郎女迷々日録 幕末東西

薩摩、長州、幕府、新撰組などなど。仏英を主に幕末の欧州にも話は及びます。たまには観劇、映画、読書、旅行の感想も。

歴史秘話ヒストリア 「坂本龍馬 暗殺の瞬間に迫る」

2013年05月12日 | 幕末土佐
  桐野利秋と龍馬暗殺 後編と、続・龍馬暗殺に黒幕はいたのか?の続きで、もしかしまして、近藤長次郎とライアンの娘 vol9の続きでもあるでしょうか。

 NHK歴史秘話ヒストリア 「坂本龍馬 暗殺の瞬間に迫る~最新研究から描く幕末ミステリー~」、直前まで、見るつもりはなかったのですが、なんとなく見てしまいましたら、これがけっこう面白かったものですから、書きます。
 いや、なにしろNHKのやること!ですし、文句がまるでない、というわけではないのですけれども、今回、珍しくこういう歴史バラエテイを見て、これは……!と、せつない気分になりましたのは、実際に龍馬を斬った京都見廻組の桂早之助に焦点をあて、代々二条城の門番を務めた同心、という下級幕臣の家に生まれた男の哀感によりそって作られていたからでしょう。

 しかしこの話、もしかしたら以前になにかで読んだかも……、と首をかしげ、木村幸比古氏が出演しておられましたので、ご著書なんだろうとさがしてみました結果、 PHP新書の『龍馬暗殺の謎』だったとわかりました。

龍馬暗殺の謎 (PHP新書)
木村 幸比古
PHP研究所


 って、これ、読んでいたはずでしたのに、さっぱり内容を覚えていませんでしたっ!!!
 理由はおそらく……、不愉快だったので、途中で読むのをやめた!!!から、です。
 なにが不愉快って、龍馬暗殺薩摩藩黒幕説を否定するに際しまして、根拠のない桐野利秋(中村半次郎)への中傷を、以下のように書きなぐっておられるんですっ!!!(笑)
 「半次郎は、本来文字が書けず、研究者の中でもこの日記の存在自体を疑問視する声もある。半次郎には、よく宴席で他人に金を支払い詩文を作ってもらったという話もある」 

 どこのなんという研究者が、半次郎は文字が書けないので日記の存在自体が疑問だと言っているんですの???
 そして、どこのだれが、半次郎は宴席で他人に金を支払い詩文を作ってもらったという話をしているんでしょうか???
 私、桐野については相当に調べたつもりですが、木村先生が書いておられるような話を、寡聞にしてまったく存じません。
 いいかげんなことを書きちらして、信用できない御仁だわ、と思いまして、続きを読みませんでした。

 注記 誤解のないように申し上げておきますが、明治になりまして桐野が揮毫したとされます漢詩軸などは、どうも本人が書いたのではないのではないか、と思われるものが多数あります。
 そして、ちょっと本が出てきませんで、うろ覚えで書いてしまいますが、後年の聞き書き本『維新史の片鱗』で、有馬藤太は「桐野が揮毫を頼まれて面倒がっているとき代筆したのは自分」というようなことを言っておりますが、友人ですし、有馬は文官(司法省勤務)で、「自分は給料がよかった」とも言っていますので、金をもらって書いたとは、とても思えません。
 有馬藤太もそうですが、中井弘にしましても、漢詩作が得意ですし、桐野には複数、そういう友人がおりました。桐野が西南戦争で戦死してから、あるいは有馬藤太や中井弘が、「桐野の書だということにすれば高く売れるぞっ!」と、偽造して売っていたりした……、かもしれません(笑)


 さらに今回、この本の「はじめに」を読んでいて、思い出しました!
 私、中西輝政と半藤一利の幕末史観で、中西輝正氏が「薩摩藩あるいは長州藩にとって邪魔だったのは龍馬で、もしかしたら西郷や大久保が命令を下していたかもしれません。蓋然性、利害関係だけでいえば『薩摩説』というのは合理的です」などとと、とんでも俗説講義をなさっている旨を書いたのですが、どなただったかが電話で「中西氏、それ、同じ京都の霊山の木村幸比古氏に聞いて、信じ込んだんじゃないかな」とおっしゃっていたのですが、その可能性は高そうです。以下のようなことを、書いておられましたわ。

 「(黒幕)薩摩説は、薩長同盟を遵守し武力討幕にこだわる薩摩が、龍馬の無血による大政奉還を目障りとしていたことによっている」
 たしかに、西郷と親密な関係にあった龍馬のほうも、「西郷は理解に苦しむところがある」と周囲にもらしていたという。

 だ・か・ら・あっ!!! なんだかもう、言葉を無くしてしまいます。
 桐野利秋と龍馬暗殺 前編に書いておりますが、欧州帰りで、討幕派の桐野(中村半次郎)と親しい薩摩脱藩の中井弘(桜洲)は、大政奉還の建白書に手を入れてまして(佐々木高行の日記・慶応3年6月24日「薩の脱生田中幸助来会、建白書を修正す」)、薩摩も大政奉還の建白に賛成したわけですし、そもそも、大政奉還と武力討幕は、対立するものではないんですね。

 そこらへんのことにつきましては、もうずいぶん以前に、井上勲氏が『王政復古』という名著を書かれておりますし、先日ご紹介しました知野文哉氏の『「坂本龍馬」の誕生』でも、龍馬の立ち位置を詳細に追っていますが、龍馬は薩摩の目障りになりますようなことは、まったくもって、なにもしてはおりません。
 知野氏がおっしゃっていますが、西郷の方が龍馬より早く、大政奉還について述べていたりもします。

 龍馬がどういう場面で、誰に、「西郷は理解に苦しむところがある」ともらしていたのか、寡聞にしてまったく存じませんが、お願いですから、とんでも電波を放射なさらないでください、木村先生っ!!!

王政復古―慶応3年12月9日の政変 (中公新書)
井上 勲
中央公論社


「坂本龍馬」の誕生: 船中八策と坂崎紫瀾
知野 文哉
人文書院


 で、怒りのあまり私、木村先生が『龍馬暗殺の謎』におきまして、桂早之助に関してはよく調べられ、よいお仕事をなさっている!!!ということに、いまのいままで気づきませんでしたわ。

 広瀬常と森有礼 美女ありき11を見ていただければわかるのですが、私、森有礼夫人・広瀬常の実家を掘り起こすにあたって、幕末の同心についてけっこう調べたんです。
 同心って、現代でいえば、平の警察官、でしょうか。
 才覚があれば、樋口一葉の両親のように、農民が駆け落ちしてお江戸で同心株を買う、なんてこともあったんですし、決して給料がよさそうではなく、その生活は庶民的、ですよね。

 私、続・いろは丸と大洲と龍馬にも書いておりますが、昔から、なんで龍馬暗殺についてはうんざりするほど、本や雑誌、テレビ番組で取り上げられるのに、龍馬が寺田屋で同心二人を射殺していることには触れないんだろう、と思ってきました。
 同心は、命令に従ってお仕事で出向いて、殺されたんです!!! 親は泣いたでしょうし、妻子もいたかもしれません。
 かわいそうじゃありませんか。

 今回のヒストリア、珍しく龍馬が同心を射殺したことに触れていまして、見廻組・今井信郎の口供書をもとに、かつて寺田屋で逃げられたがため、捕縛に向かったのであり、手に負えなければ斬る、という治安維持活動だった、としています。
 だとすれば、そうとはっきり言っていたわけではないのですが、剣にすぐれて、見廻組に取り立てられました桂早之助は、同心仲間の無念の死を胸に抱いていたのではないのかと、思えるような描き方、でした。
 そして、その早之助自身も、28才の若さで、鳥羽伏見に戦死します。
 私、自分の祖先が佐幕藩だということもあるのかもしれませんが、なんかもう……、見ていて、せつなくなりました。

 私が気に入らなかったのは、中岡慎太郎の描き方、です。
 確かに谷干城は、「中岡は新撰組だろうと言っていた」というようなことを、後年語っているのですが、桐野利秋と龍馬暗殺 後編に出てまいります高松太郎のリアルタイムの書簡では、「知らない奴らだった」と言っているだけなんです。
 まきぞえで殺されたのは事実なのでしょうけれども、あまりにも軽く描きすぎで、こちらもなんともせつないことのはずなのですが、先に逝った数多の同志たちへの思いを含め、慎太郎が抱いた無念を、ちゃんと伝えてくれては、いなかったんです。

 で、龍馬です。
 しめくくりに、『龍馬史』
「龍馬史」が描く坂本龍馬参照)の磯田道史氏が出て参りまして、もしかして、NHKが無理矢理しゃべらせたのかなあ、という感じはあるんですが、「龍馬は新政権における徳川家の位置づけも考えていたので、皮肉にも龍馬暗殺で徳川は不利になったといえるかもしれない」というようなことを、しゃべっておられたのですが。

 これも、ですね。知野氏の『「坂本龍馬」の誕生』で、懇切丁寧に解説してくださっています。
 要するに、「龍馬が慶喜を内大臣に押していた」という話ではないのかと思うのですが、知野氏によれば、これ、龍馬がなにか書き残しているわけじゃありませんで、尾崎三良の回顧録を坂崎紫瀾が脚色した、だけのようなんですね。いろいろ人選も考えてみましたよ、という以上のことではなく、当時の龍馬の真意は、続・龍馬暗殺に黒幕はいたのか?で、私、「男爵安保清康自叙伝」の記述から推測しておりますが、これで見るかぎり龍馬は、薩長と土佐藩の間に立って困惑し、当然のことながら、徳川のことなんぞ他人事のようなんですけれど、ねえ。

 で、最後にヒストリアは、日本を今一度せんたくいたし申候事 という龍馬の手紙の有名な言葉を持ち出しまして、その後に続く言葉から、龍馬は常に死を覚悟していた!と、中岡慎太郎は放っておきまして、龍馬だけ、感動を誘うような描き方をするんですね。
 するんですけれども、しかし。

 実は私、近藤長次郎とライアンの娘 vol9を書くまで、日本を今一度せんたくいたし申候事という言葉が出てきます龍馬の手紙を、ちゃんと読んだことがなかったんですけれども、これって、外国に日本を売った(と龍馬が思い込んだ)幕府の役人を殺して、幕府のそうじをし、狂犬攘夷に励んでいる長州を助けるんだっ!!!って、話なんですよねえ。
 越前藩邸であきれられるような無茶苦茶過激なクーデターをやらなければっ!!! というのですから、そりゃあ、いくら命があっても足らないでしょう。

 いや、しかし、龍馬はほんとうに愛嬌のある、いい手紙を書きますし、私、その無茶苦茶さかげんを、とってもかわいい!と、思います。彼の人柄が愛されたのは、ほんとうによくわかるのですが、やはり、ちょっと美化のしすぎじゃないんでしょうか。
 まあ、坂崎紫瀾の龍馬像は強し、というだけのことなのかもしれないのですが、NHKのシナリオを書いている方は、実際の書簡を読んで、つい、ほほえましく笑ってしまったりは、しないんでしょうかしら、ねえ。

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坂本龍馬トンデモ本の盛況!

2013年04月24日 | 幕末土佐
 えーと、またちょっとより道をします。
 あきれ果てたあまり、なのですが。

 近藤長次郎本出版計画と龍馬 vol2に書いておりますような事情で、知野文哉氏の『「坂本龍馬」の誕生: 船中八策と坂崎紫瀾』を買ったわけなのですが、下のリンクでアマゾンをごらんになってみてください。

「坂本龍馬」の誕生: 船中八策と坂崎紫瀾
知野 文哉
人文書院


 「よく一緒に購入されている商品」に、細野マサシ氏の『坂本龍馬はいなかった』という本があげられていますよね。
 普通に考えて、『坂本龍馬はいなかった』というタイトルの真意は、「現在、世間一般で定説になっている龍馬像は、史料が提示してくれる実体からかけ離れている」ということだろうと思い、商品説明でも、「一次資料を丹念に読み込む」とか書いていますし、わたくしつい、知野氏のご本を予約すると同時に、買っちゃったんです。

坂本龍馬はいなかった
細田 マサシ
彩図社


 一瞥、「ひえーっ!!! トンデモ本にひっかかっちゃた!!! 一次資料どころか、史料と名のつくものはまったく読んでないよ、この著者!!!」と放り投げました。
 しかしまあ、買ってしまったことではありますし、ちょっとだけと、つい先日とばし読んだんです。
 著者の言いたいことは、だいたい、こういうことです。
 「坂本龍馬はいなかった! 現在、世間一般で知られている龍馬像は、坂崎紫瀾が作り上げたものである」 とまあ、ここまではいいんです。続いて、「実は龍馬は3人いたっ!!! 初代龍馬は大石団蔵、二代目は近藤長次郎、そして三代目が現在にまで語られている坂本龍馬で、薩摩が勝海舟と談合して作り上げたスパイであるっ!!!」
 これほどわけのわからない妄想を延々と書き連ねられるって、この人、キチガイなの?????と、お口あーんぐり、です。

 もしかしまして、奇書生ロニーはフリーメーソンだった!でご紹介しました加治将一氏のキチガイ本の上をいくかもっ!!!なんですが、加治氏のキチガイ本は文庫になってまた出ているみたいですし、細田マサシ氏の『坂本龍馬はいなかった』、去年の9月に第一刷、翌10月に第二刷になっていて、それなりに売れているらしいんです。
 ギャグとしてもおもしろくもないこのキチガイ本が、なんで売れるんでしょうかっ???
 
 お気の毒なのは、まっとうな労作であります知野文哉氏の『「坂本龍馬」の誕生: 船中八策と坂崎紫瀾』が、アマゾンでは、こんなトンデモ本と並べられまして、表紙を一見し、内容説明を読みましただけでは、どうちがうのか、さっぱりわからないことです。

 本を選びますのに、出版社を見る、ということは、当然するのですけれども、歴史物にかぎって言いますと、例えば山本栄一郎氏の著作など、弱小自費出版社から、まともな本が出版されていることもありますし、栗原智久氏の『史伝 桐野利秋 』は、史料を探索しました実にまっとうな桐野の史伝なのですが、当時、一般にはあまり知られていませんでした学研M文庫から出されました。

 そして、例えば新人物往来社や文藝春秋社、新潮社など、名の知られた出版社でも、自費出版であることも多々ありますし、けっこうトンデモ本が出ていたりもします。
 その顕著な例をあげますと、文藝春秋が延々出し続けていました李寧煕氏の万葉集が韓国語で読めるシリーズでしょうか。まったくのキチガイ本なのですが、推理仕立てで、当時、かなり売れたみたいです。

もう一つの万葉集 (解読シリーズ)
李 寧煕
文藝春秋


 ふう。
 私、近藤長次郎本も、おもしろおかしくトンデモ本にしちゃった方が、売れるんではないかい、というような気がしてきちゃいました(笑)

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続・龍馬暗殺に黒幕はいたのか?

2012年02月04日 | 幕末土佐

 龍馬暗殺に黒幕はいたのか?の続きです。
 続きを書くつもりはなかったのですが、近くの図書館で「坂本龍馬全集」を借り出すことができまして。


坂本龍馬全集 (1982年)
坂本 竜馬,宮地 佐一郎
光風社出版


 これを借り出すことができるとは、存じませんでした。
 ぺらぺらとめくっておりましたら、発見があるものです。
 桐野と前田正名につながるかも、な発見もありますので、またそれは、「普仏戦争と前田正名」シリーズで書きたいと思うのですが、ちょっと龍馬により道を。

  ところで先だって、時代劇専門チャンネルで放映してくれていました「獅子の時代」が終わりました。
 「獅子の時代」は架空の人物が主人公ですし、その一人、菅原文太演じます平沼銑次は、あきらかに花冠の会津武士、パリへ。で書きました海老名李昌をモデルにしながら、……いや、海老名は上級士族で銑次は下級で、やーさんぽい文太の銑次は海老名に比べてまるで品がないのですが、残された海老名の写真を見ますと、文太によく似たお顔なんです、これが……、最後、秩父困民事件で自由民権運動激派として行動していたりするんですが、本物の海老名さんは、最初の檄派事件だった福島事件で、自由党を弾圧する薩摩出身の県令・三島通庸の側についていまして、まあ、なにしろ福島の自由民権運動の巨魁は、三春藩裏切りの元凶だった河野広中でしたから、薩長よりも裏切り者の三春を恨んでいました元会津藩士としては当然の行動なのですが、ともかく、かなりな大嘘ばかりで、平沼銑次は鞍馬天狗かジャン・バルジャンか、という描かれ方なんですが、大筋としましてはまあこんなものかも、といいますような時代相の基本が大きくはずれているわけではないですし、これがけっこう、おもしろいんです!!!
 なんといいましても、30年も前のテレビドラマなのに、ちゃんと薩摩のパリ工作をやってくれているのがすごいですよねえ。モンブランの来日が描かれていませんし、事実関係をかなりまちがえてはいますけれども、一応、それが軸ではあるわけでして。

 それにいたしましても、最近の大河は、なんでこう、超つまらないのでしょうか。
 NHKの「龍馬伝」については、「龍馬伝」に登場! ◆アーネスト・サトウ番外編スーパーミックス超人「龍馬伝」に書いておりますが、笑いすぎて涙がでましたほどの馬鹿らしさ。
 去年の「江 姫たちの戦国」に至っては、馬鹿馬鹿しさも極地で見ていられませんでしたが、私、院政期にはけっこう思い入れがありますので、今年の大河「平清盛」にはけっこう期待したのですが、なんなのお??? この無茶苦茶な、アニメの登場人物みたいな宇宙人な法皇さん!!!と、見る気が失せましたです。

 角田文衛先生が生きておられたら、お怒りになられましたわよ、絶対。有吉佐和子氏の「和宮様御留」を悪質なデマ小説としておられました先生が、ご専門の時代にこんなことをされましたのでは、ですねえ。角田先生の「待賢門院璋子の生涯」なくして待賢門院は描けませんし、そっちは参考にして、白川上皇と祇園女御の方のご研究は無視するって、どうなんですの!!! NHKはきっと、先生が亡くなられましたので、無茶苦茶で、どーでもで、どこの国の、いつの時代の話??? みたいな院政期を、やっているにちがいありません。

 人間も生き物なのですから、殺生禁断には、もちろんなのですが、まず第一に「人間を殺さない」という建前がありまして、それで当時の世の中がまるくおさまるわけがないですから、貴族僧侶の偽善なんですが、正式な死刑はなかったですし、よりにもよってとっくの昔に出家している法皇さんが、自分の目の前で自分が手をつけた女を殺させるなんてこと、ありえるはずもないんです。殺生は卑しい所業なんですから、尊い身が汚れるじゃないですかっ!!! 馬鹿馬鹿しい!!!
 西行と待賢門院堀河がまた、目をおおうような描かれ方です。

 私の院政期観は、角田文衛、五味文彦両先生のご著書によるだけのものなのですが、なんといいますか、ドラマの創作はどうでも好きにすればいいんですけれども、一応、その時代の基本だけははずさないでくれっ!!!です。
 で、王朝文化を、画面汚く、とてもいやなもののように描いていますし、どうしてここまで自国の文化を貶めたいんですかね、NHKは。もうひたすら、時代に対しても日本文化に対しても、愛がないんですわよ!!!

 と、脱線してしまいましたが、ちょっと、ですね。
 龍馬暗殺薩摩藩黒幕説は、現在ではだいぶん減ってきたようなんですが、それでも「龍馬は大政奉還推進派だから平和路線で、中岡慎太郎と対立していたし、薩摩藩も邪魔だった」みたいな見解は、まだあるんじゃないんでしょうか。薩摩藩も一枚岩ではありませんでしたし、薩摩藩にしましても中岡慎太郎にしましても、状況に応じての変化は、当然あるんですけれども、それは置いておきましても。
 ともかく、です。龍馬の平和路線を示すとされますその元凶の一つが、暗殺される三日前、慶応三年11月11日付け林謙三当ての書簡の追伸に「彼玄蕃ことハヒタ同心ニて候」とあります文句の解釈です。

 えーと、ですね。現在、青空文庫に龍馬の手紙はほとんどあがっておりまして、これも無料で見ることができます。図書カード:No.52031です。
 これの本文には、「今朝永井玄蕃方ニ参り色談じ候所、天下の事ハ危共(あやふしとも)、御気の毒とも言葉に尽し不レ被レ申候」とありまして、龍馬は当時、幕府若年寄格の永井玄蕃(尚志)に頻繁に会いにいっていまして、「今朝永井玄番のところへ行っていろいろ話した所が、天下のことは危ういし、気の毒だし、言葉にできないほどだよ」と、「同情?」と思われる言葉の後の追伸に「ヒタ同心」がくるものですから、「わし(龍馬)は永井玄番と同じ思いだよ」と解釈するむきが、けっこう多いようなのです。

 永井玄蕃(尚志)って、野口武彦氏をしまして「永井尚志という武士は、三島由紀夫の曾祖父にあたるので何となく言いにくいのだが、有能な外交官だったせいか責任転嫁の名人であった」といわしめたお方でして、お生まれはいいですし、一橋派で、オランダの長崎海軍伝習所の所長でしたし、開明派なんですが、なんとも変に軽いとでもいうのでしょうか、信用ならないところのあるお方です。
 
 手紙の相手の林謙三は、芸州藩出身で、薩摩海軍の指導をしていた人ですが、龍馬とも知り合いで、当時、大阪にいました。
 で、前日の龍馬の手紙とあわせ読みますと、どうも身の振り方を相談したような感じです。
 「龍馬全集」を見てみますと、宮地佐一郎氏の解説で「ヒタ同心」「ぴったり心のあった仲間ほどの意味」となっていますから、これがその最初の解釈なんでしょうか。といいますのも監修の平尾道雄氏は、「海援隊始末記」の方では、なんと「彼玄番ことはヒラ同心にて候」になっていまして、一応、「右の文中にある永井玄番はのちの幕府若年寄であり、進歩的な人物と目され、龍馬と相通ずるところを持っていたようである」と解説はなさっているのですが、「ヒタ同心」「ヒラ同心」では、えらく意味がちがいますよねえ。

坂本龍馬 - 海援隊始末記 (中公文庫)
平尾 道雄
中央公論新社


 「ヒラ同心」では、「永井玄番はけっこうな役職の割には、平の同心みたいに大したことのない人物だよ」と受け取れます。
 「龍馬全集」の書簡の写真を見ます限りは、「ヒタ同心」でよさそうに思うのですが、なぜ「わし(龍馬)は永井玄番とヒタ同心」という解釈になるのかが、私にはさっぱりとわかりません。

 大佛次郎氏の「天皇の世紀 大政奉還」に、当時、慶喜のブレーンとして京都にいた西周(にしあまね)の「西家譜略」の一節が引用されています。国会図書館の「江戸時代の日蘭交流」に西家譜略・履歴がありますので、関心がおありの方はお確かめになってみてください。
 
天皇の世紀〈7〉大政奉還
大佛 次郎
朝日新聞社


 「この頃のことなりける。英国公使への書翰を表にて命ぜられ英文に訳せしめられたり。その旨は今度政権を朝廷に奉還するは旧来覇府に於ける異る莫(な)しとの事なり。是は若年寄の永井玄番頭の申付けなり」

 つまり、大政奉還について、イギリス公使パークスへ英語で説明の手紙を書きますのに、永井玄番は「幕府の役割はまったく変化しない」と書けと、西周に命令したというのです。
 西周については前回に書きましたが、津田真道とともに幕府のオランダ留学生として法学、経済学を学び、当時の日本人としては、もっともきっちり西洋の政体や法律について知っていただろう学者です。
 幕府の役割をなんにも変えるつもりのない永井玄番と龍馬が「ヒタ同心」なんでしょうか???

 私にはそこまで龍馬が観察眼のない男とも思えませんし、身の上相談をしたらしい林謙三に答えまして、「大兄御事も今しバらく命を御大事ニ成さられたく、実は為すべきの時は今ニてござ候。やがて方向を定め、修羅か極楽かに御供申すべく存じ奉り候」、つまり「しばらくの間、命を大事にしていなさいよ。今、なすべきことをしていて、やがて方向が定まるから、そうなったら天国か地獄か、どちらにせよ一緒にいきましょうぞ」と言う龍馬が、その直後に、なにも変えたくない永井玄番とひたすらに同じ心、なんぞと書くわけない、と思うのです。

 したがいまして、私の解釈は、「永井玄番は慶喜公とヒタ同心だよ」でして、「今朝永井玄番のところへ行っていろいろ話した所が、あんなにも世の中を変える気がないじゃあ、天下のことは危ういし、幕府もどうなることやら気の毒だし、言葉にできないほどだよ。ああ、永井は慶喜公とヒタ同心だから、永井がそうだということは、慶喜公もそうだということです。今しばらく、命を大切に待っていてください。開戦は近い。天国か地獄か、いっしょにいきましょう」です。
 解釈の問題ですから証拠はないんですが、とりあえずなにかないかな、と「龍馬全集」を見てみましたところ、「犬尿略記草稿、男爵安保清康自叙伝」で、後年のことながら、手紙を受け取った林謙三さんご本人が、解説してくれていました。

 調べてみましたら、「男爵安保清康自叙伝」は近デジにありまして、全編、読むことが出来ます。ノーパソの画面が小さく、読み辛いので、まだ全部は読んでないんですけど。
 林謙三は、後の名前が安保清康。龍馬の死の後、薩摩の春日丸の責任者となり、阿波沖海戦を戦って、奥羽北陸に転戦し、明治、海軍創設に参加し、男爵にまでなったんですね。
 薩摩藩に春日丸(キャンスー)を買うことを勧めたっていうんですけど、うーん。キャンスーはモンブランが仲買した船ですしねえ。
 「薩藩海軍史」にはちがうことが書いてあるのですが、萩原延壽氏の「遠い崖 アーネスト・サトウ日記抄 」(朝日文庫 (は29-1))の何巻だったかに、イギリス人の書翰が引用されていまして、それによれば、モンブラン伯爵が仲買したんだそうなんです。
 まあ、どっちみち、モンブラン伯の長崎憲法講義に書いておりますが、長崎の佐々木高行が、モンブラン伯爵の憲法講義を受けているわけですし、薩摩がパリでなにをしてきて、なにを欲しているのかを、いくらなんでも龍馬がまるで知らない、ということは、ありえないでしょう。
 そういうわけでして、安保清康男爵が聞きました坂本龍馬の当時の時事分析を、以下引用です。

 将軍建議を容れ大政を奉還するも、天下の現況は危機一髪の間に在り。然るに四藩(薩長土芸)一致の運動も今日に至りては内実二派に分かれんとす。薩長は依然固結し、両国の全土と生命とを尽し目的を達せんとて断乎として動かず。芸藩は最初より薩長と意見を一にせしも、方今に至り土藩に同意するの色あり。しかれどもその目的においては依然変化せず。
 薩長の見るところは数百年間睡眠したる天下太平の夢は尋常の手段にては醒め難し。これを驚覚せしめんと欲せば、砲声天を震動し、万雷地より迸(ほとばし)らしむにしかず。これ兵を擁するゆえんなり。しからざれば真に王政復古し、積年の旧慣を一洗し、宇内各国と併立しがたしというにあり。
 また土藩の論拠は然らず。今や外敵我の虚を虎視す。内乱は勉めて之を避けざるべからず。また兵を擁するの行為は強迫に類する嫌あり。あくまでも正道平和の手段を取り、もってその目的を達するにしかずというにあり。
 我その中間に立ち、木戸、西郷、大久保はむろん、後藤、辻等と謀りしも、彼ら互いに固執し、終に四藩提携して一致運動するの命脈ほとんど絶せり。つらつら将来を推考するに、開戦は到底避くべからず。ことここに到りて四藩は再び合同して素志を貫くや、また正反対の地位に立つや、憂慮に堪えず。
 かつ今回の大政奉還も或いは一時の策略たるやも期しがたし。しかれども西郷、木戸、大久保のごときは計略に乗るものにあらず。幕府もよくこれを知る。しかれば大政奉還もその真意たるものと断定するも可なり。
 去りながら戦争の大小は確信し難きも必ず開戦となることは確信す。
 足下は開戦に至るも、必ず之に干与せず、我海援隊所有の船をもって、北海道に避け内乱を顧みず、一意足下の意志たる海軍術を養成せよ。異日外敵と戦ひ、国家に忠死すべし。今日は兄等の死すべき時に非ず、内乱は直に鎮定すと信ず云々。


 うーん。
 微妙なんですが、「幕府が大政奉還したのは一時の策略にすぎないのかもしれない」というのですから、なにも変える気がない永井玄番の真意を、龍馬は見抜いていたのではないでしょうか。
 ただ、永井がなにをしゃべったのか、「しかし幕府も馬鹿ではなく、西郷、木戸、大久保がそんな策略にひっかかることはないと知っているのだし、大政奉還の実を示す可能性にかけるのもありだ」という希望的観測も、持ってはいたみたいですね。
 ですけれども、あくまで武力倒幕に反対の土佐藩と、全土と全生命を断乎として倒幕にかけようとしている薩長の中間に自分はいる、と龍馬は言っていた、というのですから、永井玄番とヒタ同心は、ありえないと思えます。
 
 かならず戦いは始まる、と、龍馬は確信していたというのです。
 しかし、薩長が孤立して戦うのではないだろうか。あなた(林)の出身の安芸、自分の出身の土佐、ともに、薩長とともに戦わない、ということになりそうで心配だ。そうなったとき、優秀な海軍の人材であるあなた(林)は、戦をさけて命を大切にし、蝦夷で海軍の人材を育てることに専念してはどうだろうか? 内乱は長くはない、すぐに終わると信じたい。
 だいたい、龍馬はそう言ってくれていたのだと、林謙三、後の安保清康は、受け取っていたようです。

 書面にはまったく出てこないのですが、時期からいって、ちょうど薩摩は春日丸(キャンスー)を買い込んだばかりのころで、林謙三は薩摩海軍の指導者として、開戦が近そうだと感じていたようです。
 しかし、林は薩摩藩籍を持ってはいませんで、出身は安芸ですし、「芸、土はどういうつもりでしょうか? 自分はこのまま薩摩にいて、故郷を敵にしたりすることにはならないでしょうか?」と、龍馬に相談したのだと思われます。
 で、龍馬は、「できれば海援隊で活躍してもらいたいけれども、海援隊では君にまかせる船が用意できないので、君の能力を買ってくれるのならば、薩摩だろうが幕府だろうがいいんじゃないだろうか。しかし、海援隊の名前をもっていればいいし、できれば命は大切にして、日本の海軍の人材を育てることを考えてくれないだろうか」という、龍馬の返事だったのではないでしょうか。

 「龍馬全集」に収録されています「男爵安保清康自叙伝」なんですが、驚きましたことに、後半は、林さんご本人が慶応3年11月16日未明、龍馬が襲われて絶命し、中岡慎太郎が苦悶しております近江屋を訪れたときの話なんです。
 大昔に、ですね。雑誌かなんかで、「龍馬と慎太郎が襲われた後、近江屋の人々は怖れて近づかず、頼まれてシャモ肉を買いにいっていた菊屋峯吉も怖がったのか逃げてしまい、明け方まで放っておかれた」といったような話を、読んだような気がして、ちょっとひっかかっていたんですが、この林謙三の自叙伝によれば、たしかに、そのようにも受け取れなくはないんですね。
 
 どうも、ですね。大阪から京都へ向かう川船には、夜中に出て明け方京都に着く便があったようでして、前回も引きました高松太郎の書簡でも、16日に知らせを受け取った大阪の海援隊士が、夜の船に乗って朝入京、とあります。
 龍馬と会う約束をしておりました林謙三は、15日の夜の船で京へ向かい、16日未明に伏見に着いて、近江屋を訪れました。
 つまり、近江屋に着いたのは明け方のことで、龍馬と慎太郎が襲われたのは15日の夜のことですから、相当に時間がたっています。
 「近江屋はしんとしていて、血濡れた足跡がところどころにあった。なにかあったのかとびっくりして、2階に駆け上がると、龍馬は自室で抜刀したまま血だまりに倒れ、次の部屋では慎太郎が半死半生で苦悶していて、隣の部屋では従僕が声を上げて煩悶していた。愕然として、近江屋の主人に問いただすと、震え上がって答えることもできず、海援隊士・白峰駿馬の宿の場所を告げて、そちらに聞いてくれと言った」
 というようなことで、林は白峰に知らせていっしょに引き返し、慎太郎の話を聞いた、というのですが。
 通説とまったくちがう話で、後年に書かれたものですし、記憶ちがいか、と思わないではないのですが、以下、高松太郎の書簡から、引用です。

 不幸にして隊中の士、丹波江州、或は摂津等四方へ隊長の命によりて出張し京師に在らず。わずかに残る者両士、しかれども旅舎を同うせず。変と聞や否や馳せて致るといえども、すでに敵の行衛知れず、京師の二士速に報書を以て四方に告ぐ。同十六日牛の刻に、報書の一つ浪花に着く。

 「京師の二士」が林謙三と白峰駿馬なのだとすれば、話がぴったりとあいますし、林謙三は医者の家に生まれて、長崎で当初は医者になる勉強をしていて、ボードウィンに習っているくらいですから、応急の手当てくらいはできるんです。うーん。
 定説では、近江屋の主人は土佐藩邸に知らせ、シャモ肉を買って帰った菊谷峯吉は白川の陸援隊に走って田中光顕(長生きして号が青山でしたので、青山のじじいと呼ばせていただいております)に知らせ、田中は薩摩藩邸によって吉井友実を誘って駆けつけた、ってことなんですが、土佐藩邸の寺村左善は、外出先で知らせを受けて、桐野利秋と龍馬暗殺 後編に当日の日記を引用しておりますが、こういう時勢になったので、罪は問わないことになったけれども、復籍したわけではないので、表向き、土佐藩邸は関係ないと書いているくらいで、藩邸の土佐藩士に近江屋への出入りを禁じ、知らんぷりをしていた可能性が高そうです。
 そして青山のじじいも、実は飲み会だったのか遊郭にいたのか、吉井友実といっしょに遊んでいた可能性は、十分にあります。
 林謙三は吉井とは親しいですから、吉井がかけつけていて気がつかないということはありえませんし、それに、リアルタイムで最初に事件が記されているのは、11月16日付けの大久保利通の岩倉具視宛書簡でして、15日に入京しましたばかりの大久保が事件を知らされましたのは、どうも吉井からではなく、岩倉具視の使者からだった、ような感じを受けるんです。
 (追記)妄想です。
 近江屋の主人の報告を受けた土佐藩邸では、慌てて寺村左膳をさがして知らせますが、「お国とは関係ないぞ!!! 知らんぷりしろ。見張りを立てて、だれも藩士は入れないようにしろ」と命令しましたので、島田庄作が見張りに立っただけで、倒幕派の藩士は、だれも知らせを受け取りませんでした。そこへシャモ肉を買って帰った菊谷峯吉が現れ、峯吉は藩士じゃありませんので島田はいっしょに様子を見に上がり、峯吉は後を、実は「見張るだけでなにもするな」と命令を受けている島田に任せて、陸援隊に知らせに走ります。菊谷峯吉の報告を受けた白川陸援隊の大橋慎蔵は、青山のじじいをはじめ、他の幹部連中が遊びに行って留守ですし、近江屋には倒幕派の土佐藩士が行っていると信じて、すわっ!!! 新撰組が攻めてくるぞー!!! 岩倉公も危ないかもっ! と岩倉のもとにかけつけ、遊んでいる幹部連中をさがさせますが、朝まで居場所がわからず、林謙三は土佐藩士じゃありませんので見張りの島田の知ったことではなく、結局それで、陸援隊の土佐勤王党士は、海援隊関係の他藩人であります林謙三と白峰駿馬に遅れをとり、恥じて後世に嘘を伝えることになった、とか。
 「神山左多衛雑記」によれば、15日夜のうちに、福岡孝悌が現場を見分したっぽいですけど、見ただけで、後は知らんぷりだったはずです。なにしろ寺村左膳の方針がそうなんですから。「土岐真金履歴書」では、土岐真金(島村要)が「福岡藤次氏ノ通知ニ依リ岡本健三郎氏ト同行シテ該処ニ至リ、未絶命石川氏ノ介抱シテ陸援隊ノ田中光顕氏等ニ通ジ田中氏来ル」と書いているんですけど、慎太郎は17日夜に絶命しているんですから、福岡の通知が16日の朝以降なら、林謙三より遅かった可能性は十分すぎるほどにありますし、島村要も海援隊士で、青山のじじいはそれより遅かったことは確かです。福岡は近江屋の隣に住んでいましたから、見張っていて、林謙三と白峰駿馬が来たことを知り、これは土佐人も加えた方がいい、と判断して、大人しそうな島村に、倒幕派ながら上士の岡本を加えて知らせたんでしょう。
 なにしろ、12月4日付けの手紙で、太宰府の清岡半四郎が慎太郎の家族に事件を報じているんですが、慎太郎が生きていて、いろいろと語り残したことは書きながら、いったい誰が駆けつけ、慎太郎の話を聞いたのか、いっさい書いてないんです。話を聞いたのは、土佐勤王党の人間ではなかった、と考えた方が自然です。


 実際のところ、龍馬と慎太郎の暗殺に、謎は多いのです。
 しかし私は、一会桑側のしたことだという基本は、まちがっていないと思っています。
 にもかかわらず、なぜ公式の捕り物ではなく暗殺だったかといいますと、龍馬と慎太郎は、こ時期、土佐藩の保護を得ている形で、公然とそれを無視することで、一会桑は土佐を敵にまわしたくはなかったからです。
 そして、なぜ暗殺したか、という答えも、そういうことではないんでしょうか。龍馬と慎太郎は、土佐藩を薩長と結びつけ、倒幕に押しやる浪士の巨魁であったから、です。

 京都の土佐藩白川藩邸に浪人を集め、御所警備の十津川郷士まで加えて、薩摩から洋式調練の教師を招いている慎太郎の陸援隊は、もちろんのこと、どこからどー見ましても、土佐と薩摩を結びあわせて倒幕を目指す拠点ですし、海援隊にしましても、イカロス号事件を起こして(幕府から見れば海援隊が疑わしかった、ということです)面倒を引き起こすかと思えば、紀州徳川の船にぶつかっておいて脅しにかかり、双方とも浪士相手かと思えば、ずるずると土佐と薩摩が出てきまして、仲良く浪士の後ろ盾になっているわけです。
 一会桑にしましたならば、「あの浪士の巨魁を片付ければ、土佐が薩摩と結びつくことはなくなり、土佐をとりこめる」ということだったと思えますし、その土佐の内情を、佐幕派だった土佐藩要人が一会桑側に語っていた、ということは、十分にありえると思います。
 
 
龍馬暗殺の黒幕は歴史から消されていた 幕末京都の五十日
中島 信文
彩流社


 ノブさまのご著書に刺激を受けまして、少しだけですが私も、龍馬と慎太郎の暗殺について、思いめぐらせてみました。

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龍馬暗殺に黒幕はいたのか?

2012年01月27日 | 幕末土佐

 「龍馬史」が描く坂本龍馬の続きでしょうか。
 あるいは、桐野利秋と龍馬暗殺 前編後編の続きかも、なんですが、「木漏れ日に命を!」のノブさまのご著書を、読ませていただきました。

龍馬暗殺の黒幕は歴史から消されていた 幕末京都の五十日
中島 信文
彩流社


 私、いわゆる龍馬暗殺黒幕ものは、ほとんど読んでおりません。
 歴史の謎、といいますものは、さまざまに設定が可能です。
 素人は素人でも私は変人ですから、一般にはほとんど興味を持たれていないモンブラン伯爵の維新における活躍なんぞといいますものに、多大な関心を抱いたりしているのですけれども、通常でいいますならば、昔邪馬台国、今龍馬暗殺かなあ、と思ったりします。

 そういえば、最近あまり、邪馬台国関係の出版物を見かけなくなりましたねえ。
 あれこそ、史料があまりにも少なくって、素人が簡単に取り組める歴史の謎でしたから、乙女の頃の私は、あれこれと他人様のご著書を拝読しては、なるほどー、そうかもー、いやまってー、こうかもーと、推測するのを楽しんだものでした。
 しかし、龍馬暗殺について言いますと、アーネスト・サトウと龍馬暗殺に書いておりますが、故・西尾秋風氏のご高説に、お口ぽっかーんとあきれてものがいえない状態になってしまいまして以来、馬鹿馬鹿しくって、読むのは時間の無駄、と思ってまいりました。

 邪馬台国とちがいまして、史料がないわけではありません。
 あるんです。それなりに。
 実のところ私、西尾秋風氏のご高説も、詳しく承知しているわけではなくって、おそらく最初の頃と後の方では、お説にちがいがでてきていたのでは、と思うのですが、少なくとも私が知っていた範囲では、中村半次郎(桐野利秋)だということでして、これが実に馬鹿馬鹿しい話なのです。
 桐野利秋と龍馬暗殺 後編に、龍馬の甥、高松太郎が事件の二ヶ月後に、龍馬の兄夫婦へ宛てた手紙を引用しております。以下、必要部分を再録。

 僕六刀を受けて斃る。十六日の夕方落命。次に才谷を斬る。石川氏同時の事、然れども急にして脱力にいとまもなく、才谷氏は鞘のまま大に防戦すると雖、終にかなわずして斃る。石川氏亦斃る。石川氏は十七日の夕方落命す。衆問ふといえども敵を知らずといふ。不幸にして隊中の士、丹波江州、或は摂津等四方へ隊長の命によりて出張し京師に在らず。わずかに残る者両士、しかれども旅舎を同うせず。変と聞や否や馳せて致るといえども、すでに敵の行衛知れず、京師の二士速に報書を以て四方に告ぐ。同十六日牛の刻に、報書の一つ浪花に着く。衆之を聞き会す。すなわち乗船17日朝入京、伏見より隊士散行す。

 高松太郎は、大阪にいて、16日の夜中に事件の知らせを受け取り、11月17日の朝には入京しています。そして、中岡慎太郎(石川)が落命したのは17日の夕方で、慎太郎は「知らない奴らにやられた」と語り残していた、というんです。
 私は、平尾道雄氏の「海援隊始末記」から孫引きしてこのときのブログ記事を書いていまして、私が参照しましたのは古い版のものですが、いまでは、下のように文庫本で出ていますので、簡単に手に入ります。

坂本龍馬 - 海援隊始末記 (中公文庫)
平尾 道雄
中央公論新社


 下の「陸援隊始末記」もそうなのですが、龍馬と中岡慎太郎について、平尾道雄氏のご著書は、基本中の基本だと思うのですね。

陸援隊始末記―中岡慎太郎 (中公文庫)
クリエーター情報なし
中央公論新社


 桐野にとって、元治元年からつきあいのある慎太郎と、寺田屋事件の後に薩摩で新妻とともにもてなしたこともある龍馬と、大詰めを迎えての二人の死は、なんとも口惜しいことであったと思いますし、それは、慎太郎ファンでもある私にとってもそうなのです。
 しかし、犯人さがしについて言いますならば、平尾道雄氏が述べられておられます基本線につけ加えることは、ほとんどないのではないか、といいますのが、正直なところです。
 にもかかわらず、今回、ノブさまのご著書を拝読させていただきましたのは、「犯人の狙いは龍馬ではなく、実は慎太郎が本命だったのではないか」という憶測には、私も少々関心がありましたし、ノブさまが当初ブログに書かれておりましたのは、そういうようなお話だったからです。
 
 ただ、慎太郎本命説には、難点があります。殺された場所が、龍馬の居所の近江屋であったことと、慎太郎が即死していなかったこと、です。
 即死していなかったことにつきましては、犯人は死んだと思ったけれども、昏倒していた慎太郎が一時蘇生したのではないか、とは、十分に考えられますし、慎太郎は「知らない奴らだった」と言い残しているわけですから、犯人にしてみましたならば、虫の息があったにしても正体がわかるわけがない、という安心感があったのではないか、という推測も成り立つでしょう。
 しかし、事件の場所が龍馬の居所の近江屋であった、につきましては、慎太郎とともにやはり龍馬も狙われていたのだろう、としなければ説明のつき辛いことでして、今回、ノブさまがそういう観点からご著書を出されたのは、卓見だと思います。

 それでー、ご著書の内容なのですが、大筋ではけっこう説得されます。
 といいますか、もし、一会桑サイドではなく黒幕がいる、としましたら、この線ならまあ考えられなくはないのかなあ、と思ってしまう、常識的なお話をされていまして、声を失いますような奇説、珍説とは、一線を画しておられます。
 それについては、ご著書の「はじめに」で、ノブさまはこう述べておられます。
 
 今までに論じられていた諸説に対して、論議の前提や思考方法にどこか違和感を感じていた。というのは、江戸時代や幕末、そして、現代にしても、人間の行動や思考は大きくは変わらず、龍馬らの暗殺も現代に通じる事件ではないかと考えたからである。そういったことから、当時の幕府や諸藩の動きを洗い直し、現代における会社組織などの動きや人間の行動と比較検討が必要ではないかと思った。

 「時代は変わっても人間の行動や思考は大きくは変わらない」という信念を基本に持っておりました歴史家として、『近世日本国民史』の徳富蘇峰がおります。彼は、そういう目で歴史を見、現実も見ておりましたので、敗戦後にはいち早く、アメリカが日本を助ける方向に舵をきるだろうと見極めた、鋭い観察眼を示していたりします。

 基本的には、ノブさまのおっしゃる通りなんです。
 ですけれども、しかし……、です。
 時代は変わりますし、その時代の風潮に、人間は大きく影響されるものである、とも、私は思っています。
 例えば、暗殺という行為に対します評価です。
 幕末・明治と現代では、受け止め方が、まったくちがうと思うのです。

 古い記事ですが、慶喜公と天璋院vol2に大筋のところは書いてあるのですが。
 まずは桜田門外の変。
 幕府の側からしますならば、大老が公道で浪士に襲われ、殺されたのですから、まぎれもないテロです。
 しかし、井伊大老は安政の大獄という政治的な大弾圧を行っていましたので、弾圧されました側からは、この暗殺は義挙でした。
 
 弾圧された側には、高位の公卿・大名もあり、土佐の山内容堂などは、「首を失って負けたおまえが成仏できるものかな。おまえの領地は犬や豚にくれてやれ」というものすごい漢詩を作って大喜びしています。
 まあ、しかし、です。当時の状況としましては、密かに漢詩を作っていただけなのですから、自分を失脚させた政敵が殺されて、表面ではお悔やみを言いながら日記に罵詈雑言を書き残すくらいのことは、現在でもありえそうなのですけれども。

 しかし、ですね。
 いつのまにかテロが正義となり、堂々と天誅がまかり通ったあたりは、どうでしょうか。
 「京の天誅の最初の一石となった島田左近暗殺には島津久光のひそかな指示があったのではないか」と書いたことについて、私はいまもそうであったのではないか、と思っています。久光に「あいつが怖いんですのやー」と訴えた近衛忠房は、島田が無事殺されたと知って「希代希代珍事、祝すべし、祝すべし」と喜んだというのですから。
 大会社の会長がですね、提携する政治家から「ライバルの用心棒が怖いんやー」と訴えられたので部下に暗殺を命じるって、現代ではまず、ありえんですわね。

 これに証拠があるのか、といえば、状況証拠しかないわけですけれども、確実なところでいけば、例えば久光の命令による上意討ちであった方の寺田屋事件、です。大会社の会長がですね、社員が勝手に他者の社員と連携して事を起こそうとしているからって、「やめろというわしの命令に従わないなら殺せ」って部下に命じるなんてこと、現代ではありえないですわね。書きかけなんですけれども、寺田屋事件と桐野利秋 前編は、時代相に即して、事件を追おうとしたつもりです。

 暗殺といっても、それは自分の命をかけてするものですし、命がけですることは賞賛される時代だったのだと、私は思います。
 それはしかし、当時においては日本だけのことではなく、世界的にもそうだったのではないでしょうか。
 例えば、イタリア統一運動にかかわっていましたカルボナリ党のフェリーチェ・オルシーニですけれども、もともとはカルボナリ党であったにもかかわらず、フランスの皇帝となってからのナポレオン三世がイタリア統一に背を向けたと見られたことから、皇帝の馬車に爆弾を投げつけるというテロを決行するのですけれども、失敗に終わって皇帝は軽傷。しかし、周囲のなんの関係もない一般フランス人がまきこまれて、死者十数人、負傷者百名以上という、大惨事になってしまいます。
 しかし、大義に殉じようとするオルシーニの裁判での態度がりっぱだということで、一般のフランス人もけっこう同情しますし、結果、ナポレオン三世は、イタリア統一に力を貸す決意をします。
 ちょっと、現代ではありえない話ですよね。

 もしかしましたら近デジにあるかな、と思うのですが、明治32年発行の「尚武養成 軍隊必読」という読み物があります。古今の武勇談を集めた読み物なんですが、新撰組の近藤勇が一人で龍馬と慎太郎を斬り殺したことになっていまして、その武勇が賞賛されていたりします。
 「龍馬死に臨み慎太郎を呼び起し、幕府末運に臨むもかかる武士あり。未だ侮るべからずと語り、嗟嘆して死す」って、現代ではちょっと理解し辛い価値観、ではないでしょうか。
 まあ、明治42年、伊藤博文を暗殺しました安重根を、日本人が義士と称えるような風潮もあったわけですし。

 と、まあ、そういうような観点からしまして、ですね、ノブさまの描写されます時代の様相が納得がいくかといいますと、ちょっとちがうかな、と感じるんです。例えば、以下です。
 京都の街自体は、緊張感は以前とは比べものにならないほど高揚してはいたが、それが逆に街の安全や治安に効いており、表面上は台風の目の中にいるような、ひと時の奇妙な静けさを持った、治安もかなり守られていた街だったのだ。笑い話だが、慶喜に大政奉還を建白した土佐藩要人などは、坂本龍馬らが斬殺された日、仲間と朝から芝居見物を暢気に楽しんでいたという話も残っているくらいである。
 
 えーと、まず芝居見物については、ですね。
 例えば一会桑側が、です。れっきとした土佐藩要人を襲ったのでは、それで黙っていては土佐の藩としての面目が立たず、確実に土佐藩そのものを敵にまわしてしまいますし、そんなことをば一会桑側も望むわけがないですから、別に土佐藩要人の身に危険はないわけです。
 一方、龍馬と慎太郎は、といえば、です。現実に二人が殺された後、犯人は新撰組だと噂されましたが、むしろ土佐藩邸は、二人を関係ないものとして扱うことで面目を保ち、それで一会桑の敵にまわるということもなかったのですから、殺したところで大問題とはならず、ひるがえって考えると、彼らは危険にさらされていたわけです。
 危険か危険でないかは立場によってちがった、ということでして、桐野利秋と龍馬暗殺 後編に書きました以下の部分を訂正する必要を、私は感じておりません。

 慶応三年十月、大政奉還が公表された当時の京は、殺伐とした空気を濃くしていました。
 昨日もご紹介しましたが、10月14日、大政奉還のその日、京在海援隊士・岡内俊太郎から、長崎の佐々木高行への手紙の最後は、この文句で結ばれています。
 「新撰組という奴らは私共の事に目をつけ、あるいは探偵を放ちある由にて、河原町邸(土佐藩邸)と白川邸(陸援隊)との往来も夜中は相戒め居候次第に御座候」
 新撰組のやつらはぼくたちに目をつけて、探偵にさぐらせていたりして、ここ白川邸と河原町藩邸とを行き来するのも、夜はやめておこうと気をつけているほどなんだよ。

 
10月28日の桐野の日記には、そんな殺伐とした状況をうかがわせる記事があります。
 桐野の従兄弟の別府晋介と、弟の山之内半左衛門が、四条富小路の路上でいどまれ、「何者か」というと、「政府」との答え。「政府とはどこか?」とさらに聞けば、「徳川」とのみ答え、刀をぬきかかったので、別府が抜き打ちに斬り、倒れるところを、半左衛門が一太刀あびせて倒した、というのです。
 大政奉還があった以上、薩摩藩士は、すでに幕府を政府とは思っていません。
 一方で、あくまでも徳川が政府だと思う幕府側の人々にとって、大政奉還は討幕派の陰謀なのです。
 そして………、土佐藩在京の参政、神山佐多衛の日記です。
11月14日
 薩土芸を会藩より討たずんば有るべからざると企これあるやに粗聞ゆ。石精(中岡)の手よりも聞ゆ
 「会津藩は薩摩、土佐、安芸藩を討つべきだということで企てがあるという。中岡慎太郎も同じ事を言っていた」というんですね。


 神山佐多衛の日記などを読んでいますと、あきらかに、この時期の京都土佐藩邸要人は、おびえています。なににおびえているかといいますと、白川の土佐藩邸にいる陸援隊と新撰組の間で騒動が起こり、それに土佐藩そのものがまきこまれるかもしれないことに、です。
 一橋慶喜や松平容保のレベルの話では、ないんです。
 幕府にしろ会津藩にしろ、新撰組の動きを確実にコントロールできているわけではないですし、陸援隊にしろ海援隊にしろ、浪士の集まりなんですから、土佐藩がコントロールできたわけでは、決してありません。
 
 もう一つ。
 倒幕派と佐幕派と、あるいは土佐藩士と会津藩士と、自由に会っていたについて、なんですけれども、いや、桐野利秋と龍馬暗殺 後編、そして中井桜洲と桐野利秋をご参照いただきたいのですが、脱藩薩摩人で、海援隊に席をおいておりました中井桜洲は、です。倒幕派の桐野利秋・永山弥一郎と非常に親しく(このことは、後世のものになりますが、中井の書簡で確かめられます)、西郷・大久保・小松が討幕の密勅を奉じて国元に帰りました直後に、永山とともに桐野を訪ねているんですね。桐野の日記によれば、桐野は西郷から密勅の写しを見せてもらっていて、なぜ京都薩摩藩邸の要人三人がそろって国元に帰ったのか、真相を知っています。中井は、密勅について、桐野から聞き知っていた可能性が非常に高いんですね。
 しかし、かなり自由にいろいろな陣営の人物と会って、土佐藩邸要人の情報源になったりもしています。どこまで中井がしゃべっていたかは、謎なんですけれども。

 あと、ですね。
 詳しくはfhさまのところの2007.08/16 [Thu]「備忘 寺島宗則19」にありますが、いわゆる王政復古のクーデターのその日、その首謀者といっていい大久保利通のブレーンだった寺島宗則が、なんでだか知りませんが、慶喜の側のブレーン西周に会おうとしていたりするんですね。寺島の自叙伝によれば、西周と榎本武揚に会おうとしていたことになっていまして、「西家略譜」『西周夫人升子の日記』でも、それは確かめられることなんです。
 寺島宗則は幕府の蕃書調所にいた人ですから、もともと西周とは親しく、えーと、このとき大阪の薩摩藩邸には五代とともにモンブランがいますし、モンブラン伯は維新回天のガンダルフだった!? vol2で書いておりますが、フリーメーソンに加盟した西周は、オランダ留学帰りにパリにより、モンブランのもとを訪ねていたりするんですね。
 私といたしましては、寺島ママンはモンブラン・五代と西周を会わせて、そうですね、慶喜に対して、開港地を朝廷に渡して外交権を手放すことを勧めてもらおう、とか、考えていたんじゃないだろうか、と妄想したくなります。
 ま、あれです。治安がどうだろうが、会うべきと思えば、敵陣営の人物でも会おうとしてしていたりするもの、と、私は思うのです。

 それで、ですね。
 肝心要な部分、なんですが、最初に述べましたように、大筋では、ノブさんのなさっているような推理も、なりたたなくはない、と、私は思っています。
 土佐藩の史料をあまり読んでいないものですから、勉強させていただいたことも多々あります。
 しかし、そのご推測に関して、証拠はありません。証拠と思われたのでしたら、それは誤読、だと思います。
 思います、といいますのは、私は直接「寺村左善道成日記」を読んでいませんので、断言はできないんです。
 しかし、ちょっとネタバレになるかもしれませんが、慶応三年九月二十四日の「寺村左善日記」について、寺尾道雄氏が「陸援隊始末記」でこう記していると述べておられます部分を、以下、引用します。

 「相談の上、(陸援)隊士を白川邸から放逐することにしたが、命しらずのものが、うかつに処分するとどんな大事をおこすかも知れない。ついに後藤の裁断で壱千両を投げだし、おだやかに出すことにした」

 えーと、ですね。
 このもとの文章がどういうものなのか、私は読んでいないのでわからないのですが、ノブさまが引用しておられますこの日の日記の末尾、「吾邸内ヲ出ス事ニ決シタリ」が、平尾氏が要約しておられます冒頭の「(陸援)隊士を白川邸から放逐することにした」に呼応していると思われるんですね。
 で、この「吾邸内ヲ出ス事ニ決シタリ」を、ノブさまは「白川土佐藩邸にいた陸援隊や海援隊の隊長(巨魁)である坂本龍馬と中岡慎太郎を飢寒の徒で何をするか分からない危険な浪士であるので排除したい」と訳しておられるんですけれども、この意訳を平尾氏の解釈とくらべましたとき、大きく意味がちがっていますし、平尾氏の解釈の方が、原文に素直なものではないのか、という気がするんですね。

 平尾道雄氏は、「(土佐)藩邸でも佐幕派の連中は、この陸援隊を厄介視していた。幕府や会津の猜疑をおそれ、薄氷を踏む気持ちである」とも述べておられまして、「海援隊始末記」をあわせ読みますと、土佐の佐幕派が、海援隊も陸援隊も、同じように厄介視ししていたことは、大前提なんですね。

 そこまでは変わらないんですけれども、では陸援隊と海援隊を土佐藩から切り離すためにどうしようというのか、というところで、平尾氏とノブさまの解釈は変わってきています。そしてノブさまのように、龍馬と慎太郎を排除するというような解決法は、成り立たないのではないでしょうか。
 現実に、龍馬と慎太郎が暗殺されました後、海援隊・陸援隊の隊員の一部が、紀州藩士三浦休太郎と新撰組を襲う天満屋事件を起こしていまして、平尾氏の解釈のように「命しらずのものが、うかつに処分するとどんな大事をおこすかも知れない」という心配が大きかったと思います。
 先に述べましたように、佐幕派が陸援隊、海援隊を厄介視していましたのは、自分たちのコントロールできない浪士集団であり、彼らが勝手に暴れかねないことでして、そんな集団が土佐藩の白川藩邸に巣くっていたのでは、自分たちに災難をもたらしかねないから、です。

 以上を踏まえまして、ノブさまが引用しておられます「寺村左善道成日記」慶応3年10月5日の「白川邸浪士所分之事」を解釈しますと、これはもう素直に、そして平尾氏の解釈通りに「陸援隊士を白川邸から放逐すること」でまちがいはなく、「龍馬と慎太郎を暗殺すること」と解釈いたしますのは、不可能です。
 結論からいいまして、平尾氏が書いておられます通りに、陸援隊を白川邸から放逐したい、という、寺村左善の望みはかないませんでした。そして、なぜその当時、左善が切実にそう思ったのか、というような分析に関しまして、ノブさまのご推測は、非常に説得力のあるものなのです。

 いったいなぜ、慎太郎が龍馬とともに襲われたのか。
 ノブさまの他のご推測の部分、実は新撰組も関係していたのではないか、とか、考えさせられる部分は多かったですし、ご労作、楽しんで読ませていただきました。

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続・いろは丸と大洲と龍馬

2010年12月09日 | 幕末土佐
 いろは丸と大洲と龍馬 上いろは丸と大洲と龍馬 下の続きです。
 「龍馬史」が描く坂本龍馬にも、関係します。
 真紅さまのご紹介により。下の本を買って読みました。

いろは丸事件と竜馬―史実と伝説のはざま
鈴木 邦裕
海文堂出版


 いや、もうなんといいますか……、ともかくおもしろい!!!のですが、これもしかして、副題を「『竜馬がゆく』の真っ赤な嘘」と変えた方が、インパクトがあっていいのではないか、と。
 著者の鈴木邦裕氏は、外国航路の船長という経歴をお持ちの海事の専門家でおられ、弓削商船や神戸商船大学で非常勤講師をなさったご経験からでしょうか、非常に簡潔で、読みやすい文章を書かれます。
 おどろきましたことに、現在、松山ご在住です。
 もしかして……、伊予の人間はけっこう「歯に衣着せず批判する」性癖があるんでしょうか。いえ、私も含めてのことなんですが(笑) そういえば、正岡子規の歌論や俳句論って、ずけずけと、既成の歌壇、俳壇批判をしておりましたっけ。

 司馬遼太郎氏の「竜馬がゆく」は、司馬氏の幕末ものの中では初期の作品でして、先に書きましたが娯楽に撤した結果、ほとんど史実にはかまっておられないんですね。
 私は本来、これを史実だと受け取るのは、受け取る方がまちがっているのだ、という見解です。
 また、史実にそったものではなく、伝説の集成であったにしましても、「時代の雰囲気を映している」という意味でのリアリティにおいて、司馬作品には、他と隔絶した、といえるほどのすばらしさがあり、これはもう、脱帽するしかありません。

 しかし、ですね。
 とはいうもの、世間一般で司馬作品がそのまま史実のように受け入れられていますことには、腹立たしくなることもあり、私の場合、それは「翔ぶが如く」である場合が多かったんです。
 「竜馬がゆく」はまだしも、一読して伝説の集成、なんですが、「翔ぶが如く」になってきますと、史伝風の書き方をなさっていて、「だ・か・ら、あれはフィクションですっ!!!!!」と叫んだことが、過去、数えきれず、です(笑)

 大昔の話です。
 おそらく、大河ドラマで「翔ぶが如く」をやった直後くらい、だったと思うんですが、漫画家の卵だとおっしゃる男性の方からお手紙をいただき(当時はまだネットはありません)、「『翔ぶが如く』を読んで、中村半次郎に興味を持ちました。差別された郷士が、人斬りを重ねてのしあがっていく、そんな姿を作品にしたいんです」とまあ、おおよそ、そんな内容だったと思うのですが、「まず、桐野(中村半次郎)は郷士じゃありません。城下士です」とお返事を書いてもなかなか信じてもらえませんで、「えーと、ですね。『翔ぶが如く』に木戸孝允が欧州から帰ってきて、山内容堂と話す場面がありますよね。でも、ありえないんです。容堂は明治5年に死去していますから。『翔ぶが如く』は、史伝風に書かれている部分も、都合によっては死人が蘇っているフィクションです」と説明して、ようやくわかってもらえたんですが、当時、司馬さんの戦国ものを参考に、ある漫画家さんが作品を描きましたところ、たまたまそれが司馬さんの創作部分で、盗作問題に発展した、というような噂話もありまして、「他人の創作物を資料にすること」の危険性をご説明したような次第でした。

 しかし私、昔から坂本龍馬には、それほど関心がありませんで、「過大評価されすぎだよなあ。しかし、桐野のお友達だから、性格が悪い人じゃなさげ」(笑)くらいのところで、まじめに「竜馬がゆく」と史実の関係を追求しようと思ったことはなく、またまたしかし、昨今の「あれもこれも、なにもかもが龍馬のしたこと」みたいな風潮に、うんざりしていたことも事実です。
 (えー、桐野が龍馬とお友達だった、ことについては、「桐野利秋と龍馬暗殺 前編」「桐野利秋と龍馬暗殺 後編」「中井桜洲と桐野利秋」を御覧下さい。海援隊の客分で、大政奉還の建白書に手を入れた中井桜洲と桐野はお友達で、龍馬の野辺送りでは、高松太郎(龍馬の甥・海援隊)、坂元清次郎(龍馬の姪の夫)といっしょにいたんです。さらに大正年間の回想ですが、桐野の正妻の久さんは、寺田屋事件の後、薩摩に滞在した龍馬を歓待した、と語り残しています。小松帯刀書簡により、桐野が神戸海軍操練所で学ぶことを希望していたことはわかりますし、薩長同盟は桐野の悲願でしたから、信憑性のある回想です)

 「龍馬史」が描く坂本龍馬で書きましたように、特に海軍と交易に関して、なんですが、昨今の龍馬と海援隊への過大評価は著しく、鈴木邦裕氏がばっさりと斬って捨てておられますのには、胸がすきます。
 いやほんと、素人が見ましても、ワイルウェフ号といろは丸と、砲撃されたわけでもなんでもなく、通常の運行で、短期間に二隻も船をおしゃかにしています龍馬と亀山社中(海援隊)は、ろくに航海の技量を持っていなかったのではないか、としか思えなかったのですが、海事の専門家でおられます鈴木邦裕氏が、それを裏付けてくださったわけです。

 私、いろは丸と紀州藩船・明光丸の衝突事件そのものにつきましては、「竜馬がゆく」の著述内容でさえ、忘れこけておりました。
 鈴木氏によって思い出させていただいたのですが、司馬氏は、明光丸船長・高柳楠之助について、以下のように書いておられます。

 若いころ蘭学を志し、有名な伊東玄朴を師として蘭学と医学を学び、その後箱館(函館)へゆき、そこで西洋人からすこし航海術を学んだという。医術はさておき、航海術となると心細い経歴である。
 しかしこの程度の者が、「西洋機械熟練之者」ということで十分に通用した時代であった。


 鈴木氏によりますと、高柳は函館で武田斐三郎に航海術を学んでいるんだそうなんです。
 ひいーっ!!! なんで司馬さんは、武田斐三郎がお嫌いなんでしょ。
 たしか、「燃えよ剣」だったと思うんですが、五稜郭の設計者として、ぼろくそけなしておられた記憶が、鮮明にあります。
 しかし、広瀬常と森有礼 美女ありき10に書いておりますが、五稜郭が中途半端なものだったのは、まったくもって斐三郎の責任ではないですし、鈴木氏も指摘され、いろは丸と大洲と龍馬 上で私も書いておりますが、斐三郎は船長としてニコラエフスクまで出かけたほどの航海者でして、実践的な教え方をしたようなのですね。
 鈴木氏は、高柳はその後、明光丸の船長として、上海や香港にまで、無事航海を重ねていると述べておられまして、おっしゃるように、龍馬やその他海援隊の面々よりは、はるかに航海術に長けていたわけです。

 いや、ですね。
 武田斐三郎にしろ、高柳楠之助にしろ、勝海舟や坂本龍馬のような、政治的な周旋(取り持ち)の才はありませんわね。
 しかし、実践的な技術者としての才能は、彼らよりはるかに上ですのに、なぜ司馬さんは、そこをけなしてしまわれるんでしょうか。
 作家にとっての龍馬が、非常に魅力のある素材であったことはわかりますし、娯楽のためには万能の英雄に仕立てることもあり、なんでしょうけれども、そのために他を貶めるのはいかがなものかと、私も思います。

 鈴木氏は、龍馬暗殺の黒幕話にも触れられ、これもばっさり、斬って捨てられています。
 これ、私、昔から思っていたんですけど、龍馬は寺田屋で伏見奉行所の同心を撃ち殺しているんです。現在で言えば、警官殺しです。 
 同じことを鈴木氏が書いておられて、なぜ龍馬暗殺において、それが語られないことが多いのか、不思議です。

 鈴木氏に教えていただいたことが、もう一つ。龍馬英雄伝説の素地が「維新土佐勤王史」に、すでにあった、ということです。
 いえ、私、まったく読んだことがないわけじゃあないんですが、ごく一部を読んだだけでして。
 考えてみれば、「汗血千里駒」の著者、坂崎紫瀾が著者なんですものねえ、ふう。

 話は変わりますが、この「いろは丸事件と竜馬―史実と伝説のはざま」には、新資料、ポルトガル語のいろは丸購入契約書の写真が載せられていて、岡美穂子氏の翻訳文も全文収録されております。
 私、大洲へ出かけましたときに、Mr.K氏にお聞きしたのですが、この資料の出所は確かで、一級の一次資料なんです。
 ただ、ですね。
 鈴木氏は愛媛新聞・平成22年4月23日の記事を典拠に、40000メキシコパタカ(ドル)=一万両とされていまして、これって、非常に、この契約書の信憑性を疑わせる記述なんですね。
 慶應義塾大学学術情報リポジトリ: KOARAに、西川俊作氏の幕末期貨幣流出高の藤野推計について : 批判的覚書があります。

修好通商条約(第5条)において同種同量の原則により定められた協定レートは、メキシコ・ドルまたは洋銀1枚(1ドル)=一分銀3個(3分(ぶ))であった。一分銀4個.(4分)・小判1枚(1両)であったから、メキシコ・ドル4枚で小判3枚(3両)と交換できることになる。
 
 ということですから、40000メキシコドルは、この公定レートで3万両なんです。
 いろは丸と大洲と龍馬 下でご紹介しました紀州藩の資料「南紀徳川史」によりますと、ボードウィンとの借金契約におけるレートは、100メキシコドル(銀貨)=77両2歩で、=75両の公定レートと少々ちがうものですから、3万1千両になるわけです。

 鈴木氏は一方で、これまで基本資料の一つ、とされてきました豊川沙の「いろは丸終始始末」も「信用ができない」と全面的に斬って捨てておられまして、後世にまとめたもので、伝聞が相当にまじっていますし、正確とはいえないのは確かなんですが、唯一の一次資料といえます購入契約書と、照らし合わせてみる価値は、あるでしょう。
 それを全部斬って捨てられた上で、「新聞を典拠に一万両」は玉に傷だよなあ、と思いまして、私、鈴木氏にお電話してみました。
 快く応じてくださいました鈴木氏がおっしゃるには、「岡美穂子先生のチェックを受けている」ということなんです。

 私、もう、どびっくりしまして、いったい愛媛新聞の記事の「40000メキシコドル=一万両」がどこから出た話なのか、今度は、愛媛新聞社に電話をかけました。
 ちょっと存じ上げている記者の方が電話に出られまして、おっしゃるには「大洲で書かれた記事なので、大洲の駐在記者に聞かないとわかりません」ということなんですが、「大洲市側から出た話なんでしょうか?」という私の問いには、「大洲側から出なければ書きません、普通」ということでしたので、Mr.K氏にお聞きするべきなのか、と迷ったのですが、同じく関係者でおられます大洲市立博物館学芸員の山田さまにお電話しました。
 その結果が、これまた驚くべき、でして、「あれは、契約書発見発表の記者会見で質問が出て、岡先生が回答されことです」とのこと。
 ひいーっ!!!!! 先生………

 (追記)愛媛新聞社大洲支局の記者さんと連絡がつき、確認がとれました。山田さまのおっしゃった通りの経緯で、記者会見の内容をそのまま記事にし、独自の検証はなさらなかったそうです。

 えー、「教えてgoo」にある話なんですが、通商条約以前の長崎で、オランダ商人との取り引きは、メキシコドル銀貨が一分銀と等価だったそうですから、南蛮がご専門の先生は、とっさに古いレートでお答えになられたんでしょうか。
 それがそのまま新聞記事になって、ひろまってしまったわけなんですかね、ふう。

 山田さまから、もう一つ、「いろは丸終始始末」の記事中、「国島六左衛門が自刃したときに龍馬が訪れた」といいます、もっとも印象的な場面は、「龍馬はそのとき長崎にいないので、ありえない」という話をお聞きしました。
 鈴木氏もその旨を書いておられまして、私、とりあえず龍馬の書簡を見てみたのですが、その限りにおいては、長崎にいないことの裏付けはとれませんでした。
 山田さまがおっしゃるには、長府博物館が、証拠を持っているとかでして、今度は長府に電話してみるべきなんでしょうかしらん。

 この点以外、「いろは丸と大洲と龍馬 上下」で書いたことにつきましては、私、いまのところ、それほど訂正の必要はないと思っているんですが、大洲でMr.K氏にいただきました「大洲歴史懐古帖 第三版」や、契約書翻訳全文を見まして、一つ、もしかして、と思いましたのは、あるいは、「大洲藩はボードウィンから金を借りていろは丸を買った」のではなく、「もともと薩摩藩がボードウィンに全額立て替え払いしてもらっていて、その借金が残っていた」のかも、と思います。

 これにつきましては、fhさまが寺島宗則について調べておられましたとき、『鹿児島県史料 玉里島津家史料1』を見ておられて、幕府の文久の遣欧使節団に参加していました寺島が、なぜか欧州で薩摩藩の船を買うのに奔走していまして、ボードウィンの周旋でスコットランドに船を発注した旨の資料を発見されたそうなんです。ただ、その船は、いろは丸よりは大きなものだったそうなんですが。

 しかし、契約書におきます船主・ロウレイロの属するデント商会と、立会人のアデリアン商会が、安行丸=いろは丸にどうからむのかは、あいかわらず謎でして、とりあえず、来年の岡先生の論文を楽しみに待たせていただきます。

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「龍馬史」が描く坂本龍馬

2010年11月14日 | 幕末土佐
 またまた突然です。
 「武士の家計簿 ―「加賀藩御算用者」の幕末維新」 (新潮新書)の著者、磯田道史氏が、龍馬暗殺について書かれているというので、読んでみました。

龍馬史
磯田 道史
文藝春秋


 全体が大きく3章に別れているんですが、最後の3章は付録といってよく、「龍馬を知るには、下手な伝記を読むよりも、直接、龍馬の書いた手紙を読んでみなよ」という話です。
 で、1章は、龍馬を中心に据えた幕末史。
 そして2章がまるごと、龍馬暗殺事件の解明です。

 龍馬暗殺について、現在、陰謀論が盛んです。よくは知りませんが、テレビで取りあげられているようですから、盛んなんでしょう。
 京都見廻組という定説は、動かしがたいということがさすがに知られてきまして、それでは話がおもしろくありませんから、「黒幕がいる!」ということで、ない謎を作ろうとしているのでしょうけれども、そういうテレビ局や出版社の都合は、わからないではありません。
 
 世間さまでは、「幕末といえば龍馬か新撰組」です。
 つくづく、司馬さんは偉大です。
 私もその口なんですが、司馬遼太郎氏の著作を読んで、あるいはそのテレビ化作品を見て、幕末に興味を抱いた人は多いでしょう。
 そういった人々の中から、漫画家や小説家、テレビ制作者、あるいは編集者が生まれ、龍馬と新撰組は、拡大再生産されているんでしょうね。

 なぜ、数多い司馬遼太郎氏の幕末作品の中で、龍馬と新撰組なのかといえば、「竜馬がゆく」「燃えよ剣」「新選組血風録」 の初期幕末作品は、娯楽に撤していて、とてもわかりやすく、おもしろいんです。
 ここで龍馬を選ぶか新撰組を選ぶかは、好みの問題でしょう。私は、「燃えよ剣」と「新選組血風録」の方が好きでした。

 私は、昭和30年代に書かれたこれらの司馬作品をリアルタイムで読んでいるわけではありません。
 したがいまして、おそらく、なんですが、龍馬と土方、どちらも幕末に青春をかけて夭折した男たちの物語に、もっとも影響を受けたのは、団塊の世代でしょう。
 それまで、西郷、大久保、木戸が維新の三傑とされ、彼らはいってみれば政治家であったわけなのですが、政治には清濁あわせ呑む側面も出てきますし、腹芸もあります。彼らが主人公では、「すっきり爽快青春物語」には、なり辛いわけなのです。

 しかも司馬氏は、竜馬と土方を、ちがう陣営にありながら、「合理的精神を持った新世代」として造形していまして、「新しい価値観で世を変えようとした爽快な若者の青春物語」をつむぎ出しているんです。
 それは、高度成長期にさしかかって、戦前を生きた父親の世代の既成の価値観を否定し、「親父たちの世代に属する政治家たちは薄汚い! 戦犯をかばうような奴らだ。俺たちの価値観が日本を変えるんだ!」と夢見た若者たちの気分に、ぴったりの物語、だったのではないのでしょうか。

 しかし、昭和30年代において、政治家たちの権威は巌のようにそびえていまして、いくら若者たちが逸脱して少々暴れたところで、日本という土台をささえる庶民の国家意識は強固なもので、しかも高度成長の上り坂。国はゆるがない、という安心感があってこそ、そういう夢物語に熱中もできたんです。
 司馬氏はもちろん、いわゆる「維新の三傑」の存在の大きさがわかっておられなかったわけではなく、それは前提として、「しかしね、維新は個人が成し遂げたものではなく、こういう新しい若者たちがいて、新しい価値観が生まれていたんだよ」というトーンで、あくまでも「夭折した若者の青春」を描いておられます。

 司馬氏における「合理的精神」は、「西洋的近代の受け入れ」の基礎となったもの、と考えられ、とすれば、司馬氏が語る明治維新は、「西洋型近代的国民国家の生みの苦しみ」であって、その大筋自体から、「龍馬暗殺、薩摩・土佐陰謀説」は生まれようがありません。

 ところがしかし、物語が拡大再生産されていきますうちに、特に龍馬は、「維新の三傑」にとって代わりまして、一人で幕末の政局を動かしえたかのような伝説の主人公になったんです、おそらく。
 しかも、ですね。どういう脈略か私には理解しがたいんですけれども、「大政奉還で平和的改革をめざした龍馬は議会制民主主義の旗手! 武力倒幕派は龍馬が邪魔だった」みたいな、?????な気分によって、明治維新は民主主義の挫折の物語として紡がれる、という、お口ぽっかーんな状況から、陰謀暗殺ミステリーがもてはやされるようになったのではないか、と、首をひねってみたり。

 つーか、ですね。慶喜公が大人気!!!なのならば、まだ、気分としての薩摩黒幕話もわからないではないんですが、かならずしも慶喜公に人気があるわけではありませんで、龍馬人気の基礎が一介の浪人、それも土佐では上士から差別された郷士だったというところにありますのに、なんで????? です。
 そもそも、慶喜主導、あるいは山之内容堂や松平春嶽やら、武力倒幕反対派の諸侯主導で、四方八方おさまりがつきえる場面だったんですかね?????

 まあ、そういうことですから、龍馬暗殺ミステリーを語りますのに、「維新とはなんであったのか?」という問いをぬきにしては、お遊び推理ゲームにしかなりえません。
 したがいまして、磯田道史氏が、その作られたミステリーに真面目に取り組むにおかれまして、龍馬を中心に据えた幕末史を先にもってこられたのは、もっともなことです。
 著者ご自身、「龍馬の生涯をたどるうちに、自然と、幕末史の体系的知識が身に付くような簡潔な」歴史叙述を試みた、とされています。

 うーん。
 しかし、ですね。幕末史の要約ほど、難しいものはありません。
 まして、龍馬中心というのは、至難のわざ、でしょう。
 実際のところ、ですね。尊王攘夷から話をもっていきますならば、龍馬ではなく、中岡慎太郎を中心に据えた方が、幕末は描きやすいんです。
 前編を書いただけで放ってありますが、「寺田屋事件と桐野利秋 前編」で、私も一つの側面から、幕末史の要約を試みようとして、以下の慎太郎の言葉を引いています。

「それ攘夷というは皇国の私語にあらず。そのやむを得ざるにいたっては、宇内各国、みなこれを行ふものなり。メリケンはかつて英の属国なり。ときにイギリス王、利をむさぼること日々に多く、米民ますます苦む。よってワシントンなる者、民の疾苦を訴へ、税利を減ぜん等の類、十数箇条を乞う。英王、許さず。ここにおいてワシントン、米地十三邦の民をひきい、英人を拒絶し、鎖港攘夷を行う。これより英米、連戦7年、英遂に勝たざるを知り、和を乞い、メリケン爰において英属を免れ独立し、十三地同盟して合衆国と号し、一強国となる。実に今を去ること80年前なり」

 これほど、維新のめざしたものを端的に表現した言葉は、他にないと思います。
 
 龍馬では、なぜ描き辛いのか。
 簡単なことです。海軍は幕末の激動の「きっかけ」であり、維新の大きな「目的」でもありますけれども、変革の主体にはなりえないから、です。
 古今東西、変革の主体は陸軍です。清教徒革命にしろ、アメリカの独立戦争にしろ、フランス革命にしろ、プロイセンのドイツ統一にしろ、イタリアのリソルジメントにしろ、なんですけれども。

 さらにいえば、「海軍」は規模を要求します。
 この当時、パクスブリタニカの根源になっていましたイギリス海軍は、いわば脅しの見せ札です。例えは悪いんですが、原爆のような側面を持ち、イギリスは、明治維新から60年も昔のトラファルガーの海戦以来、大海戦はやっていません。
 そのイギリスとアメリカと、正規の常設陸軍が非常に小規模で、義勇軍に頼る割合が大きい、地方分権的な国におきましても、コーストガードは別にして、海軍は中央集権政府の元にあります。
 モンブラン伯爵のシリーズなどで書いてきましたが(不完全なものですが、「モンブラン伯と「海軍」をめぐる欧州の暗闘vol3」がわかりやすいかと思います)、海軍熱心だった佐賀と薩摩は、ともにそのことを悟り、薩摩は、薩英戦争を経ることによりまして、幕府に代わってその集権の主導権を握ろうとしましたがために、倒幕に傾いていった、といえなくもありません。
 
 したがいまして、「海軍を作る」ことにおいて、一介の浪人は無力ですし、また海軍自体は、決して政治的な存在とはなりえないのです。
 であってみれば、磯田道史氏は、海軍を志した一介の浪人を中心として簡潔に幕末史を語る、という難しい作業を、できうるかぎり、無難にこなされている、と、言っていいのかもしれません。

 しかし、不満は残ります。
 龍馬が土佐にいる間は、いいんです。
 脱藩にいたって、ちょっとちがうだろう、という話になってきます。
 土佐勤王党に対する久坂玄瑞の呼びかけにしましても、吉村虎太郎の脱藩にしましても、漠然とした尊王攘夷論の高まりで、起こったわけではありません。島津久光の率兵上洛がもたらしたもの、です。
 ここでも、時代を動かしていたのは、「陸軍」なのです。

 だからといってもちろん、脱藩後の龍馬が海軍を志したことに、意味がないわけではありません。
 ここで龍馬がわざわざ激動の中心をはずれて、海軍に向かいましたことは、その「海軍」にこそ変革の動機と目的を抱き、なおかつ、変革の主体となりえる規模の「陸軍」をかかえます薩摩に、龍馬を近づけることだったから、です。
 幕末における海軍と交易、そして外交という面から維新を描くことを、私はモンブラン伯爵を中心にしようとして、知識不足と力不足で、覚え書き程度のものも中断しておりますが、もし日本人を中心に据えますならば、五代友厚しかいないでしょう。
 
 「いろは丸と大洲と龍馬 上」で書きましたけれども、司馬遼太郎氏は、あきらかに五代友厚がしたことを、龍馬がしたことに変換しています。
 海軍の創設と海外貿易。これは最初から、一介の浪人にはできないことです。大藩の保証があればこそ、できることでして、しかも、なぜ薩摩藩がそれを積極的になしえたか、といえば、「琉球という植民地」を持っていたから、です。植民地といいましても、形としましてはイギリスのインド統治に似て、入植はせず、琉球王朝を温存しました間接統治、です。
 「モンブラン伯は維新回天のガンダルフだった!? 番外編」で述べましたが、すでに薩摩は、琉球を指導して、オランダ、フランスと修好条約を結んでいました。

 「一介の浪人が海軍と貿易に取り組んだ!」といいますのは、司馬さんが龍馬像に託しました夢でして、私が磯田道史氏の書いておられることに、もっとも違和感を持っていますのは、龍馬と海軍の関係です。
 海軍の話をしますならば、幕府が長崎で行いましたオランダの海軍伝習をぬきには無理ですのに、龍馬中心でありますばかりに、突然、神戸海軍操練所です。
 この当時、幕府の本格的な軍艦操練所は築地にありました。
 オランダの海軍伝習の途中から、幕府は諸藩をしめだし築地もそうでしたので、勝海舟が神戸に、諸藩士入門可の神戸海軍操練所を作ったわけなのですが、築地のそれにくらべれば、あきらかに劣ったものですし、どれほどの有益な伝習が行われたかは、疑問です。
 あるいは勝海舟は、薩摩藩懐柔のために、薩摩と連携して神戸海軍操練所を作ったのではないか、と、私は憶測していまして、少なくとも、ここに多数の薩摩藩士が入塾していましたことは、事実です。

 また、体系的に、ちゃんと調べているわけではないのですけれども、薩摩藩がグラバーなど、長崎のスコットランド商人の協力を得て、海軍の実地訓練を重視していたことはあきらか、でして、「薩摩スチューデント、路傍に死す」に出てきますが、亀山社中の陸奥宗光は、薩摩の世話でイギリスの船に乗り、帆船の使用を学んでいたのですし、「美少年は龍馬の弟子ならずフルベッキの弟子」の前田正名の兄は、文久3年の段階で、蒸気船の釜焚として、薩摩藩の交易に従事していたんです。
 亀山社中、海援隊は、船壊しの名人としかいいようがなく、海軍への取り組みは、龍馬が主体ではなく、薩摩藩が主体です。
 それをまるで、龍馬が主体であるかのように書かれたのでは、「竜馬がゆく」の拡大再生産にすぎなくなってしまいます。

 それに関連もしてくるのですけれども、イギリスが手放しで薩長を応援した、ような書き方も、ちょっと違和感があるんですが、これに関しましては、「アーネスト・サトウ vol1」の冒頭にまとめておりますので、省きます。

 磯田道史氏の龍馬暗殺ミステリーそのものの解明は、大筋として、妥当なものです。
 あー、余計なことかもしれませんが、「人斬り半次郎」という言葉は、戦後に作られたものです(「続・中村半次郎人斬り伝説」参照)。
 そういえば、うちの母は最近、題名が恰好いいからと、池波正太郎氏の「人斬り半次郎 」を買ってまいりましたが、大昔から、私がもってるってば、もう!!!(笑)

 といいますか、戦前、桐野の赤松小三郎暗殺をそこそこ正確に述べていました有馬藤太の「維新史の片鱗」は、桐野と龍馬は薩長同盟以来の長いつきあいだったことを証言していますし、「中井桜洲と桐野利秋」で書いておりますが、中井は桐野と個人的に親しく、この当時海援隊に属して、「桐野利秋と龍馬暗殺 前編」にありますように、大政奉還の建白書に手を入れました(慶応3年6月24日「薩の脱生田中幸助来会、建白書を修正す」佐々木高行日記)。

 龍馬の功績、といいますならば、中岡慎太郎たち、多くの土佐脱藩士が長州の懐にとびこみましたのに対し、海軍を通じて薩摩の懐にとびこみ、両側から薩長を結びあわせ、そしてなにより、自藩土佐を倒幕勢力にひきずりこんだ、ことでしょう。
 その要に、中井桜洲はいたといってよく、これは磯田道史氏もはっきりと書かれていますが、龍馬と海援隊は、あきらかに土佐を倒幕にひきずりこむ側に属しているんです。

 で、もう一つだけ、磯田氏の述べられていますことへの疑問。
 磯田氏は、薩摩黒幕説が蔓延します理由について、「薩摩藩は、他者観をもたれていた」ということを、一番にあげられています。
 薩摩黒幕説は、戦前に蜷川新氏の著述があったにしましても、けっして、主流であったわけではありません。冒頭で述べていますように、戦後も、ごく最近になってからのブームです。
 それを、幕末京都におきます薩摩藩の人気のなさから語りはじめますのは、ちょっとおかしなことだと思います。

 磯田氏は、禁門の変におきます京都の長州人気、薩摩・会津の人気のなさから、「他者観」を持ち出されるわけなんですけれども、そういう理屈でいきますと、江戸におきます西南戦争時の西郷隆盛大人気の理由が、さっぱりわからなくなります。
 禁門の変当時の京都におきます、長州人気、薩摩不人気の理由は、はっきりしています。高々と尊王攘夷!をかかげました長州を、8.18クーデターで追い落としたことが、まだ尾を引いていたんです。

 外国との交易は、物価をつり上げましたし、シルクが主要交易品となり、海外へ流出していましたことで、絹織物が盛んでした京都の産業は、壊滅状態です。京都庶民の正義は、攘夷!にこそ、ありました。
 「モンブラン伯と「海軍」をめぐる欧州の暗闘vol3」に詳しく書いておりますが、外国と交易している、という理由で、長州藩が長崎丸、加徳丸という、薩摩藩が運用しておりました商船を攻撃し、しかも、「外国と交易している薩摩の方が悪い!!!」と、京都で自藩者を無理やり切腹させ、薩摩商人の首をさらすという理不尽な宣伝を行ったわけなのですが、京都庶民がそれを受け入れたのは、薩摩が他者だったからではなく、京都庶民も海外交易を憎んでいたからです。

 で、龍馬暗殺当時なのですが、薩摩は舵をきり、その人気の長州と手を結ぶ方向へ向かっていたのですから、京都庶民の気分から、薩摩黒幕説が誕生するわけはありません。
 鳥羽伏見直後の薩摩の不人気は、やはりなんといいましても、これまた、あまりにもあからさまな攘夷否定です。直後、京都の薩摩藩邸に政治顧問としてモンブラン伯爵を迎えていましたことを知ったときには、私でさえも、目が点になりました。
 確かに「薩摩藩は、なにをするやらわからない」ということは事実ですし、その現実主義が、しばしば薩摩藩のしていることを、他者にとってわかり辛くしていたことも事実ですから、磯田氏の薩摩藩解説が、まちがっているわけではないんですけれども。

 薩摩藩黒幕説につながる戦後の状況を、もし、戦前にまでさかのぼって考えますならば、龍馬を世に知らしめました明治16年発表の「汗血千里駒」が、土佐自由党の坂崎紫瀾によって書かれ、その土佐自由党弾圧の最前線にありましたのが、薩摩閥の三島通庸、だったことです。
 いえ……、それ以前に、土佐自由党結成のきっかけは、明治6年政変にあり、政変によって薩長藩閥政治を確かなものにしましたのは、大久保利通ですから、政府中枢にいます薩摩閥は、誕生当初から土佐自由党にとっては敵でして、しかし、自由党の一部が西南戦争に加担しようとしましたように、かつての薩摩藩そのものが敵だったわけではないんですけれども、戦後それが、奇妙な方向にねじまがったイメージとなった可能性はあるのではないか、と、私は憶測しています。

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いろは丸と大洲と龍馬 下

2010年11月02日 | 幕末土佐
 いろは丸と大洲と龍馬 上の続きです。

 前回ご紹介しました諸史料を踏まえまして、「いろは丸終始顛末」を読み返しますと、かなり話が見えてまいります。
 こういうことでは、なかったでしょうか。

 慶応2年の7月、新式銃購入のため、長崎へ行った国島六左衛門と井上将策は、以前から藩内で、武田敬孝を中心に主張されていました蒸気船購入に、意欲を持っていました。問題は代金なのですが、往路で幕長戦争を目の当たりにし、ぜひともこの機会に蒸気船も、とあたってみると、薩摩藩の五代友厚が、耳よりな話を持ってきました。
 元薩摩藩の船で、現在ロウレイロ名義になり、アデリアン商会もからんでいるアビソ号ならば、オランダ領事のボードウィンが、全額融資をしてくれる、というのです。

 「いろは丸」は、もともとは薩摩藩が所有していた安行丸です。安行丸については、海軍省発行の「海軍歴史」(近代デジにあります)に載っていますが、それによれば、以下です。

 原名    サーラ(Sarah)
 舟形    蒸気内車
 船質    鉄
 幅長    長卅(30)間 巾3間
 馬力    45
 頓数    160
 製造国名  英 
 造年    1862(文久2年)
 造地    ギリーノック(スコットランド クライド湾 グリーノックGreenock造船所)
 受取年月  同年9月3日
 受取地名  長崎
 償     75000弗(ドル)
 原主    エアルテルバイ組合
       慶応元年丑年11月賞於和蘭ボウドウィン


 ちなみに同書には、大洲藩の所有船として、伊呂波(いろは)丸も載っているのですが、当然のことながら、ちがっているのは受け取り年月日以下、のみです。

 受取年月  慶応2年寅年(1862)
 受取地名  長崎
 償     70000弗(ドル)
 原主    和蘭ボードウィン
       慶応3卯年5月於中国内海與明光丸相○沈没


 一方、長崎運上所への届けには、「薩摩藩は慶応2年(1866)正月5日、ポルトガル領事ロウレイロに安行丸を売却した」旨、あるそうです。
 「慶応元年丑年11月賞於和蘭ボウドウィン」といいますことは、あるいはこのとき、ボードウィンが薩摩藩の借金の形に押さえたのかもしれません。
 船名につきましては、サーラの船名が安行丸に変わり、おそらくはロウレイロの名義になりました時点で、アビソ号となったわけです。
 
 えー、「モンブラン伯は維新回天のガンダルフだった!? 番外編」をご覧ください。
 「オランダとの取り引きは米中心であったとされていまして、これが米を運搬して有利な相場で売り払う、投機的なものであったとは、目から鱗、でした。
 なるほど。それで、オランダ商人(アルフォンス・ボードウィン)との取り引きのみはうまくいき、結局、押し詰まった時点での薩摩への出資者は、オランダのみになったわけなのですね」

 と書いておりますが、あるいは安行丸は、ボードウィンが一度押さえて、イギリス系商社に所有が移ったのかもしれませんし、薩摩との取り引きが上手くいっていたボードウィンは、薩摩藩の保証さえあれば金を貸した、ということなのではないしょうか。
 これを証明するには、玉里史料でもあさってみるといいのかもしれませんが、いや、そこまでする気はないのですけれども。

 また、契約書の立会人になっていますアデリアン商会はいったいなになのか、という問題もあります。アデリアン商会はベルギー系ともいわれ、だとすればモンブランもからんでいたりするのでしょうか。大洲藩が買った時点での、安行丸=アビソ号の実の船主は、結局、わけがわかりません。岡美穂子氏が論文を書かれるそうでして、楽しみなんですが、どこに発表されるのでしょう。読めなかったりしたら、とても残念なんですが。

 ともかく、です。
 海千山千の五代友厚の話に、国島と井上は飛びついたわけですね。
 いや、大洲藩が長州よりだとはわかっていることですし、五代にしてみれば味方にしておきたい小藩へのサービスかもしれませんし、薩摩藩の保証で蒸気船が買えるのは、小藩にとって、ありがたいことだったのかもしれないんですけれども。

 しかし、借りた金は返さなければならないんですし、大金の支出を、藩庁が認めるかどうかが、問題です。
 そこで思いついたのが、藩主・加藤泰秋への直訴、ではなかったでしょうか。

 泰秋は、弘化3年(1846)生まれ。このとき21歳という若い藩主です。元治元年(1867)、国許で藩主の兄が急逝し、江戸へ出て幕府に家督相続を認められますが、慶応2年の9月まで、お国入りが許されなかったのです。
 「大洲市誌」によれば、同年6月の武田敬孝の建白書には、まっさきに「一刻も早く藩主の帰国を願うべきこと」とあったそうです。

 広瀬常と森有礼 美女ありき10で書いたのですが、函館にいた武田斐三郎は、元治元年(1864)4月、江戸出張を命じられ、7月23日付けで開成所教授、次いで大砲製造頭取になり、江戸にいたんです。
 敬孝は、若い藩主の師であったようですし、大洲藩のために、洋式兵術の取り組みにおいて最先端にいる弟を、頼りにしないということがあるでしょうか。兄の頼みで、斐三郎が若い藩主の元を訪れ、新式兵器や蒸気船の必要性を訴えた可能性は、十分にあると思います。
 とすれば、泰秋は蒸気船購入に大乗り気だったかもしれませんし、加藤家関係者の手で編纂されたと思われる「大洲藩史料」が、いろは丸購入を「庁議を経たもの」であった、としたのは、あるいは、泰秋にとってはそうだったから、なのかもしれません。

 国島と井上は、ロウレイロと契約をかわし、ボードウィンから借りて、4万メキシコドル全額を払い、いろは丸と名付けましたが、ボードウィンと大洲藩の契約は、正式なものになっていなかったのでしょう。
 9月、いろは丸は薩摩藩の船印をかかげ、亀山社中の手を借りて、ちょうど泰秋の初のお国入りにあわせて、長浜港に回航されます。このときのいろは丸の船籍は、薩摩藩です。
 「いろは丸終始顛末」によりますと、「御召艦を曳き、運転の自在と速力とを親しく君侯の御覧に入れると云ふ計画てあった」ということなのですが、従来の和船の曳き船の舟子が失望する、というので、それは取りやめになったそうです。藩主のお召艦を曳くというのは、名誉なことだったんでしょうね。

 ともかく、です。泰秋の鶴の一声で、藩内の反対の声は抑えられ、ボードウィンとの借金契約も事後承諾され、家老たちも購入契約書に判を押さざるをえなかったのではないかと、私は思います。
 慶応3年末のことになりますが、西宮警備を受け持っていました大洲藩は、薩長芸出兵計画に同調し、まだ公式には復権していませんで(討幕の密勅は出ていますので、秘密裏には復権していますが)、朝敵のままの長州藩兵の西宮上陸に、全面的に協力しました。いくら長州と親密だったとはいえ、小藩にとって、これは大胆な賭けでしたが、藩主・泰秋の決断であった、といわれます。

 ただ、最初の頭金が、全額そろわなかったのではないでしょうか。
 いろは丸の代金と大洲藩の借金額につきましては、下の本に収録されました織田毅氏の「再考・いろは丸事件 ー賠償金はなぜ減額されたのか」が、紀州藩の史料を駆使して、詳しく述べてくれています。

共同研究・坂本龍馬
クリエーター情報なし
新人物往来社


 いろは丸の代金は、契約書とぴったり一致しまして、40000メキシコドル、邦貨にして31000両です。
 豊川渉の「いろは丸終始顛末」が「価約三万円で買受の契約が成立した」といっていますのは、この船のもともとの価を邦貨で述べたものなのでしょう。

 しかし、ボードウィンからの借金には、一割の利子がつきます。最初の頭金を含めて4回払いで、総額46600メキシコドル、邦貨にして36115両になります。
 「大井上家系譜」の「価メキシコドルテル銀四万五千枚」は、この借金総額、おおよそのところをメキシコドルで述べていると思われます。
 問題は、「大洲藩史料」です。「代金四万貳千両五度の拂込約定にて購求するを得たり」ということは、「邦貨42000両を5度にわけて払い込み」ということになるのですけれども、この謎をとく鍵も、織田論文にありました。
 
 一航海のみの約束で海援隊に貸し出されましたいろは丸は、慶応3年(1867)4月23日、紀州藩船・明光丸とぶつかって、沈みます。それにいたしましても海援隊は、船をおしゃかにする名人ですね。
 倍書金問題が持ち上がり、最終的には五代友厚が担ぎ出されるのですけれども、ボードウィンと大洲藩との借金契約をよく知ります五代が、書面上の借金総額につけくわえまして、大洲藩が支払った金額を、次のように述べているんです。

 このときまでに大洲藩がボードウィンに支払っておりました金額は、初回、慶応2年払い込みの6200両(80000メキシコドル)のみです。
 これに、10ヶ月分の利子一割、510両1歩3朱が上乗せされていた、というんですね。
 といいますことは、慶応2年中に、大洲藩は初回金を払いこめなかったことになります。
 いつ払ったのかはわかりませんが、海援隊に一航海500両でいろは丸を貸し出したことについても、この利子上乗せ分の500両をかせぐためだったのではないか、と思えます。

 五代はさらに、「金5250両 船買入につき通弁その外謝礼ならび道具代とも」としておりまして、これは借金契約に含まれませんから、初回、ロウレイロとの購入契約時に邦貨で払ったものと受け取れます。
 ボードウィンへの借金総額邦貨36115両に、初回支払い遅れで生じました余分の利子邦貨510両、借金とは別に、最初に払い込みました邦貨5250両をあわせますと、41875両となり、「大洲藩史料」が「邦貨42000両を5度にわけて払い込み」としていることの意味がわかります。
 大洲市立博物館学芸員の山田さま、ヒントをありがとうございました。

 「いろは丸終始顛末」によれば、慶応2年9月、丸に十字の薩摩藩の船印をつけ、亀山社中の手で長浜に回航されたいろは丸は、ちょうど初のお国入りで長浜に入港しました藩主・泰秋のお目にかけたのち、同月、再び慌ただしく長崎へ向かいました。最初の諸経費、5250両には、この往復航海の亀山社中への支払いも、含まれていたんでしょうね。

 そして11月、大洲藩の船印・赤字に白の蛇の目紋をかかげて長浜港に帰ってきましたいろは丸は、同月14日、新たな乗組員のもと、晒蝋、木附子(黒の染料)、松板といった大洲の産物を積んで、19日に出港します。豊川渉とその父が乗り組みましたのも、このときです。
 船の運用方に橋本久太夫、俗事方下役に和泉屋金兵衛、機関方に山本謙吉、柴田八兵衛と、亀山社中から4名を借り受け、協力を得ていましたが、船将、士官ほか、乗組員の多くは大洲藩士ですし、運用方、機関方には見習いを入れて、あきらかに、大洲藩の人員のみでの運用をめざしていました。もう少し後の話になりますが、長浜出身で、幕府軍艦に測量方として乗り組んでいた大塚明之助が呼び返され、乗り組んだりもしています。

 しかし、このとき、購入責任者である国島六左衛門は長崎に留まったままでした。
 借金の初回払い込み、邦貨6200両が用意がおぼつかなかった故ではないか、と推測されます。
 晒蝋、木附子など、大洲から運んでくる産物を、売り込んでその足しにする手配なども、あったんでしょうね。
 
 いろは丸が長崎へ着いたのは、22日の朝です。このとき長州は、下関を封鎖し、長州に敵対する松山藩の船などは通しませんでしたが、大洲藩は味方ですので、支障なく通ったそうです。
 いろは丸は、積み荷を陸揚げし、石炭を積み込み、いつでも出航できる状態となりましたが、なかなか、出航の日取りが決まらず、長崎に停泊したままでした。
 そして12月25日、ようやく出航がきまるのですが、その朝になって、国島六左衛門が突然、割腹自殺します。
 遺書はなかったそうなのですが、その理由を、豊川渉の「いろは丸終始顛末」は、次のように記しています。

 「国島氏の自裁に就ては遺言もなく、誰も知る者はなかったが、既に一ヶ月余りも徒しく碇泊したるも、実は金融上から出船の運ひにならず、幾回も出船の延引を重ねた末、年末の廿五日と発表にはなったものの、氏か数百円の責任を負うて居られたとのことである」

 これではっきりするのですが、大洲藩は、慶応2年中に払い込むはずの6200両を用意できず、国島がボードウィンと交渉を重ねた結果、10ヶ月分の利子一割、510両1歩3朱を上乗せすることで、決着がついた、ということでしょう。その上のせされた510両1歩3朱の責任をとって、国島は割腹したというのです。なんとも……、悲しい話ですね。

 大洲藩の金策の苦労を示すと思われる事実が、もう一つ、桜井論文に載せられています。
 大洲藩江戸留守居役・友松弘蔵は、12月16日付けで幕府に、「大洲藩領の町人・対馬屋定兵衛が、ボードウィンからいろは丸を買いました。大洲藩士がこの船に乗り込み、運用しています。九州。四国、中国はもちろん、ご当地(江戸)、奥州、松前、箱館辺へも航行する予定でして、風や潮の状況によりまして、どこの港へ入港することになるかわかりません。外国船とまちがわれては困りますので、日の丸はもちろん、大洲藩の船印をもちいたいと思いますので、その筋筋へお達し願えたら幸いです」と、届け出ているんです。
 頭金が間に合わず、大洲船籍にすることができないでいるいろは丸を、大洲藩の船として運用するための、苦肉の策だったんでしょう。
 文中、「奥州、松前、箱館辺」とありますことは、将来のいろは丸運用に、武田斐三郎が噛んでいるものと推測できますし、この異例の届け出も、幕臣である斐三郎の知恵と斡旋があったものと、考えていいのではないでしょうか。

 国島の自害は秘密にされていたのですが、どこから聞いたのか(おそらく井上将策が知らせたんでしょう)、五代友厚と坂本龍馬が訪れてきます。「いろは丸終始顛末」において、これが初めての龍馬の登場なのですが、実に印象的なのです。以下、引用です。
 「坂本氏は、国島氏の死体を検し、胸下の刀痕を己が指頭を以て探りなどして、武士たるものが己の所存が成立ねば死するの外はない。嗚呼、一知己を失ったと、嘆息して辞し去った」

 たったの510両1歩3朱です。しかし、小藩にとりましては、それさえ重荷だったのでしょうし、自分の責任でかならず大洲藩籍の船にしてみせる、という責任感を持って交渉に臨みました国島は、快く購入を認めてくれた藩主泰秋の手前もあり、交渉失敗の責任を思いつめたのでしょう。あるいは、なんですが、大洲藩の支払い能力を疑ったボードウィンが、いろは丸に大洲藩の旗印をかかげることさえ、拒否したかもしれませんし。
 もし、そうだったとすれば、国島の死によって、改めて五代が介入し、薩摩が保証するから大洲藩の旗印を、と、ボードウィンを説得したのでしょう。
 そして……、その薩摩藩のわずかな援助だけで、確実な後ろ楯なく、亀山社中を成り立たせようと苦労してきました龍馬にとっては、同じ交易商社の夢を追って活動しようとしている、わずか六万石の小藩の悲哀が、身に染みたのでしょう。

 とすれば、慶応3年の4月、亀山社中が海援隊となり、土佐という大藩の確かな後ろ楯を得ましたとき、最初に、いろは丸を借りたいと申し出ましたのは、国島六左衛門への哀悼の意を、形にしてあらわしたかったから、ではなかったでしょうか。
 一航海の借り賃500両は、ほぼ、国島がそのために死んだ利子の額にあたります。そしてそれは、なにがありましても、土佐藩から大洲藩に支払われることが確実なのです。
 結果的に、いろは丸は沈み、龍馬の好意は裏目に出た、ともいえるのですが、なにもそれは龍馬のせいではないわけですし、おそらく龍馬は、国島の悲願に思いを馳せながら、大藩である紀州との賠償交渉にのぞんだのだと、そう思えます。

 大洲藩は、長州藩と緊密な関係にあったことはすでに延べましたが、土佐藩ともそうでした。
 新藩主・泰秋の正妻・福子は、徳大寺公純の娘でしたが、山内豊資の養女になって嫁いでいたんです。
 武田敬孝は、いく度も、使者となって土佐へ赴いていて、慶応3年10月にも副使となって、正使・大橋采女とともに訪れていたのですが、4日に須崎に宿泊しましたところ、隣の宿に龍馬がいると知り、翌5日、会談しました。
 いろは丸と国島の話が、出たでしょうね。
 そのわずか40日後、龍馬は刺客に襲われ、維新を見ることなく世を去ります。

 私、書きながら考えるものでして、この結末を、最初から想定していたわけではないのです。
 事実は小説より奇なり。
 坂本龍馬は、とても情が深く、義理堅い人柄だったんですね。
 これまで、「流離譚」で安岡章太郎氏が描かれました龍馬が、一番好きだったのですが、今回、自分で書いていて、惚れました。

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いろは丸と大洲と龍馬 上

2010年11月01日 | 幕末土佐
 例によって、長くなりすぎましたので、上下編に分けていましたところ、ミスってしまって上が全部消えてしまいました。
 書き直しです。ふう。

 広瀬常と森有礼 美女ありき10で、大洲藩の幕末を調べておりますうちに、いろは丸購入のきっかけになりました建白を、武田成章(斐三郎)の兄、亀五郎敬孝が出しているのだと知り、ちょっと調べてみたくなりました。

 いろは丸って、海援隊が借りていて紀州藩の船にぶつかって沈み、賠償金問題で龍馬が活躍しました大洲藩の船です。
 大昔に、いろは丸の謎、みたいな本は読んだことがあったのですが、内容をほとんど忘れてしまい、それほど関心をもっていなかった私の頭の中には、「いろは丸は海援隊が運用していた大洲藩の船」というイメージが強固にありました。
 ところが、ちょっと資料や論文を読んでみますと、ちがうんですね。
 結論からいいますと、「いろは丸は大洲藩が運用していて、一航海だけ海援隊に貸し出した大洲藩の船」なんです。

 実は、NHK大河の「龍馬伝」、ほとんど見てないんです。初回、食事をとりながらBSハイビジョンの放送をちらちらっと眺めたんですけど、映像がこう、なんというのでしょうか、古い言い方かもしれませんが「ニューシネマ」っぽいのに、上士と郷士の対立が、お涙ちょうだいの母芸で終始してしまっている風で、「気持ち悪いなあ。この映像でやるなら、史実そのまま井口村事件をやるべき!!! ふんどし旗をおしたてた郷士の奮闘が似合う撮り方なのになあ」と、ぼんやり眺めていただけで、続きを見る気が失せました。(井口村事件につきましては古い記事ですが「大河ドラマと土佐勤王党」をご参照ください)

 したがって、いろは丸事件がどう描かれたかも知らないのですが、まあ、TVなどのフィクションで坂本龍馬を描くにあたって、焦点は賠償金交渉でしょうから、いろは丸の購入経緯なんぞというのは、一般にはどーでもいいこととして扱われているのでしょうけれども、「これって絶対、司馬さんの影響だよねえ」と思い、下の本を読み返してみましたら、やっぱりそうでした。

竜馬がゆく〈7〉 (文春文庫)
司馬 遼太郎
文藝春秋


 以下、引用です。
 「どうであろう、大洲藩はいっそ蒸気船を一隻買わんかい」
 と、竜馬はもちかけた。国島はおどろいて、
「無茶をいわしゃるな。大洲は山国ぞなア、それに蒸気船を買うても運転する者がありゃせんがの」
「運転はわしらでやってやる気に」
 と、竜馬は熱心にすすめた。
 国島はだんだんその気になってきた。


 いや、そのー、まず、大洲は山国じゃありませんから!!!
 えー、それに、国島六左衛門は郡中奉行ですし!!!

 さすが司馬さんです。
 これが、ですね。虚実とりまぜで、いくら愛媛県人とはいえ、普通は大洲藩領がどこからどこまでだったかなんて知りませんから、すっと無理なく頭の中に入ってしまうんですね。だって、大洲城は内陸の盆地にありますから。
 しかし、大洲城のある中心地には、肱川というかなり大きな川が瀬戸内海に向かって流れていまして、河口に長浜港という港があり、参勤交代は船ですし、お船手組だってちゃんといます。
 しかも大洲藩領は海岸線が長く、19世紀のはじめ、瀬戸内海に面した郡中(現在の伊予市)に、大洲藩は苦労して萬安港(現在の郡中港)を築き、国島六左衛門が奉行を務めていましたこの郡中は、商人が集住する港湾都市になっていたんです。

 いろは丸事件の基本文献のひとつが、豊川渉の「いろは丸終始顛末」(あるいは「いろは丸航海日記」)です。
 豊川渉は、長浜の廻船問屋・豊川覚十郎の息子でして、いろは丸が大洲藩のものになってから、国島に頼まれ、父の覚十郎は俗事方、渉は機関見習いとなって、乗り組んだんです。その間、日記をつけていまして、それをもとに後年まとめましたのが、「いろは丸終始顛末」です。日記の原本は、現在失われているそうです。
 司馬氏も、これを下敷きになさったと思われるのですが、実はこれにさえ、「いろは丸を大洲藩に斡旋したのは坂本竜馬」とは、書かれていません。では誰だったかといえば、「薩摩藩の五代友厚」です。
 以下、「いろは丸終始顛末」から、引用です。(カタカナをひらがなにし、句読点をおぎなうなど、正確ではありませんので悪しからず)

 慶応二年六七月頃、国島六左衛門氏に井上将策氏が随従して、軍用小銃購入として、長崎に出張になった。国島氏は豫て某々二三の同志と謀議があったものと見えて、薩洲士五代才助の周旋て、長崎出島に商館を構へていた「ボードイン」と云ふ阿蘭陀人の所有蒸気船、長さ百八十尺、約四百五十頓。六十五馬力、大洋中航海には帆を用ふるか故に三本檣の鉄船を船価約三万円で買受の契約が成立した。

 いろは丸購入の経緯につきましては、昭和50年、桜井久次郎氏が「伊予史談」に『いろは丸と洪福丸 大洲藩商易活動の挫折』という論文を発表されており、またそれを踏まえた上で、平成16年、澄田恭一氏が『大洲藩「いろは丸」異聞~「大洲藩史料」からの考察~』(温故 復刊第二六号)を発表され、それぞれに「いろは丸終始顛末」以外の史料が紹介されております。
 まずは澄田論文から、斡旋者について、ですが。

 大洲藩史料
「国島六左衛門、大井上将策、井上勤吾、右の彦兵衛に伴ひ長崎に至り、薩人五代才助に依て蘭人アデリアンに示談を遂け、代金四万貳千両五度の拂込約定にて購求するを得たり」

 大井上家系譜
「船号イロハ丸と称す。原和蘭国にてアビワと号。千八百六十二年打立、六十八馬力、百五十八馬力の功、長さ二百尺、幅二十九尺 深さ二十尺 一字九里行 石炭一日十トン 積高三百五十トン 和蘭国アデリアン所持 薩摩五代才助 和蘭コンシュール官ボードイエン周旋によりて約定す。価メキシコドルテル銀四万五千枚」

 「大洲藩史料」は、加藤家が所持していたものですが、大洲市立博物館の学芸員の方のお話では、原本は戦災で失われているのだそうです。写本がありますが、だれが、いつ編纂したものかは、不明です。
 国島六左衛門とともに、長崎へ蒸気船を買いに行きました井上将策は、維新後、苗字を大井上と改めました。したがいまして、これも後世の編纂資料ですが、「大井上家系譜」には、イロハ丸についての記述があります。

 双方とも、船の元の持ち主が、ボードウィンではなく、アデリアンになっているのですが、斡旋人が五代で、「大井上家系譜」の方は、五代と共に、ここでボードウィンが出てきます。

 斡旋者が龍馬ではなく五代であったことは、もともと豊川渉の「いろは丸終始顛末」がそうでして、わかっていただけたと思うのですが、蒸気船の元の所有者については、定説は豊川渉の記述に基づき、ボードウィンとされていました。澄田論文は大洲で発表されたものでして、一般には知られていません。
 ところがこの春、大洲市によって、いろは丸の契約書が見つかった旨発表され、定説が覆ったんですね。

 契約書はポルトガル語で、その翻訳を東京大学史料編纂所の岡美穂子氏に依頼していたため、発見から発表まで時間がかかったそうなのですが、現在、岡美穂子氏は「南蛮の華」という研究ブログを立ち上げておられまして、「いろは丸の契約証文」を拝見しますと、契約書のだいたいの内容がわかります。

 船の持ち主は、マカオ出身のロウレイロ。新聞報道などではポルトガル人とされていましたが、ロウレイロはマカオ商人で、イギリス系のデント商会に傭われ、来日していたんだそうです。立会人として、アデリアン商会のメンバーが名を連ねているそうです。「大洲藩史料」「大井上家系譜」が、ともに「アデリアン」の名をあげていますことも、故のない話ではないようです。
 岡氏は、「ボードウィンは大洲藩に金を貸していたのではないか」と推測されていますが、「大井上家系譜」が、周旋人として五代とともにボードウィンの名をあげていますことは、そう考えればうなずけます。

 他にはっきりしたことといえば、船の値段が4万メキシコドルだったことと、契約の日付が1866年9月22日、これは慶応2年8月14日で、つまり、国島六左衛門と井上将策が最初に長崎に出かけましたときに、すでに契約は済み、全額払い込まれて、船名はいろは丸に決まっていた、ということです。
 船の値段については、後で考察します。
 なにより、定説に波紋を投げましたのが、慶応2年8月14日に、すでに契約が済んでいたことでしょう。
 「定説」といいますのは、「いろは丸終始顛末」の以下の記述なんです。

 「(購入したことが)大洲藩の庁議を経たものではないからして、大洲藩船の名義にすることか不可能である」

 定説では、です。「新銃を買いに行ったのに、庁議を経たものではない蒸気船を買ってしまった」ということでして、国島六左衛門の切腹に結びつけ、そこに印象的に坂本龍馬が登場するものですから、往々にして、なにやら、いろは丸の運用自体を亀山社中、引き続いて海援隊が行っていたかのような話になっていたんです。
 それは、ちがうんです!!!
 とはいえ、「庁議を経たもの」であったかどうかは、微妙です。
 
 実は契約書には、時の大洲藩主・加藤泰秋と家老三名の名前と印鑑もそえられています。
 ただこれ、署名というには、全部が同じ筆跡でして、署名とはいい難いんですが、印鑑はそれぞれに押されています。
 果たして、いろは丸の購入は「庁議を経たもの」だったのでしょうか。

 「大洲藩史料」は、蒸気船の必要性は藩で討議され、「参政の輩協議を為し遂に汽船購求の議決に至り」としていまして、あきらかに「庁議を経たもの」だったことになっています。
 一方、「大井上家系譜」は、「いろは丸終始顛末」と同じく、舶来の銃を買うために長崎へ派遣されたが、おりしも長州と幕府が戦争をしている最中で、それを見て必要性を感じ、「私に謀て蒸気船を買込」、買った銃を載せて帰った、としていまして、こちらは「庁議を経たもの」ではなかった、ということなんです。

 そもそも大洲藩には、蒸気船購入の建白が、早くからあったんです。武田斐三郎の兄、敬孝のものです。
 武田敬孝は、下級藩士でしたが、藩校明倫堂教授、藩主の侍購となり、取り立てられて、周旋方を勤めました。弟子も多く、長崎でいろは丸を買った井上将策も、その一人です。

 桜井論文によれば、敬孝は文久3年(1863)、京で周旋方を勤めているときに、農兵取興しを建白して採用されますが、その建白書の中に「蒸気船大砲等速に新製可相成と奉存候」とあるんだそうです。
 以降も、機会ある事に兵器の新調を進言し続け、慶応2年(1866)6月にも、新銃の購入を建白。しかし新銃購入は、敬孝が幕長戦争(第二次長州征討のことですが、大洲藩は藩主の姉が長府毛利氏に嫁いでいることもあって、あきらかに長州よりですので、この表現にします)の芸州口探索に出向いています間に、門弟の森井千代之進と井上将策が建白し、入れられていました。それを知って大喜びした敬孝は、再建白書の中で、「森井井上二生○建言仕候鉄砲購求之義御採用相成候段奉歓喜候」と、書いています。
 
 一方、澄田論文に引用の「大洲藩史料」から、いろは丸購入にいたる経緯を、以下に要約します。
「元治元年(1864)に禁門の変が起こったとき、大洲藩では宮廷警護のために、急遽兵を上京させようとしたが、讃岐の多度津まで行ったところで、情勢を報告するため国許へ帰る京詰周旋方某に出会い、すでに騒動は終結したので上京の必要がなくなったことを知り、引き返した。その後、和船では緊急時に間に合わず、勤王において他藩に遅れをとるから、ぜひ蒸気船が欲しい、という話になった。平常には、藩産品を運び出したり、京大阪へ瀬戸内海を行き来する旅客を乗せたり、他藩の物産を運んで儲ければよいのだから、早く買おうという議論が起こった」

 「大洲藩史料」は、その議論を藩庁も考慮し、「参政の輩協議を為し遂に汽船購求の議決に至り」、いろは丸購入になった、としているのですが、その議論の中心になっていたのは、あきらかに武田敬孝です。
 なにしろ、敬孝の弟・斐三郎は、洋式兵術の専門家として幕府に取り立てられ、函館で、砲術、航海術を教えていたんです。
 さらにいえば、函館時代の斐三郎は、文久元年(1861)、船長となって、ロシア領のニコラエフスクまで交易に出かけているんですね(長州の山尾庸三がこれに加わっていたといわれます)。
 敬孝は弟と手紙のやりとりをしているのですし、弟の経験に刺激を受けないはずがありません。

 次回へ続きます。


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グラバーは坂本龍馬の黒幕か?

2007年02月27日 | 幕末土佐
おそらく少々、昨日の白山伯vsグラバー 英仏フリーメーソンのちがい の続きです。

最近、ほとんどテレビを見ません。だから知らなかったのですが、TBS 歴史ミステリー「龍馬の黒幕」 という番組が、去年、放送されたようですね。
で、その元になったのは、この本。

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えーと、実はこの本、読んでいません。テレビも見ないで、本も読まないで、批判するのもいかがなものかと、われながら思うのですが、とりあえず、粗筋を読んでの感想です。

なんでこうも見事に、薩摩藩の存在を、消してしまえるのでしょう。
TBSの見所によれば、です。
「しかし、龍馬の年譜を追ってみると、謎めいた空白の半年に行き当たる。1864年10月~1865年4月」
と、あるのですが、その直前の1864年(元治元年)8月には、龍馬は勝海舟の使者として西郷隆盛に会っていますし、10月21日には、勝海舟が薩摩藩に龍馬たちの身柄保護を依頼しています。
薩摩の家老・小松帯刀から大久保利通宛の書簡に、「浪人体の者を以て航海の手先に使い候えば宜しかるべくと西郷など在京中相談も致し置き候間、大阪屋敷へ内々相潜め置き候」ともあります。
薩摩藩が土佐勤王党をかくまったのは、なにも、これが初めてではありません。英国へ渡った土佐郷士の流離英国へ渡った土佐郷士の流離 2 にありますように、その2年前から吉田東洋を暗殺した高見弥一を薩摩藩はかくまい、1865年(慶応元年)3月には、グラバーの世話で、イギリスへ旅立たせています。
で、そのひと月前の2月12日には、中岡慎太郎が大阪で「海軍生のことを聞」と日記に記していまして、前後の記述から、これは一応、薩摩藩の保護下に入った坂本龍馬を中心としてのことであろう、というのが定説です。

このときの中岡の旅は、同じ土佐脱藩郷士の土方久元といっしょのものでして、土方も日記を残していますが、2月8日には、下関の白石正一郎宅で、井上少輔(長府藩)、原田順次(長州報国隊長)、赤根武人(長州奇兵隊長)、三好内蔵助、吉井幸輔(薩摩藩)、大山彦太郎(薩摩藩)、大庭伝七(白石正一郎の弟)らと、「薩長和解を謀り懇談」しているんです。
中岡慎太郎は、この前年、禁門の変が起こる以前の春から、薩長の連携を模索して、薩摩藩士の中でも長州よりの考え方を持っていた肝付十郎や中村半次郎(桐野利秋)に、会ったりしています。
また、あまり知られていないことですが、長州奇兵隊のスポンサーだった下関の白石正一郎は、薩長の仲が険悪になる以前は、薩摩藩の御用商人でした。数多くの薩摩藩士と、古くから懇意ですし、薩長手切れの後の商売上の損失は、莫大だったはずです。
つまり、薩長連合は別に、グラバーが考え出したものでも、坂本龍馬が思いついたものでも、ないのです。

それで、番組がいうところの1864年(元治元年)10月~1865年(慶応元年)4月までの坂本龍馬消息不明の後、最初に龍馬が文字記録に見えるのは、慶応元年4月5日、京都にいた土方久元の日記です。
土方は、2月8日の白石正一郎宅での会合の後、中岡慎太郎とともに京都に上り、2月12には中岡とともに「海軍生」のことを聞いたわけです。二人は、小松帯刀や西郷吉之助(隆盛)をはじめとした薩摩藩士と、ひんぱんに交流し、そして4月5日、土方は薩摩の吉井幸輔宅で、西郷吉之助、村田新八に会っていて、そこへ、大阪から坂本龍馬がやってくるんです。

この前年からの動きを見ていますと、薩摩にも長州にも、和解連携の必要性を痛感している人々がいて、中岡をはじめ長州に身をよせていた土佐を中心とする脱藩士、筑前や対馬の志士たちも、それを熱望して動いています。
しかし、薩長双方にわだかまりがありますし、わけても薩摩藩にとっては、孝明天皇が長州を嫌われ、長州が朝敵になってしまった以上、島津久光に和解を認めさせることは、なかなか難しいことだったわけです。薩摩藩士が表立て長州よりの動きをするわけにもいかず、そこで、坂本龍馬の登場となったと見て、まちがいはない状況でしょう。
つまり、長州藩の蒸気船および武器調達に、薩摩藩が力を貸すことによって和解連携に至る、という道筋は、4月5日の龍馬登場以前に、出来上がっていたのではないか、ということです。

2月12日には中岡が「海軍生のことを聞く」のみで、龍馬に会ったという記録がないのは、あるいはそのころ龍馬は、長崎にいたのではないか、という推理は、ありえることですし、龍馬が「海軍生」の生かしどころを模索し、薩摩のはからいで、グラバーに弟子入りしていたとも、考えられなくはないのですけれども。

薩摩藩とグラバーの関係については、昨日もご紹介しました杉山 伸也著『明治維新とイギリス商人 トマス・グラバーの生涯』に詳しいのですが、すでに文久2年(1862)、薩摩藩が蒸気船ランスフィールド号をグラバーから購入しようとしたことに、はじまっています。
しかし本格的な両者の接近は、その翌年、薩英戦争の後のことです。元治元年(1864)のはじめころには、南北戦争の影響で綿花の値段が高騰し、グラバーは薩摩藩から、綿花を買い付けることにしています。薩摩藩は、御用商人の浜崎太平次に、大阪で綿花を買い集めさせ、長崎に送ろうとしたのですが、長州の上関で、この薩摩商船加徳丸を長州義勇隊員が襲撃し、薩摩商人を殺害した上で、積み荷も船も焼き捨てた、という事件があったりもしました。
こういう事件も、薩長のこじれを大きくしていたのですが、長州は、下関、上関という瀬戸内海航路の要所を握っていますし、薩摩は、交易の上からも、和親の必要を感じていました。

それはともかく、ちょうどその加徳丸事件のころ、長崎でオランダの海軍伝習を受けたことがあり、上海へ行ったこともある薩摩の五代友厚は、長崎のグラバー邸に滞在していました。
可能性を言うならば、このころ龍馬は、勝海舟の供で長崎を訪れていますから、勝の紹介で、五代に会い、グラバーにも会っている可能性は、高いのです。勝と五代は、オランダの海軍伝習でいっしょだったのですから。ここで、五代がグラバーと提携して手がけようとしていた貿易事業に、龍馬が関心をよせただろうという想像も、十分に成り立ちます。
五代はその後、藩貿易の促進とイギリスへの留学生派遣を藩庁に上申し、翌年の留学生派遣が実現しますし、海外交易についても、グラバーとの提携で、さまざまな試みが実現しています。
しかし、これが、グラバーの策謀であるかといえば、どうなんでしょうか。五代は、イギリス留学生とともに渡欧して、モンブラン伯爵とも商社設立を契約し、いわば、グラバーとモンブランを天秤にかけていますし、どちらがどちらをあやつった、という話ではないように思います。

ともかく、それだけ深くグラバーにかかわっていた薩摩が、です。龍馬が立ち上げた亀山社中に援助金を出しているのですから、龍馬の背後にいたのは、グラバーとともに薩摩藩なのです。薩摩藩が龍馬の後ろ盾にならなければ、グラバーが龍馬個人と取引することは、ありえません。
長州の意向を受けた中岡と土方は、薩摩の小松帯刀や西郷に、おそらくは長州の武器調達の不如意を訴え、小松と西郷は、長州への便宜をはかるため、龍馬の起用を決意し、亀山社中結成を援助した、と見る方が妥当ではないでしょうか。
もちろん、3月12日に、幕府の神戸海軍操練所が廃止され、「海軍生」の行方がせっぱつまった問題となりましたし、それ以前に、長崎で小曾根英四郎の援助をえる目途を得た龍馬と、長州に武器を売ることを望んだグラバーとの連携があって、交易の後ろ楯になってくれないかと、薩摩藩へ提案していたとも考えられなくはありません。
すべて、推測の域になるのですが、どちらにせよ、薩摩藩を中心に事態は動いているのです。

4月26日、坂本龍馬と「海軍生」たちは、薩摩藩の胡蝶丸で長崎へ向かい、さらに龍馬は、胡蝶丸で鹿児島入りしました。
この時点で龍馬は、薩摩藩の後ろ楯を確実なものにすると同時に、小松や西郷の意向を受けて、薩長和解に向け、動き出すこととなったのです。


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坂本龍馬と中岡慎太郎

2007年02月16日 | 幕末土佐
『流離譚』

講談社

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再び、安岡章太郎氏の『流離譚』です。英国へ渡った土佐郷士の流離 で、少しだけ触れました、坂本龍馬と、そして中岡慎太郎のお話。

自由というものは、おそらく寂しいものなんです。藩の束縛から逃れ、自由に才能を発揮し、しかし、規格外れの組織を維持していくには、はったりも必要ですし、力のなさに、侘びしさを噛みしめることも多いでしょう。安岡氏の描く龍馬像は、龍馬が得た自由の代償を描いて、龍馬の息づかいを感じさせてくれるほどに、迫真です。
だからこそ、なぜ龍馬が、最後の最後に、倒幕から遠い位置に軸足を移したのか、その解説も説得力を持つのです。
ちなみに安岡氏は、龍馬暗殺薩摩藩説、後藤象二郎説は、筋が通らないこととされていますし、「大政奉還の建白案なるものは結局、徳川家の温存策」であるという、中岡慎太郎の認識の方を、基本的には、現実に即したものと見られているようです。
徳川家を温存する、ということは、けっして、新しい政体の創造にはつながりません。これまでの龍馬の信念からは遠いはずのその建白案に、なぜ龍馬は肩入れしたのか。望郷の念が‥‥‥、といいますか、なんの後ろ盾もなく、できることの限界を感じた龍馬が、山内容堂との折り合いをつけて土佐藩に尽くすためには、そうするしかなかったのではないかと、安岡氏はおっしゃるのです。
龍馬が死の直前のころに書きつけたのではないか、といわれている「新政府綱領8策」の後書きに、「○○○自ら盟主となり、此を以て朝廷に奉り、始て天下万民に公布云々」とあり、普通、この「○○○」に慶喜公を当てはめる論が多いのですが、三宅雪嶺のみが、これを容堂公としているんだそうです。安岡氏も、「なるほど○○○が慶喜公ならば、別に伏せ字にする必要はなさそうだ」と、この案に引かれる様子を、示しておられます。

一方で、安岡氏は、理論家としての中岡慎太郎を評価しつつ、しかし、陸援隊にどれだけのことができたのか、として、維新後にもし慎太郎が生き残っていたにしても、薩長から重要な役割を与えられることはなかっただろう、としているんです。
それは「たら」話で、私も、あるいはそうであった可能性もあるだろう、とは思うのですが、安岡氏が描く慎太郎像は、はつらつとして、けっして龍馬のようにくたびれてはいないのですね。
後ろ盾もなく苦労したといえば、この人もそうなのですが、慎太郎の場合は、龍馬とちがって、規格外の組織を背負ってその維持に苦労した、というのではなく、個人で動いているんですよね。
地味ながらも、その動きが的確で、理詰めで一人立ちしている。元が庄屋さんですから、末端ながら、行政慣れしているんでしょうか。
しかし、農村に密着しているとなりますと、町育ちの龍馬よりも、望郷の念は強くてもおかしくない気がするのですが、この人の場合、故郷で親族を殺されています。土佐勤王党の弾圧に憤慨して決起し、藩に斬殺された野根山二十三士の中に、親戚がいるんです。
藩の役人として、ですが、その自らの郷党を斬殺した小笠原唯八や、やはり勤王党には敵対的だった板垣退助。容堂側近の上士二人に、しかし慎太郎は恩讐を越えて近づき、その鋭い理論をもってして、なんでしょうか、説得して、自分の側に引き寄せ、倒幕派にしてしまうんですよね。
元が容堂側近の二人であるだけに、これは薩長にとっては、とてもありがたいことです。いざ、というときに、土佐が藩として倒幕派に加わる種は、しっかりと、慎太郎によって蒔かれたわけなのですから。
あるいは、慎太郎が生きていれば、維新後にも、薩長は無視はできなかったのではないでしょうか。いえ慎太郎ならば、結局反政府の側に立って、板垣といっしょに自由民権運動を繰り広げた可能性の方が、高そうな気もしますけど。そうであったとき、もう少し、地に足の着いた反政府運動になりえたのではないかと‥‥‥、これは私の夢想なのですが。
郷里で流された血は、むしろ慎太郎を強くして‥‥‥、つまり、郷里もまた激動の外にはない、帰る場所は自分で作るしかないのだという覚悟、あるいは諦念でしょうか、に慎太郎を至らしめ、流離の憂いから遠ざけたのではなかったでしょうか。

「夫れ攘夷というは皇国の私語にあらず。その止むを得ざるに至っては、宇内各国、皆これを行ふもの也。メリケンは嘗て英の属国なり。ときにイギリス王、利を貪ること日々に多く、米民ますます苦む。因ってワシントンなる者、民の疾苦を訴へ、税利を減ぜん等の類、十数箇条を乞う。英王、許さず。爰においてワシントン、米地十三邦の民をひきい、英人を拒絶し、鎖港攘夷を行う。これより英米、連戦7年、英遂に勝たざるを知り、和を乞い、メリケン爰において英属を免れ独立し、十三地同盟して合衆国と号し、一強国となる。実に今を去ること80年前なり」

翻訳ではない、血肉にくいいる理論を述べうる人だったのにと、早世が惜しまれるのです。


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