悪いヤツにはバチは当たらず、この世を謳歌している‥
もしも先で困ったことになったとしても
思う存分、好き放題をして過ごした日々のオマケみたいなもの‥
自由奔放に生きた満足感を反芻しているうちに
お迎えが来るに違いない‥
その一方で自分のような運の弱い人間は、とことん痛い目に遭う‥
この世は勧善懲悪ではなかったのか‥
神様だか仏様だかが見守って、何とかしてくれると思っていたけど
違うのか‥
この世というのは、マジわからん‥。
私は「この世の実態」という大きな疑問を抱えることになったが
賢くもない頭で少々考えたって、わかるはずがない。
そこで当面、この疑問は棚上げすることにした。
いつか、わかる時が来るかもしれない‥
でもそれは今じゃない‥
それまでの繋ぎがこれ。
「この世がどうであろうと、私は私」。
人は人、自分は自分どころじゃない。
なにしろ相手はこの世。
なんだか気が大きくなったような気がするから、おめでたいものだ。
さて私が家を出て以降、義父の会社は急激に衰えていた。
以前から少しずつ下向きになっていたが
この頃には何をやってもうまくいかなくなった。
勧善懲悪の発動ではなく、単なるジェネレーションギャップ。
コワモテで押し切る昭和のスタイルが
自分の子供より若い相手には通用しなくなったのだ。
一つ狂えば、他の面も狂い始めるもので
義父の体調の方も以前に増して崩れ始めた。
父親に代わって、夫は金策に走り回るようになり
その埋め合わせのつもりか、相変わらず浮気にふけった。
もちろん感じは悪いが、以前ほどの絶望は訪れない。
両親との同居解消によって得た自由が、私に余裕を与えていた。
義父は自分が頭を下げたくないもんだから
病気を理由に夫を人身御供にしているフシがあった。
病気といっても糖尿だ。
絶対安静ではないので動けるし、体調のいい時はゴルフにも行ける。
しかし行きたくない所へ行く時は、病人になりきる。
夫は父親の習性を知り尽くしていた。
いいように利用されているのもわかっていた。
それでも父親をホッとさせたいからやるのだ‥と言った。
大好きなのに振り向いてもらえない父親から
微笑んでもらいたい一心が伝わってきた。
どんな目に遭わされても親を慕う子供‥
その姿は、あわれにいとおしいものだった。
こうして瞬く間に17年が過ぎた。
その間、義父の会社は青息吐息の自転車操業で持ちこたえていたが
とうとう危なくなった。
義父もまた、インスリン注射を打ちながら持ちこたえていたが
とうとう自力では動けなくなり、最期の入院生活に入った。
翌年、義母が胃癌で入院した。
それを機に、我々一家は再び夫の実家で暮らすようになった。
暮らすようになったというより、帰りそびれたというのが正しい。
義父の会社の危うさは、聞きしに勝った。
かかる電話は支払いの催促、届く郵便は請求書ばかり。
30年以上に渡って経理を担当していた義姉はとっくに転職し
会社の事務を執る者はいなくなっていた。
夫は見よう見まねで帳面に取り組んでいたが、未経験ではしょせん無理。
手伝ううちに、帰りそびれたのだった。
銀行の取り立てはいよいよ厳しくなり、回収できないとなると
債権は次々と信用保証協会や、民間の債権回収会社に回された。
これらは銀行より、もっと厳しい。
私はここで初めて、経営者責任の重さを知った。
会社がうまく行っている間は「社長さん」と呼ばれるが
借りたお金を返せなくなったら経営者責任を追求され、責め立てられるのだ。
入院中のため、経営者責任を全うできない父親の身代わりとして
夫はそれらに対応しなければならなかった。
一人で会わせたら個人保証の判を押す懸念があり
夫も心細がるので、たいてい夫婦で行動した。
夫婦連れをうらやんだ若い日もあったが、ハハ‥皮肉なものだ。
本人ではないので、向こうの追求は多少ゆるめだったように思うが
それでも夜逃げや自殺をする経営者の気持ちがわかるような気がした。
社長って大変‥
いい時はいいけど、ひとたび落ち目になったら地獄の扉が開く‥
そこでハッと気がついたことがあった。
私はずっと、両親や義姉にいじめられたと思っていた。
特に会社のことになると、彼らは異様なほど神経質になり
私を警戒かつ疎外するのが常識であった。
役員の一人として、私も書類に名を連ねてはいたものの
それは申請のためであり、完全な幽霊メンバー。
両親と義姉と夫の4人だけが遊び暮らし、欲しい物を買い
贅沢の恩恵を受けているように見えたし、実際そうであった。
同居が始まった日、義父が最初に何をしたかというと
金庫が置いてある部屋のドアノブに、スイス土産のカウベルを掛けた。
牛の首に掛ける大きめの鈴である。
「他人と暮らすんだからな!」
義父はそう言った。
私が金庫部屋に出入りすると、鈴が鳴り響いてわかるという仕掛けだった。
こんなのはほんの一例で、私は逐一疎外されてきたし
彼らも私を疎外することで、血の結束に酔っていた。
けれどもそれが、私を守ったのではないか。
もしも可愛がってもらっていたら、親孝行の真似事がしたくなり
個人保証の一つや二つ、進んでやっていたかもしれない。
辛くあたられ、疎外されることで
責任とは無関係の圏外に置かれたのは確かだ。
彼らが億単位の負債に苦しんでいても、どこ吹く風。
その気楽は、ひょっとして幸運というものだったのか。
「何がどうなるやら、わからない‥」
おぼろげながら、この世の実態の一端がわかったような気がした。
ちなみに、カウベルのチロリアンテープは丈夫だったらしい。
あれから32年経った今も、変わらず金庫部屋のドアノブにぶら下がっている。
ただし現在、金庫に金目のものは入っていない。
《続く》
もしも先で困ったことになったとしても
思う存分、好き放題をして過ごした日々のオマケみたいなもの‥
自由奔放に生きた満足感を反芻しているうちに
お迎えが来るに違いない‥
その一方で自分のような運の弱い人間は、とことん痛い目に遭う‥
この世は勧善懲悪ではなかったのか‥
神様だか仏様だかが見守って、何とかしてくれると思っていたけど
違うのか‥
この世というのは、マジわからん‥。
私は「この世の実態」という大きな疑問を抱えることになったが
賢くもない頭で少々考えたって、わかるはずがない。
そこで当面、この疑問は棚上げすることにした。
いつか、わかる時が来るかもしれない‥
でもそれは今じゃない‥
それまでの繋ぎがこれ。
「この世がどうであろうと、私は私」。
人は人、自分は自分どころじゃない。
なにしろ相手はこの世。
なんだか気が大きくなったような気がするから、おめでたいものだ。
さて私が家を出て以降、義父の会社は急激に衰えていた。
以前から少しずつ下向きになっていたが
この頃には何をやってもうまくいかなくなった。
勧善懲悪の発動ではなく、単なるジェネレーションギャップ。
コワモテで押し切る昭和のスタイルが
自分の子供より若い相手には通用しなくなったのだ。
一つ狂えば、他の面も狂い始めるもので
義父の体調の方も以前に増して崩れ始めた。
父親に代わって、夫は金策に走り回るようになり
その埋め合わせのつもりか、相変わらず浮気にふけった。
もちろん感じは悪いが、以前ほどの絶望は訪れない。
両親との同居解消によって得た自由が、私に余裕を与えていた。
義父は自分が頭を下げたくないもんだから
病気を理由に夫を人身御供にしているフシがあった。
病気といっても糖尿だ。
絶対安静ではないので動けるし、体調のいい時はゴルフにも行ける。
しかし行きたくない所へ行く時は、病人になりきる。
夫は父親の習性を知り尽くしていた。
いいように利用されているのもわかっていた。
それでも父親をホッとさせたいからやるのだ‥と言った。
大好きなのに振り向いてもらえない父親から
微笑んでもらいたい一心が伝わってきた。
どんな目に遭わされても親を慕う子供‥
その姿は、あわれにいとおしいものだった。
こうして瞬く間に17年が過ぎた。
その間、義父の会社は青息吐息の自転車操業で持ちこたえていたが
とうとう危なくなった。
義父もまた、インスリン注射を打ちながら持ちこたえていたが
とうとう自力では動けなくなり、最期の入院生活に入った。
翌年、義母が胃癌で入院した。
それを機に、我々一家は再び夫の実家で暮らすようになった。
暮らすようになったというより、帰りそびれたというのが正しい。
義父の会社の危うさは、聞きしに勝った。
かかる電話は支払いの催促、届く郵便は請求書ばかり。
30年以上に渡って経理を担当していた義姉はとっくに転職し
会社の事務を執る者はいなくなっていた。
夫は見よう見まねで帳面に取り組んでいたが、未経験ではしょせん無理。
手伝ううちに、帰りそびれたのだった。
銀行の取り立てはいよいよ厳しくなり、回収できないとなると
債権は次々と信用保証協会や、民間の債権回収会社に回された。
これらは銀行より、もっと厳しい。
私はここで初めて、経営者責任の重さを知った。
会社がうまく行っている間は「社長さん」と呼ばれるが
借りたお金を返せなくなったら経営者責任を追求され、責め立てられるのだ。
入院中のため、経営者責任を全うできない父親の身代わりとして
夫はそれらに対応しなければならなかった。
一人で会わせたら個人保証の判を押す懸念があり
夫も心細がるので、たいてい夫婦で行動した。
夫婦連れをうらやんだ若い日もあったが、ハハ‥皮肉なものだ。
本人ではないので、向こうの追求は多少ゆるめだったように思うが
それでも夜逃げや自殺をする経営者の気持ちがわかるような気がした。
社長って大変‥
いい時はいいけど、ひとたび落ち目になったら地獄の扉が開く‥
そこでハッと気がついたことがあった。
私はずっと、両親や義姉にいじめられたと思っていた。
特に会社のことになると、彼らは異様なほど神経質になり
私を警戒かつ疎外するのが常識であった。
役員の一人として、私も書類に名を連ねてはいたものの
それは申請のためであり、完全な幽霊メンバー。
両親と義姉と夫の4人だけが遊び暮らし、欲しい物を買い
贅沢の恩恵を受けているように見えたし、実際そうであった。
同居が始まった日、義父が最初に何をしたかというと
金庫が置いてある部屋のドアノブに、スイス土産のカウベルを掛けた。
牛の首に掛ける大きめの鈴である。
「他人と暮らすんだからな!」
義父はそう言った。
私が金庫部屋に出入りすると、鈴が鳴り響いてわかるという仕掛けだった。
こんなのはほんの一例で、私は逐一疎外されてきたし
彼らも私を疎外することで、血の結束に酔っていた。
けれどもそれが、私を守ったのではないか。
もしも可愛がってもらっていたら、親孝行の真似事がしたくなり
個人保証の一つや二つ、進んでやっていたかもしれない。
辛くあたられ、疎外されることで
責任とは無関係の圏外に置かれたのは確かだ。
彼らが億単位の負債に苦しんでいても、どこ吹く風。
その気楽は、ひょっとして幸運というものだったのか。
「何がどうなるやら、わからない‥」
おぼろげながら、この世の実態の一端がわかったような気がした。
ちなみに、カウベルのチロリアンテープは丈夫だったらしい。
あれから32年経った今も、変わらず金庫部屋のドアノブにぶら下がっている。
ただし現在、金庫に金目のものは入っていない。
《続く》