義父の会社の負債問題は日増しに深刻化していたが
じきに今の本社との合併話が進み始める。
以後、銀行との接触は本社が担当したため
解放された我々は、義父の会社を閉じる作業に取り掛かった。
この過程で、一つの現実に突き当たった。
義姉に関することだ。
30年余りに渡って、父親の会社の金庫番を続けた義姉は
会社の危機を察知した途端に転職していた。
私より4才年上の彼女は、当時50代半ばだったので
仕事を選んではいられない。
急場しのぎの転職先は、老人ホームの給食調理員だった。
親の会社で好き放題の年月を過ごした彼女にとって
この就職は妥協以外のなにものでもないが
危ない会社の経理責任者でいるよりマシだったらしい。
危なくなったら責任回避のため、脱兎のごとく逃げる確信は
昔から持っていたので驚きはしないが
「商業大学で経営を学んだ経理のプロ」
「几帳面で責任感が強い、優秀な娘」
両親はそう公言して彼女を自慢にしてきたため
私も長年、そう思い込んでいた。
毎日の里帰りは腹が立つけど、ひどく頭がいいそうだから
私が代われるものでもなし、我慢するしかないんだと
自分に言い聞かせていたのだ。
しかし、廃業のために行う種々の名義変更や
各方面に提出する書類の作成で
義姉が途中で放り投げた仕事の残骸にたびたび遭遇。
シロウトの私にもわかるズサンに驚愕した。
それらの残骸を処理しなければ次に進めないため、作業は遅れ
順番が後になるはずだった新会社の設立が、先に終わってしまった。
「プロ」「几帳面」「責任感が強い」「優秀」
義姉についての賛美を鵜呑みにしていた私は
いくら急なこととはいえ、いくら親の欲目とはいえ
義姉がそこまで評価される人物ならば
何らかのケリをつけて去っているはずと踏んでいた。
廃業を甘く見ていたのだ。
作業は難航した。
義父の会社と契約していた税理士が手伝ってくれたが
その彼は、薄笑いを浮かべて言うではないか。
「お宅の場合、僕のやる仕事は税理じゃなくて推理でしたから」
義姉は、両親や本人が言うほど優秀ではなかったらしい‥
この事実は、なかなかの衝撃だった。
口ほどにもなかったことを知ったからではない。
「じゃあ、私の半生は何だったの?」
という衝撃である。
学歴、資格、能力、実家‥私に無いものを常に義姉と比較され
「何も無い嫁だから、働かせるしかない」
「何も無い嫁だから、浮気されるのだ」
そう言われてきた半生だ。
若かった私もまた
「何も無いんだから仕方がない」
そう思った。
何も無いのは、いけないことらしい‥
何も無いのは罪らしい‥
武器を持たずに結婚したのだから、馬鹿にされてもしょうがないのだ‥
日夜、比較されては敗者と決めつけられる悔しさ、情けなさを封じるため
自分に言い聞かせた。
家を出て以来、彼らから遠ざかり、自分もオバさんになったため
厚かましくなって忘れてしまったが
当時は何も無い我が身を恥じ、悔い、嘆きながら
こんな自分でも生きられる道を懸命に模索していたものだ。
一見、ケナゲに見えるこの方針だが
実は彼らの作り上げた幻想に踊らされていたに過ぎなかった。
思い込みとは恐ろしい。
逆だったのだ。
よその娘さんとはどこか異なる義姉の特質は
私だけでなく、両親も感じていたはずである。
会話が続かない、人の目を見ない‥
周りが自然に遠慮し、顔色をうかがい、怖々と接して遠巻きにする‥
得体の知れない何かである。
両親は、義姉の持つこの雰囲気を
「肝が太い」「男に生まれたら天下を取ったはず」
と、やはり賞賛に寄り切っていたが
ナンボ何でも無理があるというものだ。
彼らは娘と私を比較し、娘に軍配を上げることで
安心したかったのではなかろうか。
娘より劣る証として、私に労働を課しているうち
歯止めが効かなくなっていったのではなかろうか。
これも一種、親の愛であろう。
「私は、危うい娘をマトモに見せるためのアイテムだった」
それに気づかないまま、敗者として嘆いていた。
自分に「私は私」という確立した意志があれば
こんな馬鹿馬鹿しいことで泣く年月を送らずに済んだはずである。
「私は私」
人それぞれに与えられた環境があるように、自分にも与えられた環境がある。
時としてその環境は不運に思え、みじめに感じることもある。
しかしそれは自分の乏しい経験と知識で眺めた、ほんの一面に過ぎない。
本当は見落としているものがあったり
本当は別の問題から目をそむけていたり
いずれにしても、いつか必ず過ぎ去るものである。
それらの区別も無しに、ただ嘆き、卑下するのは
自信‥つまり自身を見失う愚行である。
「私は私」。
これは妥協するために言い聞かせる言葉ではなく
物事の正体を見破り、真実を見抜くキーワードである‥
私はそう結論づけたのだった。
《続く》
じきに今の本社との合併話が進み始める。
以後、銀行との接触は本社が担当したため
解放された我々は、義父の会社を閉じる作業に取り掛かった。
この過程で、一つの現実に突き当たった。
義姉に関することだ。
30年余りに渡って、父親の会社の金庫番を続けた義姉は
会社の危機を察知した途端に転職していた。
私より4才年上の彼女は、当時50代半ばだったので
仕事を選んではいられない。
急場しのぎの転職先は、老人ホームの給食調理員だった。
親の会社で好き放題の年月を過ごした彼女にとって
この就職は妥協以外のなにものでもないが
危ない会社の経理責任者でいるよりマシだったらしい。
危なくなったら責任回避のため、脱兎のごとく逃げる確信は
昔から持っていたので驚きはしないが
「商業大学で経営を学んだ経理のプロ」
「几帳面で責任感が強い、優秀な娘」
両親はそう公言して彼女を自慢にしてきたため
私も長年、そう思い込んでいた。
毎日の里帰りは腹が立つけど、ひどく頭がいいそうだから
私が代われるものでもなし、我慢するしかないんだと
自分に言い聞かせていたのだ。
しかし、廃業のために行う種々の名義変更や
各方面に提出する書類の作成で
義姉が途中で放り投げた仕事の残骸にたびたび遭遇。
シロウトの私にもわかるズサンに驚愕した。
それらの残骸を処理しなければ次に進めないため、作業は遅れ
順番が後になるはずだった新会社の設立が、先に終わってしまった。
「プロ」「几帳面」「責任感が強い」「優秀」
義姉についての賛美を鵜呑みにしていた私は
いくら急なこととはいえ、いくら親の欲目とはいえ
義姉がそこまで評価される人物ならば
何らかのケリをつけて去っているはずと踏んでいた。
廃業を甘く見ていたのだ。
作業は難航した。
義父の会社と契約していた税理士が手伝ってくれたが
その彼は、薄笑いを浮かべて言うではないか。
「お宅の場合、僕のやる仕事は税理じゃなくて推理でしたから」
義姉は、両親や本人が言うほど優秀ではなかったらしい‥
この事実は、なかなかの衝撃だった。
口ほどにもなかったことを知ったからではない。
「じゃあ、私の半生は何だったの?」
という衝撃である。
学歴、資格、能力、実家‥私に無いものを常に義姉と比較され
「何も無い嫁だから、働かせるしかない」
「何も無い嫁だから、浮気されるのだ」
そう言われてきた半生だ。
若かった私もまた
「何も無いんだから仕方がない」
そう思った。
何も無いのは、いけないことらしい‥
何も無いのは罪らしい‥
武器を持たずに結婚したのだから、馬鹿にされてもしょうがないのだ‥
日夜、比較されては敗者と決めつけられる悔しさ、情けなさを封じるため
自分に言い聞かせた。
家を出て以来、彼らから遠ざかり、自分もオバさんになったため
厚かましくなって忘れてしまったが
当時は何も無い我が身を恥じ、悔い、嘆きながら
こんな自分でも生きられる道を懸命に模索していたものだ。
一見、ケナゲに見えるこの方針だが
実は彼らの作り上げた幻想に踊らされていたに過ぎなかった。
思い込みとは恐ろしい。
逆だったのだ。
よその娘さんとはどこか異なる義姉の特質は
私だけでなく、両親も感じていたはずである。
会話が続かない、人の目を見ない‥
周りが自然に遠慮し、顔色をうかがい、怖々と接して遠巻きにする‥
得体の知れない何かである。
両親は、義姉の持つこの雰囲気を
「肝が太い」「男に生まれたら天下を取ったはず」
と、やはり賞賛に寄り切っていたが
ナンボ何でも無理があるというものだ。
彼らは娘と私を比較し、娘に軍配を上げることで
安心したかったのではなかろうか。
娘より劣る証として、私に労働を課しているうち
歯止めが効かなくなっていったのではなかろうか。
これも一種、親の愛であろう。
「私は、危うい娘をマトモに見せるためのアイテムだった」
それに気づかないまま、敗者として嘆いていた。
自分に「私は私」という確立した意志があれば
こんな馬鹿馬鹿しいことで泣く年月を送らずに済んだはずである。
「私は私」
人それぞれに与えられた環境があるように、自分にも与えられた環境がある。
時としてその環境は不運に思え、みじめに感じることもある。
しかしそれは自分の乏しい経験と知識で眺めた、ほんの一面に過ぎない。
本当は見落としているものがあったり
本当は別の問題から目をそむけていたり
いずれにしても、いつか必ず過ぎ去るものである。
それらの区別も無しに、ただ嘆き、卑下するのは
自信‥つまり自身を見失う愚行である。
「私は私」。
これは妥協するために言い聞かせる言葉ではなく
物事の正体を見破り、真実を見抜くキーワードである‥
私はそう結論づけたのだった。
《続く》