先日、初対面の若い女性たちとお話しする機会があった。
「ええのぅ~!若いコは!」
オヤジのような心境になって
若いエキスを吸い取ろうとたくらむ私よ。
自営業者の二代目と婚約中の子がいて
あれこれたずねられたので、いつもの調子で答える。
「いえいえ、うちはそんなものでは…
吹けば飛ぶような会社じゃないです。
吹くと本当に飛びます」
「もし倒産したら?
逃げなければどうってことないです。
いよいよどうしようもなくなったら、あきらめて野外生活。
食べられる草とか、探すの」
ええ~?と不安そうな顔を見てほくそ笑む、悪質なオバタリアンの私。
帰りに一人の女の子が追いかけて来て、真剣な面持ちで言う。
「あの…もしものことがあったら
うちに農機具を入れてる倉庫があるので
そこに住んでください…」
頑張ってください…そう励まされて家路につく私よ。
なんて純粋なんだ…。
お気持ちはありがたい。
ありがたいが…本当に大変なら、こんな所に来ないわよっ。
あんないいコにいらぬ心配をさせてしまい
ちょっと言い過ぎたか…と反省する。
最近、こういう現象が増えてきたように思う。
謙遜したつもりが、本気で同情されるのだ。
若いコだけではない。
こないだは、同い年くらいの人が嘆いていた。
「医者を目指していた子供が挫折して
今はアルバイトをしている。
ちゃんと育てられなかった自分がなさけない」
充分ちゃんとしているではないか…と励ますが
「この子を殺して自分も死のうと何度思ったか…」
話しているうちに本人もムードに酔うのか
どんどん深刻になっていく。
そこで
「うちの子はぽ~っとしていて、ジャンケンであいこになると
グーチョキパーを順番に出す子供だったんですよ。
“おばちゃん…この子、大丈夫?”
と親戚の子供に心配されながらも
どうにか大人になったんですけどね…ははは
何になろうと、無事に大きくなったことを喜びましょうよ」
というようなことを話す。
その人は真面目な顔をして言った。
「あの、私…いい施設を知っていますので、ご紹介しましょうか?」
「は…?」
脳のトレーニングで改善した例もあるそうですよ…
と、がぜん生き生きしてくるそのおかた。
うちの子の頭という尊い犠牲は払ったが
ま、元気が出たようなので良しとする。
初対面の人と馴れ馴れしく話す私も悪いんだろうけど
なんだかねぇ…会話のパターンが変わってきている気がするんですね。
「こうなのよ~、ほんと困っちゃうわ」(謙遜)
「そんなことないわよ~、だってこうじゃん…」(否定)
「そんなこと言ってくれるのはあなただけよ~」(謙遜)
「よく言うわよ~、あははは~」(結論無し)
で、他愛のない話題とおしゃべりはどこまでも続く…
という古典的行程が、はしょられつつある。
「こうなのよ~」(謙遜)
「それは大変ですね、お気の毒に」(結論)
で終了。
簡潔ではあるが、こんなせちがらい世の中になった一因は
そこらへんにもあるのではないかと思ってしまう私である。
個々の人間業の営業部門が不振なのだ。
もちろん営業に向かない人は昔からいた。
勘違いしたまま育った王様体質。
その人数が今、すごい勢いで増加しているように感じる。
KYなんていう言葉も、その増加から
生まれるべくして生まれたのではないか。
「うちも不景気でねぇ」(謙遜)
「そうですか~?お顔にはそう書いてございませんよ」(否定)
「ははは、もう溺れる一歩手前なんだよ、キミィ」(謙遜)
「何をおっしゃいますやら、お客様が溺れたら
そこら中、溺死体の山ですよ」(否定)
そうやって円滑な会話が続き
相手に自分を知ってもらい、安心してもらって初めて物が売れる。
「うちも不景気でね~」(謙遜)
「じゃあうちの品物は買えませんね、さようなら」(結論)
では、売れる物も売れない。
人間業の売り物は自分自身だ。
売り込みが苦手だと
この世は生きにくい…ということになり
世間が悪い、家族が悪い、あの人さえいなければ…
の方向へ行ってしまうのではないだろうか。
それとも、こういう人はあまりものを考えないので
どうってことないのだろうか。
いずれにしても、営業が苦手な人が増えているからには
私も気をつけなければならない。
もはや謙遜は美徳ではなくなりつつあるのだ。
草とかバカなことを言って誤解させておいて
相手の反応に対して機微の無さを憂い
心のヒダの本数が少ないなどと憤慨するよりは
最初から余計なことは言わないようにしよう。
自信ないけどね。
「ええのぅ~!若いコは!」
オヤジのような心境になって
若いエキスを吸い取ろうとたくらむ私よ。
自営業者の二代目と婚約中の子がいて
あれこれたずねられたので、いつもの調子で答える。
「いえいえ、うちはそんなものでは…
吹けば飛ぶような会社じゃないです。
吹くと本当に飛びます」
「もし倒産したら?
逃げなければどうってことないです。
いよいよどうしようもなくなったら、あきらめて野外生活。
食べられる草とか、探すの」
ええ~?と不安そうな顔を見てほくそ笑む、悪質なオバタリアンの私。
帰りに一人の女の子が追いかけて来て、真剣な面持ちで言う。
「あの…もしものことがあったら
うちに農機具を入れてる倉庫があるので
そこに住んでください…」
頑張ってください…そう励まされて家路につく私よ。
なんて純粋なんだ…。
お気持ちはありがたい。
ありがたいが…本当に大変なら、こんな所に来ないわよっ。
あんないいコにいらぬ心配をさせてしまい
ちょっと言い過ぎたか…と反省する。
最近、こういう現象が増えてきたように思う。
謙遜したつもりが、本気で同情されるのだ。
若いコだけではない。
こないだは、同い年くらいの人が嘆いていた。
「医者を目指していた子供が挫折して
今はアルバイトをしている。
ちゃんと育てられなかった自分がなさけない」
充分ちゃんとしているではないか…と励ますが
「この子を殺して自分も死のうと何度思ったか…」
話しているうちに本人もムードに酔うのか
どんどん深刻になっていく。
そこで
「うちの子はぽ~っとしていて、ジャンケンであいこになると
グーチョキパーを順番に出す子供だったんですよ。
“おばちゃん…この子、大丈夫?”
と親戚の子供に心配されながらも
どうにか大人になったんですけどね…ははは
何になろうと、無事に大きくなったことを喜びましょうよ」
というようなことを話す。
その人は真面目な顔をして言った。
「あの、私…いい施設を知っていますので、ご紹介しましょうか?」
「は…?」
脳のトレーニングで改善した例もあるそうですよ…
と、がぜん生き生きしてくるそのおかた。
うちの子の頭という尊い犠牲は払ったが
ま、元気が出たようなので良しとする。
初対面の人と馴れ馴れしく話す私も悪いんだろうけど
なんだかねぇ…会話のパターンが変わってきている気がするんですね。
「こうなのよ~、ほんと困っちゃうわ」(謙遜)
「そんなことないわよ~、だってこうじゃん…」(否定)
「そんなこと言ってくれるのはあなただけよ~」(謙遜)
「よく言うわよ~、あははは~」(結論無し)
で、他愛のない話題とおしゃべりはどこまでも続く…
という古典的行程が、はしょられつつある。
「こうなのよ~」(謙遜)
「それは大変ですね、お気の毒に」(結論)
で終了。
簡潔ではあるが、こんなせちがらい世の中になった一因は
そこらへんにもあるのではないかと思ってしまう私である。
個々の人間業の営業部門が不振なのだ。
もちろん営業に向かない人は昔からいた。
勘違いしたまま育った王様体質。
その人数が今、すごい勢いで増加しているように感じる。
KYなんていう言葉も、その増加から
生まれるべくして生まれたのではないか。
「うちも不景気でねぇ」(謙遜)
「そうですか~?お顔にはそう書いてございませんよ」(否定)
「ははは、もう溺れる一歩手前なんだよ、キミィ」(謙遜)
「何をおっしゃいますやら、お客様が溺れたら
そこら中、溺死体の山ですよ」(否定)
そうやって円滑な会話が続き
相手に自分を知ってもらい、安心してもらって初めて物が売れる。
「うちも不景気でね~」(謙遜)
「じゃあうちの品物は買えませんね、さようなら」(結論)
では、売れる物も売れない。
人間業の売り物は自分自身だ。
売り込みが苦手だと
この世は生きにくい…ということになり
世間が悪い、家族が悪い、あの人さえいなければ…
の方向へ行ってしまうのではないだろうか。
それとも、こういう人はあまりものを考えないので
どうってことないのだろうか。
いずれにしても、営業が苦手な人が増えているからには
私も気をつけなければならない。
もはや謙遜は美徳ではなくなりつつあるのだ。
草とかバカなことを言って誤解させておいて
相手の反応に対して機微の無さを憂い
心のヒダの本数が少ないなどと憤慨するよりは
最初から余計なことは言わないようにしよう。
自信ないけどね。