運転手募集の件で夫を怒らせて以来、藤村はしばらく顔を見せなかった。
それでも仕事の連絡は必要なので、電話はかけてくる。
夫は最初のうちこそ冷ややかに対していたが
良く言えば根に持つタイプではなく、悪く言えば忘れっぽいので
じきに普通のフレンドリーな会話になった。
そうなると藤村はまた会社に訪れ始め
二人は何事もなかったかのように交流を再開した。
そして先月半ばのこと。
藤村はいつものように無言で、のっそりと事務所に入って来ると
夫にたずねた。
「現場の取引先を招待して忘年会をすることになったけど
みんな焼肉がいいんだって。
近くに安くておいしい店、無い?」
この時、その場にいた私は冷淡に言った。
「田舎には高くておいしい店か、安くておいしくない店しか無いですよ」
藤村、いつになく私の発言が聞こえたようで
少し考えてから、私にではなく夫に言った。
「じゃあ、高くておいしい方」
生意気な‥おまえらは食べたらお腹が痛くなる店でええんじゃ!
この高くておいしい店の女性店主は、焼肉店には珍しく日本人。
“故郷の味”には無関係で、同胞利権による安い仕入れとも縁がない。
よって料金は高くなるが、良い肉を出す。
店主は“焼肉屋のおばちゃん”という印象に程遠い、細身で上品な女性だ。
彼女のご主人は昔、義父の会社の社員だった。
彼女とは子供会が一緒だったので、私も親しい。
当然、店主の息子はうちの息子たちと幼なじみ。
その息子の勤務先は夫の親戚。
何かと縁がある上、誰を連れて行っても喜ばれるので
大切にしたい店だった。
夫は親しい店を喜ばせたくて
さっそく電話で交渉し、特別に飲み放題にしてもらった。
17人の宴会で、一人7千円。
忘年会シーズンに突入する前の11月は暇ということで
店の方も喜び、かなり勉強してくれた。
喜ぶでもなく、夫に改めて礼を言うでもなく
「それじゃ‥」と無表情のまま帰ろうとする藤村に、私は釘を刺した。
「ドタキャンしないでくださいねっ!
こないだの運転手のようなことになったら、困りますよっ!」
藤村は返事をするでも、うなづくでもなく
いつものように無視して帰って行った。
それから一週間が経過。
藤村主催の忘年会などすっかり忘れていた私は
夜になって今日がその日だと思い出した。
「今頃、宴会中ね」
すると夫は短い沈黙を経た後、苦渋の表情で答えた。
「よその店でな‥」
「ええっ?」
前日の夕方、藤村から夫に仕事の連絡があったという。
そして電話の切りぎわ
「そうそう、予約してた焼肉屋、キャンセルしてくれる?」
軽〜く言ったそうな。
7千円はやっぱり高いので、他の人に頼んで別の店に決めたという。
「自分で断れ!」
夫は怒鳴ったが、藤村はそのまま電話を切った。
彼がキャンセルの電話をするかどうかわからないので
夫が渋々、店に連絡したというてん末。
「昨日ほど情けなかったことは無い‥焼肉屋の一家に合わせる顔が無い」
夫は辛そうにつぶやいた。
「あんまり腹が立ち過ぎて、すぐ言えんかった‥」
夫は打ち明けるが、おそらく私に
「それ見たことか」と言われるのが怖かったからだと思われる。
二杯目の煮え湯を飲まされた夫に、私は心から同情するのだった。
しかし藤村の行いは
過去何十年、夫が私たち家族に対して行ってきたことだ。
夫の辞書に、約束の文字は無かった。
コトの大小に関わらず、行くと行って行かない、やると言ってやらない。
そのために何度待ちぼうけをくらい、何度恥をかき
何度謝り、何度怒り、何度泣いたかしれない。
彼が誠実になるのは、愛人の前だけであった。
自分が人にやってきたことを
今度は人からやられると、怒りと恥が倍加するようだ。
怒りと恥が混ざると、情けなくなる。
夫は“情けない”という未知の感情に苦しんでいた。
人はこうして、自分が貯めてきたツケを払うんだわ‥
その姿を眺め、ひとときの感慨にふける私。
それから焼肉屋へ謝罪の電話をした。
キャンセル料が必要なら自腹で払い
金額によっては藤村から厳しく取り立てるつもりだったが
店主は怒っておらず、ホッとした。
以後、藤村はぱったりと来なくなった。
藤村に謝罪の意思が無いのを知った夫が、彼の携帯を着信拒否に設定したため
藤村からの業務連絡は、本社を経由して夫へと伝えられるようになった。
《続く》
それでも仕事の連絡は必要なので、電話はかけてくる。
夫は最初のうちこそ冷ややかに対していたが
良く言えば根に持つタイプではなく、悪く言えば忘れっぽいので
じきに普通のフレンドリーな会話になった。
そうなると藤村はまた会社に訪れ始め
二人は何事もなかったかのように交流を再開した。
そして先月半ばのこと。
藤村はいつものように無言で、のっそりと事務所に入って来ると
夫にたずねた。
「現場の取引先を招待して忘年会をすることになったけど
みんな焼肉がいいんだって。
近くに安くておいしい店、無い?」
この時、その場にいた私は冷淡に言った。
「田舎には高くておいしい店か、安くておいしくない店しか無いですよ」
藤村、いつになく私の発言が聞こえたようで
少し考えてから、私にではなく夫に言った。
「じゃあ、高くておいしい方」
生意気な‥おまえらは食べたらお腹が痛くなる店でええんじゃ!
この高くておいしい店の女性店主は、焼肉店には珍しく日本人。
“故郷の味”には無関係で、同胞利権による安い仕入れとも縁がない。
よって料金は高くなるが、良い肉を出す。
店主は“焼肉屋のおばちゃん”という印象に程遠い、細身で上品な女性だ。
彼女のご主人は昔、義父の会社の社員だった。
彼女とは子供会が一緒だったので、私も親しい。
当然、店主の息子はうちの息子たちと幼なじみ。
その息子の勤務先は夫の親戚。
何かと縁がある上、誰を連れて行っても喜ばれるので
大切にしたい店だった。
夫は親しい店を喜ばせたくて
さっそく電話で交渉し、特別に飲み放題にしてもらった。
17人の宴会で、一人7千円。
忘年会シーズンに突入する前の11月は暇ということで
店の方も喜び、かなり勉強してくれた。
喜ぶでもなく、夫に改めて礼を言うでもなく
「それじゃ‥」と無表情のまま帰ろうとする藤村に、私は釘を刺した。
「ドタキャンしないでくださいねっ!
こないだの運転手のようなことになったら、困りますよっ!」
藤村は返事をするでも、うなづくでもなく
いつものように無視して帰って行った。
それから一週間が経過。
藤村主催の忘年会などすっかり忘れていた私は
夜になって今日がその日だと思い出した。
「今頃、宴会中ね」
すると夫は短い沈黙を経た後、苦渋の表情で答えた。
「よその店でな‥」
「ええっ?」
前日の夕方、藤村から夫に仕事の連絡があったという。
そして電話の切りぎわ
「そうそう、予約してた焼肉屋、キャンセルしてくれる?」
軽〜く言ったそうな。
7千円はやっぱり高いので、他の人に頼んで別の店に決めたという。
「自分で断れ!」
夫は怒鳴ったが、藤村はそのまま電話を切った。
彼がキャンセルの電話をするかどうかわからないので
夫が渋々、店に連絡したというてん末。
「昨日ほど情けなかったことは無い‥焼肉屋の一家に合わせる顔が無い」
夫は辛そうにつぶやいた。
「あんまり腹が立ち過ぎて、すぐ言えんかった‥」
夫は打ち明けるが、おそらく私に
「それ見たことか」と言われるのが怖かったからだと思われる。
二杯目の煮え湯を飲まされた夫に、私は心から同情するのだった。
しかし藤村の行いは
過去何十年、夫が私たち家族に対して行ってきたことだ。
夫の辞書に、約束の文字は無かった。
コトの大小に関わらず、行くと行って行かない、やると言ってやらない。
そのために何度待ちぼうけをくらい、何度恥をかき
何度謝り、何度怒り、何度泣いたかしれない。
彼が誠実になるのは、愛人の前だけであった。
自分が人にやってきたことを
今度は人からやられると、怒りと恥が倍加するようだ。
怒りと恥が混ざると、情けなくなる。
夫は“情けない”という未知の感情に苦しんでいた。
人はこうして、自分が貯めてきたツケを払うんだわ‥
その姿を眺め、ひとときの感慨にふける私。
それから焼肉屋へ謝罪の電話をした。
キャンセル料が必要なら自腹で払い
金額によっては藤村から厳しく取り立てるつもりだったが
店主は怒っておらず、ホッとした。
以後、藤村はぱったりと来なくなった。
藤村に謝罪の意思が無いのを知った夫が、彼の携帯を着信拒否に設定したため
藤村からの業務連絡は、本社を経由して夫へと伝えられるようになった。
《続く》