も、それをネタにバイ菌扱いされるのも嫌だったし、それを処理するお金も知恵も持ち合わせていなくて、誰にも相談できずにいつも先生に無断で部活を休み、夏休み、冬休み明けはとっても学校に行きにくかった。
そのうち体育の授業も辛くなって、体調が悪いと保健室に行ったり、朝から体育のある日は具合悪い振りして学校休んだりすることもあった。
教室でもバイ菌扱いされたりバカにされるのがドンドン酷くなって、親に「学校に、もう行きたくない」と、登校拒否して問題が表沙汰になって、一応は収まったけれど、それは表面上の事で。
同級生たちとは卒業後はほとんど関わりはないし、親も世間ズレしたまま変わることなく。
私の存在は、学校の中ではいじめられても仕方ないものだったのかな。
親にとっても私って何だったのかな。
今は、旦那さんが、子どもたちが、私のことを必要な存在だと思ってくれているのが肌で感じられるので、とても幸せだと思っている。
日々、この家庭の笑い声は、子供の頃にはなかった暖かいものだと感じられる。
この先も、できるだけ永く(家族の形は変わっていくだろうけれど)暖かく笑える家庭でありますように。