門入の話(コメントの回答)& 写真展案内
2022年 8月31日(水)
★ 頂いたコメント
① 家の見取図から私が疑問に思ったのは、台所が、ないということの他に、家の中に家畜部屋がない、ということと、トイレが、家の中?なのかな?ということ
② 私の祖父母の家は、玄関入って、土間の左に家畜、牛が飼われていました。家畜も家族と同じように大切にされていたと聞きました。トイレは、家から少し離れた外の場所にありました。徳山村は、雪が多いからトイレは、家の中だったのかしら。また家畜は、飼ってなかったのかなと
③ 食糧、農耕、どちらも、徳山村では、必要なかった?家畜小屋が、外にあるのかな?
☆ 私の回答
・下の図、グラフ、参考文献、No332門入の話(補足)を見たら、①~②の回答はわかると思います。③の回答は岐阜県立図書館、揖斐川図書館などで徳山村史(以下「村史」)、徳山ダムの記録(以下「記録」)(🅟81~農業、その他仕事)など借りて、村民が食糧をどのようにして集めたか調べてみてください
村史🅟1030 徳山村の一般的な間取り → 牛部屋、便所がある
村史🅟1156 下開田前川家の間取り → 23の解説=カミヤ(紙漉き)、後に牛ボヤ(部屋)に改造された。とある
記録🅟60 上開田山崎家の間取り → 牛部屋は屋内に、便所は屋外にある
記録🅟85 牛の数 → 昭和35年牛は約40匹いたが、昭和43年には0匹となっている。この昭和35年は482世帯(記録🅟139)で、農家は約290世帯(482×0.6)くらい?、で、牛がいた農家はごく少数であったと思われます
☆ 参考文献
・※村史🅟3 太平洋戦争後、都市部では世の中がすっかり変わった。ここ徳山村では、昭和38年ころまで、村の生活は明治以後とあまり変わらなかった。この年になって、中部電力の電気導入があり、テレビをはじめ、いろいろな電気器具が購入され、生活も急速に変化した
・村史🅟1012 毎日の食生活においては、稗めしと味そ汁の一汁一菜で調理と名の付くものではなかった。しかし、もん日(祭りの日)・慶弔事には調理に腕をふるった
・村史🅟1031 便所は孤立した建物で母屋から離れたところにあった。大工建ての便所もあれば、小屋建ての便所もあった
・記録🅟81 農家戸数は総世帯数の約6割、1戸当たりの耕作面積は約38アール(約4反)。どこの農村も同様と思われるが、昭和35年から10年間で10年足らずの間に農業の経営形態は大きく変化し、その間に牛はいなくなっている
・記録🅟61 風呂も”にわ”(家の中の土間)に置かれていた。ヘソ風呂で簡単に移動できるものなので、冬はにわで夏は屋外でわかした家もある。その風呂も昔はどこの家でもあったわけではなく、大正末年ごろ門入に7軒(全34世帯・記録🅟36)くらいしか風呂のある家はなかったので、もらい風呂をする家もかなりあった。これは、どこの農村も同じで、毎晩風呂に入る習慣はなく、顔や手足を洗ってすますのがほとんどであった。にわにうち井戸をもっている家もある。多くはつるべ井戸で今でも使用している家もある。井戸のない家は竹樋で谷水を引き込み、水舟にためて使う
◇ 徳山村史(昭和48年3月31日発行・徳山村)、徳山ダムの記録(平成2年3月31日発行・藤橋村)
☆ 今日の反省など
・No332門入の話(補足)で、泉さんが台所は後で作ったと言われるように、上記間取り図は、後に建て増しされた部分があるかも知れないので、何時(昭和●●年作成とか)の間取りかがわかると助かりますが、、、
・コメントいただくと本気で調べるので勉強になります (笑)
★ 私が所属する写真くらぶの案内です
私は9/9(金)の15:00~15:30 ころまでギャラリーにいる予定です、写真見に来てください
私の出品写真(全員半切)
2022.4.26撮影 タイトル「玲瓏(れいろう)」花はヤマシャクヤク(飯盛山中腹・スマホで撮影)
2014.3.9撮影 タイトル「県境の山々」(リコーGRで花房山頂から撮影)右から左へ・前山~能郷白山~磯倉~若丸山~冠山か!!
徳山村は、福井県に近いですが、大垣藩ですね。
増山たづ子さんの喋りは、福井に近いような言葉だった様な。記憶が、定かではありませんが。
坂内村出身の方は、高齢の方ですが、滋賀のイントネーションで話されます。
方言はあったかくて、よいですね。
私も気がつきませんが方言丸出し‼️