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肥田城の水攻めと野良田表合戦
肥田町崇徳寺に、延享三年(1764)に旧記から転記し
たと思われる過去帳と、それをもとに作成したと考えられ
る高野瀬家系図があり、これらによりますと、高野瀬氏は、
鎌倉期以降高野瀬村から身を興し、Tハ歳の隆益にみられ
るように永久の乱に出陣して戦功をたて、信景のように、
荘園の代官を務めながら所領を増やし、高野瀬村、肥田村
に館を建て、土豪-その土地の豪族。国人-在地の武士-
として勢力を強めていく。
室町期になると、守護職である佐々木六角氏と主従関係を
結ぶ。この佐々木氏の命を受けて肥田に築城する頃は、武
術に優れた武将として、佐々木四八将の一員に列せられ、
さらに従五位下越州勅史という官位も得るようになる。と
ころで、足利幕府は、幕府の有力な家来である守護が国内
の土豪、国人などの武士を封建的主従関係を組む道をつく
る。文和元年(1352)、畿内および近江、尾張、美濃
の八か国の荘園について、その年の年貢の半分を兵糧とし
て徴収する「半済」の権利を守護に許す。守護はそのうち
の一部を自分がとり、大部分は国内の武士に配分。一年限
りであったこの処置は、毎年繰りかえされ、守護は事実上、
荘園の半分の土地を支配するようになりました。この過程
で、高野瀬氏は、守護佐々木六角氏のもとに組み込まれた
ものと考えられている。
ところで、宇曽川中流に位置し、それによる沖積地の肥田
は、東に中山道、西に下街道-浜街道、朝鮮人街道とも呼
ばれる-があり、農耕と舟運に至極恵まれたこの地に菩提
寺をもつ目枝の庄の土崇高野瀬氏は、肥田城とその城下町
として整備にとりかかる。この城は藩簸として――入り口
の護り――また守護六角氏の出城として、15世紀後半か
らよ16紀前半の頃のころと推定。 肥田城は、中世末の
ろと平地に建てられた城館-平城-である。土俵、その家
臣の屋形が独立した城塞的要素を備えながら、民家をその
外周に整然と配置し、全体を宇曽川とその堤防、壕と土塁
で囲みこむ、近世城郭への形態をもつ。
この項つづく
【ヘルダーリン:詩人としての出発を前に】
● 幼少時代
ヘルダリーンの誕生
ドイツを南北に縦断するライン何は、ハイデルベルク近郊
で南ドイツから流れくる一つの支流を迎えている。そのひとつ
がネッカー河で、もうひとつのマイン河と並び重要な役割
を担ってきた河である。この何を包み容れている地方名称
がシュヴァーベンで、当時のヴュルテンベルク公国に限定
すれば西側に南北にまたがるシュヴァルツヴァルト(黒い
森)と、その南端部に接しつつ東北に続く中程度の丘陵山
脈のシュヴァーベン高地との間の三角状の地帯に相当し、
二つの山脈から流れている水脈をひとつに集めたネッカー
河か北方へ縦に貫くように流れ、公国全土の自然を豊かな
瑞々しいものにしてきたのである。これは現在のバーデン
ーヴュルテンベルク州の地勢にも一致する。
そのネッカー河がおだやかな傾斜の葡萄畑の陥陵の間を縫
うように流れている河畔の小村ラウフェンに、ヘルダリー
ン、正式名∃ハン=クリスティアン=フリードリヒ=ヘル
ダリーンは、1770年3月20日にヘルダリーン家の長
男として生まれた。父親はハインリヒ=フリードリヒ=ヘ
ルグリーン(1736~72)で、9世紀まで遡る聖女レ
ギスヴィンディス伝説に因む教会に発し、11世紀紀につ
くられごれ1551年まで存続した尼僧院がこの父の勤め
先の前史である。
その尼僧院もすでになく、ヘルダリーン家の建物自体もル
ターの宗教改革以降は新教を公国の国教とするヴュルテン
ベルク公国宗教局に直属し、建物と付属する領地、その土
地L地での葡萄酒販売を含む管理・経常の一切が彼に任さ
れていた。彼は肖像から見ても、実業家の商才を併せ持つ
実直で明朗な人物だったことがうかがえる。
母親のヨハナ=クリスティアーナ=ヘルダリーン(旧姓ハ
イン、1748~1828)も教養の高い牧師の家の出で
実務肌の夫をよく助けはしたが、夫の片腕となって管轄領
地の経営を共にきりまわすというよりは、家庭内が円満に
成り立つように濃やかな気くばりを怠るまいとする気質の
女性だった。ヘルダリーンは貴族の富裕階級ではないが、
公国官吏としての相当恵まれた家の長子として近親者一同
の期待のなかに出生したと言ってよい。
そんな赤子の今福が、突然運命の手により断ち切られる。
父が卒中の発作で倒れにくなってしまったのである。36
歳のあまりに早い死だった。うら若い母けはまだ23歳、
2年3ヵ月余りのヘルダリーン、1歳3ヵ月の女児、出産
を約1ヵ月後にひかえたお腹の子が残されたのだ。やがて
彼女は二年後に、ヨハン=クリストスフ=コック(174
8~79)と縁を得て再婚る。亡夫の友人で有能な官吏だ
った。そして一家はゴックの新しい勤め先の町、もう少し
南の、ネッカー河畔のニュルティングンに移り住んだ。ヘ
ルダリーンはほとんど最初の父ハインリヒの記憶のないま
ま第二の父を持つことになったわけである。新しい父も弱
冠26歳、2年後にはニュルティングンの町長になった、
けと同年齢のゴツクにヘルグリーンは実の父のようになつ
き、ゴックもまた実の子供のように彼を扱った。クリステ
ィアーネとゴックの間には、4人の子供が年子のように生
まれているので、彼女はあわせて7人の子をもうけたこと
になる。ただ生存したのは詩人の他は、2歳年下のハイン
リーケ(1772~1850、愛称リーケ)と異父弟カー
ル(1776~1849)のみで、他の弟妹はいずれも.
一家の不幸に合わせるように赤子幼児のときに死にしてい
る。生き残ったと名はいずれもそれぞれに生を全うした。
この家にはけのけヨハナ・ロズィーナ(1725~180
2、旧姓ズートア)もやってきた。ゴックの才覚で買い足
した結果、ラウフェン時よりはるかに広く規模にも勝る畑
や果実園に囲まれた大きな家でヘルダリーンは、父や母ら
の情愛を一身に受ける幼年時代を送ることになった。彼の
内部で永く記憶されていた時間と場所である。その時間と
場所は、後の彼の言葉によれば自然だった。それは少年の
彼がどんな仲介も必要とはせずに、自ら名指した神々と戯
れることのできた純粋時間であり同時に純粋空間でもあっ
たからである。その自然は、学業を終え初めて故郷を出て
独立生活を始めた時期に成立の「自然に寄せる」(179
4~95)で、やがてその喪失が底知れないものとなる源
のびとして次のように表現された。
わたしがまだおまえのベールに包まれて遊び、
花がそうするように、まだおまえにびったりと寄り添い、
わたしの優しくおののく心音を包みこむ
どの音にもおまえの心の鼓動を感じとったとき、
わたしがまだおまえと同じくらいに、深く信じる気持ち
やあこがれで
いっぱいになり、おまえの姿を前に立ち、
まだわたしが泣きはらす場所や、
わたしの愛の世界を見つけていたときには、
わたしの心が太陽に向かって見開き、太陽がその調べを
聴きとってくれるかのように感じ、
星々を我が兄弟と呼び
春を神のメロディーと呼んだときは、
森をざわめかせた息吹のなかで
まだおまえの霊気、おまえの喜びの霊気が
心の静かなさざ波のなかで生き生きと動いていたときに
は金色の日々がわたしを抱きしめてくれた。
(第1節~2節)
※ 日本史上、初めての「水攻め」とされるが本当だろう
か?
【エピソード】
【脚注及びリンク】
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- 江佐尚白:生年不詳~享保7年(1722)7月19日
- 旧中山道六十九次徒歩の旅53/鳥居本~64高
宮宿/紀行写真集3 - いのちの神様 多賀大社
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