郎女迷々日録 幕末東西

薩摩、長州、幕府、新撰組などなど。仏英を主に幕末の欧州にも話は及びます。たまには観劇、映画、読書、旅行の感想も。

シンポジウム「パリ万博と薩摩藩」

2017年09月12日 | 幕末薩摩

 唐突ですが、告知です。

 9月30日(土曜日)、鹿児島市民文化ホールにおきまして、「明治維新150周年記念シンポジウム パリ万博と薩摩藩」が開催されます。
 1967年のパリ万博につきましては、これまで幾度となく書いてきたような気がするのですが、実のところちゃんとは書いていないみたいです。
 プリンス昭武、動乱の京からパリへ。に、初期のころの記事はまとめてあります。
 以降となりますと、アーネスト・サトウと龍馬暗殺に、以下。

 モンブラン伯は維新回天のガンダルフだった!? vol3で詳しく書きましたが、薩摩藩は、モンブラン伯爵にフランスの地理学会で「日本は天皇をいただく諸侯連合で、幕府が諸侯の自由貿易をはばんでいる。諸侯は幕府の独占体制をはばみ、西洋諸国と友好を深めたいと思っている」という発表をさせ、しかもちょうどこの時期にパリで開かれています万博で、琉球王を名目に、独立国然と交易の意欲を示し、おそらくはモンブランの地理学会演説をアーネスト・サトウに提示する形で「英国策」を書かせて、それをまた和訳して、「英国は天皇を頂く諸侯連合政府を認めるだろう」という感触を、ひろめていました。
 

 薩摩ボタンはだれが考えたのか???の、以下。

 SATUMAの名がヨーロッパに知れわたったのは、どうも、慶応3年(1867年)のパリ万博において、つまりモンブラン伯爵がプロデュースして、薩摩琉球国名義で幕府に喧嘩を売ったパリ万博、ですが、朴正官作の白薩摩錦手花瓶を出品して、好評を博してからのようです。 

 以上、断片的にしか触れてないのですが、私がこのブログを継続的に書き始めました最大の動機が、モンブラン伯爵ですから、1967年のパリ万博の様相は、このブログに通底していますテーマの一つです。
 下の動画で、わかりやすく、かつ、かなり正確にまとめてくれていますので、ご覧になってみてください。
 
 
 「パリ万博・鹿児島紡績所操業開始・異人館完成」解説映像


 このときの薩摩藩の外交につきましては、モンブラン伯は維新回天のガンダルフだった!? 番外編をご覧ください。
 
 
日本近世社会と明治維新
高木不二
有志舎


 高木不二氏の「日本近世社会と明治維新」は、大胆な推論をなさっていて、目から鱗、でした。名著と思います。
 簡単には、薩摩武力倒幕勢力とモンブラン伯爵に以下のようにまとめてあります。

 これまで幾度も述べてきましたように、この慶応3年の春、薩摩は岩下方平を「欧州使節並仏国博覧会総督」としてパリに派遣し、モンブランを外交顧問にして、幕府と派手な外交合戦をくりひろげていたんです。高木氏によれば、薩摩は、フランス、ベルギーだけではなく、イギリスとも、琉球国名義で、和親条約を結ぶつもりでいたんです。それには失敗しましたが、ともかく幕府のフランスでの借款はつぶしました。
 幕府全権公使・向山栄五郎外国奉行は、モンブランが作った薩摩琉球国の勲章がフランス要人にばらまかれていましたのを憂い、「薩摩が勝手に条約を結ぶような事態になりかねない」と上申書を日本へ送っていますし、四候会議瓦解直後の京にまで、その話は伝わっていました。慶喜の腹心だった原市之進は、訪ねてきた越前藩士に、薩摩琉球国勲章の図案を示して、「これが薩摩の討幕論の証だ。あまりに憎らしい仕業だ」と言ったというのです。
 

パリ万国博覧会とジャポニスムの誕生
寺本 敬子
思文閣出版


 最近、上の寺本敬子氏の著作が出版されたようでして、さっそく注文したのですが、まだ届いてません。高価ですが、おもしろそうです。

 追記  届きました! シンポジウムで講演されます著者の寺本敬子氏は、フランス近代史、日仏交流史がご専門で、日本史の方ではないようです。それだけに、フランスの史料をしっかり読み込んでおられて、非常に興味深い著述が多く、特に、今現在の私にとりましては、徳川昭武の通訳を務めました、おイネさんの異母弟、アレクサンダー君の動静に詳しいのが、嬉しい限りです。まだ、とばし読んだだけですが、モンブラン家のことも、かなり詳しく、正しく書かれておりました。ただ、幕府とフランス(ロッシュ公使個人)の独占交易と、薩摩藩の政治的思惑につきましては、あまり踏み込んではおられませんので、そこらあたりに物足りなさはありましたが、画期的な研究書、と思います。



 

 

 幕府のパリ万博一行の写真ですが、これ、昔の大河「獅子の時代」で、印象的に再現してくれています。

獅子の時代 第01回「パリ万国博覧会」






 日本の民間業者が開いた茶屋は、大きな評判をよび、ジャポニズムの呼び水となります。
 見出しの写真はナポレオン3世妃・ウジェニー皇后で、篤姫やエリーザベト皇后より、10歳ほど年長です。パリ万博の中枢で咲き誇った、シンデレラでした。
 二人の皇后とクリノリンに書きましたが、ウジェニー皇后がひろめたともいえます巨大なクリノリンのドレスは、しかし、このパリ万博直前に、流行の最先端ではなくなります。普仏戦争前、幕末も押し詰まった日本が最初に参加した万博は、この時代のパリの最大にして最後の華やぎ、でした。

 9月30日のシンポジウムは、申し込み受付9月20日まで。
 無料ですし、まだ少しは空きがあるそうですので、ぜひ。
 同時に黎明館では、企画展・1867年パリ万博150周年記念「薩摩からパリへのおくりもの」が催されます。
 私は、なんとかかんとか都合をつけまして、参加する予定でおります。
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びっくり! 西南戦争とボクサーパトロン

2014年12月14日 | 幕末薩摩

 そのー、私が幕末にのめり込みましたきっかけは、桐野利秋(中村半次郎)です。

翔ぶが如く〈7〉 (文春文庫)
クリエーター情報なし
文藝春秋



 司馬遼太郎氏の「翔ぶが如く」の桐野像に疑問を感じまして、史料を読むようになったわけですから、幕末からの陸海軍史、徴兵制度、銃器につきましては、そこそこ、調べております。
 それで、続 主人公は松陰の妹!◆NHK大河『花燃ゆ』あたりに書いておりますが、私が来年の大河「花燃ゆ」に関心を持ちましたのは、萩の乱におきます玉木家、乃木家への思いが、けっこう大きく影響しています。
 ともに維新の大きな主体となりました長州と薩摩。その地元で起こりました、萩の乱と西南戦争が、どうしてあれほどに規模がちがうのか、ということを説明しますのに、私は、イギリスVSフランス 薩長兵制論争に書いておりますように、「長州の士族はわずか3000戸で、薩摩の43119戸にくらべたら十分の一にも足りない人数」であることと、そしてなにより、「消された歴史」薩摩藩の幕末維新に書いておりますように、「薩摩では藩政時代から、基本的に銃は、藩がまとめて買ったものを個人に買わせるので、私物」ということを、持ち出します。

 士族反乱、といいますか、士族が少なかった地方では庄屋層を多く含んでいますので、知識階級、といった方が近いと思うのですが、その知識階級が明治新政府に反対する反乱は、実のところ、全国各地で起ころうとしておりました。
 半神ではない、人としての天皇をに書いております東北地方の真田太古事件、民富まずんば仁愛また何くにありやに出てまいります越後の大橋一蔵の企て、など、東日本にも火種はありました。
 しかし、やはり主には西日本、それも九州を中心として、多くの事件があったのですが、西南戦争を除きますすべての蜂起が、簡単に潰えてしまいましたのは、銃と銃弾を奪うことに失敗したり、奪えても少量で、全員にいきわたらなかったり、ということも大きかったんです。

 ところが鹿児島では、士族、郷士はみな銃を私有し、銃弾も蓄えていました。
 これは藩政時代からのことでして、「忠義公史料」などを読んでいますと「貧乏な者には藩の仕事を与えて、今回藩が買った新式銃を買えるようにしてやれ」とか、いくつも命令書を見つけることができます。
 なぜかと言いますと、城下士も含めました大多数の薩摩藩士が、開拓農業にはげんでいたからです。
 イノシシや熊、オオカミなど、昔から、農作物や家畜を害する獣は多くいまして、いまでも山地の農家は、普通に猟銃を備えて、猟銃会に入っています。銃と火薬は、農業用品だったんです。

 検索をかけましたら、「日米銃砲規制の歴史的・社会的背景」という論文が出て参りまして、江戸時代、大方の藩では、農民の鉄砲は許可制でした。
 その延長線で、といえると思うのですが、農業にいそしみます薩摩藩士は、士族ですから、いざとなれば武器になりますし、藩が私有を奨励し、購入を手助けしていたような次第でした。
 もちろん、銃には火薬と弾丸が必要でして、火薬なぞは個々の士族が家に備えていたらしいんですね。桐野利秋の伝記に、子供の頃、火薬箱で遊んで爆発させてしまって、外祖父に叱られた、みたいなことが、出てきたりします。

 このように、薩摩における火薬や銃弾は、農業用品の側面を持つわけですから、「薩南血涙史 」に「火薬庫はもともと藩のものではなく、藩士が金を出し合って火薬弾丸を蓄積しておいたものだった」というようなことが出てきますのも、もっともなんです。弾薬も藩の管理下にはなく、下級藩士の共同管理だった、というわけです。

 で、西南戦争の導火線になりました事件が、赤龍丸の火薬弾丸移送事件です。
 定説では、藩が消滅しました後、薩摩藩の火薬や銃弾の集積所は、一応、陸海軍の管轄になったというんですね。
 旧薩摩藩士たちにしましたら、「もともと藩のものではなく、俺たちが金を出し合って集積しているんだから」ということです。
 一般的には、「明治新政府(大久保利通が中心になった施策と推論することが一般的です)は、薩摩の力をそぐために、事前の届け出も無く(中央の陸軍や海軍が鹿児島に集積しました弾薬を必要とする場合は、事前に運搬する旨、鹿児島県庁に届け出ることが義務づけられていました)、夜中にこっそりと、弾薬を赤龍丸で運び出したことに激高した薩摩士族が、各地の火薬庫から弾薬を運び出した」と言われていまして、「弾薬の運び出しは大久保利通の挑発であり(薩摩出身、西郷隆盛の親戚で、海軍の川村純義は挑発になるから反対した、ともいわれます)、火薬庫を襲った元藩士たちを罪人にすることは人情として忍びないので、西郷隆盛は立ったのではないか」というような、推測もなされていました。

 私にしましても、あんまりこの定説を疑っていたわけではなかったんです。
 「薩摩藩士にとっては、農具の一種でもある火薬と弾丸を、こっそり盗み出していくなんてものすごい挑発だわ。開戦のきっかけを、政府側から作ったわけよねえ」と、理解していたわけです。
 
 で、だいぶん以前ですが、偶然、NHKのBSプレミアム英雄たちの選択「西郷隆盛の苦悩 なぜ西南戦争は勃発したのか」 の再放送に出くわしました。
 私は大方、明治6年政変や西南戦争をあつかった歴史バラエティは、ばかばかしくなってきますので、見ません。しかし、「ちとはNHKもまともになっていたりするかしら」と、検証のため録画しました。
 で、つい先日、他のことをしながら見流しておりますと、「武士の誇りを守るために士族反乱は起こった」とか、鼻で笑いたくなります話が連続していたのですが、そういう俗説は世間に蔓延していますし、まあ取り立てていうほどのことではありませんでした。
 しかし、私にとりましてはちょっと、見過ごすことのできないことを言っていたんですね。

 銃も火薬も弾丸も、薩摩士族にとっては農具の一種、ということは、あまり知られていませんから、まあいいのですが、「薩摩藩士たちは各地の弾薬庫を襲って武器を奪い取った」と言い、動画の方も、なにやら銃でも入っていそうな箱を運び出していて、私は思わず反射的に、「銃は私物だから、家にあるの。そんなとこに置いてないわ。運び出したのは弾薬だけでしょうに!」と叫んでしまったんです。
 しかし、ちゃんと確かめなければと、もう一度見返してみますと、政府側が赤龍丸で奪ったものについても、これまで漠然と「火薬と弾丸」と言われていたこととはちがって、「薩摩は集成館で最新式のスナイドル銃の弾など、日本海軍の弾薬の多くを製造していて、明治10年1月29日、政府は夜間密かに、鹿児島に蓄えられていた弾薬を運び出した」と、驚愕の話でした。

 「えっ!!! スナイドル(後装銃)のボクサーパトロン(金属薬莢)を集成館で作っていたの??? 国産できていたって???」
 と驚きますと同時に、しかし、「集成館で作っていたんだったら、いくら造りためたものを政府に盗まれたからって、また造ればいい、ってことにならないの???」と、疑問でした。
 私がこれまで知っていました俗説では、「ボクサーパトロンは輸入に頼っていたので、旧薩摩士族たちは後装銃を持っていたにもかかわらず、すぐに弾丸切れとなり、前装銃しか使えなかった」ということでして、すっかり信じこんでいました。




 ずいぶん前に撮ったものですが、上が鹿児島の尚古集成館で、下はそのそばにあり、イギリス人技師などが住んでいた異人館です。

 尚古集成館

 幕末、薩摩の集成館事業は、佐賀藩と並ぶ近代化事業でして、考えてみれば、ボクサーパトロン製造もありえないことではなかったでしょう。
 西南戦争が始まりますまでの鹿児島は、紡績工場のイギリス人技師や医師(ウィリアム・ウィリス)が住み、薩摩焼き輸出ブームに沸き、市来四郎は会社を設立して薩摩切子を作り、と、ずいぶんとハイカラな土地でした。
 
 「集成館でボクサーパトロンを造っていたって、NHKはいったいどこから話をひっぱってきたの???」と検索をかけてみました。

 出てきました! なんと!!! Wikiだったんです。

 wiki-西南戦争 wiki-スナイドル銃

 しかも。NHK、Wikiの部分拝借して嘘を放送するなよ!!! アジ歴の陸軍省大日記によれば、「赤龍丸が薩摩からこそこそと盗み出したのはスナイドルの弾薬製造器械で、命令したのは山県有朋」だったことが明白じゃないのっ!!!

 ひいっ!!! 陸軍省大日記に、ちゃんと史料があったんですね。
 改めて、基本資料とされる西南記伝を見てみました(中巻1です。近代デジタルライブラリーにあります)

西南記伝 (〈中〉1) (明治百年史叢書 (83巻))
クリエーター情報なし
原書房


 うかつでした!!! 引用された市来四郎の日記に、ちゃんと書いてましたわ。

 「当初磯(いそ)造船所、ならびに火薬所へ、製造仕りし大砲、ならびに諸要具類、弾薬などいっさいすべて、東京または大阪城へ積みまわしあいなりたりと」 

 この「諸要具類」というのが、ボクサーパトロン製造機械だったんですねっ!!! しかもこの市来四郎の書き方では、鹿児島県が製造して、海軍、陸軍へ納めていた、ともとれますし、製造機械を寄付なんかしてないでしょう。夜中にこそこそ、陸軍省は泥棒もいいとこじゃないですか。山県有朋って、本当に松陰の弟子なんでしょうかしらん。私には、信じられません。

 私、どうも、もう一度ちゃんと、西南戦争を勉強し直さなければならないようです。

明治十年 丁丑公論・瘠我慢の説 (講談社学術文庫)
クリエーター情報なし
講談社


  丁丑公論も、ちゃんと読み直さなければと。

 追記 福太郎さまのお教え通りに、松尾千歳氏の「西郷隆盛と薩摩」に、集成館でボクサー・パトロン製造の件が載っていました! これも、うかつでした! 「忠義公史料」明治2年5月13日条、村田新八らがオランダ商社に、イギリス製のボクサーパトロン製造機械を注文しているそうなんです。忠義公史料のこのあたりは、とばし読んではいたはずなんですが、完璧、見逃していました。

 
西郷隆盛と薩摩 (人をあるく)
松尾 千歳
吉川弘文館



 最後に、愛媛が誇ります紅マドンナを、お歳暮がわりに、せめて写真でご紹介します(笑)
 みずみずしいゼリーのようで、ほんとうに、おいしいんです。



 
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「消された歴史」薩摩藩の幕末維新

2010年11月23日 | 幕末薩摩
 あるいは、もしかして……、最終的には、天璋院篤姫の実像の続き、になりそうです。

 「幕末下級武士のリストラ戦記」 (文春新書)の著者・安藤優一郎氏の下の本の感想です。

幕末維新 消された歴史
安藤 優一郎
日本経済新聞出版社


 「武士の言い分、江戸っ子の言い分」という副題がついています。
 この副題に関係してくるのですが、読み終わった後に、どうも釈然としない気分が残ります。
 それなりに、おもしろくないわけではないんです。部分、部分に嘘があるわけでもありません。
 いえ、それどころか、クローズアップされた部分には発見もあり、興味深い記述も見受けられます。
 しかし……、例えていうならば、ですね。
 象の鼻の部分と耳の部分と足の部分をルーペで拡大して見せられて、それぞれにおもしろい映像なのだけれども、象とはなになのか、全身像がさっぱりわからない、とでもいったところでしょうか。

 「武士の言い分、江戸っ子の言い分」「武士」とは、江戸っ子と並べているのですし、「消された歴史」なのですから、敗者、幕臣のことなのですよね。
 プロローグでは、「正史では当然のことながら、権力を握った勝者側に都合の悪い事実は抹消される」とされていまして、歴史は勝者が作る、ってことですから、それには、頷けます。
 モンブラン伯爵のことですとか、フランスと幕府の生糸独占公益ですとか、徴兵制の問題ですとか、明治6年政変の真相ですとか、桐野利秋の実像にしましても、勝者の都合で消された歴史を、私は掘り起こしているつもりです。

 ところが、ですね。安藤優一氏のおっしゃる「消された歴史」とは、「西郷たちのような倒幕を目指す勢力は薩摩・長州藩内でさえ小数派だった」ということなんだそうでして、「本書では、正史では記述されることのない歴史の真実の数々を明らかにしていく。今までの歴史観が根底から覆されてしまうような幕末の実像に出会えるはずである」とおっしゃっているのですが、私があっと驚きましたのは、天璋院篤姫についてだけ、でして、それにしましても、「篤姫すごーい!!! 薩摩おごじょの底力!!!……西郷さんも大変だったのねえ」という感想でして、歴史観は、まったく覆りませんでした。

 全体が四章に分かれています。
 1章は薩長同盟。
 2章は大政奉還。
 3章は王制復古。
 ここまでは、京都の政局です。クローズアップされているのは、薩摩藩と会津藩。幕臣はろくろく出てきません。
 最後の4章は戊辰戦争。ここに至って舞台は江戸になり、唐突に幕臣にスポットライトがあてられます。
 この構成が、なんともアンバランスでして、いったい著者がなにを述べたいのか、釈然としないのです。

 まず、1章の薩長同盟から検討してみましょう。
 「薩長同盟の目的とは倒幕。以降両藩は倒幕に邁進し、薩長同盟は幕府に引導を渡す歴史的役割を演じたというのが幕末史の常識だろう」と、まず問題提起され、「ところが、この薩長同盟が果たして倒幕を目指すものであったかについては、近年強い疑義が提示されている。結論から言うと、薩長同盟とは倒幕を目指したものではなかった(家近良樹『孝明天皇と一会桑 幕末維新の新視点』文春新書、2002年)」と、冒頭ですでに結論づけておられます。
 家近氏の『孝明天皇と一会桑』は、持っていたはずなのに出てきませんで、中央公論、今年の10月号に、家近氏が「薩長同盟は過大視されている」という論考を執筆しておられますので、そちらを参考にします。

 あのー、ですね。「薩長同盟は幕府に引導を渡す歴史的役割を演じた」というのは、結果論なんですね。すべてが終わった時点で、客観的に俯瞰してみれば、結果的にそういうことになっていた、ということでして、別に勝者の側から見て、ということではありません。
 で、リアルタイムで薩長同盟の話をしますならば、「薩長同盟の目的とは倒幕」であるわけが、ありません。だって薩長同盟は、第二次征長の前に結ばれたのですし、長州が領地を守りきれるかどうかさえ、わかってはいなかったんですから。

 家近氏以前、すでに1991年発行の「王政復古―慶応3年12月9日の政変 」(中公新書)で、井上勲氏は、薩長両藩はこの盟約で「敵を一会桑政権に定めて」いたとされ、またこの盟約を結んだ薩摩側の「小松と西郷に盟約締結の権限が与えられていた確証はない」とも指摘されています。

 安藤氏にしろ家近氏にしろ、なにをいまさら?????でして、リアルタイムの話と結果論を、故意に混同されている、としか思えません。
 家近氏は最新論考で、盟約の内容自体をたいしたものではなかった、とされ、「久光は西郷が過激に倒幕へ走るのを警戒し、桂久武を通じてその意志を伝えたので、久光の事後承諾が得られる内容になった」というような結論に達しておられますが、それはちがうでしょう。
 「モンブラン伯と「海軍」をめぐる欧州の暗闘vol3」で書いております長崎丸、加徳丸事件で、薩摩側は死者を出しているんです。久光の長州に対する怒りは相当なものでして、一橋慶喜に対する怒りとてんびんにかけて、どちらに傾くか、だったんでしょうけれども、家近氏がおっしゃるところの「たいしたことがない」盟約であっても、過激と受けとめたのではないでしょうか。
 私は、この時点において、薩長盟約締結は、少なくとも久光には隠されていて、だからこそ文章化されず、木戸が不安を感じていたのだと思います。桂久武は、見て見ぬふりをするために盟約締結に同席せず、その日の日記にそのことはなにもかかなかった、というわけです。

 井上勲氏は、「締結の時点での盟約は正式なものではなかったけれども、締結した小松、西郷の薩摩藩内における指導力が強いものとなり、条文が実行され、盟約は育ち、同盟となったのだ」とされていたのですが、安藤優一郎氏は、「王政復古―慶応3年12月9日の政変 」の書名はいっさい出されないままに、井上勲氏への反論を試みておられるように思えるのですね。「薩長盟約は鳥羽伏見に至るまで、同盟に育ってはいない」のだ、と。
 しかし、安藤氏の描かれました全体像に、説得力はないんです。
 なぜならば、安藤氏が描かれたいことが「維新とは大リストラだった」というのはわかるのですが、じゃあ大リストラは不要だったとおっしゃりたいのか、といえば、そうではなさそうで、故意に、だと思うのですが、「なぜ大リストラ(言い換えれば変革)が必要になったのか?」という問いが、省かれているから、です。

 安藤氏は、薩長同盟に至るまでの話も、8.18クーデターからに限定され、おかげで話は、会津、長州、薩摩の権力闘争、という側面にのみ、特化して語られます。
 もちろん、それに嘘はないんです。嘘はないのですが、では、なぜ3藩は京都で権力闘争をくりひろげたのか、その探求がありません。目的もなく、単に私闘をやっていただけ、といわれても、首をかしげたくなるばかりでしょう。

 2章、3章をも通して、安藤氏の描く会津藩は、幕府からさえ嫌われ、孤立しながら「京を引き揚げる機会を逃した」ということにつきてしまっているのですが、これでは「だれにも、なんの戦略もなく貧乏くじを引き続けたの???」と、不可解になるだけなんです。

 薩長同盟以降、京の政局を追うにあたって、将軍家茂の死、孝明天皇の崩御は、大きなポイントです。
 トップに立つ、将軍、天皇のキャラクターがまったく代わってしまったのですから、それに対処する側も、当然、見合った対処をしなければなりません。
 これは薩摩藩の描写について、主に言えることなのですが、そういった場面、場面の対処をクローズアップして、つまりは戦術の細部のみをとらえて、全体の戦略はまったくなかったかのように語られてしまいますと、嘘ではなくとも、嘘になってしまうのです。
 
 会津藩に話をもどしますと、大政奉還と桐野利秋の暗殺で書いておりますが、会津藩も一枚岩ではなかった、ということは、わかりきったことなんです。
 ただ、私のように、会津藩の史料をろくに読んでいない者からしますと、会津藩の内情をこそ、詳しく分析していただきたかったわけです。なぜ、8.18クーデターの会津代表だった秋月悌次郎は、蝦夷にとばされたのか、とか。
 なぜ?と問うことで、戦略が見えてきますし、そうでなければ、全体が見通せません。
 その時点で、未来がわからなかったのは、あたりまえのことなんです。
 しかし、藩というのは組織なんですから、通常は、戦術だけではなく、戦略があるんです。
 もしも戦略を持ち得なかったのならば、そこをなぜ?と追求してこそ、全体像が見えてきます。

 言うまでもなく、最大の不満は、薩摩藩の描かれ方です。
 薩摩藩が一枚岩ではなかったことは、井上勲氏の「王制復古」以来、常識でしょう。
 しかし、倒幕派は小数派、だったんですかしらん。
 どうもここでも、安藤氏は井上勲氏の著作を意識されているように見受けられ、「西郷たちのような倒幕を目指す勢力は薩摩・長州藩内でさえ小数派だった」、ということを示すために、個人の書簡や他藩の聞き書きを盛んに引用なさっているのですが、それを書いた人物のその時点の立ち位置、書いた目的について、必ずしも適切な解説がなされているわけではありません。
 「いまは兵を挙げるべきではない」といいます戦術の問題を戦略のレベルにすり替えまして、「倒幕派は小数だった」という結論を出すのは、こじつけにすぎるでしょう。

 モンブラン伯は維新回天のガンダルフだった!? 番外編でご紹介しておりますが、高木不二氏著の「日本近世社会と明治維新」のように、「薩摩藩の国家構想は、ドイツ連邦をモデルとした大名同盟国家、それぞれに主権を持った国家連盟方式」と言ってくだされば、「いえ、郡県制よりは分権的なものであったけれども、大名の連合体ではなく、統一国家元首(天皇)のもとでの連邦国家だった」と反論も可能なんですが、安藤優一郎氏の展開では、「薩長も含めて、大多数が現状維持のために右往左往。西郷、大久保、小松帯刀、木戸といった小数倒幕派が、やはり右往左往しながら強引に突っ走っただけ」という話になりまして、いったいなにがおっしゃりたいのか、「じゃあ、西郷、大久保、小松、木戸は、自分が権力を握りたいがためだけに武力倒幕を志し、それに藩兵が積極的についていった、とでも???」と、首をかしげてしまうだけ、なんですね。
 倒幕派が少数派だったのなら、なんで鳥羽伏見の薩長藩兵は、戦意旺盛だったんですかしらん。

 薩摩藩兵は、賴中教育の単位と重なって組織されていたんですね。
 薩摩藩の賴中は、士族版若者宿といってよく、土着性が強いんです。
 以前に書きましたが、基本的に銃は、藩がまとめて買ったものを個人で買い取りますから、私物ですし、義勇軍的性格を持っています。
 彼らの大多数が、藩主よりも西郷を、自分たちの親分と意識していたがゆえに、西郷は人望を担い、力を得ていたんです。
 これを小数派として、片づけてしまえるんでしょうか。

 アーネスト・サトウ  vol1の冒頭でひいておりますが、来日が鳥羽伏見の直後だったとはいえ、フランス軍艦デュプレクス号のプティ・トゥアール艦長は、戊辰の年に、こう述べています。

 われわれ(フランス)の外交政策は、将軍制度というぐらついた構築物の上に、排他と独占に基づく貿易制度の土台を築いたのである。
 それ故これが、イギリス人の敵意を、そして国事に関して外国人が干渉するのを感じて、憤怒している古い考えの日本人や宗教団体の憎悪を、タイクン(将軍)に向けさせることになった。
 薩摩と長門は、このような様々の要因を利用し、イギリス人とド・モンブラン伯爵の後押しを得て、もはや不可避となってしまっていた災難を早めさせたのであった。

 
 大政奉還で、幕府が倒れたわけではないんです。
 慶喜公が開港地を握ったままで、朝廷の主導者におさまり、四方八方うまくいく状況だったんですかね?

 井上勲氏は、薩長の動体化、朝廷の動体化を活写なさって、すでに現状維持は不可能なところまでいっていたことを語っておられるのですが、安藤氏は、それを否定することに、成功しておられません。
 要するに、「慶喜公やら春嶽公やら容堂公の主導で、おさまる段階だったんですかね???」ということなんです。
 プティ・トゥアール艦長は、堺事件直後に京都の薩摩藩邸に入り、上級藩士が藩主に対して恭しいにもかかわらず、下級藩士が藩主に礼を尽くしていないことに、驚いています。
 薩摩藩におきましても、下克上は、すでに幕末の段階から始まっていたのです。

 「天璋院篤姫の実像」で述べておりますが、篤姫さんは、鳥羽伏見直後に、「今の世の中、頼みがいがあり、実力のある諸侯(大名)もいなくって、ご迷惑でも、あなただけが頼りなの。わかって!」と西郷に手紙を書いていまして、きっちり、薩摩藩内の下克上を把握していたんです。

 その篤姫さんが、70万石で駿府移住という決定に愕然としまして、西郷を呼びつけても逃げられ、怒り心頭に発して、仙台藩主やら輪王寺宮さまやら会津藩主などに、「悪辣な薩長を討って!」と手紙を書きまくっていましたことは、私、この安藤氏の著作で初めて知りまして、どびっくりしました。
 いや篤姫さん………、維新以降、徳川宗家において崇められたはずですね。
 最後まで、「幕臣の運命に私は責任がある!」とがんばったのは、慶喜公ではなく、島津から嫁に来た篤姫さん、だったんですから。

 ありえない話なんですけれども、家茂公逝去の後、篤姫さんの望み通りに亀之助君が将軍となり、篤姫さんが後見職となっていたら、幕府の運命も変わっていたかもしれないですね。
 西郷、大久保、小松、その他、薩摩藩倒幕派も、さすがに、慶喜公が消えて、斉彬公養女の篤姫さんが正面に立ちはだかれば、女子供相手ということもあって、逆らい辛かったでしょうし、篤姫さんは、「幕末の尼将軍」として、慶喜公よりもはるかに上手く、幕府の最後に幕を引く能力を持っていただろうに、と妄想してみたり(笑)


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我が胸の燃ゆる想いとホテルライフ

2008年12月05日 | 幕末薩摩
 今回の薩摩行は、指宿一泊、鹿児島三泊でした。なにしろ母を連れていたものですから、鹿児島宿泊は、ちょっと豪華に城山観光ホテル。本日は、思うぞんぶん桜島を眺め、我が胸の燃ゆる想いにひたったホテルライフを、写真で(笑)



 

 MacBook Airをのせた机が、桜島をのぞむ窓に面している、というこの贅沢。
 そして、ベッドのそばのもう一つの窓からも、もちろん桜島が。



 上の写真ではわかり辛いのですが、窓際の寝椅子からは、下のような感じで桜島が見えるんです。



 朝の7時半くらいだったと思います。朝日と桜島です。お部屋でこれを見ることができる幸せ!



 上は、バイキングの朝食がサービスされる4階ホールの、広々としたテラスからの桜島です。鹿児島はあたたかいですから、12月でも十分に、オープンテラスで食後のコーヒーを楽しむことができました。しかも嬉しい喫煙席(笑)

 なによりすばらしいのは、露天風呂から見る桜島だったんですが、それはちょっと、写真に撮るわけにもいきませんで。
 そうなんです。本格的なホテルにもかかわらず、城山観光ホテルには本物の温泉があって、そこだけは部屋着でOKなんです。おかげで、個室のバスルームもとてもりっぱだったんですが、一度も使用しませんでした。

 BGMは、なぜかこれで。

I Shall Be Released


 なぜかって………、あれですね。私が初めて桜島を見たのは、まだ幕末なんてなんの興味もなかった乙女のころ、種子島の野外コンサートに泊まりがけでいくために、早朝、鹿児島の港で、だったんです。あのときのときめきは、ちょっと忘れ難いものでして、圧倒されるような桜島の噴煙に、なぜかこの歌の「Any day now, any day now,I shall be released」というリフレインが、胸の中で重なっていたのです。
 で、ですね。その後、桐野利秋にはまったとき、「I see my light come shining, From the west unto the east. Any day now, any day now, I shall be released」と、時のかなたから、桐野が桜島に語りかけているような気がしたものでした。

 ところで、次回(できれば明日)は、Wikiでどなたかがシャルル・ド・モンブラン伯爵の項目を作ってくださいましたお祝いに、今回の旅のモンブラン関係をちょこっとまとめ、ファン募集プレゼントを実施する予定ですっ!!!


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海防に始まった幕末と薩の海軍

2006年01月28日 | 幕末薩摩
江戸時代の後半には、ペリーの黒船以前にも、異国船による事件は、頻繁に起こっていました。
高杉晋作と危機の兵学
でご紹介しました野口武彦氏の『江戸の兵学思想』によれば、江戸の兵学には「海戦」の概念がなかったのだそうです。

日本は島国ですから、これはちょっと不思議なことではあります。
しかし、そもそも「海戦」の概念とは、海上通商路を確保し、制海権を得るために艦隊が誕生してからの概念だった、と解説されると、なるほど、という気がします。
つまるところ、国家規模でが海外交易をし、その交易を守り発展させるために、西洋の海軍はあったわけですから、鎖国していた日本の近世に「海戦」は、概念すらなくてあたりまえなのです。
つまり近代海軍とは、そもそも、その存在意義からして、内政には関係のない存在なのですね。
一方の陸軍は、本質的に、内政に深くかかわる組織です。現在でも、軍事クーデターの起こる国は、多々ありますし、中国の人民解放軍がその筆頭ですが、政治にかかわっている陸軍も、多く存在します。

西洋近代の脅威は、黒船となって姿を現したわけですから、維新への原動力の最初の柱となったのは、海防意識です。
しかし、近代海軍を建設するためには、結局、大きく国を改革するしかないことが、やがて、わかってきます。
近代海軍建設に、最初に取り組んだのは政権を担っていた幕府ですが、長崎でのオランダ海軍伝習の中心となった勝海舟は、早くから、そのことに気づきます。
近代海軍建設を学ぶということは、それを培ってきた西洋近代を学ぶことでも、あったから、です。
しかし、海軍的な思考は、ある意味、内政に関しては不得手になりがちなのですね。国の変革をなすための決断は、軍事力を掌握した者にしかできないわけで、国内的な軍事力の掌握は、きわめて陸軍的な発想でなされるものです。
勝海舟は、そういう意味では、政治に疎い人でした。
それは、弟子だった坂本龍馬もいっしょで、維新前夜、薩長倒幕派首脳部と、一方で小栗上野介を中心とする幕府のフランス派が、武力で中央集権を達成するしかない、と見極めていた状況の中で、その必然性が見えていなかった、というべきでしょう。

では、薩摩倒幕派の中心だった西郷、大久保の思考が海軍的であったか、というと、なにしろ倒幕派なわけですから、そういう武力変革の思考は、海軍のものではありません。
しかし、倒幕を果たした時点で、大久保利通は、維新本来の目標であった海防に思考を切り替えるのです。
新政府が取り組む近代軍隊の建設において、大久保利通は海軍を中心に押し、長州は陸軍を中心にと、最初のヘゲモニー争いがはじまります。
海軍を中心に考え、それでも大久保が、ほぼ新政府の主導権を握り得たのは、大久保自身の思考は、必ずしも海軍的なものではなかったからでしょう。
しかし、明治6年の政変と西南戦争によって、薩摩閥は多くの人材を失い、大久保利通もまた倒れます。
それでも、薩摩閥は海軍を掌握しますが、陸軍を握った長州閥にくらべるならば、政治力は、格段に劣ったものとなりました。

薩摩閥の海軍で、政治的に傑出した人物を挙げるならば、海軍軍政に大鉈をふるった山本権兵衛くらいなものなのですが、大正になって政治家となり、内閣を組閣したところで、シーメンス事件に足をすくわれます。
長州閥の仕掛けた倒閣運動に、もろくも屈したわけでして、やはり海軍と政治は、相性の悪いものであったようです。

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