郎女迷々日録 幕末東西

薩摩、長州、幕府、新撰組などなど。仏英を主に幕末の欧州にも話は及びます。たまには観劇、映画、読書、旅行の感想も。

珍大河『花燃ゆ』と史実◆30回「お世継ぎ騒動!」

2015年07月29日 | 大河「花燃ゆ」と史実
 珍大河『花燃ゆ』と史実◆29回「女たちの園」の続きです。

花燃ゆ 後編 (NHK大河ドラマ・ストーリー)
クリエーター情報なし
NHK出版


 もう、ですね。普通に見てて、あまりにつまらなすぎて集中できず、内容が頭の中に入ってきません。
 今回、ありえへん奥の行事で、おはぎと羊羹を作って食べさせて、銀姫さまが妊娠しておめでとうございます! で終わりという印象しかないのですが。
 園山役の銀粉蝶さんとか、椋梨藤太役の内藤剛志さんとか、いつも口元に皮肉な笑みを浮かべていて、これ、絶対、馬鹿馬鹿しいシナリオにもほどがある、との思いを抑えきれず、お笑い気分で演じてるんだよねえなんぞと、つい、感じてしまいます。

 とはいいますものの、です。
 前回のコメント欄でのkiiさまのご指摘があり、子細に検討してみましたところ、この不条理RPG、時系列がもう無茶苦茶で、不条理にみがきがかかっていた!ことがわかり、今回も楽しく勉強しましたので、みなさまもどうぞ、おつきあいくださいませね。

 
幕末維新の政治と天皇
高橋 秀直
吉川弘文館


 今回も高橋秀直氏の「幕末維新の政治と天皇」を主な参考書に書かせていただきます。

 前回、書き忘れたのですが、不気味な乃木坂46十福神登場の前に、西郷隆盛が出てきました。
 「幕府軍は総勢15万の兵で長州を取り囲み、総攻撃の機をうかがっていた」とか、ナレーションが入り、西郷隆盛が登場して、「幕府の長州征討の参謀であった西郷吉之助との話し合いが岩国で行われた」 ということだったんですが、史実ではこれは、元治元年(1864)11月4日のことです。

 しかも前回のこの場面で、西郷隆盛は幕府軍が攻撃をやめる条件として、「三家老の首+騒乱を煽った高杉晋作、桂小五郎などの処分を早急にしろ」と言っているのですが、これは大嘘です。
 史実として、このとき西郷が求めましたのは攻撃予定は18日なので、三家老と四参謀をはやく処分しろということで、高杉も桂も、まったく名を出していません。

 珍大河『花燃ゆ』と史実◆28回「泣かない女」で書いたのですが、「正義党」の家老・清水清太郎と周布政之助が、すでにこの3ヶ月も前に、「三家老+四参謀の処分をする用意がある」と、周旋役の岩国藩主に伝えに行っていまして、当然、岩国藩主は長州征討軍総督側に、それを提示していたんですね。
 つまり西郷は、長州「正義党」でも呑めると提示されていた条件を出しただけでして、実は、戦いたくない気満々でした。
 幕府に使われる形で、薩摩が長州を攻めて、得することはなにもありませんから。

 なにしろ「正義党」のときから覚悟していたことですから、「俗論党」の長州藩庁は、11月12日、13日、ただちに三家老切腹、四参謀処刑を実行しまして、征討軍総督に知らせ、14日、総督は侵攻猶予を命じます。
 で、19日、総督が出しました征討軍解兵の条件は、藩主父子の書面での謝罪、山口政庁の破却、三条実美以下五卿の差し出しの三つで、一番もめましたのが五卿の差し出しですが、それ以外、きびしい条件ではないですし、もちろんここでも、高杉の名も桂の名も出ていません。

明治維新と国家形成
青山 忠正
吉川弘文館


 青山忠正氏の「明治維新と国家形成」から引用しますと、「総督府側方針(西郷隆盛の方針)と毛利家側の恭順方針とがあいまって、征長は当初から、毛利家領内への侵攻を、実際にはどのようにして回避するか、という点を焦点に展開されることになった」 ということなのです。

 前回、この不条理RPGは、西郷隆盛にありえへん高杉処分要請をさせたあげくに、いるはずもないグリフォン・椋梨藤太を同席させ、「承りました」なんぞと言わせて、「こののち長州藩内に粛正の嵐が吹き荒れることになる」とシャアのナレーションを入れ、まるで、「俗論党」による「正義党」粛正が、西郷隆盛の命令で椋梨藤太がやったことであるかのようなありえへん印象をふりまき、その直後に、三月うさぎ高下駄晋作君が生まれて間もない長男と妻を残して行方が知れなくなった、としています。
 ここでもう、相当に時間軸が狂ってしまっています!

クロニクル高杉晋作の29年 (クロニクルシリーズ)
クリエーター情報なし
新人物往来社


 一坂太郎氏の「高杉晋作の29年」の年譜で高杉を見て、そこへ上記二冊および「防長回天史 6」(マツノ書店版)から他の出来事をはさみますと、以下のようです。

 10月 5日 高杉晋作長男梅之進誕生
 10月 6日 「正義党」の藩官僚中枢全員罷免。俗論党政権樹立 
 10月16日 晋作、病気を理由に現職(政務役)を退く
 10月25日 晋作、萩の自宅を出て山口へ行き聞多を見舞う
 10月27日 晋作、親戚から、藩庁に捕縛の企てがあることを知らされ山口を出る
      徳地の奇兵隊陣営を訪ね、野村靖、山県有朋らと談論

 10月29日 晋作、下関の白石正一郎宅に潜伏
 11月 1日 晋作、下関より海路、筑前へ亡命
 11月 4日 西郷隆盛、岩国を訪れ、攻撃猶予の条件に三家老、四参謀の処分を求める 
 11月12日 前日の国司信濃切腹とあわせて、この日二家老切腹、四参謀斬首
 11月13日 都美姫、山口宮野御殿を出て萩へ向かう
      銀姫は懐妊していて、この日、山口五十鈴御殿で着帯の内式

 11月15日、銀姫懐妊を口実に、諸隊(750余人)、五卿を奉じて山口を出る
      (万が一兵火が山口に及んでは、銀姫のためにならないと理由立て) 
 
 11月22日 銀姫、山口五十鈴御殿を出て萩へ向かう


 わかっていただけたでしょうか。
 高杉晋作の筑前亡命は、西郷隆盛の岩国談判よりも、銀姫さまの萩移動よりも、先なんです。

 ところがところが。
 この不条理RPG、西郷隆盛の岩国談判があり、都美姫さまも銀姫さまも萩へ引き移り、にもかかわらず、三月うさぎ高下駄晋作くんは、まだまだ萩をうろちょろしているようでして、あろうことか野山獄に姿を現す!わけなんです。
  西郷が11月4日に「早急に三家老、四参謀を処分しなければ18日には幕府軍侵攻!」と宣言していますのに、三家老四参謀の処分もしないで、いまにも征長軍が攻め込もうとしております中、世子がのんきにお菓子を食べて子作りにはげむ不条理には、お笑いにもならないばかばかしさ、しか感じられません。

 で、言いたくもないのですが、野山獄にぶちこまれたという小田村です。
 史実を言いますならば、10月 6日に「正義党」藩官僚中枢(松島剛蔵を含みます)が罷免され、「俗論党」に政権を奪われて以来、諸隊(奇兵隊を含みます)は、「正義党」の政権復帰を求めていて、三家老四参謀の処分で幕府軍侵攻がなくなったために、一方で戦闘をちらつかせながら「俗論党」政権と交渉していたのですが、高杉が長州に帰って、12月15日に挙兵したことで、さらに諸隊の動きが活発になり、拘束しています「正義党」中枢を奪われることを怖れた「俗論党」が、18日に松島剛蔵を含む中枢メンバー7人を野山獄に入れ、翌19日に斬り、それと同時に小田村ほか二人を野山獄に入れたわけでして、この不条理RPG、チェシャ猫小田村と三月ウサギ高下駄晋作くんとぼた餅美和さんで無理矢理ストーリーをひねりだそうとしたあげくに、タイムトラベラーも顔負けなほど、時間軸を無茶苦茶にしてしまっています。
 この「正義党」七人の処刑、西郷隆盛は止めようとしたのですけれど、間に合わず、そこらへんの事情は次回にまわします。

 さらに言えば、ですね。
 野村靖は奇兵隊の客分になっていまして、幾度も藩庁に上書して「正義党」復帰を画策していますし、亡命前の高杉とも一晩、親しく語り合っています。
 品川弥二郎は、まだ二十歳そこそこで、高杉より四つ年下ですから、御楯隊に属してはいましたが、その代表者は、乃木希典の従兄弟の御堀耕助でした。
 つまり、ですね。二人とも諸隊の中にいて、「正義党」復権に懸命の働きかけをしていましたのに、この不条理RPGでは、「正義党」中枢の高杉の命を狙うキチガイにされてしまい、気の毒なかぎりです。

 さて、これまでなんども書いてきましたように、文さんが御殿勤めをはじめ、名を久坂美和と改めましたのは、慶応元年(1865年)9月のことでして、「正義党」が復権し、久坂家を道明が継ぐのを見届け、父百合之助を看取った後の話です。
 だから、もう、この架空の毛利家奥は、どうでもいいといえばどうにもいいのですが、あんまりといえばあんまりなことばかりで、おはぎを作って子宝祈願って、どこの田舎の成金の家の年中行事よっ!!!と、おもしろくもない笑劇に、目をそむけたくなりました。
 おはぎは、東海道の宿場に名物店があったりしますし、かなり庶民的な食べ物です。もちろん、おいしいですから、大名家の奥でも食べなくはなかったでしょうけれど。
 だいたい、春の彼岸に作ったときはぼた餅、秋の彼岸に作った時はおはぎ、と呼んで、普通の家で仏様にお供えしてきたものだったと思うのですが。

隠居大名の江戸暮らし―年中行事と食生活 (歴史文化ライブラリー)
江後 迪子
吉川弘文館


 江後迪子氏の「隠居大名の江戸暮らし」は、臼杵藩5万石の奥の暮らしが、日記に基づいて描かれていまして、なかなかにおもしろいものです。
 江戸時代、和菓子が日本全国にひろまっていったのですが、それは、旧暦6月16日、お菓子を食べて疫病を払う、嘉祥という行事を、幕府が制度化していたから、です。
 大名が江戸城に登城し、将軍から高級和菓子(饅頭、羊羹など)を賜った行事なのですが、大名がお国入りしていますときには、将軍家をまねて、家臣にお菓子を配ったりしまして、そもそも幕府には、御用達菓子司・大久保主水という幕臣が、代々嘉祥を采配していましたし、全国の城下町にも、大名家御用達の格式高い菓子屋が誕生しまして、奥の行事で使いますお菓子は、大方、そういう名店が承って入れていたわけです。
 この不条理RPG、毛利家の奥を馬鹿にしすぎ!!!でしょう。

 もっとも、ですね。文久の改革で、幕府におきましても、江戸に大名はいなくなりますし、贅沢だというので、嘉祥は中止になりました。
 それほどに、黒船来航が平和だった日本を変え、奥の暮らしを激変させましたことは、珍大河『花燃ゆ』と史実◆27回「妻のたたかい」に書きました。
 都美姫さまも銀姫さまも、生まれ育ちました花のお江戸を離れ、見も知らない草深い長州へ、移住するしかなかったわけですし、江戸での大名の奥や大奥との優雅なつきあいも、あきらめるしかありませんでした。

 で、コメント欄で書いたのですが、この元治元年7月23日、禁門の変によりまして長州は朝敵となり、幕府に追討令が下ります。
 江戸、京都、伏見、長崎、大阪と、各地の長州藩邸が幕府に没収されましたが、とりわけ江戸藩邸の場合は酷かったと、「防長回天史」は記しています。
 都美姫が生まれ育ち、銀姫も9歳から住んでいた桜田藩邸(上屋敷)と麻布龍土(下屋敷)、あわせて男118人、女3人が拘禁され、一人は、帯刀を奪われようとしたのであらがって、自刃したといいます。拘禁は慶応2年(1866年)6月までのおよそ2年間におよび、拘禁中の死亡者は、51人にのぼった、そうなんですね。
 そして、江戸の長州屋敷はみんな、跡形もなく取り壊されました。

 スイーツ大河『花燃ゆ』とBABYMETALに書きましたように、都美姫さまも、そして園山も、長年江戸の長州藩邸に住んでいました、皇妹にして将軍御台所・和宮さまの大叔母、姉小路と、大きなパイプがあるはずなんです。
 ふつうでしたら、奥のルートを使って、拘禁されました藩士たちを救い、少しでも長州の立場をよくしようと、必死の嘆願をするでしょう!!! なんなんでしょうか? この不条理RPGのスイーツまみれののんきな奥の化け物のような人々は!!!

 姉小路について、もう少し書きたいのですが、長くなりましたので、次回にまわします。
 
クリックのほどを! お願い申し上げます。

にほんブログ村 歴史ブログ 幕末・明治維新へにほんブログ村

歴史 ブログランキングへ
コメント (10)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

珍大河『花燃ゆ』と史実◆29回「女たちの園」

2015年07月22日 | 大河「花燃ゆ」と史実

 珍大河『花燃ゆ』と史実◆28回「泣かない女」の続きです。

 見出し絵は、楊洲周延の「千代田之大奥 おたち退」3枚組の一部です。
 江戸城火災時、大奥の避難の様子を描いたようですが、幕府が滅びて久しい明治になっての作品ですし、私にはなんとなく、大奥の最後を象徴した絵のように思えまして、皮肉をこめて、載せました。

花燃ゆ 後編 (NHK大河ドラマ・ストーリー)
クリエーター情報なし
NHK出版


 えー、こちらは大奥ならぬ毛利家の奥
 奥奉公RPG、今回のクエストは、毛利家奥女中のリストラ!です。
 奥御殿総取締・園山さまが、銀姫付きのお次女中・文改めミワ(ありえないけど、義理のおにーさまより授かったお名前だそーです。あー、小田村が奥奉公ゲームをするのに、ミワの名を選んだと理解しときましょう)と、同僚で出世したがりーの鞠さん(士族の養女になってお次女中にあがったんだそーで、普通なら嫁入り修業だけど、この人は出世がしたいんだそーで)の二人にこのクエストを与えたわけなんですけれども。
 しかも、そのリストラの理由といいますのが、椋梨藤太の提案で、藩主&世子&その家族&お付き女中、みんなで萩に帰るので、萩城には女中たちの部屋がないというのです。

 園山いわく「都美姫さまも銀姫さまも、もともとは江戸のお住まい。萩城には、殿様のお世話をするものだけで(いっぱいで)、とうていお二方のお住まいになるだけのゆとりは(ない)」 
 なにをぬかすか、ばばあ! 萩城に部屋がないなら、山口中河原御屋形には、もっとないだろうがよっ!!!

 もうね。なにから突っ込みをいれたらいいんだか、なんですが、そもそも実際は、都美姫も銀姫も世子も、山口中河原御屋形には住んでいないんです!!!
 山口中河原の御殿って、御茶屋なんですね。山口市の歴史「幕末の藩の中心地・山口御茶屋」を見ていただいたらわかるのですが、御茶屋とは、藩主の参勤交代や領内巡行時の宿泊、あるいは幕府の役人や他藩大名の通行時の宿泊のための長州藩の公館でして、山口御茶屋は、山口新屋形完成までの仮住まいでしかなかったんですね。

 珍大河『花燃ゆ』と史実◆27回「妻のたたかい」でそのときの騒動を書きましたが、 都美姫さまと銀姫さまが江戸から萩へ移ったのは、文久2年の暮れのことです。
 文久3年、長州は即刻攘夷を藩是とするにいたり、萩城は海に面していて危険であること、瀬戸内海側へ近い山口の方が指揮がとりやすい、ということで、4月に、まずは藩主のそうせい侯が湯治を名目に山口御茶屋に入り、5月、実際に下関で攘夷戦をはじめてから、都美姫、世子、銀姫も萩から山口へ移ります。
 「もりのしげり」(近代デジタルライブラリー)の219ページをご覧ください。
 都美姫は龍福寺(宮野御殿)、世子は吉敷御殿、銀姫は伊勢大宮司松田上野介邸(五十鈴御殿)を居館としていたんです。

 だ・か・ら、どこの異世界の中河原御殿で、どこの異世界の殿さま一家が、そうぶれとやらをやるのさっ!!!
 だいたい、見本になっております江戸城大奥では、通常将軍は江戸城本丸にいて、御台所が本丸大奥。
 世子は西の丸にいて、奥は御簾中(世子夫人)が支配します。つまり、将軍と世子では、御殿が別なのです。
 なお狭義で大奥という場合は、江戸城でも御台所が支配します本丸大奥のみをさすそうです。
 いったいこのRPGの、成り上がりの中小企業の社長のおっさんと奥さんがやる朝礼みたいな「そうぶれ」とやらは、どこからどうひねり出したのか、少々しらべかかったのですが、あまりに馬鹿馬鹿しいのでやめにしました。といいつつ。

歴史ミステリー 女達の裏日本史 大奥2


 この「歴史ミステリー 女達の裏日本史 大奥2」に総触れとやらが出てくるのですが、そういわれてみれば、朝食の後、将軍が御台所とともに仏間でご先祖の位牌を礼拝し、お目見え以上の奥女中たちがご挨拶、というような話を、どこかで読んだような気もするのですが、どこで読んだか忘れてしまいました。
 ついでにこの歴史ミステリーについて述べますと、新参舞が全裸だったというのが大嘘だとも、どこかで読んだような気がするのですが、どこで読んだかさがす気力がありません。

 まあ、通常、大奥ドラマとはこのフィルムのごとく、どろどろどろどろした女の園妄想もののはず、ですが、しかしこのRPG大奥、なにか妙に無機質で、プラスチックでできた異世界キャラクター妄想のような、薄気味悪さがあります。
 ともかく、なにもかもがなんだか、不条理(ノンセンス)なんです。

 えー、なんで新参者の、しかも銀姫のお付き女中でしかありません杉酒屋の芋虫ミワさんに、奥御殿全体(しかも藩主の奥と世子の奥が一緒くたというありえなさ!)のリストラなんぞといいます絶大な権限が付与されますのやら、このRPG、そこらあたりもまた不条理な上に無秩序で、ゲームとしての出来の悪さを感じるのですが、ともかく。
 芋虫ミワさんはリストラミッションを成し遂げるための御殿探検途上で、御蔵番・国島といいます、お道具の九十九神にめぐりあったりします。
 大奥女中の職制に御蔵番なんぞ聞いたことがない、とか、御蔵にたっぷりと日の光が差し込んだら御蔵の意味がないだろうが、とか、そもそも臨時住まいのお茶屋の蔵に嫁入り道具を展示しているはずがなかろうが、とか、まあ、もともとが意味のない世界の支離滅裂ゲームですから、なにを言っても無駄です。

 不条理(ノンセンス)と言えば、不思議の国のアリスです。
 この童話、リーズデイル卿とジャパニズム vol10 オックスフォードに書いておりますが、このわずか2年前、ルイス・キャロル(チャールズ・ラトウィッジ・ドジソン)が第二回ロンドン万博見物に向かう汽車の中で下書きしたものでして、この第二回ロンドン万博には、駐日イギリス公使のラザフォード・オールコックの手配で日本の美術工芸品が展示され、日本の遣欧使節団(文久使節団)も顔を出して評判となっていたりしました。
 
不思議の国のアリス 完全読本
桑原 茂夫
メーカー情報なし


 えーと、例えば、です。不思議の国でスペードトランプの庭師が白いバラをペンキで赤く塗っている奇妙な出来事は、このRPG不条理ワールドで、なめくじのような九十九神・国島が、漆や人形を直射日光にさらしてぼーっと自己満足の夢を見ているのに、似ています。
 しかし、ですね。アリスが不条理にあがき、抵抗し、最後は夢から覚めますのに、この芋虫ミワさん、お化けのようにすんなりと不条理に溶け込み、その一部になって、「私がなんで生きているのか知りたい」とか、平成の自分探し有閑マダムのおっとりセリフだけで、わけもわからずなめくじ九十九神に気に入られ、お道具を売り払ってリストラ手当にまわす、といいます、ありえへんところがほとんど韓国ドラマのような非現実的な手で、ミッションを果たすんですね。
 「不思議な国のアリス」の不条理には、どこかなつかしいような、それでいて知的な魅力を感じるのですが、このRPG大奥ワールドの不条理は、ただただ意味がないだけで、さっぱりなんの魅力もなく、生理的に気持ちが悪いばっかりです。

 あげくの果てに、実はリストラは、萩城に部屋がなかったわけではなく、世子の側室候補に若くてピチピチのお側女中を十人入れるためだった!!!とハートの女王都美姫さまが宣言します、不条理の極地の不毛!!!
 側室候補の乃木坂46十福神が、なぜかみんな同じ顔をして、一言のセリフもなくじと目でずらりと並んで、不気味に幕!

 いや、史実の銀姫さまは、萩では江向八丁筋の八丁御殿に住まわれ、都美姫さまと同じ御殿にいたりはしませんし、すでに長男を妊娠しています。

 もうこれ、大河としては最低最悪の黒レッテル決定なのですから、どうせならここで、ベビメタに「イジメ、ダメ、ゼッタイ」を歌わせるくらいはじけていたら!!! いや、まずベビメタがこんな駄作に出てくれるわけがありませんし、そこまで制作陣がはじけていたら、最初から、もっとましなものを作ってましたわね。

BABYMETAL - イジメ、ダメ、ゼッタイ - Ijime,Dame,Zettai (Full ver.)


 余談ですが、ボーカルのスーメタルのお姉さんは、乃木坂46にいるんだとか。

 まあ、ですね。芋虫ミワさんが松陰の妹でも久坂の嫁でもなく、江戸城の本物の大奥で不条理RPGをやるのでしたら、大河ドラマとはいえないにしましても、そういうドラマがこの世に存在するのだと、理解できないでもないのですが、これが幕末長州の話とはね、いやはや。
 ともかく。
 大奥不条理RPG突入で、歴史的事実はもはや、地球の裏側へと消えていってしまい、どーでもよくなっておりますが、ため息をつきつつ、こんなでたらめやるのなら、幕末の長州じゃないことに早くしてしまえよ!!!と、つくづく。「ここは、幕末長州の不条理大奥パラレルワールドでございます」と、一言、ナレーションを入れたらすむことです。

 で、不思議なパラレルワールドでは、お殿様の臨席しない不思議な会議で、帽子屋・周布政之助とグリフォン・椋梨藤太が対峙しまして、周布はふてくされて、投げやりに「戦えばよい。いまさら慌てて、(幕府に)許しを乞うたところでなんらかわらん」といい、椋梨の圧勝に終わります。

 
幕末維新の政治と天皇
クリエーター情報なし
吉川弘文館


 前回に書きましたが、高橋秀直氏の「幕末維新の政治と天皇」によりますと、すでに周布政之助ほかの「正義党」は、禁門の変で京へ先発していました三家老&四参謀の処分、藩主敬親の辞官退隠まで、覚悟していました。
 で、いわゆる「正義党」が、攘夷戦の敗北、禁門の変での敗北と、失態を続けていたにもかかわらず、なぜ、力を残していたかといいますと、惨憺たる敗北の中から奇兵隊をはじめとします諸隊が生まれ、戦える軍隊となって、「正義党」を支持していたからです。
 いわゆる「俗論党」の支持者は、主に中から上の藩士たちで、萩を拠点にしていました。それが山口へ出てきて、「正義党」の追い落としをはかるようになっていたのですが、しかし、彼らは個人的な武術にはすぐれていましても、それはそれだけのことでして、ろくに戦えませんことは証明済みで、うかつに「正義党」に手は出せませんでした。

明治維新と国家形成
クリエーター情報なし
吉川弘文館


 諸隊が、元治内乱期の長州でいかに大きな存在となっていったかにつきましては、青山忠正氏の「明治維新と国家形成」収録の論文「長州毛利家の政治的基礎構造」で詳しく分析されています。

 与党でありました「正義党」は、諸隊の軍事力を背景に、世子のかわらぬ支持を受け、いわば武備恭順を貫いて、国難を乗り切ろうとするのですが、いわゆる「俗論党」からは、これまで、既得権益を突き崩される立場に甘んじておりました不満が一気に噴き出し、周旋役の岩国藩主・吉川監物を頼りにして、政権奪取が試みられます。
 両者の力が拮抗する中で、「正義派」の井上聞多は「俗論党」藩士に襲われて瀕死の重傷を負い、「正義党」の三家老四参謀を切り捨てても政権を守ろうとした周布政之助は、吉川監物を引き入れたことにより、それさえも危うくなったことに責任を感じて、自刃します。

 10月に入って、藩主敬親が萩へ行くこととなり、これは「俗論党」にとって、藩主を諸隊から離して手中にするチャンスだったのですが、「正義党」は藩主が「俗論党」処分のために萩入りすると思い込み、藩主に随行して萩入りしました。
 結果、藩主の敬親は「正義党」を切る方に傾き、前田孫右衛門、渡辺内蔵太、毛利登人、楢崎弥八郎、大和弥八郎、松島剛蔵、山田亦介など「正義党」中枢は、一網打尽に捕らえられます。
 その直前、高杉晋作は勝負勘よく、一人亡命して、命を長らえました。

 「俗論党」政権が樹立しましてから、諸隊は藩庁からは独立し、地域の行政機構を押さえて草の根を張るように定着していき、本来の家臣団とはまったく組織が異なる異分子であるとともに、強力な軍事力として育っていきます。
 こののち、有志の集まりであります長州諸隊、いわば志願兵制の歩兵隊は、再編され、当時の日本におきましては図抜けた強さを誇り、薩摩に匹敵する歩兵団が誕生するのですが、それはさておき。

 えーと、それで私、前回書きましたが、「俗論党」が長州の政権を握ってから、禁門の変関係者の処分は行われたと、なんとなく思い込んでいまして、俗書でもけっこうそう書いているものはあると思うのですが、それがなぜかと言えば、どうも高杉晋作が功山寺挙兵においてそのように主張した!からのようです。

この不条理大奥ゲームの異世界では、帽子屋周布さんは羽が舞う中、グリフォン椋梨さんと対峙して死に、眠りネズミ聞多くんは、なんと! グリフォン椋梨さんが放った忍者に襲われ、三月うさぎ高下駄晋作くんは家出した様子ですが、次回のお題はなんと!!! 「お世継ぎ騒動!」だそうでして、もう心底げんなりして、見る気力をもり立てるのに苦労しそう、です。

クリックのほどを! お願い申し上げます。

にほんブログ村 歴史ブログ 幕末・明治維新へにほんブログ村

歴史 ブログランキングへ
コメント (15)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

珍大河『花燃ゆ』と史実◆28回「泣かない女」

2015年07月17日 | 大河「花燃ゆ」と史実

 珍大河『花燃ゆ』と史実◆27回「妻のたたかい」の続きです。

花燃ゆ 後編 (NHK大河ドラマ・ストーリー)
クリエーター情報なし
NHK出版


 なんといえば、いいのでしょうか。
 前回の芋虫文さんが奥へ入る大前提からしておかしなものですから、話がもう、完璧異次元へ飛んでいって、宇宙人のコスプレ芝居DEATH !!! 
 とあきれつつ、サトウ アイノスケさまがコメント欄で、「小学生並みのレベルの低さと、歴史マニア向けの敷居の高さがごっちゃになっている」とおっしゃったのが気になりまして、「防長回天史」の禁門の変後の部分を読み返してみました。
 いったいどこから、禁門の変直後、四国連合艦隊来襲前に、久坂家がとりつぶされたなどという話が出てきたの?ということが、気になってまして。
 私、いわゆる「俗論派」(椋梨藤太さんが代表格です)が長州の政権を握ってから、禁門の変関係者の処分は行われたと、なんとなく思い込んでいたんです。

幕末維新の政治と天皇
高橋 秀直
吉川弘文館


 うかつでした! 高橋秀直氏の「幕末維新の政治と天皇」が、「防長回天史」に忠実に、そして簡潔にまとめてくれていました!
 禁門の変からほんの二十数日後の8月3日(四国連合艦隊の下関砲撃開始が8月5日なので、その2日前です)、「正義派」の周布政之助と家老の清水清太郎は、岩国藩当主・吉川経幹に朝幕への周旋を依頼しようと、藩主敬親の申告書を持って岩国へ出かけます。
 その申告書の中身を、高橋氏がまとめておられるのが、以下なんです。
 「脱走の者が諸浪士に加わり騒動を起こそうとしているという情報が先月18日に入ったので、沈静のため家老を派遣したところが、彼らは脱走者に誘われ自分の趣意を取り違え彼らに同心、ついに騒擾を起こしてしまった、このことは幾重にも恐懼する、よって自分は辞官退隠したい、また三家老については取り調べの上、その罪をきっと申しつけるつもりである」 

 そして、高橋氏は以下のように評されています。
 三家老そして参謀の死罪は、「俗論党」政権が征長軍に屈服して行ったものではなく、実際には「正義党」政権の段階で決まっていた方針だったのである。また注意すべきことは、ここで三家老の処分のみではなく、敬親の辞官退隠が語られていることである。出先をスケープゴートにすることで生き残りをはかろうとした長州であるが、御所への攻撃は大罪であり、それのみで済むかは大いに疑問であり、藩主もなんらかの形で責任をとることが不可避となる可能性が高い。そこで藩政府側は敬親の退隠を自ら申し出たのである。敬親は「正義党」政権にとってまことに都合のよい藩主であったが、けっして絶対的なものであったわけではなく、社稷の存続のためには切り捨てることのできる存在だったのである。
 「正義党」政権は、藩の存続のため同志と藩主を切ることにしたのである。

 この時点で家老たちは拘束、参謀たちは罷免、謹慎などの処分を受けていましたから、久坂家もこのままいけば断絶決定、だっただろうとは思うのですが、ドラマでのありえない家捜しは、タイミングが早すぎますし、兄さんの杉梅太郎(民治)も「正義派」官僚で周布政之助は友人なんですから、第三者みたいな顔をしているのもおかしいですし、いまだ政権をにぎっていません「俗論派」の椋梨家に文句をつけにいくのもキチガイじみていますし、殿様にいたっては、ご自身が辞官退隠する予定だったんですから、会える身分になっても無駄で、奥勤めの目的がそれだというのは、芋虫文さんが痴呆に見えるほど馬鹿げています。
 プロデューサーさんも脚本家さんも、歴史の専門家から話を聞いて事実関係を調べたんでしょうに、なんでここまでおかしな外し方をするんでしょう。信じられません。 

 それに、ですね。
 「なぜ久坂家が取りつぶされなければならないのかわからない」という、芋虫文さんの理不尽感は、高橋論文の前半部分「世子と五卿も上京途上にあり、長州は藩を挙げて進発クーデターをめざしていた」という事実があり、にもかかわらず、失敗に終わったとたんに窮地に陥った藩庁が同志を切って捨てた、ということが描かれていてこそ、同感できるものでして、それでも梅太郎か、それこそ小田村が、「夷敵の来襲があるのだし、長州が救われるためにいまは我慢しよう。殿様でさえ退隠されるのだから」と妹をなぐさめつつ、言ってきかせそうなものです。
 ところがこのドラマでは、「一部の脱藩者と他藩浪士の暴走にすぎません」という窮地に陥ってからの長州の言い訳を、最初からそうであったかのようにやっていたわけですから、芋虫文さんの逆ギレには、見るものだれも、まったくもってついていけないわけなんです。

 今回、もっとも共感できましたのは、禁門の変で兄の入江九一を亡くしました野村靖が、四国連合艦隊との講話談判に反対しつつ、「講和なんぞさせちゃあならん。殿のご命令じゃと? わしらは藩命で京へおもむき、そして兄は、久坂さんは死んだ!」と、芋虫文さんに言った場面でした。いやだから、これまでにちゃんと、藩命で行ったんだ、という場面を描いておけよっ!!!という話です。
 まあ、もっとも野村は、後続部隊にいて京都まではいっていませんし、奇兵隊員ではありません。客分ではあったらしいですが。
 品川弥二郎は八幡隊にいて、久坂とともに鷹司邸に突っ込んだメンバーですが、帰国後は御堀耕助などとともに、御盾隊を結成していて、これまた奇兵隊ではありません。

 この時期の奇兵隊の総監は赤根武人で、四カ国連合艦隊を相手に奮戦し、従軍通訳としてイギリスの軍艦に乗っていましたアーネスト・サトウをして、「日本人はよくたたかった」といわしめていますのに、なんで登場させなかったんですかね? もっとも古川薫氏の「幕末長州藩の攘夷戦争―欧米連合艦隊の来襲 」(中公新書)によれば、この部分の奇兵隊日記が欠けているそうでして、どうも、山県有朋のしわざらしいんですよね。

 ともかく。今回の中心となります講和談判の話の前に、芋虫文さんの奥勤めにつきまして、少々。

江戸奥女中物語 (講談社現代新書)
クリエーター情報なし
講談社


 畑尚子氏の「江戸奥女中物語」に、江戸時代の「奥奉公出世双六」が紹介されています。奥御殿勤めを想定して遊ぶ絵双六で、最下層のお末(御半下)からはじめ、上がりはお部屋さま(子供を産んだ側室)か老女(奥女中の身分として最高位の取締役)か、というものだそうです。
 実際の奥勤めでは、スタートラインですでに、最下層下働きのお末(御半下)か、主人に近侍するお次、お側か、という二種類にわかれます。
 士族の娘で御半下(おはした)から、といいますのは、通常、ありえません。
 勤める前に父親の百合之助さんが、「御殿勤めは外へ出られない」というようなことを言っていましたが、これもおかしなもので、けっこう、里帰りできます。ただ、里帰りのたびに、なにかおいしいものでも調達して、奥女中仲間に実家からのお土産を配らなければならなかったりで、けっこう物入りです。
 士族の娘ではなくとも、士分の養女になったりすることによりまして、御半下ではなくお次から、というのもありえました。そういう場合は大方、結婚前の行儀見習いです。

 芋虫文さんの御殿勤めは、もう荒唐無稽で、素性を隠して奥勤めって、なんの冗談かと思いますし、士族の娘が御半下見習い???って、もう、奥奉公出世ロールプレイングゲームの乗りですね。講和談判に望む高杉さんに装束を届けたら、次の段階へGO!とか言われてもねえ。いや、そんな芋虫文さんを評して都美姫さまが、「国を窮地に追いやった男の罪滅ぼしであろうかの」と言ったのには笑いました。
 いや、あーた。あーたの旦那も命令出した罪滅ぼしに辞官退隠だわさ。黒印の軍令状が見つかってるんだもの♪

 
大江戸の姫さま (角川選書)
クリエーター情報なし
角川書店


 関口すみ子氏の「大江戸の姫さま」という本の表紙を飾ります、この狆を抱いた女性、実は、銀姫さまのお姉さんの鏻姫さまなんです。
 長府毛利家(五万石の長州支藩)に生まれましたこの二人、どうも母親がちがっていたようでして、正妻の娘でした妹の銀姫さまが、本藩の世子夫人におさまるとい出世ぶりですのに、姉の鏻姫さまは、当時としましては行き遅れ気味の二十になってから、長府藩の家臣に嫁ぎます。
 これは、その結婚前に描かれたものでして、関口氏は「鏻姫の顔は二十歳そこそこの姫さまにしては、ちょっと意地悪そうにさえ見える」と評しておられます。
 田中麗奈の銀姫さま、なんとなくこの絵の姉姫さまに似ていませんか?(笑) 見出し絵は、一昨年、長府毛利邸でガラス越しに撮ったものです。

 それにいたしましても、この奥奉公ゲームの銀姫さまは暢気です。
 なにしろ、長府は下関にあります。「幕末長州藩の攘夷戦争―欧米連合艦隊の来襲 」によれば、銀姫さまの実家、下関にあります長府藩のお城は大騒ぎです。
 銀姫さまの義理の兄であります長府藩主の奥に勤めておりました老女の手紙が残っておりまして、その写しが長府博物館にあるのだそうですが、「フランスのでっかい軍艦が大砲を一発ぶっぱなし、それがなんと、お城の屋根を越えましたの。奥御殿は大騒動で、覚苑寺へお立ち退きと決まり、殿さまが門前まで行かれたところで、海より大砲をどんどんどんどん打ちかけてくる大合戦。後ろをふりかえり見れば、稲妻が黒雲のごとくで、どこへ逃げればいいのかもわからない大騒ぎ。大砲の轟音が絶え間なく、筆舌に尽くしがたい有様です」というような内容です。
 いや、先代長府藩主夫人、つまり銀姫さまのご生母は健在でして、長府にいたのだと思うのですが、奥奉公ゲームの銀姫さまは、実家も実母も、どうでもよかったんですかねえ。

 さて、講和談判の高杉晋作です。
 
薩英戦争 遠い崖2 アーネスト・サトウ日記抄 (朝日文庫 は 29-2)
クリエーター情報なし
朝日新聞社


 萩原延壽氏の「遠い崖2 アーネスト・サトウ日記抄」から、すでにサトウアイノスケさまがコメント欄で指摘されました突っ込みを。
 有名な「かれ(高杉)は悪魔のように傲然としていた」というアーネスト・サトウの言葉なんですが、続きがあります。
 が、やがておどろくほど態度をかえ、その後はなんの反対もとなえずにすべての提案に同意した。それには大いに伊藤(後の博文)の影響があったようである」 
 さらには、「わたしは回答書の内容と用語についてふれ、それは敗者から勝者におくられるものであるから、丁寧に書かなければならないと宍戸(高杉)に告げたが、わたしのことばは、かれをすこしく傷つけたようであった」 とも言っていて、高杉がそれほど、さっそうとしていたわけではないんですね。

 「防長回天史 6」「井上伯伝 上」を読み合わせまして、この和平交渉の高杉について、特筆すべきことは、「我が藩(長州)が馬韓に於いて貴国等の船舶に向かって砲撃したのは朝廷と幕府の命令なのだから、賠償金は幕府に請求なさるのが筋」と断固として譲らず、結局、それで決着したことです。
 ところが、この奥奉公ゲームドラマでは、「高杉はねばり強く交渉を進め、賠償金の支払い、彦島の借用などを退け、実質的に下関を貿易港となす内容の協定を結んだのである」と、思わず嘘つけっ!!!と叫んでしまう、唖然呆然のナレーションが入るんです。

 彦島の借用の件は、有名な話ですが、同時代の資料にはなく、はるか後年の伊藤の談話にしか出て来ません。私は、年老いた伊藤の与太話だと思っています。
 といいますのも、イギリスは、四カ国を代表して会談をしていたわけでして、租借地を要求すれば、他国から文句が出ることが確実で、なんとも面倒なことになるしかないわけですから。
 賠償金の支払いは、退けたのではなく、幕府に押しつけただけです。
 後は、武器はすべて取られても文句はいいません、二度と異国船砲撃のための武装はしませんと、無条件降伏に近いですし、パリでは長いこと、長州からの分捕り大砲が、戦勝の証(ひいては長州敗戦の証)に飾られていました。
 しかし、朝廷も幕府も、攘夷令を出したこと自体は否定できませんし、通商条約を結んだ主体であることを幕府が自負する限り、長州のなしたことの責任も、対外的にはとりあえず、幕府がとるしかありません。「朝幕の命令に従った攘夷である」という主張は、禁門の変におきます長州の正統性も訴えているわけでして、高杉は、肝心要のポイントは押さえていたわけです。

 そして、下関開港話です。
 いえね。高杉が出て行って下関で結ばれた協定とは、一時的な停戦協定であって、結局、正式な協定の話し合いは、四カ国代表と幕府との間で行われます。
 実はその席で四カ国代表は、「賠償金の支払いか、下関あるいは瀬戸内海の他の適当な港の開港のどちらかを選べ」と幕府に迫り、幕府は賠償金を選んだわけでして、それがなぜ、まるで高杉が下関を開港したかのような、仰天の異世界ナレーションになっちまうんでしょうか。

 サトウアイノスケさまのご指摘を受け、私、いろいろと本をひっくり返してみました。

長州戦争―幕府瓦解への岐路 (中公新書)
野口 武彦
中央公論新社


 野口武彦氏が、なにをどう考えられたのか、「下関での石炭・水・食糧など必需品の供給」 程度のことで、「これは事実上、下関が自由貿易港化したことに他ならない」と書いておられるんですね。
 いや、してないから!!!
 下関の大部分は支藩の長府藩領でして、本藩といえども萩藩の自由にはならず、この翌年の春、本当に下関開港をもくろんで、長府から下関を召し上げようとしましたおかげで、高杉、伊藤、井上トリオは、命を狙われます。それを知らない野口氏ではないと思うのですけれども、ねえ。ふう。

 しかしなんとも、どこをどうひねくって、奥奉公RPGパラレルワールドで、下関開港を成し遂げる超人高下駄晋作くんみたいな、明後日の方向へぶっとんだ妄想が生み出されるのか、勉強させられます。
 
クリックのほどを! お願い申し上げます。

にほんブログ村 歴史ブログ 幕末・明治維新へにほんブログ村

歴史 ブログランキングへ
コメント (8)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

珍大河『花燃ゆ』と史実◆27回「妻のたたかい」

2015年07月10日 | 大河「花燃ゆ」と史実

 珍大河『花燃ゆ』と史実◆26回「夫の約束」の続きです。


花燃ゆ 前編 (NHK大河ドラマ・ストーリー)
クリエーター情報なし
NHK出版


私、実は、三原清堯著「来嶋又兵衛傅」(小野田市歴史民俗資料館復刻)という、けっこうレアな本を持っております。
 その昔、山口県出身のご親切な方にいただきまして、いや、実はあまりよく読まないまま、今の今まで、本棚で眠らせておりました。
 いや、読んでびっくりです。なにがびっくりって‥‥‥。

 文久2年の夏、文久の改革で、幕府は参勤交代の制度をゆるめて、大名の妻子の帰国を許可しました。江戸藩邸の維持費を抑え、浮いた経費を武備充実にまわせ、という趣旨です。
 尊皇攘夷運動の先頭に立とうとしておりました長州は、世子(元徳)が幕府に訴えてこれを実現しましたので、当然、ご夫人方をみな、断固として国元へ帰す方針です。

 帰国といいましてもね。スイーツ大河『花燃ゆ』とBABYMETALに書いておりますが、江戸時代、大名の正妻と世子(お世継ぎ)は、原則江戸住まいで、大名の奥方といいますのは、大方、大名の娘ですから、これも江戸住まいが多く、要するに、江戸藩邸から江戸藩邸へ嫁に行き、生涯、江戸にいる場合が多かったわけでして、要するにご夫人方もお姫様も、お付きのお女中衆も、生まれ育った花のお江戸から、見ず知らずの遠いド田舎へ、しかも節約のために行かされる!!!といいます、まったくもって嬉しくない事態となってしまったわけです。

 そうせい侯の奥方・都美姫さまも、世子の奥方・銀姫さまも、当然のことながら、乗り気ではおられません。「来嶋又兵衛傅」は「忠正公勤王事蹟」から「長州へ往くのは鬼界島へでも流されるような心持で、なかなか言うことをきかれぬので、周布あたりも大変に困ったけれども、どうしても聞き入れぬ。その頃の老女で園山というのが居りましたが、この女がなかなか強情を張って奥方などを動かさぬ。それで周布など園山を追い出してしまおうという論で、桂小五郎に若殿様の訓令を持たせて上京させて殿様に訴える迄に至ったが、どうしても行われぬ。婦人というものはひどいもので、あれだけの豪傑が揃って排斥しようとするけれども動かすことができぬ」と引用していまして、出てきましたね、園山。
 そう。すっかり妖怪と化しましたこのドラマの文さんの「妻のたたかい」とは、奥御殿総取締・園山さまにお願いして、毛利家の御殿女中となり、出世してお殿様に近づき、なんで夫が死んだのか聞くこと!!!だったんです。
 思考回路がぶっとびすぎでしょう。どういう芋虫頭なのっ!!!としか思えませんよねえ。 ただただ気色悪くて生理的に受け入れられず、笑いもできませんでしたわ、私。

 ともかく。
 以下、スイーツ大河『花燃ゆ』とBABYMETALで書いたことを、簡単に述べます。
 大名の世子に嫁入った将軍家の姫君を、御住居(おすまい)さまと呼ぶのですが、江戸時代の感覚では、御住居さまは、夫よりだんぜん身分が上でした。
 絶倫将軍家斉の姫君、和姫さまは、萩藩世子・毛利斉広の御住居さまとなり、大奥から、お付き上臈庭田をはじめ、総勢47人の奥女中を従えて、萩藩江戸藩邸へ乗り込んできます。ところがこの和姫さま、嫁いで一年にも満たずに死去し、大奥へ帰った庭田は、やがて将軍家慶つきの上臈御年寄・姉小路となり、権勢を誇ります。で、ここからは私の推測なのですが、和姫さまつきだった奥女中の一人、つまりは姉小路の同僚に、世子・毛利斉広のお手が付き、都美姫さまは生まれたのではないでしょうか。毛利斉広は、藩主になってわずか20日足らずで死去し、跡継ぎを決めていませんでしたから大騒動になったんですが、どうやら、一粒種の都美姫さまの婿養子にそうせい侯を迎えて、大奥の実力者・姉小路の口利きで、ことなきをえたようです。 

 となれば、毛利家奥で権勢を誇る園山とは、江戸城大奥から来ました姉小路の同僚(都美姫さまの実母の同僚でもあります)、だったのではないのでしょうか。いかにも、江戸城大奥直伝の権威の振り回し方で、姉小路に似ています。
 「来嶋又兵衛傅」は続いて、「防長維新秘録」を引用しているのですが、世子夫人・銀姫の方は、「周布政之助が一策をもうけ、御殿山見物とあざむいて女儀旅装を整え、一挙に江戸を発程せしめた」のだそうです。
 都美姫さまご一行が、これまた大騒動です。「藩公夫人を来嶋又兵衛、桂小五郎等総動員で説諭する。なだめつ、すかしつ、おどかしつつ、あの手この手でやっと帰国をうながした」そうなのですが、「十二月二十五日夫人及び侍女一同出発せんとする時、侍女等江戸の風光をしとうて泣いて躊躇す。来嶋又兵衛行きてこれを叱し、しばらくにして泣く泣く駕籠を列ねて出発したのは、美しくもあったが、又あわれさをとどめた」のだとか。

 どうせ、ですねえ、わけのわからない「大奥」話にするんでしたら、この文久2年、周布政之助&来嶋又兵衛&桂小五郎VS園山&都美姫さま&銀姫さまバトルを、ぜひ、やっておいていただきたかった!(笑)

 久坂の養子の件なのですが、スイーツ大河『花燃ゆ』と楫取道明に付け加えまして、ドラマでは小田村と久の長男が非常に聡明なように言っているんですけれども、実は、健常ではなかったようすなんですね。後に妻は迎えているんですけれども、介護役だったのではないかと。したがって、子はおりませんで、現在の小田村家のご子孫は、養子の末なんです。次男・道明の娘が、長男(伯父)の養女となって、他家から養子を迎えた形です。

 小田村家は儒者でして、これは、通常の士族より、軽い身分といえるんですね。
 で、久坂はこのとき、れっきとした士分、大組に取り立てられていまして、小田村は相当に久坂が好きだったみたいですし、久坂が実力で成立させた士分の家を、大切にしてあげたい、ということで、道明を養子に出したのだろうと、私は思います
 
 で、文さんが道明を引き取って二人で住むなんぞ、絶対にありえません!!!
 もうすぐ、小田村も野山獄に入るはずですが、そのとき、久さんに書いた手紙かなんかに、「二人の子供云々」とあるらしいんですね。
 このばかばかしいドラマでは、久坂が死んだ途端に文さんは奥女中勤め、というへんてこりんな展開ですが、現実には、ほぼ一年間、文さんは久坂の死を嘆き、父百合之助を看取り、道明が久坂家の家督を継ぐのを見届けてから、おそらくは乃木希典の父親(世子夫人・銀姫の守り役)の紹介で、御殿務めに出ます。
 つまり道明は、ずっと久さんのもとにいた、と考える方が自然です。とはいいますものの、スイーツ大河『花燃ゆ』と楫取道明に書いてありますように、小田村家は弘法谷にあって、杉家とはごく近いのですから、毎日のように、ひんぱんに行き来があり、道明が杉家に泊まって従兄弟(小太郎)と勉学したり、遊んだりが日常だった、と考えるべきでしょう。
 平成の核家族じゃないんですから、あーた!


 それと、ですね。いいかげん、これもばかばかしかったのですが、禁門の変の責任者が久坂なわけないでしょうが!!!です。
 薩摩藩は、萩藩主父子が国司信濃に与えた黒印の軍令状を見つけておりまして、これがゆえに、長州征伐となったわけですから、どこからどう見ても長州は藩を挙げて禁門の変に臨んでいたということなんです。
 
京都時代MAP 幕末・維新編 (Time trip map)
クリエーター情報なし
光村推古書院


 上の地図は非常に便利で、禁門の変の長州軍のだいたいの進路も載っております。
 私、これまで、薩摩藩の側の禁門の変の資料を読んだことは、あります。
 この当時、数少ない長州びいきの薩摩藩士(とはいいますものの、数少ないながら、禁門の変で長州に味方して死んだ薩摩藩士もいたはずだったと思います、確か)でした桐野利秋が、一兵卒として積極的に長州と戦っていたという話と、まじめに戦わず長州人を逃がしていた、という話と、正反対の話が残っているものですから、ちょっと調べてみたわけでした。
 で、長州側から調べたことはまったくなかったわけなんですけれども、今回、「防長回天史 5」(マツノ書店版)をざざっと読んでみました。
 負け戦のせいか、記述が少なすぎなんですけれども、わかったことが一つ。
 来嶋と久坂が突っ走ったのが悪いのではなく、久坂はさっぱり突っ走ってはいませんで、軍令状が出て、挙藩一致の体制がとれるまで、ぐずぐずぐずぐずぐずぐす、作戦を引き延ばしたのが悪かった!!!ということです。

 禁門の変当時、長州の先遣隊は、京の周辺3カ所に分かれて駐屯していました。
 嵯峨天龍寺に国司信濃隊およそ800名。配下に来嶋又兵衛がいます。
 伏見長州藩邸に福原越後隊およそ700名。配下に御堀耕助(乃木希典の従兄弟)ほかがいました。
 山崎天王山に益田右衛門介隊およそ600名。この下に真木和泉、久坂玄瑞がいます。

 禁門の変を、蛤御門の戦い、といいますが、それは、勇将・来嶋又兵衛率いる遊撃隊が奮戦した蛤御門での戦いが特筆すべきものだったからでして、はっきり言いまして、長州藩兵の中で、まともに戦ったのは、来嶋又兵衛率の遊撃隊を含みます国司信濃隊のみだったんです。
 この遊撃隊、攘夷戦における光明寺党のうち、長州藩領に残った他藩人がまとまりまして、政変で落ちてきました七卿周辺の他藩人(御親兵だった人々が中心です)も加わり、来嶋又兵衛の配下となったもののようでして、中岡慎太郎が属したのもこれですし、この後も再編成されて転戦し、長州軍の有力な一翼となります。桐野利秋と伊集院金次郎で書きましたが、鳥羽伏見の伏見奉行所での戦いでも、土佐の後藤深蔵などに率いられて奮戦しております。
 土佐をはじめ、脱藩士が多いですし、死中に活を求めようと、死に物狂いの戦闘ぶりを発揮して、強いんでしょうね。
 そのぶん、暴走もしやすいですし、遊撃隊の熱気に煽られて、又兵衛じいさん、高杉もあきれるほどの突出ぶりだったんでしょう。

 禁門の変は、すでに長州に対します期限をきった撤兵令が出まして、じっとその場に留まっていれば征討されるところまで追いつめられてから、攻められる前に奇襲クーデターを!と、(おそらくは)来嶋又兵衛が計画したわけでして、夜中に行動を開始し、早朝に御所を警備します会津、桑名軍を襲って排除し、御所を占拠しよう、その勢いで宮中クーデターを断行!、という作戦ですから、三方面の隊がみな、早朝に時間をあわせて、御所に到着する必要がありました。

 「来嶋又兵衛傅」に出てくるのですが、伏見長州藩邸の福原越後隊は、最初から主力が萩の士族なので、やる気がなくて弱い!と見られていたそうでして、心配になった福原越後が、国司信濃に指揮官を貸してくれと頼みまして、御堀耕助(乃木希典の従兄弟)ほか20名ほどが、派遣されたんだそうです。
 まあ、しかし、焼け石に水、でして、しかも行く手をはばんだ大垣藩兵が、相当に強く、この隊は京洛に入れないで潰えます。
 この悔しさをばねに、御堀耕助たちは長州に帰った後、御盾隊(みたてたい)を結成することになるのですが。

 で、久坂のいた天王山の益田右衛門介隊が、また、どうにもおかしいんですね。
 山間の道路が狭くて砲車運搬が困難をきわめ、士卒の疲労が甚だしかっただの、桂川で朝食をとっていただので、久坂も真木和泉も、鷹司邸に到着しましたときには、すっかり夜も明けきって、来島又兵衛は戦死し、国司信濃隊は敗走した後だったんです。
 あんたらみんな、やる気あったんかいっ!!!と首をかしげつつ、「防長回天史」を読んでいて、謎がとけました。
 「益田太夫山崎路より当日天王山に入り込められ候はずにて、戦場へは出張間に合い申さず」 ということでして、益田は石清水八幡宮の社頭で貝曲とやらを奉納し、山崎に移って布陣したまま、動かなかったんです!!!

 推察しますに、久坂と真木和泉は、必死になって益田右衛門介をかきくどいたんでしょう。しかし益田はどーしても動こうとせず、仕方なく、自分たちだけでもと、遅ればせに、わずかな人数で苦労して砲を引きずりながら、鷹司邸にたどりついたんでしょう。
 なんだかねえ。久坂が気の毒でたまりません。

 真木和泉は、久留米水天宮の神官でして、水戸へ遊学して尊皇攘夷のイデオローグになり、伏見義挙に参加しようとしまして、久光に拘束され、送り返された久留米で幽閉されます。
 中山忠光卿が、攘夷戦のついでに久留米まで足をのばしまして、公卿の威光で救い出し、以降、真木和泉は長州藩のイデオローグとなったわけなのですが、手勢はわずか二十名足らずですし、長州藩の家老に、戦場の場で文句をつける立場にはないんです。

 周布政之助が進発に反対だったといいますのに、いったい誰が、黒印の軍令状が出るような手続きを踏み、やる気のない家老と旧態依然でぐだぐだの萩藩士の群れを、派遣したのでしょうか。
 これまでに何度も書きましたが、新式銃ならば買えばすむことでして、イギリスは当時徹底した自由貿易でしたから、金を出せば売ってくれます。
 問題は、それを使う歩兵を養成することでして、イギリスVSフランス 薩長兵制論争に、中岡慎太郎の書簡を引用して書いておりますように、「士族がとても貧しく、土佐の足軽より貧乏な者が多いので、ほんの少しの給料で歩兵になる薩摩以外の藩は、歩兵になる士族なんぞおりませんで、徹底的な藩制改革を行いませんかぎり、銃隊を編成することは不可能だったんです。

 御所のまわりは、公家屋敷に囲まれています。来嶋隊は、長州支持の公家屋敷に、前夜から味方の軍勢を潜ませていて、会桑軍をはさみうちにしたりもしていまして、薩摩軍が横から加わって会桑軍を助けさえしなければ、蛤御門を制圧していたでしょう。
 来嶋又兵衛は、野戦指揮者として、非常にすぐれていたのだと思います。
 だから、又兵衛は馬上で指揮していたのだから、せめて馬の借り賃くらいは惜しむなよ、NHK! いや、俳優さんが馬に乗れなかった、とか(笑)
 
 久坂は、どう見ても、軍事的な才能は、まるでなさそうですね。挙藩一致での進発を望みましたのは、政治的には確かにそうあるべきだったのかもしれないのですが、優等生的で、勝負勘に欠けていた、と言わざるをえません。
 そこらへん、高杉は正反対でして、勝負勘が抜群で、型破りな魅力があるんですよねえ。
 ただ、明治まで生きていたとして、どちらが仕事ができたかと言えば、久坂の方だった、と私は思います。
 高杉は、非常の人、でしょう。

 もう一つ、びっくりしましたことは、今回、久坂の最後の様子を調べていまして、気がついたのですが、入江九一の最後を語っているのは、南貞助でして、久坂と寺島に別れを告げ、鷹司邸から飛び出した一行の中に、南貞助はいたらしいんですね。ひいーっ! 高杉晋作の従弟・南貞助のドキドキ国際派人生 で書きました高杉の素っ頓狂な従兄弟にして弟、ですよねえ?
 びっくりです。高杉は、野山獄にいる自分の身代わりに、まだ年若い、南貞助を送り出していたんでしょうか。
 そうだとすれば、この馬鹿げたドラマの気持ちの悪い高杉とちがって、実物は、かわいいですねえ。

 ともかく。禁門の変で負け、攘夷戦で負け、ズタズタのボロボロになりましたからこそ、弱兵の長州は大改革を断行することができ、強い歩兵隊を持つことができた!わけですわよ。禁門の変では多くの惜しむべき人材を失ってしまいましたけれども、薩摩も薩英戦争を戦っておりますし、やはり、やるべし! 幕末攘夷戦!が、私の結論です。

 さて、辰路さんです。

 

 玄瑞の曾孫にあたられます久坂恵一氏は、「久坂家略伝」という私家本を出されています。
 玄瑞が京都に残しておりました遺児の秀次郎は、一粒種の男子・誠一をもうけましたが、これまた一粒種の恵一氏を残して、33歳の若さで病没します。
 母親をも早くに亡くした恵一氏は、祖父の秀次郎に引き取られ、まもなく秀次郎も歿し、恵一氏は、秀次郎の実母については、なにも聞いておられなかったようなのですね。
 そこで後年、恵一氏は、実の曾祖母について、いろいろと調べられました。

 まずは、戸籍に残ります秀次郎の実母「佐々木ヒロ」について、なのですが、恵一氏が調べられた範囲では、実在の有無さえ解明できなかったそうです。
 で、以前にも書いたのですが、山本栄一郎氏の推測で、「仮に実母を文の叔母さんの嫁入り先の佐々木家の養女扱いしたのでは?」説に、私は賛成です。
 秀次郎を、久坂玄瑞の実子として届け出ましたのは、まだ藩がありました明治2年のことで、萩藩庁への届け出なんです。
 藩政時代には、芸者は士族の正妻にはなれませんし(どうしてもという場合は、士分の養女にした上で妻にします)、士族が外で芸者に子を産ませ、正妻には子がなかったとしましても、家を継ぐのは芸者の子ではなく、親戚からもらった養子、という方が普通です。芸者に子を産ませることは、やはり、あまり褒められるものではありませんでした。
 とすれば、実母も士族の家に養子に入った女、と届け出ることは、ありそうなことなんです。

 秀次郎の生まれは、元治元年9月9日。久坂の死後、およそ50日です。
 当時の出生日は、いいかげんに届けられていることが多いのですが、秀次郎の場合、玄瑞の子であるかどうかにかかわりますので、正確だったと信じておきます。
 とすれば、秀次郎が母の胎内に宿りましたのは、文久3年の11月ころと考えられ、「久坂玄瑞全集」(マツノ書店版)によれば、ちょうどそのころ久坂は、京へ潜入していたようです。

 それで、恵一氏は、秀次郎の実母は、京都島原桔梗屋のかかえ芸妓・辰路であったと、結論づけておられます。
 8月18日政変の一月後、久坂は京にいましたが、桂小五郎の潜伏します大黒屋に、島原の角屋から派手に駕籠で乗り付けたことが、「会津藩庁記録文久三年第二巻」(248ページ)に載っておりまして、ほぼ、この時期に久坂がつきあっていた相手が島原の辰路さんでありますことは、確実なんですね。

 このドラマでは、辰路さんがものすごく貧乏な生い立ちで、しかも最後は芸者は首で下働き、などという、えらくおかしな話になってしまっていましたが、芸者は女郎とはちがいます。
 確かに、旦那は持っている場合が多いのですが、それは、衣装を季節ごとに新調する必要があり、ものすごく金がかかるためでして、基本的には、歌舞音曲の芸で身を立てています。
 士族の正妻にはなれませんが、相手が商人や農民だったら、正妻に迎えられることは普通にありました。
 まして島原の芸者は、相当に格式が高く、このドラマの辰路さんは、あまりに品がなさすぎ、です。
 それと、桂のつきあっていました幾松さんは、三本木の芸者で、島原の辰路さんとは、絶対に知り合っていないはずですが、桂もろくに出さないくせに、幾松を出してくるのは、いったいなんなんでしょうか。

 辰路さんの本名は、西村タツ。
 明治二年、秀次郎が認知されるのを見届けた後、島原角屋の主人と桔梗屋の女将の世話で、井筒家の養女となり、豪農の竹岡家に嫁入りして、明治43年まで、生きたそうです。
 「勤王芸者」(近代デジタルライブラリー)によりますと、「辰女は左褄取る身に似合はずいたって内気なおとなしい女でありましたから、立ち居振る舞い自然しとやかで騒がしきを好む客には向かぬが落ち着いた客の目につく。久坂はそのしとやかなところが、初見からなんとなく気に入った」のだそうです。
 結局、私は、久坂は辰路さんが自分の子をやどしたことを知らずに死んだのではないか、と思います。

 最後に、これは山本栄一郎氏のお話しなのですが、ほんとうの文さんは結局、養子にしていた道明よりも、久坂の実の子である秀次郎の方が、かわいいと思っていた様子、なのだとか。
 まあ、そうかもしれません。なにしろ、秀次郎は玄瑞に生き写しだった!わけですから。
 
クリックのほどを! お願い申し上げます。

にほんブログ村 歴史ブログ 幕末・明治維新へにほんブログ村

歴史 ブログランキングへ
コメント (7)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

珍大河『花燃ゆ』と史実◆26回「夫の約束」

2015年07月05日 | 大河「花燃ゆ」と史実

 珍大河『花燃ゆ』と史実◆25回「風になる友」の続きです。

花燃ゆ 前編 (NHK大河ドラマ・ストーリー)
クリエーター情報なし
NHK出版


 何度も申しますが、文も小田村も高杉もその嫁も、見るもうざったいので、すっとばします。 

 辰路さんです。臨月で出てきましたね。
 薩摩の愛人とやらに捨てられ、久坂とできて以来、つきものが落ちたように化け物風を脱した辰路さんですが、愛人の薩摩藩士に頼まれて久坂玄瑞をスパイしていた、といいますこの最初の設定が、ありえなさすぎの上に、久坂玄瑞を、どこまで馬鹿にするつもりなのっ!!!という代物でしたので、まずは、さかのぼってそこらへんの解説から、いきます。
 このドラマが貶めました、久坂玄瑞の実像をさぐる、という意味からも振り返りたいと思いますので、まわりみちにはなるんですけれども、おつきあいください。

王政復古への道 (原口清著作集)
原口 清
岩田書院


 原口清氏の論文「禁門の変の一考察」は、 一年前の8月18日の政変から始まります。
 珍大河『花燃ゆ』と史実◆23回「夫の告白」で書いたのですが、原口清氏は、「大和行幸の企画意図はあくまでも攘夷で討幕ではなかった」としておられます。
 その理由として、クーデターに動きました中川宮朝彦親王と会津藩は、長州と三条侯たちが討幕を企てたと明確に認識していなかったことをあげておられるのですが、一方、薩摩藩は、長州が討幕に動こうとしていると見ていたことも述べておられます。
 その根拠の一つが、文久3年(1863)8月15日付け、薩摩藩大阪留守居木場伝内から大久保利通宛の手紙に、「土佐藩士の話では、行幸先の大和で錦の御旗をかかげて、帝に討幕の命をくだしていただこう、という策略もあるという」(「忠義公史料」「玉里島津家史料」)と書いていることです。

 この土佐藩士が誰であるかは、容易に推測できます。
 英国へ渡った土佐郷士の流離英国へ渡った土佐郷士の流離 2に書いております、大石団蔵(高見弥一)です。
 つまり、芸者をつかって久坂をさぐるなどといいますまわりくどいまねをしなくても、政変直前、京の薩摩屋敷には、重役吉田東洋を暗殺して国へ帰ることはできない大石団蔵、那須信吾、安岡嘉助の三人の土佐藩士が、かくまわれていて、しかも彼らは、一年余り前、久坂を頼って京の長州藩邸にかくまわれ、土佐からの追っ手がそれを突き止めたため、久坂が薩摩藩士に頼んで預かってもらっていたわけでして、当然、久坂とは連絡がありました。

 唖然呆然長州ありえへん珍大河『花燃ゆ』で書いたのですが、久坂が中心となっていました馬関攘夷戦の光明寺党は、「中山の狂人」中山忠光卿を頭領に迎えていました。
 孝明天皇の侍従で、祐宮(後の明治帝)の母方の叔父です。
 倒幕の密勅にかかわった明治大帝の母系一族続・倒幕の密勅にかかわった明治大帝の母系一族完結・倒幕の密勅にかかわった明治大帝の母系一族と続けて読んでいただければわかるのですが、幕末の中山家は、祐宮に傷がつきませんよう、外祖父・中山忠能卿は、一応、慎重に身を処し、しかしその息子たちは、家司・田中河内介の影響もあってか、かなり早くから、諸藩の志士とつきあい、反幕的な動きを見せています。

維新への胎動〈上〉寺田屋事件 (講談社学術文庫―近世日本国民史)
徳富 蘇峰,平泉 澄
講談社


 前回も書いたのですが、薩摩藩の率兵上京が、いかに衝撃的な出来事であったか、このドラマに限らず、最近、語られなさすぎ、だと思うんですね。
 坂本龍馬の脱藩も、あきらかに、これに誘発されたものですのに、無視していることが多いですし。
  以下、主には「防長回天史 4」「久坂玄瑞全集」(ともにマツノ書店本) を参考にしますが、上、「維新への胎動〈上〉寺田屋事件 」は、わかりやすくまとめられています。

 久坂玄瑞という人は、非常に社交的な人で、松下村塾生の中で、他藩士ともっともよくつきあっていたといえます。そこが、高杉との大きな違いでして、高杉はわりに内弁慶、といいますか、中途まで、他藩人とはあまりつきあわない人でした。
 久坂の社交性はどこからきているのかと、つらつら考えてみたのですが、母親の実家が交通の要所・長門国阿武郡生雲村(現山口市)の名字帯刀を許された大庄屋だったことが、大きく関係しているのではないでしょうか。
 早くに両親、兄を亡くして、久坂の一家の位牌もこの母の実家にあり、かなり世話になっていて、結婚後は、文さんも何度も訪れたようです。
 
 大庄屋には、相当な財力がありますし(もちろん、中下級の士族よりはるかに金持ちです)、大方、その地方の文化を担ってもいて、詩歌俳諧、茶の湯などをたしなむ文人である場合が多いんですね。8.18政変の後、天誅組の変、生野挙兵、に担がれていました中山忠光卿、澤宣嘉卿は、ともに一時、久坂の世話で大谷家にかくまわれていまして、大庄屋の当主には、公卿とつきあうだけの教養がありました。
 久坂の教養と社交性は、母方の実家から受け継いだもの、と私は思います。

 久坂は、17歳で九州へ旅行に出て、19歳、結婚の二ヶ月後、江戸に遊学。以降、京阪、江戸へはたびたび出て、社交性を発揮し、諸藩に知友を得ます。
 薩摩の率兵上京は、突然起こったわけではありませんで、桜田門外の変以来、全国で志士の活動が活発になり、そんな中で、薩摩は注目の的でした。
 なにしろ先代藩主・島津斉彬は、安政の大獄の最中に、抗議の出兵を計画しながら急死していまして、この当時、まとまった数の歩兵部隊をもっていたのは、士族の数が桁違いに多い薩摩藩だけだったんです。

 文久元年、長州藩は長井雅楽の航海遠略策(開国公武一和論)を藩論として、朝幕間の周旋に乗り出します。
 航海遠略策自体は、要するに、「すでに国際条約を結んでしまったのだから鎖国には戻れません。朝幕一体となって国力を増強し、むしろこちらから海外に乗り出しましょう」という、当時、積極的開国論者が唱えていました一般論で、国力増強の具体策がさっぱりありませんから、空論にすぎないのですが、「国威を損なわず、従って朝廷の威信も損なわれない開国論」ということで、雄藩が斡旋に乗り出すというのですし、朝廷は一応受け入れます。幕府は幕府で、皇妹和宮降嫁が実現し、この際、多少下出に出ても、朝廷と一体であることを天下に示すことができると、乗り気でした。

 ところが、ですね。安政の大獄で藩主が謹慎したり、また藩士の犠牲者を出したりしました水戸、薩摩、土佐の一部藩士たちを中心に、尊皇攘夷派の諸国の志士たちが、この長州の動きを、非常に憎むんですね。
 もちろん、長州藩内でも、松陰に近かった松島剛蔵、桂小五郎、久坂玄瑞たちは、他藩志士と結んで策動を続ける一方、周布政之助に長井排斥を訴えるんです。
 実際、このときまだ、安政の大獄時の処分はそのままで、有志大名も松陰も復権していませんし、井伊大老本人は暗殺されましたが、その専横は、否定されていないんです。
 しかも、このとき、ロシア軍艦ポサドニック号が、対馬に勝手に上陸して占拠し、不法行為を働きながら、港の租借を要求して動かなかったんですが、対馬藩に助けを求められながら幕府は、ほとんどなにもできない有様です。結局、幕府はイギリス東洋艦隊の力を借りて、ようやくロシアを追い出すんですが、海軍増強は、非常に時間も金もかかる問題でして、航海遠略策は絵に描いた餅でしかありませんでした。

 松島剛蔵はオランダ海軍伝習を受け、長州藩の古い体質と戦いながら、なんとか近代海軍を作ろうと奮闘の最中だったわけですが、幕藩体制をひっくり返さないかぎり、それは不可能なのだと、身にしみていたことでしょう。
 松島剛蔵は元医者で、桂小五郎も実家が医家(士分の桂家へ養子に入りました)。久坂玄瑞はこのとき、現職の医家です。
 生粋の士分よりも、医家であった方が、あるいは簡単に、藩の壁を越えることができたのかもしれないですね。
 
 薩摩もまた、長井雅楽を中心とします長州の政治策動に不満で、あるいはだからこそ国父久光は、率兵上京を決意したのでしょう。
 しかし、久光は藩主の父というだけの身分ですし、薩摩藩内はともかく、対外的には藩主である息子の臣下にすぎないんです。
 文久元年の秋ころから、京都、江戸で薩摩藩士が盛んに工作していておりまして、噂がひろまっていきます。
 久光のつもりがどうであれ、前代未聞の率兵上京です。体制をひっくり返すことにつなげようと、もくろむ薩摩藩士、諸藩の志士が、多数現れました。

 久坂は萩の杉家に帰っていたのですが、文久2年の正月、まずは薩摩藩士の来訪があり、次いで土佐の坂本龍馬が、武市半平太の手紙を持って現れ、そこへまた薩摩藩士もやってきます。2月になってからは、土佐の吉村虎太郎、久留米藩士ほか、千客万来でして、このときこそ、文さんがもてなした可能性が非常に高く、なんであのくだらないニート龍馬の意味不明フレヘードに終わってしまったのか、まったくもって、わけのわからないドラマです。

 長州に人々が集まってきましたのは、一つには、下関の清末藩(萩藩の支藩・長府藩のそのまた支藩)飛地の豪商、白石正一郎が、薩摩の御用商人となって、糧食の世話などをしていまして、下関には情報が入ってきていたからです。
 前藩主・島津斉彬の信頼を受け、京、江戸で活躍しておりました西郷隆盛は、安政の大獄時、幕府に遠慮しました藩庁によって、島流しにされていました。
 久光はそれを呼び返し、情勢の探索係として、下関へ先行させます。
 久光に幕藩体制をゆるがすつもりがなかったことは確かですが、外様のただの藩主の父親が、一千名の兵を率いて上京すれば、ゆるがない方がおかしいでしょう。

 当然、長州藩当局もそう思いますし、3月、西郷隆盛が下関の白石正一郎宅に入ったとき、公式の応接役を出すんですね。
 唖然呆然長州ありえへん珍大河『花燃ゆ』で書きました、軍制改革の責任者・山田亦介(松陰の師、村田清風の甥)です。
 西郷に会った亦介は、「久光がどんなつもりでも、西郷が戦争にする気まんまんだから、大乱になる恐れがある。江戸の藩公をお救いし、長州も朝廷守護に立ち上がらねばっ!!!」と、届け捨てて、京へ向かうんですね。

 結局、長州は、改革派の老臣・浦靱負に手勢をつけ、兵庫警備の名目で京都藩邸に派遣し、薩摩が志士たちに引きずられて戦争になった場合、荷担する用意を固めるんですね。
 浦靱負の領地・阿月は柳井にありまして、その重臣・秋良敦之助は、松陰の父・百合之助の親友ですし、スイーツ大河『花燃ゆ』と西本願寺で書きました月性の後ろ盾となっていたのが、この浦靱負なんです。
 そもそも久坂は、最初、兄と親しかった月性に師事し、月性の勧めで、吉田松陰の元を訪れたんです。
 当然ですが、久坂ほか、元松下村塾門下のこのときの京への派遣は、浦靱負配下、ということで、正式なものでした。
 長井暗殺のためだけにこそこそしているかのような、このドラマの描き方は、いったいなんだったんでしょうか。

 長くなりましたので、最後に、原口清氏の「禁門の変の一考察」から、同感しました一文をぬき、辰路さんにつきましては、またまた次回へまわします。

「長州藩攘夷派指導者たちは、攘夷の意義を説くなかで、国家の栄辱は戦いの勝敗にはなく国体の立つか否かにあるとか、西洋列強の富強を例にして、日本の将来の富強は攘夷戦による臥薪嘗胆の苦難を経てはじめて達成できると説いていた。彼らが持っている封建排外主義的心情(これは確認されなければならないが)とともに、彼らが右のような認識で死中に活を求める道を選んだことは認めなければならないと思う」 

クリックのほどを! お願い申し上げます。

にほんブログ村 歴史ブログ 幕末・明治維新へにほんブログ村

歴史 ブログランキングへ
コメント (8)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする