佐久良城

2014年03月23日 | 滋賀百城

 

  中世「奥津保・奥津野・奥野保・奥津野保・奥野」な
た日野町北東部は、南北朝時代までは、儀俄(蒲生)
支流、佐久良氏が支配していたと考えられている。そ
は、至徳二年(1358)12月19日付の文書に、
儀俄
左京亮氏秀が「奥野保勘定使載・押領使職・同預所
載」
として数代にわたり統治している事が記されている
書状
からもうかがい知ることが出来る。その後、南北朝
時代
が終わる頃を境に、儀俄氏に代わって小倉氏がこの
を支配したと考えられるが、その原因については記録
残っていない為に正確なことはわからない。小倉氏に
ついては、『淡海温故録』の他、『蒲生郡志』七愛知

志』などにそれぞれ系図が記載されるものの、多くの

違点が見られ不明な点が多く、文書等の資料につい
ても
小倉実澄の事跡やその二代後の蒲生氏から養子として迎
えた実隆に関するものが断片的に伝わっているのみであ
る。


 その実隆も永禄七年(1564)3月16日、小倉右
京太夫との合戦で討死しており、5月1日に佐久良を舞
台とした合戦を最後に領主としての小倉氏の動向は不明
である。
 佐久良城については、『蒲生郡志』が「東桜谷村大字
左久良山上にあり小貪官澄の居城なり。左久良山は大字
左久良の東より北に連亘す。北端の山―ににあるを下の
城山といひ 東峯に在るを上の城山と称す。両趾共周囲
を高く囲み 中央は凹みたる平地なり……下の城山は不
等辺方形にして、東と南は18間 西は21間 北は2
6間あり。東北方の谷に近く池あり,御馬冷ましといふ、
此の両城は応仁文明の乱時、文武兼備の良将たりし小倉
賓澄が拠りし所、時には京都五山の禅憎が山トにの識蘆
庵より来遊して、茶を品し酒を酌みし史蹟なり。」と記
している他、享保年間に刊行された『淡海温故録附巻 
古城之図』に「蒲生郡奥津保佐久良ノ郷公文所古城之図
小倉居城本丸廻り七十三間内郭東西二十三間 南北十八
間 城ノ北ノ下二清泉アリ御馬冷ト号ス 公文佐久良刑
部太夫卜部実長代々居之 至徳年中 公文佐久良治部太
夫康照代再興之 下司職小倉進士源景真始被補任之 文
明年中下司小倉三郎実方一男 同左近将監実澄一男 同
兵庫介実則 同三河守実隆也」と城郭の規模や佐久良氏
から小倉氏まで歴代の城主について記すとともに、絵図
を掲載している。その絵図には、「上の城山」と称され
山上に「本丸・二九」と記され石垣が巡る長寸城に対し
て、その尾根続きである「下の城山」と称される丘陵上
に土塁が巡る佐久良城が「小倉三河守居城下司館」とし
て描かれている。


 この絵図を見ると、「長寸城(上の城山)」が本城で、
「佐久良城(下の城山)」が単なる館か別郭であるかの
ような印象を受けるが、遺構の規模や内容を比較検討す
ると、実際はまったく逆であることがわかる。
 確かに長寸城には石積みが見られるが極めて部分的で、
曲輪の削平も甘く、とうてい絵図に描かれたような総石
垣の城郭と言えるものではない。一方、佐久良城は、主
郭の周囲を土塁で囲む他、深さ約11メートルの堀切、
竪堀群などを備えており絵図のような簡易な城郭ではな
いことからみても、絵図は何らかの意図で誇張されてい
ることがわかる。



 また、この二つの城郭は同じ尾根続きに位置するもの
の、その間隔は約1キロと離れており、連絡する尾根上
に城郭関連遺構と考えられるものは確認されていないこ
とからも、伝承されているような居館と詰城といった関
係ではないと考えられる。
 遺構は、比高約50メートルの丘陵上に東西約250
メートル、南北約160メートルの範囲で残 主郭は丘
陵西端部に東西約54メートル、南北約45メートルの
方形に近い平面プランで、周囲を高さ4メートル前後の
土塁で取り囲んでいる。また、主郭北東隅には庭園遺構
と伝えられる窪地が見られる。虎口は、東西中央に開口
しており、大手と伝えられる東側の虎口は、幅約20メ
ートル、深さ約11メートルの堀切を横切る土橋で東側
の馬出状の小曲輪へと接続している。現在この小曲輪か
ら土橋へは斜めに散策道が設定されているが、もとはク
ランク状に析れて土橋に至る遺であったことが観察出来
る。
 この虎口から土橋にかけては縁辺で石積みが見られ、
特に虎口から続く南側の土塁内壁や、堀切東面では数段
積み上げられている様子が確認できる。
 小曲輪から東に続く尾根上には二本の堀切が設けられ
ており、さらにこの堀切が設けられた区域の南北斜面に
は、数条の竪堀が堀られている。南面の竪堀群から西側
には帯郭が設けられ、さらに主郭の周囲は四面から北面
にかけて、堀切と竪堀、横堀状遺構を使用して防御ライ
ンを設定している。      

 出典:

   

 

【エピソード】 

 

  

 

【脚注及びリンク】    

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1. 戦国山城を歩く 小倉実澄が拠った佐久良城, 2013.04.13 
2. 近江 佐久良城 
3. こころに残る風景 佐久良城,滋賀県
4. 佐久良古墳
5. 
滋賀県管内蒲生郡志     
6. 淡海温故録   
7.江のふるさと滋賀 鍋
  
8. 武家家伝 小倉氏  

---------------------------------------------  

 


西山城

2014年03月22日 | 滋賀百城

 
虎の口
 

 朽木谷の中心地、野尻には戦国時代後半に近江守護、
佐々木氏の庶流朽木氏が本拠を構えたところである。そ
の時期については朽木氏の始祖義綱の朽本荘入部時にす
でに構えられたとする説や、元弘二年(1332)に義
綱の子時経によって構えられた説などがあるが、いずれ
にせよ、15世紀には野尻に朽木氏の居館が構えられて
いたことは確実である。さらにその居館は江戸時代にな
ると、交代寄合となった旗本朽木氏の陣屋となり、明治
維新まで存在した。
 その陣屋跡は現在公園となり、郷土資料館が建つ。陣
屋の遺構はほとんど残されておらず、わずかに土塁と堀
の一部、井戸が認められるのみである。さて、この陣屋
跡の裏門跡より背後の洞照山の尾横筋を北北東の方へ登
ること約40分、愛宕神社に到着する。その東側の山が

西山で、西山城跡が位置している。西山は地元では「ホ
ウダイ」と呼ばれている。蜂大台が転化したものではな
いかと考えられる。ただ、この山頂に城跡が存在するこ
とが知られたのは最近のことであり、江戸時代の地誌類
にはまったく登場しない城跡であった。
 西山城跡の構造は頂部に構えられた主郭とその南北に
一段下がって腰曲輪を配する二股構造を基本とした比較
的小規模な山城である。主郭は東西17メートル、南北
40メートルを測り、周囲には土塁が巡る。注目される
のはその北端には幅3メートル、高さ3メートルにおよ
ぶ巨大な土塁が「コ」の字に築かれていることである。
城の規模からは異様な土塁であることは一目瞭然であ
る。この土塁こそが「ホウダイ」=蜂大台の遺構ではな
いかと考えられる。三方土塁で囲まれた場所で蜂大が挙
げられたのであろう。特に強い北風をさえぎるために北
側の土塁が高く築かれたのである。



 北側の腰曲輪は東西17メートル、南北12メートル
を測り、その東側から北側にかけて土塁が巡る。なお、
東側土塁の一部には石積みが認められ、土塁が開口して
いることより虎口であったと考えられる。北側腰曲輪の
北面には巨大な堀切と、さらにその外方にもう一粂の堀
切が設けられ、尾根筋を切断して城域を限っている。
 南側の腰曲輪は東西43メートル、南北25メートル
を測り、西山城跡中最も広い曲輪である。西側の虎口に
は主郭の土塁と組み合わされて枡形虎口となっている。
さらに虎口の外方にもL字状の土塁が突出して築かれて
おり、外枡形状となっており、複雑な枡形虎口を形成し
ている。一方、東側には土塁を伴う竪堀が二条設けられ
ており、斜面を防御している。
 こうした西山城跡の構築年代であるが、南腰曲輪の枡
形虎口や、主郭の石積みを伴う虎口の存在などから戦目
時代後半に築かれたものであることは明らかである。朽
木氏は野尻や岩神に居館を構えていたが、詰城としての
山城を構えなかった。ところが永禄年間(1558~7
0)になると江北の浅井氏の勢力が高島郡内にも波及し、
越前朝倉氏の若狭侵攻や、織田信長との対立など、従来
の居館では対応しきれなくなったために、居館の背後に
詰城として西山城が築かれたものと考えられる。こうし
た緊張段階に築かれたため純軍事的な城郭構造となり、
さらに地元にも伝承すら残らなかったのであろう。
 なお、現在中世山城跡で明らかに蜂犬合と判断できる
遺構はほとんど認められない。この西山城跡の主郭に残
る蜂大台は数少ない蜂大台の事例として大変貴重な遺構
である。蜂大台と言えば、通信用に設けられたもので、
蜂天網の存在がイメージされるが、西山城跡の場合、そ
うした広範囲なものではなく、山麓居館との間の伝達手
段に用いられたものだったのであろう。『鹿苑日録』の
明応八年(1499)には、「今夜城中之東南不挙蜂、
不鳴鐘矣」と、山城国水生城内の蜂大の存在を記してい
る。こうした記録からは、蜂大が特殊な施設ではなく、
どこの城にも存在したことを示している。さらに蜂大と
ともに鐘も常備し、伝達手段に用いられていたこともう
かがえる。西山城跡の蜂大台は戦国時代の山城のあり方
を示す貴重な遺構として、ぜひとも見学してほしい。



鳴り岩

西山城のおすすめポイントは、城郭そのものもさること
ながら、城郭に祀られている愛宕神社の背面にある「鳴
り岩」と呼ばれている巨岩。愛宕神社の背面の斜面を降
り、鳴り岩を見上げると、その巨大さと圧倒的な存在感
にある。10メートルはあろうかという二個の磐は、元は
一枚の磐であったものに亀裂が入り現在のように分かれ
たものとされている。磐の割れ目から愛宕神社の社殿が
見え、あたかも神(生命)の誕生を連想させるような神
々しさに溢れる。鳴り岩とは、この割れ目を風が通ると
不思議な音がするとの言い伝えから名付けられたとの伝
承がある。この岩は里山が資源として管理され、山の灌
木が今よりずっと少なかった時代には、麓から仰ぎ見る
ことができ、鳴り岩は、神が宿る磐座(いわくら)であ
り、もともと、この磐が信仰の対象だったと考えられて
いる。                    

出典: 

   

【エピソード】 

 

  

【脚注及びリンク】   

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1. 新近江名所圖会 4回 西山城, 2010.06.30 
2. 第5回近江中世城跡琵琶湖一周のろし駅伝in高島,
    2006.11.14 

3. 西山城跡,山里くつきフォトレター
4. 歴史街道「信長の隠れ岩ルート」の整備について
5.
信長の隠れ岩へ遊歩道 高島・朽木, 2013.03.31     
6. 近江にあった西山(にしやま)城の所在地などのほ
 か、その歴史を知りたい
  
7. 探訪【朽木西山城 近江国】2013.5.14   
8. 江のふるさと滋賀 朽木マグダレナ  
9. 佐々木信綱 Wikipedia  
--------------------------------------------- 


イムジャ湖

2014年03月21日 | 世界の湖沼百選

 

 

【解説】ネパール、ヒマラヤ山脈のエベレストから約8
キロ南で、溶け出した氷河の水が湖を急成長させている。
韓国の地球観測衛星「KOMPSAT-2」(愛称:アリラン
2号)から3月14日に撮影、欧州宇宙機関(ESA)が公開
した。
雪に覆われたイムジャ氷河(写真上部)などの氷
河が、高い山々の尾根や谷の間から白く光っているのが
見える。雪解け水は、ガンジス川やインダス川へと注ぎ
込む。

イムジャ湖(Imja Lake)はネパールにある氷河湖。北緯27
度53分、東経86度55分。決壊の被害が懸念されている。
氷河湖とは氷河の後退により溶けた水がモレーン(氷河
末端の堆石)にせき止められて自然のダムに溜まること
により形成される湖で、貯水量が一定以上になるとダム
部分が決壊し、激しい土石流となって下流域に大きな被
害をもたらすことがある。
ヒマラヤ山地では、多くの氷
河湖が形成され、地球温暖化の影響で夏の降雪量が減少
し、降雨量が増大することにより、氷河が縮小し、氷河
湖の貯水量が増える傾向があると指摘されており、決壊
の危険性が危惧されている。
イムジャ湖はネパール北東
部、エベレスト山の麓にある氷河湖で水面の標高は5030
メートルである。決壊すると最も危険な土石流を起こす
可能性がある氷河湖として警戒されている。

ネパールでは数十年前から氷河湖決壊洪水が起こってい
るが、1985年に起こったディグ・ツォ氷河湖決壊は、氷
河湖決壊洪水の詳細な研究の契機となった。1996年、ネ
パールの水・エネルギー研究局 (the Water and Energy
Commission Secretariat) は、ディグ・ツォ湖、イムジ
ャ湖、ロウアー・バルン湖、ツォ・ロルパ湖、ツラギ湖
の5つの氷河湖は潜在的な洪水の危険性があると報告した。
これらの湖はいずれも標高4100m以上に位置している。
ICIMOD(International Centre for Integrated Mountain Devel-
opment
:国際総合山岳開発センター)とUNEPによる最近
の研究では、ネパールにある27の湖について潜在的な洪
水の危険性があると報告している。このうちの10の湖で
は過去数年以内に氷河湖決壊洪水が起こっており、その
後再生している湖もある。さらにネパールを通る川につ
ながるチベットの氷河湖の中に危険なものがある可能性
があり、チベットでの決壊によって下流のネパールに被
害が及ぶ可能性も加わる。ガンダキ川(Gandaki river)の
流域には、1025の氷河と338の湖があると報告されている。

 

【エピソード】 

 

 

【脚注及びリンク】  

---------------------------------------------
1. Evaluating the growth characteristics of a glacial lake
   
and its degree of danger of outburst flooding". Norwe-
    gian Journal of Geography.Beautiful Summer Vacation
    Destinations
2. Imja Tsho, Nepal, NASA 

3. ヒマラヤ山地湖沼地区における生物多様性保全と
  持続可能な地域社会構築の課題, 2012.07.23

4. 氷河湖決壊洪水,Wikipedia
5. ネパールイムジャ湖-ドドコシにおける氷河湖決壊洪
    水対策の検討,2009.04.10
  
6. イムジャ氷河湖をめぐる問題 - 株式会社 シクロケム  
7. 動画 - 環境と自然 - イムジャ氷河湖 - ナショナルジ
    オグラフィック
  
8. 国際総合山岳開発センター  
9. Water resources of nepal in the context of climate change  
--------------------------------------------- 

 

 


雨森芳洲(1)

2014年03月16日 | 近江の思想

 

【日韓の外交史再考】 

  


竹島領有権問題、日本海・東海併記問題、人種差別発
言、ヘ
イトスピーチー、従軍慰安婦問題などで、古色
蒼然のナショ
ナリズム(戦前・戦中のウルトラ・ナシ
ョナリズム
)への回帰(≒
保守反動勢力の戦後レジュ
ームの解体運動?→誰が、何のために
)など昨今の日
韓外交問題を再考するために、温故知新、滋
賀は長浜
市高月町に生まれた雨森芳洲の思想的背景を探訪
する。

●雨森芳洲の略歴

雨森 芳洲(1668年06月26日(寛文8年5月17日) - 17
55
年2月16日(宝暦5年1月6日))は、江戸時代中期
の儒
者。諱は俊良、のち誠清(のぶきよ)、通称は藤
五郎・
東五郎、号は芳洲、字を伯陽、漢名として雨森
東を名
乗る。中国語、朝鮮語に通じ、対馬藩に仕えて
氏朝鮮との通好実務にも携わる。寛文8年(1668年)、
近江国伊香郡雨森村(現・滋賀県長浜市高月町雨森)
の町医者の子として生まれた。12歳の頃に京都で医学
を学び、18歳の頃に江戸へ出て朱子学者木下順庵門下
となる(木門十哲)。同門の新井白石、室鳩巣、祇園南
海らととも
に秀才を唱われ、元禄2年(1689年)、木
下順庵の推薦
で、当時、中継貿易で潤沢な財力をもち、
優秀な人材
を探していた対馬藩に仕官し、元禄5年(
1692年)に対
馬国へ赴任。この間、長崎で中国語を学
ぶ。

元禄11年(1698年)、朝鮮方佐役(朝鮮担当部補佐役)
を拝命、元禄15年(1702年)、初めて朝鮮の釜山へ渡
り、元禄16年(1703年)から同18年(1705年)にかけ
て釜山の倭館に滞在して、朝鮮語を学んだ。この間、
朝鮮側の日本語辞典『倭語類解』の編集に協力し、自
らも朝鮮語入門書『交隣須知』を作成。また、江戸幕
府将軍の就任祝いとして朝鮮通信使が派遣された際に、
正徳元年(1711年)の6代徳川家宣(正使は趙泰億)や
享保4年(1719年)の8代徳川吉宗(正使は洪致中)に
おいて江戸へ随行。なお、吉宗の時の使節団の製述官
であった申維翰が帰国後に著した『海遊録』に、雨森
芳洲活躍の姿が描かれている。
 

享保5年(1720年)には朝鮮王・景宗の即位を祝賀す
る使節団に参加して釜山に渡っている。しかし、朝鮮
人参密輸など藩の朝鮮政策に対する不満から、享保6
年(1721年)に朝鮮方佐役を辞任し、家督を長男の顕
之允に譲った。その後は自宅に私塾を設けて著作と教
育の日々を過ごしたが、享保14年(1729年)、特使と
して釜山の倭館に赴いた。享保19年(1734年)には対
馬藩主の側用人に就任、藩政に関する上申書『治要管
見』や朝鮮外交心得『交隣提醒』を書いている。宝暦
5年(1755年)、対馬厳原日吉の別邸で死去した。享
年88。諡は一得斎芳洲誠清府君。墓は日吉の長寿院に
あり、傍らに顕之允も葬られている。

 

 

●朝鮮通信使と徳川幕府の外交概要 

朝鮮通信使とは、室町時代から江戸時代にかけて李氏
朝鮮より日本へ派遣された外交使節団。朝鮮通信使の
そもそもの趣旨は室町将軍からの使者と国書に対する
返礼であり、1375年(永和元年)に足利義満により派
遣された日本国王使に対して信(よしみ)を通わす使
者として派遣されたのが始まり。15世紀半ばからしば
らく途絶えて安土桃山時代に、李氏朝鮮から豊臣秀吉
が朝鮮に出兵するか否かを確認するため、秀吉に向け
ても派遣されるが、その後の文禄・慶長の役によって
日朝間が国交断絶となり中断。その後、江戸時代に再
開された。広義の意味では室町時代から江戸時代にか
けてのもの全部を指すが、一般に朝鮮通信使と記述す
る場合は狭義の意味の江戸時代のそれを指す。「朝鮮
通信使」という表現は研究者によって造作された学術
用語であり、史料上には「信使」・「朝鮮信使」とし
て現れる。また江戸幕府は朝鮮通信使の来日について
は琉球使節同様に「貢物を献上する」という意味を含
む「来聘」という表現を専ら用いており、使節につい
ても「朝鮮来聘使」・「来聘使」・「朝鮮聘礼使」・
「聘礼使」と称し一般にもそのように呼んでいる。

江戸期の日朝交流は豊臣秀吉による文禄・慶長の役
後、断絶していた李氏朝鮮との国交を回復すべく、日
本側から朝鮮側に通信使の派遣を打診したことにはじ
まる。室町時代末期、日朝・日明貿易の実権が大名に
り、力を蓄えさせたと共に、室町幕府の支配の正当
性が薄
れる結果になった。そうなることを防ぐため、
江戸幕府は
地理的に有利な西日本の大名に先んじて、
朝鮮と国交を
結ぶ必要があった。また、対馬藩が江戸
幕府と李氏朝鮮の仲介を行うが、対馬藩の事情-朝鮮
との貿易なくては窮乏が必至となるため-国交回復を
確実なものとするために国書の偽造まで行い、朝鮮側
使者も偽造を黙認していた。


朝鮮では、文禄・慶長の役が終わり、国内で日本の行
った行為や李朝の対応に対する批判が高まると同時に
日本へ大量に連れ去られた朝鮮人捕虜の返還を求める
気風が強くなる。また朝鮮を手助けした明が朝鮮半島
から撤退による日本の脅威と同時に、貿易の観点から
日本と友好関係を何とか結びたいと考える。こうした
事情下、対馬藩より1607年(慶長12年)、江戸時代は
じめての通信使が幕府に派遣、6月29日、江戸にて将
軍職の秀忠に国書を奉呈し、帰路に駿府で家康に謁見。
日本側からの国書による回答(謝罪)を求め、日本に
連れ去られた儒家、陶工などの捕虜を、朝鮮へ連れ戻
す目的だったが徳川幕府が国書を送らなかった。日本
国内の朝鮮人捕虜のうち、儒家はほとんどが帰国した
一方、陶工の多くが、技術を持った職人の優遇による
李氏朝鮮では儒教思想の身分制で、陶工は最下層の賤
民に位置づけられ日本にとどまる。

●征韓論の背景史

通信使について当時の日本人らは「朝鮮が日本に朝貢
をしなければ将軍は再び朝鮮半島を侵攻するため、通
信使は貢物を持って日本へ来る」などという噂をし、
幕府の公式文書では「来貢使」という用語は一切使わ
れずにいたが、民間では琉球使節と同様に一方的な従
属関係を示す「来貢」という言葉が広まる。『朝鮮人
来聘記』等においても三韓征伐等を持ち出して朝鮮通
信使は朝貢使節であると見なしており、当初から日本
人が朝鮮通信使を朝貢使節団として捉えていた。また、
朝鮮側も日本側が入貢と見なしていたことを認識して
いたが、延享度の通信使の朝鮮朝廷への帰国報告では、
信使の渡来を幕府は諸侯に「朝鮮入貢」として知らせ、
それまでの使節もそれを知りながら紛争を恐れて知ら
ぬふりをしていた旨が記されている。こうした朝鮮観
から、1811年以後通信使が途絶したことを「朝貢を止
めた」と受け止める風潮が生じ、幕末の慶応2年(1866
年)末に清国広州の新聞に、日本人(誰が?)が寄稿
した「征韓論」の記事にも、征韓の名分として挙げら
れたとされる。

                  この項つづく

【エピソード】 

 

東アジア交流ハウス雨森芳洲庵の公式ホームページでは
何故かBGMに「この世の果て」(The End of the World
の曲が採用されている。以下は、芳洲の略歴文である。

  寛文8-宝暦5(1668-1755)。江戸時代中期の
 対馬藩(現長崎県対馬)の儒学者。近江国雨森(
 滋賀県高月町雨森)に生
まれる。17歳の頃、江戸
 で儒学者木下順庵の門下に入り儒学を学ぶ。英才
 を賞され門下五賢徒の一人に挙げられた。同門

 に新井白石がいた。順庵の推挙で対馬藩に仕え26
 才の時初めて対馬に赴任した。24才から中国語を
 学んでおり、36
才の時には釜山に渡って、朝鮮の
  歴史・朝鮮語を学び、初めての日朝会話集「交隣
  」を著した。62才で、ハン
グル・カタカナを併記
 したユニークな朝鮮語の入門書「全一道人」も著
 した。第8次・第9次の通信使来訪時には、一行
 に
加わり、対馬-江戸を2度往復した。この経験
 をもとに61才の時著した「交隣提醒」の中に、
 芳洲の先進的な国際感覚、
人間性が表現されてお
 り、近年、幕藩体制下における隣国朝鮮との交流
 史が見直されつつある時、雨森芳洲も一躍クロー
 ズ
アップされ始めた。晩年は和歌を志し、80才を
 過ぎて1万首を製作している。宝暦5年(1755)
 対馬で永眠、対馬府中
 (現厳原町)の長寿院に
 眠る。享年88歳。


【脚注及びリンク】
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  1. 雨森芳州再考、近世日本の「自-他」認識の観
    点から
    、2006.02.05
  2. 平井茂彦(2006) 「雨森芳洲」サンライズ出版 
  3. Web版 図書館 しが、No.173,2007.08.01
  4. 交隣提醒』に現れる雨森芳洲の外交の心得、
    伊藤大悟
  5. 雨森芳洲『交隣提醒』から 長崎県対馬 : 名言巡礼
  6. ぶらっと彦根、2005、雨森芳洲「誠信の交わり」
  7. 雨森芳洲さんが書かれた「交隣提醒」とはどの
    ような内容なのでしょうか
  8. 朝鮮通信使に息づく「誠信の交わり」、信原修
  9. 木下順庵(1621年7月22日-699年1月23日
  10. 朝鮮通信史、Wikipedia
  11. 小中華思想、Wikipedia
  12. 仲尾宏「延享度通信使の事跡と話題」(『大系
    朝鮮通信使』第6巻 明石書店、1994)
  13. リチャード。アンダーソン「征韓論と神功皇后
    絵馬」(『列島の文化史』第10巻)
  14. 島田昌和「第一(国立)銀行の朝鮮進出と渋沢
    栄一
  15. 東アジア交流ハウス雨森芳洲庵

------------------------------------------------  


日爪城

2014年03月15日 | 滋賀百城

 

 高島郡の中南部は、湖西第一の規模をもつ安曇川によ
って大規模な平野が形成されている。安曇川北岸に位置
する旧新旭町の北部は、今川、波布谷川、林照寺川など
の中小河川によって形成された平野も広がっている。
 日爪域は、これらの平野を見下ろす饗庭野と呼ばれる
丘陵上に位置している。
 この新旭町北部一帯は、保延四年(1238)に成立
した山門領の荘園である木津荘の荘域とほぼ一致する。
この木津荘は、戦国時代末には周辺の地域を含め響庭荘
と呼ばれるようになる。



 永禄九年(1566)浅井長政は、「河上六代官」と
も呼ばれた西佐々木一族の影響下にあった善積・河上荘
および保坂関・木津荘の取り分を西林坊・定林坊・宝光
坊に宛っている。『来迎寺文書』
 また、この三坊について『高島郡誌』には「吉武壱岐
守は五十川村城に居る出自詳ならず。或云美濃の土岐氏
の庶流なり、江州に来たりて山門の代官となり饗庭弥太
郎と号す。其の家分かれて三となり、長子は西林坊と号
し日爪村に居り、次子は定林坊を号し霜峰村に居り、季
子壱岐守は、五十川村の吉武威に居れり、元亀二年信長
山門を伐ちし時三家共に浪人すと」と記述されている。
 この三坊に由来のある村では調査によって五十川城や 
日爪城などの山城や吉武城、饗庭館などの存在が判明し
ている。
 この中で西林坊がいたとされる日爪村には、日爪城跡
が所在する。日爪城は、現・日爪集落の南西にある「城
山」とよばれる丘陵上に位置している。城主について、
貞治六年(1367)饗庭氏が日爪右京介為治を地頭代
として日爪村に住まわせたと伝えられていて、日爪氏の
創建と推測されている。また、地域には約1キロ南に位
置する清水山城の出城の伝承も残っている。
 日爪城からは、木津荘城や山麓を南北に縦断する西近
江路、五十川城や吉武城、さらに東方の琵琶湖まで一望
することができる。領地経営上、軍事上絶好の位置にあ
るといえる。



 城の遺構は、標高約195メートルに位置する東曲輪
群と、標高約207メートルに位置する曲輪(主郭)に
大きく分けられる。
 東曲輪群は、東端の尾根先を南北約58メートルの大
規模な堀切によって遮断し、堀の外(東)側に土塁を施
している。堀底には土橋が認められる。
 東曲輪群と主郭は、長さ約35メートルの土橋によっ
て接続される。
 主郭は東西約20メートル×南北約38メートルの長
方形を呈していて、西・南面にL字形の土塁がめぐる。
 主郭から南西方向にのびる尾根上は、高所である饗庭
野方面に続くことから四条の堀切を設けて厳重に防御し
ている。特に主郭に最も近い堀切は「くの字」状に屈曲
し、外側に土塁を伴う。全長は約55メートルに及ぶ。
 日爪城は、縄張の特徴から清水山城と同様に永禄年間
頃に浅井・朝倉氏もしくは西佐々木氏の影響を受けて改
修された可能性が指摘されている。
 山城が立地する丘陵の東海の山腹一帯にひろがる南谷
遺跡には「ねごや」の地名とともに十ヵ所以上の平坦地
が認められる。平坦地の遺構は、図化された範囲よりさ
らに北側に続く。遺跡の南部は現在土取によって削平さ
れ大きく変容しているが、この平坦地の南端から現・土
取場の中を通って山城に至る遺があったとされる。
 周辺には「本堂ケ谷」の地名が認められることや遺跡
内からは石仏が出土することから寺坊の可能性が考えら
れる。『近江輿地志略』によると日爪村内には「高島七
箇寺」の一院とされる「大慈寺」があったとされ、この
跡地とも推測される。しかし清水山城と清水寺の関係と
同様に、のちに屋敷化された可能性も考えられる。
 この日爪城を含めた饗庭三坊との関わりが考えられる
木津荘城の城郭を考える上で興味深い資料として、元亀
三年五月十九日の「明智光秀書状写」『細川家文書』に
「饗庭三坊の城下まで放火し、敵城三ヵ所落去した」の
記述が認められる。
 日爪城と同じ木津荘城にあり、饗庭三坊との関わりが
推測される吉武威遺跡の発掘調査では、掘と想定される
区画性のある溝や掘立桂建物跡などの遺構とともに十六
世紀後半と考えられる土器等の遺物が出土している。ま
た、掘と想定される溝の中からは、焼痕のある石仏・五
輪塔、礎石と考えられる石材が出土している。このこと
から当城は焼失することによって廃絶したと指摘されて
いる。先の明智光秀書状の記述からも信長の高島郡攻略
の時期に廃絶した可能性が考えられる。
 日爪城については、現在のところ調査がされていない
ため詳細は不明である。、山城の存続時期、ねごやの性
格、木津荘城にある城郭や饗庭三坊との関係など今後の
課題は多い。              

出典:

   

 

【エピソード】 

 

 


【脚注及びリンク】
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  1. 高島市歴史散歩、饗庭三坊と城
  2. 吉武城跡/日爪城跡
  3. 第8回近江中世城跡 琵琶湖一周のろし駅伝in高島
  4. 近代デジタルライブラリ  滋賀県管内高島郡誌
  5. 近江日爪城
  6. 饗庭(あえば)館

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