宙ぶらりんの選挙カーで、私には即刻やらなければならないことがあった。
後部座席の右側で、窓枠にもたれたまま固まっているナミを窓から引き離し
私の座る左側…つまりタイヤが地面に残っている方へ寄らせること。
少しでもこっちへ移動させて、車体の安定を図るのだ。
ペーパードライバーのナミは自分の置かれた状況がわかってないため
全くあてにならないが、指示はよく聞くので助かる。
そのナミ、私より3才年下なのでじきに還暦だが、この4年間でずいぶん増量した。
年齢不詳の美魔女にも、代謝の低下による肥満が忍び寄った様子である。
ナミの増量が功を奏したのか、彼女が窓から離れて左側に寄ると車体のユラユラは止まった。
続いて私は天に祈る。
「どうかここに、他の選挙カーが来ませんように!」
この祈りは4年前、選挙カーが線路の高架にぶつかった時と同じだ。
あの時は近くの畑に居たおじさんが
外れたスピーカーとアンドンを戻す作業を手伝ってくれて事なきを得たが
よその選挙カーに目撃されなかったのは幸いだった。
笑い者になったり憐れまれたりして、候補に恥をかかせるわけにはいかないではないか。
生命の危機より、断然そっちが気になる…それがウグイスの性分である。
このような万事休すの事態が訪れても、候補は冷静だ。
常に平常心の普段と全く変わらない。
ユラユラがおさまると、彼は助手席からそっと車外に出て
高さ1・7メートルほどの崖下に降りて行った。
そして下から車体を見上げ、何げない日常会話と同じようにサラッと言う。
「左の後輪がわずかに残っているので、ここから支えてみます。
バックしたら、ひょっとして元に戻れるかもしれません」
ドライバーのヨッちゃんも助手席を伝って車を降り、崖下から車を見上げる。
「みりこんちゃん、下から二人で支えるけん、運転席に移動してバックしてみて」
「はい」
とは言ったものの、私が車から降りようとすると、またユラッと揺れる。
無理に降りれば、選挙カーはナミもろとも転落だ。
短い会議の結果、候補が下から車を支え
ヨッちゃんが再び運転席に戻ってバックすることになった。
私とナミは後部座席に残り、二人の体重で車を安定させる。
4人で一致団結、この難局を乗り切るのよ!
といっても体重係の私とナミは、座っているだけなんだけどね。
崖下から戻ったヨッちゃんが、助手席を乗り越えて運転席に移ろうとすると
車は重心が変化して再び揺れた。
これ以上揺れたら危ないので、私はヨッちゃんが移動するペースに合わせ
未だ呆然と固まっているナミを徐々に自分の方へ引っ張ってバランスを調節。
後部座席の真ん中にはマイクの起動スイッチが固定されて横たわっているため
思うように引き寄せられないが、力づくで引っ張る。
私にできる援護は、それしかなかった。
ヨッちゃんは無事に運転席へと辿り着き、バックギアを入れてアクセルを踏んだ。
ギュルルル!ガガガ!
派手な音を立てる選挙カー。
ここが、ひと気の無い場所だったのは救いである。
何度目かのトライで車はグラリと揺れ、元に戻った。
選挙カーに戻った候補は謝ろうとするヨッちゃんを制し、相変わらず日常会話のように言う。
「皆さん、これは夢です。忘れましょう」
「はい!何も覚えていません」
私とナミは返事をし、選挙カーは何事も無かったかのように再び走り出すのだった。
翌朝、ヨッちゃんはドライバーの当番ではなかったが
出発前にわざわざ事務所へ来た。
私とナミに改めて謝ろうとしたのだ。
「みりこんちゃん、ナミちゃん、怖い思いをさせてごめんなさい」
そう言って、ツルツルの頭を下げるヨッちゃん。
こういうことは秘密にしたいだろうに、他の人がいるのも気にせず謝るのは
彼らしいところである。
「ヨッちゃん、何を言うとるの。
4年前の高架を体験したうちらに、怖いものなんかありゃせんわいね」
私は言った。
「雷が10発ぐらい落ちたような音がしたけん
こりゃ死んだわ思うたけど、目ぇ開けたら生きとったわ。
それより、あの状態で車を元に戻したヨッちゃんはすごいよ。
奇跡を呼ぶ男じゃ」
ヨッちゃんは、ホッとしたように笑った。
そこへタイミング良く、誰かが聞きつけたニュースがもたらされる。
昨日、別の候補の選挙カーが、例の高架を通ろうしてスピーカーとアンドンをぶつけ
走行不能になったばかりか、電車が止まったという。
大いに湧く一同。
ほらね、よその陣営に不幸が起きると盛り上がるのよ。
だから、見られるのは嫌なの。
昼になって事務所へ戻ると、引退議員その2…通称古ギツネが来ていた。
「差し入れにコケモモ堂(仮名)のコケ饅頭(仮名)を持って来るつもりじゃったが
休みじゃった」
と皆の前でおっしゃる。
コケモモ堂は、古ギツネの家の近所にある和菓子屋だ。
翌日も、その翌日も、古ギツネは毎日選挙事務所を訪れた。
文字通り、“事務所に詰める”というやつよ。
そして毎日、我々の前でコケ饅頭のことを言っていたが
饅頭は最終日まで差し入れられることは無かった。
彼がうちの候補にくれるという票も、似たようなものだろう。
3日目、狭い道路で右折をする際、選挙カーのスピーカーが家の軒先に接触。
私は後部座席の左側で仕事中、ナミは右側でお手振りという名の休憩中だった。
「右上の確認は、ナミちゃんの仕事よ」
私は厳しく言う。
狭くて入り組んだ場所では、高い位置にあるスピーカーが軒先や看板に接触しないよう
上を確認して誘導するのもウグイスの大切な仕事だ。
その責務はしゃべっていても同じで、ましてや
しゃべってないナミが上の確認を怠るのは言語道断。
「あ、私ペーパーなので、見てもわからないんです〜」
「やかましい!当たりそうかどうかぐらい、わかろうよ!
チョコ食べる暇があったら上を見い!」
ナミの膝かけの上に散らばる無数の包み紙を指差して、どやしつける。
今回は私のセリフを盗むために録音やメモをしなくなったと思ったら
事務所でもらったお菓子ざんまい…これじゃあ太るはずだ。
「チョコ食べたら、元気が出ませんか?」
「話をそらすな!次やらかしたら、チョコ禁止!」
「え〜ん!」
「やめい!還暦の泣き真似は見苦しい!」
「は〜い」
ここまで言っても決して根に持たず、姐さん姐さんと慕ってくるのが
ナミの可愛らしいところである。
後で候補が私にこっそり言った。
「姐さん、ナミさんに注意してくれて、ありがとうございました。
上を確認しないのは前から気になっていたんですけど、今さら言いにくくて」
「誰よりも素晴らしい声と滑舌持ってる子なのに
車両の安全確認が抜けてるから、師匠のウグイスチームでは冷や飯なんだと思います。
チームに戻って活かせるように、今回は叩き込みます」
「ビシビシお願いします」
候補と私は、すっかりナミの保護者気分だ。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2e/23/42eda9185944a8ee5f1afc681ca97306.jpg)
選挙中にヨッちゃんがたびたび買ってくれた、タコ焼き。
我々ウグイスのオヤツだが、店員さんの票固めという目的もある。
《続く》
後部座席の右側で、窓枠にもたれたまま固まっているナミを窓から引き離し
私の座る左側…つまりタイヤが地面に残っている方へ寄らせること。
少しでもこっちへ移動させて、車体の安定を図るのだ。
ペーパードライバーのナミは自分の置かれた状況がわかってないため
全くあてにならないが、指示はよく聞くので助かる。
そのナミ、私より3才年下なのでじきに還暦だが、この4年間でずいぶん増量した。
年齢不詳の美魔女にも、代謝の低下による肥満が忍び寄った様子である。
ナミの増量が功を奏したのか、彼女が窓から離れて左側に寄ると車体のユラユラは止まった。
続いて私は天に祈る。
「どうかここに、他の選挙カーが来ませんように!」
この祈りは4年前、選挙カーが線路の高架にぶつかった時と同じだ。
あの時は近くの畑に居たおじさんが
外れたスピーカーとアンドンを戻す作業を手伝ってくれて事なきを得たが
よその選挙カーに目撃されなかったのは幸いだった。
笑い者になったり憐れまれたりして、候補に恥をかかせるわけにはいかないではないか。
生命の危機より、断然そっちが気になる…それがウグイスの性分である。
このような万事休すの事態が訪れても、候補は冷静だ。
常に平常心の普段と全く変わらない。
ユラユラがおさまると、彼は助手席からそっと車外に出て
高さ1・7メートルほどの崖下に降りて行った。
そして下から車体を見上げ、何げない日常会話と同じようにサラッと言う。
「左の後輪がわずかに残っているので、ここから支えてみます。
バックしたら、ひょっとして元に戻れるかもしれません」
ドライバーのヨッちゃんも助手席を伝って車を降り、崖下から車を見上げる。
「みりこんちゃん、下から二人で支えるけん、運転席に移動してバックしてみて」
「はい」
とは言ったものの、私が車から降りようとすると、またユラッと揺れる。
無理に降りれば、選挙カーはナミもろとも転落だ。
短い会議の結果、候補が下から車を支え
ヨッちゃんが再び運転席に戻ってバックすることになった。
私とナミは後部座席に残り、二人の体重で車を安定させる。
4人で一致団結、この難局を乗り切るのよ!
といっても体重係の私とナミは、座っているだけなんだけどね。
崖下から戻ったヨッちゃんが、助手席を乗り越えて運転席に移ろうとすると
車は重心が変化して再び揺れた。
これ以上揺れたら危ないので、私はヨッちゃんが移動するペースに合わせ
未だ呆然と固まっているナミを徐々に自分の方へ引っ張ってバランスを調節。
後部座席の真ん中にはマイクの起動スイッチが固定されて横たわっているため
思うように引き寄せられないが、力づくで引っ張る。
私にできる援護は、それしかなかった。
ヨッちゃんは無事に運転席へと辿り着き、バックギアを入れてアクセルを踏んだ。
ギュルルル!ガガガ!
派手な音を立てる選挙カー。
ここが、ひと気の無い場所だったのは救いである。
何度目かのトライで車はグラリと揺れ、元に戻った。
選挙カーに戻った候補は謝ろうとするヨッちゃんを制し、相変わらず日常会話のように言う。
「皆さん、これは夢です。忘れましょう」
「はい!何も覚えていません」
私とナミは返事をし、選挙カーは何事も無かったかのように再び走り出すのだった。
翌朝、ヨッちゃんはドライバーの当番ではなかったが
出発前にわざわざ事務所へ来た。
私とナミに改めて謝ろうとしたのだ。
「みりこんちゃん、ナミちゃん、怖い思いをさせてごめんなさい」
そう言って、ツルツルの頭を下げるヨッちゃん。
こういうことは秘密にしたいだろうに、他の人がいるのも気にせず謝るのは
彼らしいところである。
「ヨッちゃん、何を言うとるの。
4年前の高架を体験したうちらに、怖いものなんかありゃせんわいね」
私は言った。
「雷が10発ぐらい落ちたような音がしたけん
こりゃ死んだわ思うたけど、目ぇ開けたら生きとったわ。
それより、あの状態で車を元に戻したヨッちゃんはすごいよ。
奇跡を呼ぶ男じゃ」
ヨッちゃんは、ホッとしたように笑った。
そこへタイミング良く、誰かが聞きつけたニュースがもたらされる。
昨日、別の候補の選挙カーが、例の高架を通ろうしてスピーカーとアンドンをぶつけ
走行不能になったばかりか、電車が止まったという。
大いに湧く一同。
ほらね、よその陣営に不幸が起きると盛り上がるのよ。
だから、見られるのは嫌なの。
昼になって事務所へ戻ると、引退議員その2…通称古ギツネが来ていた。
「差し入れにコケモモ堂(仮名)のコケ饅頭(仮名)を持って来るつもりじゃったが
休みじゃった」
と皆の前でおっしゃる。
コケモモ堂は、古ギツネの家の近所にある和菓子屋だ。
翌日も、その翌日も、古ギツネは毎日選挙事務所を訪れた。
文字通り、“事務所に詰める”というやつよ。
そして毎日、我々の前でコケ饅頭のことを言っていたが
饅頭は最終日まで差し入れられることは無かった。
彼がうちの候補にくれるという票も、似たようなものだろう。
3日目、狭い道路で右折をする際、選挙カーのスピーカーが家の軒先に接触。
私は後部座席の左側で仕事中、ナミは右側でお手振りという名の休憩中だった。
「右上の確認は、ナミちゃんの仕事よ」
私は厳しく言う。
狭くて入り組んだ場所では、高い位置にあるスピーカーが軒先や看板に接触しないよう
上を確認して誘導するのもウグイスの大切な仕事だ。
その責務はしゃべっていても同じで、ましてや
しゃべってないナミが上の確認を怠るのは言語道断。
「あ、私ペーパーなので、見てもわからないんです〜」
「やかましい!当たりそうかどうかぐらい、わかろうよ!
チョコ食べる暇があったら上を見い!」
ナミの膝かけの上に散らばる無数の包み紙を指差して、どやしつける。
今回は私のセリフを盗むために録音やメモをしなくなったと思ったら
事務所でもらったお菓子ざんまい…これじゃあ太るはずだ。
「チョコ食べたら、元気が出ませんか?」
「話をそらすな!次やらかしたら、チョコ禁止!」
「え〜ん!」
「やめい!還暦の泣き真似は見苦しい!」
「は〜い」
ここまで言っても決して根に持たず、姐さん姐さんと慕ってくるのが
ナミの可愛らしいところである。
後で候補が私にこっそり言った。
「姐さん、ナミさんに注意してくれて、ありがとうございました。
上を確認しないのは前から気になっていたんですけど、今さら言いにくくて」
「誰よりも素晴らしい声と滑舌持ってる子なのに
車両の安全確認が抜けてるから、師匠のウグイスチームでは冷や飯なんだと思います。
チームに戻って活かせるように、今回は叩き込みます」
「ビシビシお願いします」
候補と私は、すっかりナミの保護者気分だ。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2e/23/42eda9185944a8ee5f1afc681ca97306.jpg)
選挙中にヨッちゃんがたびたび買ってくれた、タコ焼き。
我々ウグイスのオヤツだが、店員さんの票固めという目的もある。
《続く》
もの凄い厚顔無恥なのか、ボケなのか、引退して当然かと。
それにしても、ミリコンさんはいつも冷静ですね。
ナミさんの指導も厳しくやられるし。
候補から、さぞや頼りにされたことでしょう。
それから水曜日の定休日を挟んで、「用事で早く出たので開いてなかった」
「忙しくて寄れなかった」、「今日こそと思って行ったのに売り切れじゃった」
店の前は街宣で通るんですが、休みと言った日も開いていました。
甘過ぎて、好きな饅頭ではないので差し入れはけっこうです。
今回の選挙で初めて話しましたが、嘘つきでいい加減な人なのは確か。
引退した方が世のため人のためですね。
ウグイスは冷静じゃないと難しいです。
怖いことや腹の立つことがたくさんありますから
冷静でいなければ辛いと思います。
候補はうちの長男より3才年上なだけだし、ほぼ親子みたいな間柄ですね。
黒いことも話し合える仲です。