これは、秀吉にだからこのようなことをしたか、と考えてしまいます。逸話は、利休の美意識や発想の転換など、そのすばらしさについて茶を学ぶ人たちに具体例から述べたもので、確かに学ぶ点があります。しかし、この逸話を通して、利休と秀吉の確執が見え隠れします。
千利休
トキは戦国時代。客としてまねいた相手=秀吉は、天下人です。幾万もの首をはね、今一人咲き誇っているのが、秀吉そのものです。秀吉にも、百姓の子から天下人として登りつめ、その百戦錬磨の体験を通しての哲学・人生観をもち、茶に対しても造詣の深い人物です。戦国時代のなかで人の心を様々に読み続けてきた二人にとって、それは一種の心理戦であり、利休はわび茶を求める自分の考えを秀吉に知らしめ、秀吉の華美に走る茶道に警鐘を鳴らすための作為かーとも。
利休は、最後には秀吉の勘気を受け、切腹を申し付けられました。その原因は、いろいろ分析され本やドラマでも放映されています。
① 利休の後ろ盾である秀長が病死したため
② 大徳寺に自分の木造を秀吉が通る上に置いたため
③ 天皇陵の石を勝手に持ち出したため
④ 秀吉の朝鮮出兵に反対したため
⑤ 娘を側室に出すのを拒んだため
⑥ 茶道に対する考え方で対立したため
⑦ 豊臣政権の政争に巻き込まれたため
⑧ 利休の個人資産を秀吉が恐れたため
⑨ 堺の権益を守ろうとしたため
原因は複雑多岐で、秀吉の「黄金の茶室」で代表される「華美茶」と、利休の小間の草庵で代表される「侘び茶」とでは、かなりの立場の違いや考え方に違いがあります。究極は、「華美茶」でも「侘び茶」でも、その人の好みですからどちらでもいいのです。絢爛豪華を好んだ秀吉と、禅を基盤にした侘びの利休、これは二人の価値観が違い、相容れないほど互いに異質であったということではないでしょうか。
私の利休に関する「古文書」!?
トキの権力者が、自分と違う「価値観」を持った者を警戒するのは現代でも歴史上でも常のことで、より高い権力を持っている者は、それを排除へと向かいます。トキのトップ二人は譲歩せず、それが互いの反発に及んだことも考えられます。
利休は、参禅し悟りを開いた聖人のような先入観的評価もあります。また、信長・秀吉時代、茶道の始祖・師としてもてはやされたその時代の大茶人でした。一方、彼は、堺の豪商であり、商売にはたけており、金銭欲・名誉欲もあり、目的達成のために積極的に行動するかなりアクの強い人物と分析されています。このような根本的な考え方の相違と互いに譲れぬ意地の突っ張り合いが秀吉の勘に触れ、切腹を命じられ、それに従ったものと思います。さて、真相は如何に⁉。