「ノナの家」nonahouseは かつこ内親王、かつこ内親王2の続きのブログです。

神様達の名前は、沢山出てきますが、宗教とは全く関係ありません。
mikunenona@gmail.com

広瀬神社と江川邸

2020-08-17 07:30:00 | 日記
玄米レストラン「ぜんな」さんでの食事中は、どしゃ降りの雨が降っていて、傘を持っていなかったのでどうしようと思っていましたが、私達が外に出ると、雨は上がっていました。

Sさんが途中で通った神社に行こうという話をしていたので、その神社に向かいました。

Sさんによると、三嶋大社はこの神社から移ったとのことで、着いてから見た看板にそのことが書いてありました。



元々は、下田の伊古奈比咩命(いこなひめ)神社(白濱神社)から、始まったようですけどね。

確かに調べた感じでは「三嶋」は伊豆諸島の「御島(みしま)」からきているようなので、海の近くが妥当だと思います。

私達は、本殿の後ろにあった駐車場に車を止めて、一旦本殿の前を見ると、黒アゲハがいました。
黒に青い色が入っていて、キレイだとしばらく見ていましたが、ずっとそこにいるのです。





誰かと思ったら、スサノオノミコトでした。

私達は、鳥居のところに行くことにして歩いていました。




もう一度、本殿のところに戻ると、まだ同じ黒アゲハがいたので、驚きました。



同じように見えますが、時間は10分ほど違うのは、撮った時間で分かりました。

Sさんは、


待っていてくれたんやー


と言って笑っていました。
黒アゲハは、しばらくその辺りをクルクル飛んでいたので、動画も撮ってみましたが、その後はどこかに飛んで行きました。





Sさんが、次に連れて行ってくれたのは、「韮山反射炉」を作った方のお屋敷の「江川邸」でした。

Sさんは、以前に行って説明を聞いて、かなり感動して、NHKの「大河ドラマ」にして欲しいとNHKに手紙を送ったと話していました。

🌟国指定史跡「韮山役所跡」の中にあり、国指定重要文化財

主屋は単層入母屋造りの壮大な建物で、「小屋組づくり」と呼ばれる幾何学的な屋根裏の木組みは、今日でいう免震構造になっています。
三和土の土間には立ち木をそのまま柱にしたと伝えられる「生き柱」や、伊東に居住していた日蓮聖人をお迎えした際に聖人より贈られた直筆の「火伏せの護符」を納めた棟札箱が見られます。




これまで一度も火災にあっていないことから、文書類・書画・武具を始めとする様々な品が残っており、その一部は屋内に展示されています。
また、千利休が豊臣秀吉の小田原攻めに同行した際に作ったといわれる竹一重切花入 銘「園城寺」は韮山竹を使用しています。
毎年春と秋に一般公開される内庭にはこの韮山竹が自生しています。



江川家は42代・900年続く大和源氏の末裔で、江戸時代には旗本として11代273年間、天領伊豆の代官を務めました。歴代の代官はいずれも治安維持と民政に意を注ぎ、百姓一揆は一度も起きたことがないといいます。

特に36代江川太郎左衛門英龍(坦庵)は名代官として知られ、海防の必要性から沿岸測量、韮山反射炉やお台場の建設、わが国最初の洋式帆船建造や種痘の実施、パン製造など多大な業績を残しました。

邸内には「パン祖の碑」が立てられています。



火災にあっていないため、当時そのままの姿が残っている建物なので、実際「大河ドラマ」のロケ地として、使われていたりするそうです。



竹一重切花入 銘「園城寺」は、庭にある韮山竹を使用しているそうですが、外側に亀裂が入るのに、内側には亀裂が入らないので、花入れに出来るそうで、そういう竹は、珍しいそうですよ。



代36代の江川太郎左衛門英龍(ひでたつ)が、韮山反射炉も作ったり、お台場の建設もしたそうですが、秀才だったというのは、江川邸の展示資料でよくわかりますし、時代の重要な役割を担った方で影響力を持った方だと思いました。

私は、また知らなかったことを知り、Sさんにはとても感謝しています。

この時も見学をしていた室内にいる時だけ、どしゃ降りの雨でした。

本当に神様、ありがとうという感じですね。


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« うなぎと玄米の話 | トップ | スサノオノミコトとヲシテの... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

日記」カテゴリの最新記事