次男が幼稚園の年長クラスだった23年前
帽子を作る必要にかられた。
お遊戯会の衣装である。
お遊戯会は、毎年2月に行われる幼稚園最大の行事。
本来の名称は園遊会という。
PTAの運営する売店で弁当や飲み物、お菓子を販売し
園児とその家族が一日楽しむお祭だ。
本番の一週間前にはリハーサルがあり
プロの写真屋を呼んで前撮りも行われる。
衣装は、担任が子供の演目に合わせて決めたものを
母親が手作りするのが幼稚園の伝統。
うちの子は10人で、森の妖精らしき踊りをすることになった。
ここで担任に言い渡される。
「緑色の上下と、この踊りにはどうしても帽子をかぶせたいんです」
上下なんてサラっとおっしゃるけど、それってスーツのことじゃん!
ましてや帽子なんて、前代未聞じゃん!
高度な要求に息を飲む10人の母親。
しかし10人のうち過半数は、この要求の根拠に心当たりがあった。
PTAの役員だったからである。
役員には少々無理を言ってもいいという
やはり幼稚園の伝統が存在した。
私はその年、PTA会長であった。
はん、ジャンケンに負けただけよ。
それでも雰囲気的に、衣装制作のリーダーということになった。
運良く、同じ踊りをする 子供のお祖母ちゃんに
仕立ての婦人服を縫う人がいて
帽子は経験が無いから無理だけど、布を用意してくれれば
衣装は縫ってやると言う。
心底ありがたかった。
ここでまた、同じ踊りをする子の母親が名乗り出てくれた。
「この辺りじゃ、間に合わせの服地しか無いでしょう。
私、実家が東京で、近くに大きな生地問屋があるんです。
来週、里帰りするので買って来ますから
どんなのがいいか言ってください」
こちらも、ありがたい申し出である。
「誰がどう見ても緑と呼ぶであろう厚手のサテン、買うて来て!」
私は即座に言った。
ゾウキンぐらいしか縫えない私は、担任の思いつきに腹を立てていた。
当時は30過ぎの生意気盛り、今よりずっと反抗心が強かったので
緑と言われたからには断然の緑にしてやりたかったのだ。
かくして、誰がどう見ても緑と呼ぶ東京帰りのサテンは
子供達のサイズ表と共に、洋裁の名手であるお祖母ちゃんの家に届けられた。
できあがるまで、私は待つだけでよかった…
なわけ、ねえだろ。
帽子が残っているではないか。
「こればっかりは…」
誰しも遠巻きにして見放した。
当時はネットも普及しておらず、帽子の作り方を知るスベはなかった。
やがて年が明けて1月半ば
お祖母ちゃん渾身の衣装が縫い上がる。
サテンは滑るので、とても苦心したそうだ。
テカテカのスーツに、圧倒される一同。
もはや森の妖精どころの騒ぎではない。
サタデーナイトフィーバー!
着る物が立派なだけに、帽子がまだという現実は私をさいなんだ。
衣装を人に頼ったのだから、誰もが恐れる帽子は自分で何とかしたかった。
どうにか縫うのが可能であろうチューリップハットや
頭巾(ずきん)なんかも考えはしたが
このスーツにマッチするとは到底思えない。
良い案は浮かばないまま、悶々と日は過ぎていった。
(続く)
帽子を作る必要にかられた。
お遊戯会の衣装である。
お遊戯会は、毎年2月に行われる幼稚園最大の行事。
本来の名称は園遊会という。
PTAの運営する売店で弁当や飲み物、お菓子を販売し
園児とその家族が一日楽しむお祭だ。
本番の一週間前にはリハーサルがあり
プロの写真屋を呼んで前撮りも行われる。
衣装は、担任が子供の演目に合わせて決めたものを
母親が手作りするのが幼稚園の伝統。
うちの子は10人で、森の妖精らしき踊りをすることになった。
ここで担任に言い渡される。
「緑色の上下と、この踊りにはどうしても帽子をかぶせたいんです」
上下なんてサラっとおっしゃるけど、それってスーツのことじゃん!
ましてや帽子なんて、前代未聞じゃん!
高度な要求に息を飲む10人の母親。
しかし10人のうち過半数は、この要求の根拠に心当たりがあった。
PTAの役員だったからである。
役員には少々無理を言ってもいいという
やはり幼稚園の伝統が存在した。
私はその年、PTA会長であった。
はん、ジャンケンに負けただけよ。
それでも雰囲気的に、衣装制作のリーダーということになった。
運良く、同じ踊りをする 子供のお祖母ちゃんに
仕立ての婦人服を縫う人がいて
帽子は経験が無いから無理だけど、布を用意してくれれば
衣装は縫ってやると言う。
心底ありがたかった。
ここでまた、同じ踊りをする子の母親が名乗り出てくれた。
「この辺りじゃ、間に合わせの服地しか無いでしょう。
私、実家が東京で、近くに大きな生地問屋があるんです。
来週、里帰りするので買って来ますから
どんなのがいいか言ってください」
こちらも、ありがたい申し出である。
「誰がどう見ても緑と呼ぶであろう厚手のサテン、買うて来て!」
私は即座に言った。
ゾウキンぐらいしか縫えない私は、担任の思いつきに腹を立てていた。
当時は30過ぎの生意気盛り、今よりずっと反抗心が強かったので
緑と言われたからには断然の緑にしてやりたかったのだ。
かくして、誰がどう見ても緑と呼ぶ東京帰りのサテンは
子供達のサイズ表と共に、洋裁の名手であるお祖母ちゃんの家に届けられた。
できあがるまで、私は待つだけでよかった…
なわけ、ねえだろ。
帽子が残っているではないか。
「こればっかりは…」
誰しも遠巻きにして見放した。
当時はネットも普及しておらず、帽子の作り方を知るスベはなかった。
やがて年が明けて1月半ば
お祖母ちゃん渾身の衣装が縫い上がる。
サテンは滑るので、とても苦心したそうだ。
テカテカのスーツに、圧倒される一同。
もはや森の妖精どころの騒ぎではない。
サタデーナイトフィーバー!
着る物が立派なだけに、帽子がまだという現実は私をさいなんだ。
衣装を人に頼ったのだから、誰もが恐れる帽子は自分で何とかしたかった。
どうにか縫うのが可能であろうチューリップハットや
頭巾(ずきん)なんかも考えはしたが
このスーツにマッチするとは到底思えない。
良い案は浮かばないまま、悶々と日は過ぎていった。
(続く)