F社長の話が出たので、しばらく前からテーマの一つとなっている
F工業への転職話にも触れておこう。
あの話は、まだ生きている。
一時は今日明日にも転職しそうな夫と息子たちだったが、最近は落ち着いた。
その余裕は、河野常務が元気を取り戻したことに由来する。
永井部長が次男に「辞めてもらってかまわない」と言った時は黙認した彼だが
今になって反省しているらしく、次男に「辞めてくれるな」と言うようになった。
それで次男の方もひとまず気が済んだようだが
辞めるな、辞めるなと度々言うところを見ると
早耳の常務には転職の話が聞こえているのかもしれない。
その転職について、私は依然としてこれといった意見を言ってない。
実際に働くのは彼らなので、気軽に言えないからだ。
仕事のことを何も知らない変なヤツらに
好き放題される彼らの苦しみを見てきた身としては、止める気は無い。
年寄りの夫はどう転んだって社会人生活の終わりが見えているし
息子たちは独身なので、妻子のことを考える必要が無い。
たった一度の人生なんだから、好きにすればいいと思っている。
が、あちこちの職場で様々な仕事をしてきた私は
彼らより転職のリスクを知っているつもりだ。
今は創業者の一族ということで、本社からある程度は優遇されているが
よそへ行ったら新人のペーペー、ただのヒト。
向こうの人々には普通のことでも
彼らにとっては厳しい現実と感じる事柄がたくさんあると思う。
例えば新人は、古いダンプをあてがわれるのが業界の常識。
走行距離が何十万キロの古いダンプは故障しやすく
冷暖房は効かず、クッションは悪く、ハンドルが曲がっているなんてザラだ。
新車を与えられ、撫でさするように愛情をかけてきた息子たちにとって
それが嬉しいとは思えない。
夫の扱う重機だって、今のように重機のトップメーカー
コマツ製の最新型とはいかないだろう。
F社長は業界でも稀な好人物で、行けば良くしてくれるのはわかっている。
転職という思いもよらない選択肢を与えてくれ
夫や息子たちを絶望から救ってくれたことにも心から感謝している。
しかし彼の会社はすごい勢いで規模拡大中とはいえ
本社の年商にまだまだケタが届かない。
大きい所から小さい所へ変わるとは、やる仕事は同じでも商売道具からして違うということだ。
今度は変な人たちでなく、変な乗り物に消耗する可能性だってある。
そういう現実的なことは行ってみなければわからないだろうが、行ってからでは遅い。
その辺のことをもっと考えてから、結論を出してもらいたいと思っている。
さて、永井部長はD産業にせっつかれて困っている…
田辺君の報告でそのことを知った夫。
永井部長の言う通り、D産業から1台だけチャーターを入れることにした。
え〜?藤村が左遷された時、D産業も切ったのに、何でまた?…
ここは断固拒否じゃないの?…
永井部長の願いをはねつけ、彼を絶望の淵に追いやる方が胸がすくだろうに…
普通はそう思うだろう。
が、夫は涼しい顔で言う。
「1台でもいいと言われたから、1台だけ入れる」
夫はこの業界が長い。
女房の立場や心情には無関心だが、仕事で関わる他人の立場や心情は
おそらく周囲の誰よりも知ってる。
永井部長に金を出したD産業は、いっこうに見返りが無いので
かなり焦っているはずだ。
そこへちょっとだけ仕事を振る。
D産業はいよいよ専属契約の第一歩だと思い込み
最初は1台でも、ほどなく2台、3台と増えていくに違いないと踏む。
けれども片足で一歩踏み出したまま、それっきりの宙ぶらりんであれば
D社長はどんな気持ちか。
砂漠で喉の乾きに苦しむ旅人に水を一滴だけ与えると
乾きはますますひどくなるものだ。
D社長は以前より、もっと不満を持つ。
その不満は怒りとなって、永井部長に向けられる。
夫はこれを楽しみにしているのだった。
D社長に責められた永井部長がまた何か言ってきたら、夫はこう言えばいい。
「1台と言われたから、1台入れた」
日頃、彼にはバカにされているのだから、こういう時はとことんバカになりきるのである。
D産業からチャーターを1台だけ入れ始めて1週間が経った頃
ちょうど暇な時期が訪れた。
暇な時は自社のダンプだけで間に合うため、チャーターを呼ぶ必要は無い。
夫は、このような仕事の波も計算に入れていた。
暇な時期は10日ほど続き、それが終わると再び忙しくなったが
D産業はそのまま来なくなった。
誰も呼ばないし、向こうからも来ない。
それっきり、D産業のことは忘却のかなた。
D産業と永井部長の間では色々あったかもしれないが
どっちも何も言ってこないので、そのままだ。
確認はしてないが、この現象もまた、河野常務の復活に関係していると察する。
常務の目が再び光り始めたので、永井部長は勝手なことがしにくくなったのだ。
ひとまずは小さな嵐が過ぎ去り、ホッとしている私である。
が、一難去ってまた一難。
最年長の社員、シュウちゃんが6月いっぱいで退職する。
永井部長なんかより、こっちの方がよっぽどショックだ。
とはいえ会社は生き物。
色々なことが次々に起こる。
それが会社というものであり、それが無ければ会社ではない。
《続く》
F工業への転職話にも触れておこう。
あの話は、まだ生きている。
一時は今日明日にも転職しそうな夫と息子たちだったが、最近は落ち着いた。
その余裕は、河野常務が元気を取り戻したことに由来する。
永井部長が次男に「辞めてもらってかまわない」と言った時は黙認した彼だが
今になって反省しているらしく、次男に「辞めてくれるな」と言うようになった。
それで次男の方もひとまず気が済んだようだが
辞めるな、辞めるなと度々言うところを見ると
早耳の常務には転職の話が聞こえているのかもしれない。
その転職について、私は依然としてこれといった意見を言ってない。
実際に働くのは彼らなので、気軽に言えないからだ。
仕事のことを何も知らない変なヤツらに
好き放題される彼らの苦しみを見てきた身としては、止める気は無い。
年寄りの夫はどう転んだって社会人生活の終わりが見えているし
息子たちは独身なので、妻子のことを考える必要が無い。
たった一度の人生なんだから、好きにすればいいと思っている。
が、あちこちの職場で様々な仕事をしてきた私は
彼らより転職のリスクを知っているつもりだ。
今は創業者の一族ということで、本社からある程度は優遇されているが
よそへ行ったら新人のペーペー、ただのヒト。
向こうの人々には普通のことでも
彼らにとっては厳しい現実と感じる事柄がたくさんあると思う。
例えば新人は、古いダンプをあてがわれるのが業界の常識。
走行距離が何十万キロの古いダンプは故障しやすく
冷暖房は効かず、クッションは悪く、ハンドルが曲がっているなんてザラだ。
新車を与えられ、撫でさするように愛情をかけてきた息子たちにとって
それが嬉しいとは思えない。
夫の扱う重機だって、今のように重機のトップメーカー
コマツ製の最新型とはいかないだろう。
F社長は業界でも稀な好人物で、行けば良くしてくれるのはわかっている。
転職という思いもよらない選択肢を与えてくれ
夫や息子たちを絶望から救ってくれたことにも心から感謝している。
しかし彼の会社はすごい勢いで規模拡大中とはいえ
本社の年商にまだまだケタが届かない。
大きい所から小さい所へ変わるとは、やる仕事は同じでも商売道具からして違うということだ。
今度は変な人たちでなく、変な乗り物に消耗する可能性だってある。
そういう現実的なことは行ってみなければわからないだろうが、行ってからでは遅い。
その辺のことをもっと考えてから、結論を出してもらいたいと思っている。
さて、永井部長はD産業にせっつかれて困っている…
田辺君の報告でそのことを知った夫。
永井部長の言う通り、D産業から1台だけチャーターを入れることにした。
え〜?藤村が左遷された時、D産業も切ったのに、何でまた?…
ここは断固拒否じゃないの?…
永井部長の願いをはねつけ、彼を絶望の淵に追いやる方が胸がすくだろうに…
普通はそう思うだろう。
が、夫は涼しい顔で言う。
「1台でもいいと言われたから、1台だけ入れる」
夫はこの業界が長い。
女房の立場や心情には無関心だが、仕事で関わる他人の立場や心情は
おそらく周囲の誰よりも知ってる。
永井部長に金を出したD産業は、いっこうに見返りが無いので
かなり焦っているはずだ。
そこへちょっとだけ仕事を振る。
D産業はいよいよ専属契約の第一歩だと思い込み
最初は1台でも、ほどなく2台、3台と増えていくに違いないと踏む。
けれども片足で一歩踏み出したまま、それっきりの宙ぶらりんであれば
D社長はどんな気持ちか。
砂漠で喉の乾きに苦しむ旅人に水を一滴だけ与えると
乾きはますますひどくなるものだ。
D社長は以前より、もっと不満を持つ。
その不満は怒りとなって、永井部長に向けられる。
夫はこれを楽しみにしているのだった。
D社長に責められた永井部長がまた何か言ってきたら、夫はこう言えばいい。
「1台と言われたから、1台入れた」
日頃、彼にはバカにされているのだから、こういう時はとことんバカになりきるのである。
D産業からチャーターを1台だけ入れ始めて1週間が経った頃
ちょうど暇な時期が訪れた。
暇な時は自社のダンプだけで間に合うため、チャーターを呼ぶ必要は無い。
夫は、このような仕事の波も計算に入れていた。
暇な時期は10日ほど続き、それが終わると再び忙しくなったが
D産業はそのまま来なくなった。
誰も呼ばないし、向こうからも来ない。
それっきり、D産業のことは忘却のかなた。
D産業と永井部長の間では色々あったかもしれないが
どっちも何も言ってこないので、そのままだ。
確認はしてないが、この現象もまた、河野常務の復活に関係していると察する。
常務の目が再び光り始めたので、永井部長は勝手なことがしにくくなったのだ。
ひとまずは小さな嵐が過ぎ去り、ホッとしている私である。
が、一難去ってまた一難。
最年長の社員、シュウちゃんが6月いっぱいで退職する。
永井部長なんかより、こっちの方がよっぽどショックだ。
とはいえ会社は生き物。
色々なことが次々に起こる。
それが会社というものであり、それが無ければ会社ではない。
《続く》