全記事のコメント欄で、くぢらさん、いかどんぶりさんと
『私は私』について話し合った。
他人と自分を比較せず、うらやまず、焦らず
『人は人、自分は自分』と割り切る考えのことだ。
私にとってこれは、長年のテーマだった。
自身の結婚生活が「比較、羨望、焦り」の3点セットに
さいなまれ続けていたからだ。
私のような凡人が浮気三昧の夫を持つと、どうしてもそうなってしまう。
結婚6年目に夫の両親と同居を始めて以降
夫の浮気はますますひどくなり
比較、羨望、焦り‥私の3点セットも強くなっていった。
家族旅行と聞けば密かにうらやみ
それに引き換えうちは‥と視線を落とす。
夫が行くのは、愛人の同伴旅行だけだ。
よそのご主人が家事や育児に協力する様子を見ては
やはり密かにうらやみ、それに引き換えうちは‥。
外泊でなければ季節のイベント、駆け落ちで
そもそも家にいないのだから家事や育メンどころではない。
町を歩く見ず知らずの夫婦連れすら、うらやみの対象となった。
一緒に練り歩きたいわけではないが
夫婦関係を公にしてはばからない堂々としたそぶりがまぶしくて
目が痛いじゃないか。
というのも、夫の愛人は近場の住民が多い。
その愛人には「離婚間近」と伝えるのが常なので
一緒に居る所を本人、あるいはゆかりの者に見られると
大変都合が悪いらしかった。
愛人というのは、ものすごく疑り深くて嫉妬深いと決まっている。
愛人になったから、疑り深くて嫉妬深い人間になるのではない。
元々疑り深くて嫉妬深いので、愛人をやるしかないのだ。
疑り深くて嫉妬深い女は、マトモな男から相手にされない。
だから他人のものに手を出すしかないのだ。
浮気者の妻を続けて三十有余年、これは間違いない。
この疑り深くて嫉妬深い女を鎮める作業は
口の重たい夫にとって至難の技。
よって厄介を未然に防ぐため
夫婦で人目につくことを全力で避けていた。
妻と愛人、どっちが日陰かわからない。
こうなると、憎いはずの愛人すらうらやましい。
なにしろアレらが対応するのは夫のみ。
その親に仕える必要は無い。
朝から晩まで奴隷のように働き、罵倒される憂き目に遭わなくていいのだ。
これがうらやましくないわけがない。
長い間、この本末転倒が我々夫婦の形であった。
その間、私はたびたび自分に言い聞かせた。
「人は人、私は私」
他人をうらやんでも仕方がない‥
自分に与えられた人生を歩むしかないのだと。
しかしそれは、何の薬にもならなかった。
これが自分に与えられた人生だとすれば、あんまりではないか。
厳しい日々の中、ひたすら生きるために
自分が納得できる言葉をあれこれ探していた半生だったが
少なくとも「私は私」の方針はマッチしなかった。
だからこの言葉には、背を向けた。
背を向けながらも、いつかこう言える日がくるのだろうかと
気にはなっていた。
気がつけば私以外の人、みんなが輝いて見えるようになっていた。
よそ様の美貌や経済力どころじゃない。
そもそも家に帰って玄関のドアを開ける時
ドキドキすることが無さそう‥
そこからして、輝いて見える。
自分が留守の間に練られた、懲らしめのメニューは何だろう‥
そう案ずることも、おそらく無いと思う。
そこも、ひどくうらやましい。
親にとって、息子が愛さない嫁の使い道は労働しかないのだ。
働かなければならないので、子供の教育は二の次。
塾や習い事は、たいてい夕方と決まっている。
しかし両親は、この夕方に家を空けることが気に入らない。
子供にかまけて労働の手を休めることが
彼らにとっては許せない反抗だった。
4時に夕食の支度を開始しなければ義母が騒ぎ出し
6時に食べ始めなければ義父が暴れる。
どのような状態かといえば
義母は自分の親戚や友人、たまに私の実家‥
あちこちに嫁の怠慢を訴えて電話をかける。
最後は仲良しの料理屋。
「嫁が晩の支度をしてくれないので、主人と私の二人分お願いします」
それを私に取りに行かせるのが恒例のペナルティー。
義父の方は罵詈雑言を吐きながら
食器棚の引き出しの中身をぶちまけるのがお決まりのコース。
のこのこ料理屋へ行き、そこで嫌味を言われるのも
大音響でぶちまけられたナイフやフォークを拾うのも情けないが
第一、無駄な時間がかかる。
これを回避するには、時間厳守しかない。
何年も夕日を見たことが無かった。
これでも「私は私」と言える人がいたら、たいしたものだと思う。
それはもう、菩薩の境地だ。
菩薩になって、早くあの世へ行くに違いない。
菩薩路線もいいかもしれないが
私は母親を早くに亡くしているので
遺された子供がどれほど惨めなものか知っている。
夫の両親と同居を始めて10年目、私は子供たちを連れて家を出た。
凡人が生き延びるためには、この方法しか見当たらなかった。
《続く》
『私は私』について話し合った。
他人と自分を比較せず、うらやまず、焦らず
『人は人、自分は自分』と割り切る考えのことだ。
私にとってこれは、長年のテーマだった。
自身の結婚生活が「比較、羨望、焦り」の3点セットに
さいなまれ続けていたからだ。
私のような凡人が浮気三昧の夫を持つと、どうしてもそうなってしまう。
結婚6年目に夫の両親と同居を始めて以降
夫の浮気はますますひどくなり
比較、羨望、焦り‥私の3点セットも強くなっていった。
家族旅行と聞けば密かにうらやみ
それに引き換えうちは‥と視線を落とす。
夫が行くのは、愛人の同伴旅行だけだ。
よそのご主人が家事や育児に協力する様子を見ては
やはり密かにうらやみ、それに引き換えうちは‥。
外泊でなければ季節のイベント、駆け落ちで
そもそも家にいないのだから家事や育メンどころではない。
町を歩く見ず知らずの夫婦連れすら、うらやみの対象となった。
一緒に練り歩きたいわけではないが
夫婦関係を公にしてはばからない堂々としたそぶりがまぶしくて
目が痛いじゃないか。
というのも、夫の愛人は近場の住民が多い。
その愛人には「離婚間近」と伝えるのが常なので
一緒に居る所を本人、あるいはゆかりの者に見られると
大変都合が悪いらしかった。
愛人というのは、ものすごく疑り深くて嫉妬深いと決まっている。
愛人になったから、疑り深くて嫉妬深い人間になるのではない。
元々疑り深くて嫉妬深いので、愛人をやるしかないのだ。
疑り深くて嫉妬深い女は、マトモな男から相手にされない。
だから他人のものに手を出すしかないのだ。
浮気者の妻を続けて三十有余年、これは間違いない。
この疑り深くて嫉妬深い女を鎮める作業は
口の重たい夫にとって至難の技。
よって厄介を未然に防ぐため
夫婦で人目につくことを全力で避けていた。
妻と愛人、どっちが日陰かわからない。
こうなると、憎いはずの愛人すらうらやましい。
なにしろアレらが対応するのは夫のみ。
その親に仕える必要は無い。
朝から晩まで奴隷のように働き、罵倒される憂き目に遭わなくていいのだ。
これがうらやましくないわけがない。
長い間、この本末転倒が我々夫婦の形であった。
その間、私はたびたび自分に言い聞かせた。
「人は人、私は私」
他人をうらやんでも仕方がない‥
自分に与えられた人生を歩むしかないのだと。
しかしそれは、何の薬にもならなかった。
これが自分に与えられた人生だとすれば、あんまりではないか。
厳しい日々の中、ひたすら生きるために
自分が納得できる言葉をあれこれ探していた半生だったが
少なくとも「私は私」の方針はマッチしなかった。
だからこの言葉には、背を向けた。
背を向けながらも、いつかこう言える日がくるのだろうかと
気にはなっていた。
気がつけば私以外の人、みんなが輝いて見えるようになっていた。
よそ様の美貌や経済力どころじゃない。
そもそも家に帰って玄関のドアを開ける時
ドキドキすることが無さそう‥
そこからして、輝いて見える。
自分が留守の間に練られた、懲らしめのメニューは何だろう‥
そう案ずることも、おそらく無いと思う。
そこも、ひどくうらやましい。
親にとって、息子が愛さない嫁の使い道は労働しかないのだ。
働かなければならないので、子供の教育は二の次。
塾や習い事は、たいてい夕方と決まっている。
しかし両親は、この夕方に家を空けることが気に入らない。
子供にかまけて労働の手を休めることが
彼らにとっては許せない反抗だった。
4時に夕食の支度を開始しなければ義母が騒ぎ出し
6時に食べ始めなければ義父が暴れる。
どのような状態かといえば
義母は自分の親戚や友人、たまに私の実家‥
あちこちに嫁の怠慢を訴えて電話をかける。
最後は仲良しの料理屋。
「嫁が晩の支度をしてくれないので、主人と私の二人分お願いします」
それを私に取りに行かせるのが恒例のペナルティー。
義父の方は罵詈雑言を吐きながら
食器棚の引き出しの中身をぶちまけるのがお決まりのコース。
のこのこ料理屋へ行き、そこで嫌味を言われるのも
大音響でぶちまけられたナイフやフォークを拾うのも情けないが
第一、無駄な時間がかかる。
これを回避するには、時間厳守しかない。
何年も夕日を見たことが無かった。
これでも「私は私」と言える人がいたら、たいしたものだと思う。
それはもう、菩薩の境地だ。
菩薩になって、早くあの世へ行くに違いない。
菩薩路線もいいかもしれないが
私は母親を早くに亡くしているので
遺された子供がどれほど惨めなものか知っている。
夫の両親と同居を始めて10年目、私は子供たちを連れて家を出た。
凡人が生き延びるためには、この方法しか見当たらなかった。
《続く》