郎女迷々日録 幕末東西

薩摩、長州、幕府、新撰組などなど。仏英を主に幕末の欧州にも話は及びます。たまには観劇、映画、読書、旅行の感想も。

映画『ホビット 思いがけない冒険』は忠臣蔵か?

2012年12月19日 | 映画感想
 ちょっと近藤長次郎シリーズをお休みしまして、映画です。
 昨日、行ってまいりました。『ホビット 思いがけない冒険』を見に。『ホビット 』三部作は、『ロード・オブ・ザ・リング 』三部作の60年前のお話です。
 原作『ホビット の冒険』では出てこないガラドリエルのおばはんが出ていまして、嬉しゅうございました。

映画『ホビット 思いがけない冒険』予告編



 もしかして、アラゴルンは明治大帝かの続きになるでしょうか。
 古い記事です。シャルル・ド・モンブラン伯爵についての情報を求めて、せっせとブログを書き始めた当初でした。
 しかし、あんまりにも読者が少なすぎましたので、ふってみた話題がアラゴルン。

 えー、私、二次創作をやっておりましたほどの指輪(ロード・オブ・ザ・リング)オタです。
 幕末と指輪物語と、どちらに先にはまったか、といいますと、実は「指輪物語」です。
 ほんの少女のころに、J・R・R・トールキンの作品を夢中になって読み、映画化にいたるまでの長い年月、変わらずこの世界への愛を育んでおりましたのは、壮大な歴史の中で繰り広げられます栄枯盛衰に、しかし、人が生きるということへの哀歓が、ものの見事に歌われていたからでしょう。

 原作が好きで好きでたまらない、という場合、映画化は期待はずれであることが多いのですが、「ロード・オブ・ザ・リング」三部作は期待以上でした。
 イメージがちがいすぎる部分がなかったわけではないのですが、それを忘れさせてくれるときめきがあり、わけても二部「二つの塔」、三部「王の帰還」の騎馬王国ローハンの描き方は、原作以上のすばらしさ、と私には思えました。

Lord of the rings: Two Towers | Battle of Helmsdeep HD


 上は二部の角笛城の戦い。見ていてもう、涙が出てきまして、「ローハンの戦いは、なんかこう、日本人の心情に切々と訴えてくるよねえ」と思いましたら、パンフレットによりますと、この場面、黒澤明監督の「七人の侍」の影響を受けているんだそうなのです。
 下は三部のベレンノール野の戦いにおきます、ローハン騎馬軍団の突撃です。
 古い盟約を守り、全員が死を覚悟して、同盟国ゴンドールの窮地にかけつけたローハン騎馬軍団。
 「死を!」と叫びながらの決死の突撃に、胸を打たれます。

 Return of the King: The Great Battle - Arrival of Rohan



 実は、ですね。
 「ホビット」の上映は、吹き替え&3D版と字幕版の2種類を上映しておりまして、私の行きました映画館は、同じ階の二つのホールで、時間をずらして2種類上映していたんです。人が少なく、両方に入れてしまったりするものですから、私、字幕版を見るはずが、まちがえて吹き替え版のホールに入り、それが……、十分上映開始に間に合ったはずなのに、いきなりのクライマックスでして、おかしいなあ、と思いつつも、あまりの迫力に引き込まれてしまいまして、呆然と見ておりました。

ホビットの冒険〈上〉 (岩波少年文庫)
J.R.R. トールキン
岩波書店


 私、もちろん原作を読んでおります。
 「ロード・オブ・ザ・リング」三部作とちがいまして、「ホビット」三部作は、ドワーフが中心の物語のはずなのです。
 ドワーフといいますのは、どちらかといいますと無骨な感じの小人のはず、でして、「ロード・オブ・ザ・リング」のギムリは、原作のイメージに近く造形されておりました。
 「ホビット」でホビットのビルボとともに旅します13人のドワーフの中には、ギムリの父・グローインもおります。
 私、予告編もなにも見ていなかったものですから、思い描いていましたドワーフはずんぐり、むっつり。「前作とちがって地味な三部作になりそうだなあ」と思いつつ、見に出かけたわけだったのですが。

 いきなりのクライマックスシーンに、びっくり!です。
 「い、い、いや、三部作の最初だから物語前半のはずで、エルフや人間が戦うシーンなんてないよねえ???」
 しかし、なにしろ原作を読んでいますので、しばらく見とれていますうちに、「これドワーフなんだ! かっこうよすぎる……、トーリン・オーケンシールド!!!」と息をのみ、やっとのことで吹き替え版を見ていることに気づきまして、最初からやっております字幕版のホールに入り直しました。

 

 ドワーフの王、トーリン・オーケンシールドです。
 こんなイメージは持っていなかったのですが、ドワーフたちは、追われた故郷を取り返す旅に出ていたんですよねえ。
 帰ってから、原作を読み返してみましたら、ちゃんとそう書いてありましたわ。
 で、父祖の恨みを晴らす旅でもありまして、予告編にも使われています「はなれ山の歌(Song of the Lonely Mountain)」が、戦う男達の望郷の念をやどして、低く、響きわたります。
 「なんなの、この和テイストは!」とまたも感じました私、明治大帝に続きます七人の侍、そして今度は、「これ、忠臣蔵かも!!!」と思ってしまいました。

Tales of Old Japan
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 リーズデイル卿とジャパニズム シリーズでご紹介しておりますが、幕末に来日いたしましたイギリスの外交官、アルジャーノン・バートラム・ミットフォードは、帰国早々の1871年(明治3年)、忠臣蔵の英訳を出版しておりまして、今なおこの英訳は、英米で読み継がれております。

 本当の勇気と、ともに戦う男たちの熱い信頼の情。
 13人のドワーフたちは、なんとなく、中国軍に祖国を追われましたチベットやウイグルの人々を彷彿とさせます。
 祖国奪還のファンタジーだったんですねえ、「ホビットの冒険」は。

 一年後に公開のはずの第二部「ホビット スマウグの荒らし場」が待ちきれません。
 えーだって、私の大好きな、レゴラスの父・スランドゥイルが出てくるんです!!!



 よいですわ。
 この出で立ちは、出身がシンダールエルフ(海のエルフ)だとわかる感じでして、しっかり、大昔の話までやってくれるんでしょうか。
 えーと、ずいぶん以前に書きました愛しのレゴラスというページがまだ残っておりますので、ドワーフ嫌いの闇の森のエルフ王・スランドゥイルに関心がおありの方は、どうぞ。
 最後に、かつて私が二次創作で、中つ国に別れを告げるガラドリエルになりきってスランドゥイルに贈りました、言葉を。

 わらわはわらわなりに、スランドゥイルを愛しておりました。
 夫にしたいとはついぞ思ったことがありませぬし、夫や親族への情愛とは、また別の感情なのですけれども、もしかすると、これはわらわにとって、ただ一度の恋であったやもしれませぬ。
 さらば、中つ国。ここで紡がれし物語の数々。
 そして、緑森にありし君よ。
 これが、しばしの別れであらんことを。
 

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映画「海角7号」君想う、国境の南

2010年10月16日 | 映画感想
 「半次郎」で、そういえば去年も東京で映画を見て失敗したなあ、と思い出しました。
 
 
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 かなり期待していたのですが。ひたすら眠くなった駄作です。
 アマゾンのレビューの中で、男性の方が「スッキリとした満足感からはほど遠かった。 自分が男性だからかもしれないですが」と書いておられますが、いいえ、男性だからじゃありません。女が見ても駄作は駄作です。
 「特にトム・ルフロイ(ジェームズ・マカヴォイ)には、八割がた共感できなかった」って、まったく同感です。ついでに、アン・ハサウェイ演じるジェインにも。
 この監督さん、「情愛と友情」や、BBCドラマ「大いなる遺産 」は、なかなかよかったんですのに。
 ついでに言えば、「つぐない」のジェームズ・マカヴォイはよかったですし、「プラダを着た悪魔 」のアン・ハサウェイもステキでしたのに。
 ほんとうに、映画ってわからないものです。

 口直しに、期待が裏切られませんでしたお話を。
 今年見た映画の中で、といっても、今年はほとんど映画館に足を運んでいませんので、最近見た新作映画の中で、と言い換えた方がいいんですが、台湾映画「海角七号/君想う、国境の南」は、いい映画でした。
 松山へ来るかどうか心配していたのですが、「長州ファイブ」をやってくれた小劇場に、今年の春になってかかったんです。これだけはと、時間を作って見に行きました。

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【台湾映画】『海角七号/君想う、国境の南』日本上映(公開)予告PV



 YouTubeで本編の一部もたっぷり見て、ネット上でさんざん評判も読んで、映画としての出来に危惧がなかったわけじゃあないんです。

 60数年前、日本の敗戦によって台湾を引き上げた日本人の若い教師が、教え子の台湾人女性・友子に恋をし、心ならずも彼女を残して台湾を離れ、その思いのたけをつづったラブレターを、出すことなく生涯を終えました。父親の遺品の中にそれを見つけた娘が、初めて若き日の父の思いを知り、手紙をそえて、「海角七号」という植民地時代の台湾の住所に発送します。
 そして現代。台北でバンドデビューをめざしたアガが、夢破れて故郷の恒春へ帰り、郵便配達のアルバイトをして日本から来た古いラブレターの束を手にしますが、60年の歳月は長く、その住所に彼女はいません。
 故郷に居場所を見いだせず悶々としていたアガは、町起こしのための地元バンド結成騒動にまきこまれ、個性的なバンドメンバーたちとの奮闘の中で、自分をとりもどしていきます。
 現代の日本人女性・友子は、台湾でモデルになる夢が破れ、行きがかり上、素人バンドのマネージャーをすることになったのですが、次第にアガに引かれ、同時に行き先のわからない古いラブレターの存在を知ります。

 昔の恋人たちの思い出を、現代の恋人たちが共有するわけなのですが、現代の話は、恋物語よりも、素人バンドのメンバーたちのそれぞれの表情を、コミカルに描く方に重点がおかれ、しんみりとした過去の話とうまくとけあっていない、というような批評も見受けられましたし、現代の日本人女性がヒステリックに描かれすぎて、感情移入できない、という感想もありました。
 実際、現代日本人役の田中千絵、けっして上手い演技ではないですし、過去の日本人教師と、現代ではシンガーとしての本人、二役を演じる中孝介も、なぜか本人役の方のセリフが、妙に素人くさすぎたりもしました。
 しかしそんなことはどうでもよくなってくるほどに、熱いものが伝わってくる映画でした。
 
 見ていて、思わず「これって、ナッシュビル!」と叫びそうになったくらいで、ひさびさに、ロバート・アルトマンの傑作「ナッシュビル」を思い出しました。
 アメリカのカントリーミュージックのメッカ・ナッシュビルで、大統領選挙のキャンペーン・コンサートが行われることになり、全米から人々が集まってきます。24人の5日間を追った群衆劇です。シニカルな、突き放した描写で、断片的なエピソードを積み上げながら、「アメリカ」という国のあり方を、切り取って見せてくれました。
 確かにアルトマンは、登場人物を冷笑の対象として描いているのですが、見終わると不思議に、「ああ、人間はみんな、必死になって生きているんだよなあ」とでもいった感慨に満たされます。
 ラスト、田舎出の歌手志願のさえない女が、偶然の成り行きから大観衆の前でマイクを持ち、ド迫力な歌声だけで巫女のように場を支配してしまう、その圧倒的な歌の力が、愚かな人間たちが織りなす欲望の混沌でさえも、愛しいものに変えてしまったのだと……、そんな気がするんですよね。

 『海角七号」のテーストは、「ナッシュビル」とはまったくちがいます。
 混沌は混沌なのですが、登場人物それぞれにそそがれる視線は、ふんわりと、暖かなもので、むしろ感傷的でもあり、わかりやすく、楽しいドラマに仕上がっています。
 ただ、『海角七号」が描いているのも、「台湾」という国のあり方なのです。
 主人公のアガもそうなのですが、バンドメンバーには複数の少数民族がいます。
 台湾という九州より小さな国は、多民族移民国家です。

 明治初頭の樺太交渉 仏から米へ 前編で書きましたが、清朝が台湾を領有したのは、明治7年(1874)の日本の台湾派兵に衝撃を受け、その直後に派兵し、現地人(現在の少数民族)を虐殺してからのことでして、明治27年(1894)の日清戦争により日本の領有となりますまで、わずか20年でした。
 もちろん明の時代から、大陸からの移民はいたのですが、客家をはじめ(李登輝元総統がそうです)、福建、広東からの移住がほとんどですから、北京官話とは縁がありません。
 共通の言語がなかったところで、日本の統治がはじまり、台湾の公用語は日本語になります。
 そして50年。日本の敗戦で、中華民国領となり、公用語は突然、北京官話となるんです。
 そしてこの映画は、国語である北京官話ではなく、台湾語が主である、といいます。

 小数民族をも含む台湾という国のアイデンティティは、中国にあるのでしょうか?
 決して、そうではないでしょう。
 台湾では、西洋近代化の受け入れが、清朝、日本、中華民国と、他国の支配のもとで、他国の解釈のもとに進みましたけれども、すべてを受け入れて消化し、日本の統治を離れた後は直接的なアメリカの影響も受け入れ、例え世界中が認めてくれなくとも、しかし、あるがままに台湾は台湾であるという、自然なアイデンティティが育ちつつあるように見受けられるのです。
 アメリカのカントリーミュージックが、良くも悪くもアメリカのものでありますように、日本統治時代に伝えられた西洋音楽・シューベルトの野ばらは、過去と現在をつなぐ台湾の歌として、最後の大合唱となり、「ああ、人が生きるってことは、愛おしいことなんだよね」と、見る者をじんとさせてくれるのではないでしょうか。
 なんといえばいいんでしょう。そうですね……、ローカルなものの力は、最終的に普遍をも抱き込みえるのではないかと、夢見させてくれたことへの感動、なのかもしれません。

 日本人として、泣かずにいられませんのは、日本の統治を離れ20年以上経って台湾に生まれた魏徳聖(ウェイ・ダーション)監督が、古いラブレターの一節として、次の台詞を入れてくれたことです。

友子、悲しい味がしても食べておくれ。君にはわかるはず。君を捨てたのではなく、泣く泣く手放したということを。皆が寝ている甲板で、低く何度も繰り返す。「捨てたのではなく、泣く泣く手放したんだ。」と。

 
街道をゆく (40) (朝日文芸文庫)
司馬 遼太郎
朝日新聞社


 司馬遼太郎氏は台湾紀行で、昭和6年(1931)の台灣代表として夏の甲子園に出場し、準優勝した嘉義農林の名選手・上松耕一のことを書いておられます。「上松耕一」と日本名ですが、日本人ではありません。当時高砂族と呼ばれた台湾の山岳小数民族でした。
 昔、これを読んで調べたのですが、嘉義農林を甲子園初出場、準優勝に導いたのは、戦前・戦後を通じて長く甲子園の強豪だった松山商業出身の近藤兵太郎監督でした。「松山の人が!」と、びっくりしたものでした。
 日本人、大陸系台湾人、高砂族の混成チームでしたが、主力は、身体能力にすぐれた高砂族だったんです。
 この快挙に、当時の新聞で、菊池寛は「僕はすっかり嘉義びいきになった。異なる人種が同じ目的のために努力する姿はなんとなく涙ぐましい感じを起こさせる」と語っているそうです。
 上松耕一は、日本統治時代に結婚し、日本が去った後には、否応もなく中国名に変わりましたが、母校に奉職し、子供に恵まれ、司馬氏が台湾を訪れたときには、世を去っていました。
 司馬氏は、その未亡人・蔡昭昭さんと会食をするのですが。以下、引用です。

 宴が終るころ、昭昭さんが、不意に、「日本はなぜ台湾をお捨てになったのですか」と、ゆっくりといった。美人だけに、怨ずるように、ただならぬ気配がした。私は意味もなくどぎまぎした。

 司馬氏は、これに答えることができませんでした。
 日本人ならば、思っても口にすることができ難いその答えを、台湾人である監督が、語ってくれたのです。
 
 私は、日本統治時代の日本が、国家の実力以上に台湾経営につくしたことはみとめている。
 むろん植民地支配が国家悪の最たるものということが、わかった上でのことである。


 と司馬氏がおっしゃるように、差別のない統治だったわけではありません。いえ……、むしろ朝鮮半島よりも、差別は大きかったのです。
 また近代化の押しつけは、霧社事件を初めとする現地人の抵抗をも生んでいます。
 そして、日本の後に居座った中国国民党の統治が暴政だっただけに、日本を懐かしむ台湾の日本語世代を、しかし戦後の日本は、ふり向こうともしませんでした。

 台湾紀行は、週間朝日に、平成5年(1993)から翌年にかけて連載され、司馬氏は、民主化に手をつけはじめていた李登輝総統と親しくなり、旅の途中でも気さくなその姿が活写されていますが、最後に、衝撃的な対談をしました。日本語世代の台湾人である総統は、このとき初めて、日本語によって、台湾という国のアイデンティティを語りました。
 このことは、中国の怒りを買ったのですけれども、司馬氏はこのとき、総統の決意に渾身の共鳴を示すことで、昭昭さんへの、せめてもの返答となさったように思えるのです。

 ささやかな台湾のアイデンティティは、チベットやウィグルのように、どん欲な中華帝国に踏みにじられてしまうのでしょうか。
 台湾における『海角七号』の大ヒットが、未来へつながることを祈らずにはいられません。

 国会図書館から頼んでいたコピーも届きましたし、次回から、お常さんのシリーズにもどりたいと思います。

 
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『抱擁』 映画と原作

2009年11月18日 | 映画感想
すみません。シリーズの途中で、ちょっと寄り道を。
19世紀のイギリスが舞台になっているというので、かなり以前に買って、一度は見ていたDVDです。

抱擁 [DVD]

ワーナー・ホーム・ビデオ

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 最初に見たときの印象は、それほど強いものではなかったんです。
 地味で、品はいいけれども、わりに通俗的なメロドラマ、といった感じでして。

 この映画は、イギリスを舞台に、現代と19世紀と、百数十年の時を隔てた2組の恋人たちを、平行して描いています。
 イギリス・大英博物館の研究施設で、19世紀イギリスの桂冠詩人、ランドルフ・ヘンリー・アッシュを研究しているアメリカ人の青年が、ふとしたことから、アッシュ直筆の女性宛手紙の下書きを発見します。調べたところ、どうもその手紙は、女流詩人のクリスタベル・ラモットに宛てたものらしく、青年は夢中になります。アッシュには、妻以外の女性との浮いた話はまったく伝わっておらず、もし、手紙が本当に出されたものであり、二人の間に交流があったとすれば、英文学史上の大発見なのです。
 青年は、クリスタベル・ラモットの研究家である若い女性教授を訪ね、二人はともに、19世紀の恋人たちの足跡を追いかけつつ、自分たちも恋に陥っていきます。

 こういう筋立ては好みのはずですし、役者さんも悪くないですし、19世紀の風俗もけっこう忠実に描かれています。で、あるにもかかわらず、なぜ印象が薄かったか、といいますと、19世紀の部分があんまりにも絵画的で、よくある名画調で、一方、現代の二人はあまりにも普通の現代人すぎでして、なるほど、二つの恋は時代に応じて、それなりによく描かれているのですが、なぜ現代の二人が、過去の二人の足跡を夢中になって追いかけるのか、その熱情が伝わってこないんです。あー、きれいな恋よね、というだけで終わってしまう、というんでしょうか。

 とはいうものの、なにかひっかかるものがありまして、今回、もう一度、見直してみました。で、思ったんです。これは、原作の方がおもしろいのではないだろうか、と。

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 読んでびっくり、です。よくもまあ、これを映画化できたものだと。
 久しぶりに読んだすばらしい翻訳小説でした。といいますか、文学が力を失いました現代において、映像ではできないこと、小説ならではの試みが存分につめこまれていまして、著者に脱帽です。
 これほど懲りに凝った作品を、です。ごく一般向けの映画にしようと思えば、古典的なロマンスにするしかなかったのだと、それも納得です。ただ……、まったくもって一般的ではない私の好みからしますと、もっと原作に忠実に登場人物を設定し、作中の叙事詩をも映像化し、かぶせて、登場人物の心理を掘り下げた長編が見たい!のですが、いまどき、そんなことにお金をかけてくれる映画会社は、ないんでしょう、おそらく。

 クリスタベル・ラモット役のジェニファー・エイル(エール)は、BBCドラマの「高慢と偏見」 [DVD]で、主人公のエリザベスを演じた役者さんです。演技達者で、19世紀の雰囲気にぴったりではあるのですが、自己主張の強い、時代の枠をはみだそうとする女の強烈な個性や、なんというんでしょうか、いかにも冷ややかな隔絶した美しさが、容姿にないんです。オースティンの作品や、あるいはジェイン・エアならばお似合いなのですが。
 第一、原作におけるクリスタベル・ラモットの髪は、白に近い金髪、つまりプラチナ・ブロンドでして、それが、物語のキー・ポイントになっています。一言でいって、クリスタベルは塔に閉じこめられたラプンツェルであり、ラプンツェルを閉じこめる魔女でもありました。
 私のイメージでは、ニコール・キッドマンです。見てないんですが、「めぐりあう時間たち」 [DVD]で、ヴァージニア・ウルフを演じたのですから、十分にこなせただろうに、と思います。
 ランドルフ・アッシュは、もうこれは好みの問題なんでしょうけれども、ルパート・エヴェレット。ジェニファー・エイルは、アッシュの妻、エレンだとぴったりだったんですが。映画では、あまり強いイメージがなかったエレンですが、原作では、陰の主役です。クリスタベルを裏返してみればエレン、という感じで。
 現代の恋人たち、アッシュを研究する学者の卵、ローランド・ミッチェルは、原作ではアメリカ人ではありませんで、イギリス人。これはもう、ぜひ、コリン・ファース。クリスタベルの研究家、モード・ベイリーは、グウィネス・パルトロウでも悪くはないんですが、見た目の氷の姫君然とした冷たい雰囲気がいま一つ。ニコール・キッドマンの一人二役希望、です。
 
 ランドルフ・アッシュとクリスタベル・ラモット。19世紀の二人の詩人は、架空の人物です。
 訳者あとがきによれば、アッシュのモデルはロバート・ブラウニング。うーん。バーティ・ミットフォードの友人ですわね(リーズデイル卿とジャパニズム vol5 恋の波紋参照)。
 クリスタベルの方は、クリスティーナ・ロセッティ(ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティの妹)、エミリー・ディキンスン、そしてブラウニング夫人のエリザベス・バレットが、モデルとして考えられるそうです。
 物語の焦点となる二人の往復書簡はもとより、二人の恋をぬきには成り立たなかった重要な長編詩も、全部、著者が作り上げたものでして、そればかりか、エレン・アッシュをはじめ、二人の周辺の人物の日記や書簡が次々に引用されるのですが、これも全部、創作です。驚嘆しますことには、ちゃんとヴィクトリア朝の文体なのだそうです。
 さらに、現代の登場人物は、主人公の男女二人をはじめ、その多くが、アッシュまたはクリスタベルの研究者です。それぞれに個性的な研究者たちの、詳細な脚註付きの論文が引用され、いえ、実はこの脚註、あまりにも専門的にすぎまして、全部は訳出されてないそうなのですが、すべてが創作なのです。アッシュに関する創作論文に以下の脚註がありまして、もう、目眩がしました。

「(アッシュの葬式の様子について)スウィンバーンがセオドール・ワッツ・ダントンにあてた手紙の中でそう記録している。A.C.スウィンバーン『書簡集』五巻 二八〇頁。スウィンバーンの『老いたる世界樹と教会墓地のイチイ』なる詩はR.H.アッシュの死去を悼む思いに誘発されたものと言われている」

「わあっ!!! アッシュって架空の人物……、だよねえ???」と、思わず叫びたくなるではありませんか。
 アルジャーノン・チャールズ・スウィンバーンはもちろん実在の詩人で、バーティ・ミットフォードの従兄弟です(リーズデイル卿とジャパニズム VOL1ほか参照)。ワッツ=ダントンも、もちろん実在しますし、アルジー(スウィンバーンを私が勝手にこう呼んでいます)の友人だったことも事実です。

 アルジーは、クリスタベルの長編叙事詩『妖女メリュジーヌ』の評価者としても登場します。「控えめながらも、たくましい蛇の物語で、女性の手になる作品とは思えぬほどの力強さと毒気をはらんでいるが、それは迫力あるストーリーの展開によりも、むしろ想像力を象徴するコールリッジの蛇のように、己れの尾を己れ自身の口にくわえたイメージによるところが大きい」と評しているとされていまして、伝説を素材にしたクリスタベルのこの作品は、一度は忘れ去られながら、1960年代以降のフェミニズム文学興隆の流れの中で見直された、という設定ですので、後期ラファエル前派の仲間だった唯美派詩人のアルジー(リーズデイル卿とジャパニズム vol10 オックスフォード参照)が評価していた、というのは、いかにもありそうなことなのです。
 
 アルジーだけではありません。エドマンド・ゴス(リーズデイル卿とジャパニズム vol9 赤毛のいとこ参照)も評論文に出てきますし、ウィリアム・ロセッティも出てきます。ウィリアムは、ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティの弟でして、英仏世紀末芸術と日本人に出てきました薩摩密航イギリス留学生の吉田清成と畠山義成がロセッティとお茶したらしい話は、このウィリアムの書簡の中に出てきます。アッシュとクリスタベルは、バーティ・ミットフォードと同世代で、二人が生きたイギリスには、長州や薩摩の密航留学生たちがいて、見事に、幕末から明治初年のお話なのです。

 そういえば、映画でもさわりだけは描かれていますが、19世紀の恋人たちの関係に、降霊会(まあー、その、コックリさんの世界です)が重要な役割を果たしていまして、その関係で、スウェーデンボルグの名も出てきます。吉田清成や森有礼が傾倒していましたハリス教団は、このスウェーデンボルグの流れをくむもので、「江戸は極楽である」を書いたときには、よく知らなかったのですが、19世紀の英米で流行った降霊会も、同じ流れの中にあるものだったんです。「ねじの回転 」の著者、ヘンリー・ジェイムスの父親が、スウェーデンボルグを信奉する宗教哲学者だったりします。
 非常におおざっぱな感触でしかないんですが、ラファエル前派や唯美主義と、霊体験を重んじるスウェーデンボルグの神秘主義は、ごく近い場所にあり、平田国学が霊界を重んじていたことを考えますと、案外、幕末日本の文化は、19世紀欧米のこういった流れになじみやすいものであった、という気がします。

 ところで、クリスタベルの名は、サミュエル・テイラー・コールリッジの「クリスタベル」を、モード・ベイリーの名は、クリスティーナ・ロセッティの「モード」を連想させますし、私が思いつくのはその程度でしかないのですが(といいますか、コールリッジが登場しまして、私ははじめて、連想を期待した名だということに気づいたのですが)、この小説は、例え英語圏の住人であっても、よほどの文学オタクでなければ、十二分には鑑賞しきれないのではないでしょうか。

 英文学通が読めば、そういう深い、といいますかディープな楽しみ方ができる小説なのですが、とはいうものの、この小説のすばらしさは、例え私のようにろくに英文学を知らなくても、19世紀のロマンスを掘り起こし、その時代に生きた人々を生々しく甦らせる、という、架空の探検に参加できるところにあります。これぞ、小説を読むことの醍醐味、です。
 いい作品にめぐりあいました。


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ブーリン家の姉妹

2008年11月03日 | 映画感想
 書きかけの記事を多数かかえながら、またまた脱線しまして、「ブーリン家の姉妹」です。
 1日は映画が1000円で、たまたま土曜日に重なりましたので、行ってまいりました。

 ブーリン家の姉妹 公式サイト




 もともと、コスチュームプレイが好きですし、いまちょっと注目しているお話でもあったんですよね。
 えーと、この映画には原作小説「ブーリン家の姉妹 」がありまして、読んではないんですが、かならずしも史実に忠実な小説ではないようです。

 注目している、といいますのは、原作小説ではなく、ヘンリー8世とアン・ブーリンの結婚の史実です。
 この結婚は、その後の大英帝国の礎となりましたイングランド国教会誕生のきっかけでしたし、二人の間に生まれたエリザベス1世は、大英帝国興隆の基盤を作った君主ですし、まあ、近代国家イギリスの源をたどればこの結婚にいきつく、という見方が、できなくもないわけでして。



 とりあえず、この件に関する私の歴史知識ですが、概略は知っております。ヘンリー8世と6人の妻、といった類の本は、複数読んだ覚えがありますし、アン・ブーリンとエリザベス1世については、他にもいろいろ読んだように思います。映画でいえば、ごく若い頃に、テレビ放映された「1000日のアン」は、見ました。しかし、忘れていることも多く、詳細には存じません。

 それにくわえて、なにしろ映画の題名が「ブーリン家の姉妹」。アン・ブーリンには、先にヘンリー8世の寵愛を受けていた妹(姉説が有力なようです)がいて、同じ男に愛された姉妹の葛藤を描く、というふれこみでしたから、さほど、歴史的な正確さを期待したわけではありません。
 
 で、結論からいいますと、ちょっと中途半端な映画になってしまっているのではないか、ということです。



 アン・ブーリンの妹、メアリーを演じるスカーレット・ヨハンセンの存在感は強烈です。
 この人の映画、「アメリカン・ラプソディ」「真珠の耳飾りの少女」を見ているだけでして、顔立ちをいうならば、くちびるが厚すぎて好みではないのですが、なんというのでしょうか、表情、目のみで語る押さえた演技をやらせると、見事な女優さんです。「真珠の耳飾りの少女」など、もう、この人なしにこの映画成り立っただろうか、と思ったほどでした。
 まあ、ですから、ひかえめでいて、実は芯が強いメアリー役はよく似合っていますし、その存在感で、ナタリー・ポートマン演じるアン・ブーリンを、食っています。
 顔立ちだけをいうならば、ナタリーの方が端正な美貌、いいかえるならば、きつい感じの美しさです。王に正式の結婚を迫って、国の宗教のあり方まで変えさせてしまい、本来、身分からいえばありえない王妃の座を勝ち取る、という、アンの気性の激しさに、ぴったりといえばぴったりで、演技が下手かといえば、そうでもないのですが、ともかく存在感が薄いんです。
 要するに、演技が単調なんでしょう。



 これは、シナリオと演出の責任だと思いますが、姉のアンは野心まんまん、はいいんですが、前代未聞の挑戦を企てたわけなのですから、この人にもこの人なりの心の揺れ、ひるみもあったはずですのに、成り上がりたい一直線、に描きすぎなのです。
 で、この人が必然的にかかわらざるをえなかった政治の部分については、実におざなりでして、ローマ教皇権の否定、というイギリス史上の大事件が、いともあっさりと片付けられています。ここらへんは、王の描き方にも、粗雑なものがあります。
 とすれば、です。いっそうのこと、はっきりとアン・ブーリンは脇役において、スカーレット・ヨハンセンのメアリーを、主人公にすればよかったのではないか、と思うのです。
 ところが、これが中途半端なところで、メアリーはアンよりも先に王に愛され、男の子を産むのですが(史実としては子はなかった説の方が有力です)、産んでから後、いったいその男の子がどうなったのかさっぱり描かれませんし(男の子が生まれて王が無関心って、ありえんですわね)、最初の夫が死んだことさえはっきり出てこないまま、最後の方で二度目の結婚をします。
 これでは、いったいメアリーがなにを考えて生きているのか、さっぱりわからないではありませんか。

 

 この映画の趣旨としては、姉妹の葛藤が描きたかった、ということで、そこはまあ、そこそこ描けている、とは思います。しかし、それを重んじるあまりに事実をまげて、かえって人間が描けていない、という感じを受けますし、その「時代」にいたっては、まったく描けていないでしょう。おかげで、妙に平板な映画になってしまっているのです。
 アン・ブーリンに関していえば、フランスにいた期間がたった2ヶ月って、あまりにありえない話ですし、処刑の理由としてあげられた姦通の相手が実の兄弟のみ、というのも、複数との姦通がでっちあげられた(あるいは全部が全部でっちあげではなかったのかもしれませんが)ことは、よく知られた事実ですので、どんなものでしょうか。
 話の簡略化は、映画化ではさけられないことではあるのですが、簡略の仕方がまずいのです。

 とはいえ、スカーレット・ヨハンセンのメアリー・ブーリンが見られただけでも、1000円の値打ちはありました。DVDを買おうとまでは思いませんが。

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パステル調「マリー・アントワネット」

2007年01月24日 | 映画感想
マリー・アントワネット〈下〉

早川書房

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見てまいりました、映画マリー・アントワネット。
等身大のマリー・アントワネット で予想しておりました通りの映画でした。好みです。
欲を言いますならば、です。フェルゼン伯との恋が、ちと軽すぎないかい? というところでしょうか。奥手のお嬢様設定なんですから、そういう場面では、初々しさを出した方がよかったのではないかと。
しかしまあ、恋の重さを描くなら、パリ逃亡のエピソードは欠かせませんし、ヴェルサイユにさようならで幕を引くのならば、軽くてよかったのかもしれません。



普通の女の子が、突然、絢爛豪華で格式張ったヴェルサイユ宮殿に放り込まれた、という臨場感が、よく出ていました。これはこれで、根も葉もある少女のファンタジーではないかと。
検索をかけていたら、ベルバラの池田理代子氏が、公式掲示板で、「内容が納得いかないのでお勧めできない」と発言なさっているらしいと知り、好奇心を押さえられずに、見に行きました。ほんとうでした。
まあ、あんまり社会派受け、一般受けする映画では、なさそうな気もしますよねえ。それでも、日本ではけっこう初日の動員がよかったようで、宣伝がうまいんでしょうか。
ま、なんといっても本物のヴェルサイユ宮殿ですから、観光映画のつもりで見てもいいですし。
パンフレットを買って、一つ、驚いたことがありました。
ええっ!!! マリア・テレージア女帝が、マリアンヌ・フェイスフル!?
昔、年上の男性が大切そうに持っていましたドーナツ盤のシングル「アズ・ティアーズ・ゴー・バイ」。
ミック・ジャガーの恋人だった軽そげなねーちゃん、ですよね?
あー、びっくりした。



花とお菓子とシャンパンと、ドレスにジュエリー、扇にパンプス。すべてがパステル調の夢の世界で、面白うてやがて哀しき乙女かな。
ああ、もう一つ欲を言えば、ですね、オランダが日本から運んでいっていた漆器を、ですね、出していただきたかったかなあ。パステルの中に、漆器の黒と金が入ると、ステキに締まったと思うのですよね。マリー・アントワネットの漆器のコレクションは有名ですし。


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ナルニア国物語 第1章:ライオンと魔女

2006年03月01日 | 映画感想
先週の土曜日、先行ロードショーで見てきました。
一言で感想を述べるならば、イギリスの田舎へ旅に出たはずなのに、そこはディズニーランドだった、という感じ、です。あるいは、イギリスの素朴な田舎料理を食べに出かけたら、ファーストフードが出てきた、とでも。

いえね、ディズニーランドにはディズニーランドの楽しさがありますし、ファーストフードにもそれなりのおいしさがあります。だから、まったくだめだ、というわけではないのですが、大昔に原作を読んでいて、わくわく期待した身にとっては、はずれ、でした。
『ロード・オブ・ザ・リング 』の原作となった『指輪物語』にくらべて、『ナルニア国ものがたり』は、正統派ファンタジーであるだけに、映画にするのはより難しいのでは、とは思っていました。
『指輪物語』は大人向けで、スペクタクルの規模も大きく、物語世界に観客を引き込む仕掛けが、映像に向いているともいえます。
一方の『ナルニア国物語』は、いわゆる異世界ものなので、ごく普通のこちら側の世界と異世界と、双方を自然に描く必要があり、しかも今回映画化された第一巻『ライオンと魔女』の設定では、こちら側の世界が第1次世界大戦中、つまり百年近く昔です。百年近く昔の子供たちに観客を感情移入させた上で、今度はその子供たちが迷い込む異世界を、無理なく受け入れさせなければいけないわけでして、そうなってきますと、ディテールが非常に大切になってくるんですね。

ちなみに、『指輪物語』と『ナルニア国物語』の原作者はともにイギリスの大学教授で、お友達。書かれた時期もともに50年ほど前で、重なっています。

まず冒頭、原作の舞台である第一次世界大戦中のイギリスを、映画では第二次世界大戦中に変更していて、これに違和感がありました。
『指輪物語』ほどではないのですが、『ナルニア国物語』にも、反近代的な気分とでもいうのでしょうか、近代消費社会への嫌悪、つまり皮肉なんですが、ファーストフードやディズニーランド的な世界を拒否する姿勢、があります。
指輪にくらべてナルニアは、あまりにもキリスト教的、それもプロテスタント的ですので、くっきりと浮かび上がってはこないのですが、滅びゆく伝統社会への哀惜は、やはり、そこはかとなく漂っているのですね。

その気分を描くには、第一次世界大戦中でなければいけないのです。大正から昭和へ、第1次大戦後の30年は、大きいのです。『春の雪』が大正でなければ成り立たないように、です。
それが影響しているのでしょうけれども、こちら側の世界で異世界への通路となった田舎のお屋敷、これが映画では、ただの田舎屋敷なのも、いただけません。原作では、長い歴史が積み重ねられた館のように描かれていますし、であれば、中世の修道院や城から増改築を重ねたマナーハウスでしょう。
ナルニア国を内部に隠した衣装ダンスは、雑然と堆積した過去の遺物の中にあってこそ、存在感を持ちます。つまり、こちらの側にも数奇な歴史があることを感じさせなければ、不思議が起こりえる臨場感は、かもし出せません。

子供たちをはじめ、フォーンのタムナスさんや白い魔女(どこかで見たと思ったら『オルランド』)など、役者さんの演技は悪くはありませんでしたし、異世界の描き方には、よくできている部分も多いのです。たとえば、衣装ダンスからナルニアへ、というその瞬間の場面は、さすがに秀逸でした。
にもかかわらず、全体に臨場感がないのはなぜなのか、と思うのですが、やはり、ディテールが丁寧に描かれてはいないんですね。
原作を読んでいて、異世界をリアルに感じるのは、ほっかりと湯気があがっているような料理の描写だったりするのですが、そんな皮膚感覚が、映像ではいまひとつ伝わってきませんし、作りものめいた感じが、どうにもぬぐえません。

例えばケンタウロスなんですが、上半身の人間の部分は風格が備わっているにもかかわらず、やはり下半身がとってつけたように感じられたりします。
ケンタウロスといえば、パゾリーニの『王女メディア』に出てきまして、古い映画ですし、それほど資金に恵まれていたとも思えないのですが、人間の上半身のゆれが馬の下半身の筋肉にほんとうにつながっているような、そんな生々しい感じを受けた記憶があります。ケンタウロスの動きが少なかったので、できたことだったのかもしれませんが、ああいったリアルな感じがなぜ出せてないのか、不思議です。

またパンフレットによれば、「スペクタクルを見せる映画ではない」というようなことを、監督さんは言っているのですが、しかしやはり、たとえば調理や食事の場面など、原作が丁寧に描いている細部は省いて、原作では数行でしかない戦場スペクタクルには、力を入れています。
たしかに『ロード・オブ・ザ・リング』は、スペクタクルの方に重点を置いて映画化に成功しましたが、そもそも『ナルニア国物語』はそういうお話ではありません。
それでも力を入れるのならば、戦闘場面にもそれなりの臨場感を出すべきであって、中途半端に「血は流さない」というようなきれいごとばかりにしてしまったのは、失敗でしょう。決闘の場面など、相手は人間ではなく、狼なんですから、もう少しスリルや迫力を出す描き方をしても、残酷で子供に見せられないということには、ならないと思うのですが。

とはいいつつ、続編が製作されるのならば、全編見てしまうと思います。DVDは買いませんが。
なお原作の『ナルニア国ものがたり』は全7巻ですが、全体として一つにまとまりながら、それぞれ一冊の読み切りとしてでも読めてしまう形式です。
原作を読んでいなければ感想も変わったか、といわれると、あるいは、そうであるかもしれません。しかしおそらく、そもそも原作を読んでいなければ、この映画は見なかったでしょう。

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『トラトラトラ!』と『男たちの大和』

2006年01月26日 | 映画感想
『男たちの大和』を見まして、つい思い出しましたのが、先年、DVDを買って見ました『トラトラトラ!』『ハワイ・マレー沖海戦』です。
『トラトラトラ!』は、日米合作でハワイの真珠湾攻撃を描き、1970年に公開された映画です。
近年の『パール・ハーバー』は、アメリカでも史実歪曲の駄作として知られていますが、『トラトラトラ!』の方は評判がよさげでしたし、ゼロ戦やら九九艦爆やら九七艦攻やらが、実際に飛んでいる姿を見たくなったのです。
さすがに、アメリカの海軍が協力したという映画、でした。
いえ、なんでアメリカが負けっ放しの映画にアメリカ海軍が協力したかといえば、なんでもハリウッドの製作側が、相当なお金を払ったとかで。
『男たちの大和』はどうなんでしょ? なんだか海上自衛隊は、宣伝のために、無料奉仕してそうな気がするんですけど。

ともかく、『トラトラトラ!』は、よかったです。
民間に被害が及びませんし、戦闘とそこに至る駆け引きを楽しむ、本来の意味での戦争映画、ですね。
だから、なにがいいって、冒頭の日本海軍の様式美と、対照的に描かれるアメリカ軍のラフな戦闘魂。
そしてやはり、本物の空母を使った離艦シーンや、特撮に頼らない迫力の爆撃シーン、ですね。

冒頭、山本五十六が連合艦隊司令長官となり、旗艦長門に乗り込むシーンは、重厚な美しさで、『男たちの大和』もこれを意識して引き継ぎ、長官乗り込みの場面を新兵の乗り込みに、そしてまた同じ開戦前の格式高い正装の場面を、終戦間際のカーキー一色の悲壮な場面にと、対称させているんだと思えるんですね。
まあ、くらべれば、やはり、勝ち戦であるにもかかわらず、『トラトラトラ!』の男たちの方がずっしりと重々しい存在感を見せ、悲壮なはずの『男たちの大和』の男たちの方がふわっと軽いな、って印象はあるんですけど、映画を作った時代がちがうんですから、それは仕方がないですね。

で、開戦の日の暁闇に、空母赤城から真珠湾をめざし、艦爆が、艦攻が、ゼロ戦が、次々に発艦していくシーンの美しさは、茫然と息を呑むほどでした。
日本側アクション部分の監督は、深作欽二だと書いていたので、私はこの場面もそうだと思ったんですけど、空母がアメリカのものなので、(えー、あたりまえですね、戦後、日本は空母を持ってませんから)、アメリカ側の撮影シーンなのかもしれません。
たた、後で知ったんですけど、『トラトラトラ!』の真珠湾攻撃の赤城の場面は、赤城内部のドラマ的場面まで含めて、日本帝国海軍が戦時中に戦意高揚映画として作った、『ハワイ・マレー沖海戦』を、ほとんどそっくりに踏襲しているんですね。
現在ではこの映画、円谷英二が手がけた日本初の高度な特撮映画、としての評価しかされていませんで、実際、ドラマとしておもしろいとは、お世辞にもいえません。
ところが、いうまでもないんですが、現在の目で日本初の特撮を見れば、実にちゃっちいんです。
やはり、なんといってもこの映画の値打ちは、本物の水兵さん、本物の日本の空母、本物の帝国海軍航空機の、圧倒的な迫力です。
たしか、飛行機好きで知られていた斉藤茂太氏(斉藤茂吉の長男で北杜夫の兄)だったと思うんですが、「陸軍航空隊にくらべて、海軍航空隊の編隊飛行は、翼が触れそうなほどびしっと連なって、実に見事なものだった」と書いておられて、印象に残っていたのですが、まさに、おっしゃる通りでした。
本物の帝国海軍航空隊による『ハワイ・マレー沖海戦』の編隊飛行は、『トラトラトラ!』の編隊飛行に、はるかに勝る美しさです。
しかし、戦前のオタクは大変だったようでして、飛行機オタだった斉藤茂太少年は、陸海軍の飛行機写真を集めていたのですが、その中に陸軍の発表前の飛行機のものが含まれていたとかで、憲兵隊に呼ばれるんですね。
もっとも、茂太少年は、飛行機のことをなにもしらない憲兵さんたちに、これからの航空戦力の重要性を啓蒙して、たいしたこともなく帰されたようですけど。

で、さすがは帝国海軍宣伝映画です。
最後に、なんの関係もなく、軍艦マーチが高らかに鳴り響き、演習なんでしょうけれど、実物の数隻の軍艦が荒波にもまれて、実際に発砲するシーンがあるんです。
私は、まったく軍艦には詳しくないので、いったいなにが参加しているのかわからないんですけど、ともかく本物です。
どっしりと重量感のある軍艦が、波を蹴立てて走り、砲が黒煙をあげて火を吹く。
モノクロ映像の荒い画面ですが、その実物の迫力にはもう、圧倒されてしまいまして、いや、なんか……、軍艦オタの殿方の気持ちが、よくわかりました。

戦闘を描く本来の戦争映画が、そういえば最近、あまりないような気がします。
人間ドラマに重点を置いた戦争もの、最近では「反戦映画」という言い方もされるようですが、「反戦」というようなスローガンが目的になってしまっては、スローガンが逆なだけで、戦意高揚映画と変わりません。
それはそれで、お定まりに悲惨を煽ってみました、というのではなく、きちんと人間が描けているものは、いいんですけどね。要するに、映画の出来でしょう。
この手のものでは、私は、これも古いですけど、『ディア・ハンター』が好きです。
『男たちの大和』は、どちらかといえば後者、人間ドラマに重点を置いている映画なんですが、映像としては、『トラトラトラ!』を引き継ぐものでも、あると思うんです。

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戦中世代と見た『男たちの大和』

2006年01月25日 | 映画感想
母を連れて、見てきました。
実は見ようかどうしようか、かなり迷っていました。
なにしろ片道特攻の大和です。片道しか燃料を積んでいなかった、というのは伝説らしいですけどね。に、しましても、特攻であったことはたしかです。
悲壮美が嫌いなわけじゃあないんですけど、あんまりこれでもかと、じめじめ悲壮を強調されるのは好きではないですし、悲壮と言うより、無惨になりかねない。
あるいは軽々しく「戦争はいやです!」なんぞと陳腐なことを登場人物が叫んで、お定まりの安易な反戦ムードを出されても、うんざりします。
どうしようか、と迷っていましたところ、週刊新潮で福田和也氏がほめてらしたんですね。「するべき仕事をしている、という描き方で、あの世代の人々への畏敬の念があるのがいい」というようなほめ方で、それなら見てみたい、となったわけです。
母も見たい、ということで、戦中世代と『男たちの大和』を見ることとなりました。

えーと、その、結論から言いますと、私は泣きっぱなし。
母はまったく泣きませんで、「いい映画だった」と。
そうなんです。泣かないかわりに、ぶつぶつつぶやくのです。

母「昭和20年4月? えーと、昭和20年っていうと……」
私「終戦の年。ちょうど、あんたが学徒動員で軍需工場に行ったころ」
母「終戦の年か。ああ、いやな音! あの小憎らしいB29が……」

ここで私は、母の足を蹴って黙らせました。
おかーさん、B29は爆弾や焼夷弾を落としたのであって、機銃掃射であんたを狙ったのは、護衛戦闘機の、おそらくグラマンよ。
それに、戦艦大和に襲いかかっているのは、B29じゃないわよ。

母の話では、あまりにB29が小憎らしいので、みんなでナギナタを振りまわして悔しがったけれども、ナギナタを振りまわしたところでどうなるわけでもなし、もう負けるだろう、とは、わかっていたのだそうです。
母が軍需工場で造っていたのは、紫電改の翼だったそうなのですが、終戦で、結局飛ばなかったそうです。母が造った紫電改なぞ、空中分解するに決まっていますので、飛ばなくて幸いでした。
その軍需工場よりも先に、実家が焼けて、母は親元へ帰っていいことになりました。母が親の避難先にたどり着いたころ、軍需工場は本格的な爆撃を受け、母の同級生は多数、犠牲になっています。
まあ、そんなわけでして、母にとっては現実だったわけですから、悲惨とも思わず、泣けもせず、「小憎らしいB29と闘う男たちは美しい。いい映画だった」と、なったもののようです。

私も、いい映画だったと思います。
そりゃあ、突っ込み所は多々あります。
DVDで見た『トラトラトラ!』などとくらべると、戦闘シーンに今ひとつ、迫力がありませんし、映画ですから、あまり汚く描くのもなんですが、原爆にあったら、いくらなんでもあのきれいな顔は不自然だろう、とか。
ああ、一番不自然だったのは、音楽ですね。いい音楽でしたが、せめて水葬シーンは、『海ゆかば』を流してくださいな。後ね、『軍艦マーチ』のない帝国海軍なんて、帝国海軍じゃありませんわ。
パンフレットを買って読みましたが、大和生き残りの方も、『海ゆかば』『軍艦マーチ』『君が代』を、挙げておられるじゃありませんか。
海上自衛隊にも吹奏楽団はあるでしょうに。フランス陸軍の吹奏楽団ギャルド風に編曲して演奏していただければ、映画のスピード感にもぴったりだったはず。
しかし、心配した軍人らしい動作は、海上自衛隊の全面協力で、見事に、きびきびとした海軍らしさを再現していましたし、専門職に徹する男たちの描き方は、淡々としていて、よけいな思想性がなく、あざとさもなくって、かえって泣けました。

そうなんです。
淡々と描かれているだけに、もう、戦艦大和が姿を現しただけで、泣けました。
こんなに泣けた映画は、生まれて初めてです。私は、あんまり映画で泣かないんですけどね。個人に感情移入して映画を見る質ではないので、集団の運命では泣けても、個人的な悲劇では、泣かないんです。
最近では、そうですね、『ロード・オブ・ザ・リング』の『二つの塔』で、ローハンの闘いぶりに泣いて以来の、映画で涙、でした。
『二つの塔』のローハンの描き方は、とても日本的で、「あんたらは太平洋戦争の日本軍か」と思ったんですけど、あの場面、黒澤明監督の影響が強い、という話で、納得しました。
で、「どうして、日本人がああいう戦争映画を撮らないわけ?」と思っていたんですけど、今回は、そういう戦争映画、だったですね。

戦艦大和は、大艦巨砲主義の象徴であり、戦後、海軍内部からこそ、強い批判にさらされたわけですし、無謀であった太平洋戦争の反省材料の象徴でもあるのですが、一方で、近代日本の夢の象徴であったこともまた、事実です。
幕末、黒船の脅威を目前にして、島国日本の意識は海防にそそがれます。日本の近代化は、まず海軍にはじまったのです。
維新により、近代国民国家として生まれ出た大日本帝国は、日露戦争で、一応の目標を達成します。しかし、日本海海戦の軍艦は、すべて外国製、主にイギリス製なのです。
大正に入って、ようやく国産できるようになり、そして急速に、世界でトップクラスの造船技術を培い、その粋を集めて造り上げたのが、戦艦大和でした。
戦艦大和は、日本の近代がたどり着いた、ひとつの頂点であったわけです。
そして、帝国海軍が培った造船技術は、戦後日本の産業の出発点ともなりますし、帝国海軍が好敵手だったと評価したアメリカは、海上自衛隊にその伝統が引き継がれることを認めました。

戦艦大和も、そして、ともに海底に沈んだ男たちも、美しくあっていいんです。
それが、先人の業績に対する礼儀というものでしょう。
母もその気になりそうですし、尾道のYAMATOロケセットと、呉の大和ミュージアムを訪れてみようかと思います。

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映画『プライドと偏見』

2006年01月18日 | 映画感想
水曜日、レディースデイなので、観てきました。
キーラ・ナイトレイは好きですし、原作の古典小説、ジェーン・オースティンの『高慢と偏見』は、高校生のころに読んでいらい、結構、気に入っていますし。
うーん。なんといえばいいのでしょうか。
心配していたのですが、やはりちょっと、キーラ・ナイトレイは現代的にすぎましたねえ。

ヒロインのエリザベスは、向こう意気の強い女性ではあるのですが、なにしろ舞台は、19世紀初頭。フランスでいうならば、ナポレオン帝政の時期で、ドレスはエンパイアスタイルです。
オースティンは、自分と同じイギリスの田舎のジェントリー階級の娘を主人公として、この小説を書きました。
エリザベスの父親は小地主なんですが、当時のイギリスでは、男系長子相続、限嗣相続が行われていまして、娘は父親の不動産を相続できないんですね。娘ばかりだと、遠縁の男性が財産を継ぐことになって、父親が死んだ後、妻や娘たちは、土地からの収入の道を無くしてしまいます。
エリザベスは五人姉妹の上から二番目で、兄弟がありません。
つまり、釣り合う相手を見つけて結婚しなければ、父親の死後、面倒を見てくれる兄弟もありませんし、路頭に迷います。
オースティンが描いたのは、そういうイギリスの田舎の保守的な世界で、エリザベスは機知に富み、はっきりとものを言う女性ではあるのですが、けっして、型破りで破天荒なわけではなく、常識をわきまえた上で、意志の強さを見せるタイプです。

キーラ・ナイトレイは、容姿からして、野性的な印象があるんですよねえ。戦闘的、とでもいうのでしょうか。
それこそ、『嵐が丘』のキャサリンでもだったら、似合いそうなんですが。
実際、室内シーンではいま一つだった彼女ですが、屋外シーンはよかったですねえ。イギリスの田舎の荒涼とした風景に、ぴったりと似合いました。
妹の不品行を嘆いたりするあたりが、どうもしっくりこないんですよねえ。
でも、まあ、キーラ・ナイトレイは美しいので、こういうのもありか、という気もしないではなかったのですが、やはり問題は、ヒーローのダーシー卿なんでしょう。

いえね、最初に小説で読んだとき、小娘だった私には、ダーシー卿のどこがいいのやら、さっぱりわからなかったんです。
そりゃあ、金持ちで、容姿もよくて、と書いてはいるのですが、小説では容姿は見えませんしねえ。
それをわからせてくれたのが、コリン・ファースでした。
イギリスのBBCが製作した『高慢と偏見』で、ダーシーを演じたのがコリン・ファースだったのですが、全英の女性が熱狂して、テレビの放映時間には人通りが絶えた、とまでいわれています。
NHKのBSで放送があったそうなのですが、私は知りませんでした。DVDで発売されていることを知り、買ってみたんです。
たしかに、えー、ダーシーってこんなに魅力的だったんだ、と再認識させてくれるほど、すばらしいはまり役でした。
ですよね。『ブリジット・ジョーンズの日記』で、ご本人のコリン・ファースが、パロディまで演じているほど。
あんまりにも彼の演じるダーシーの印象が強烈すぎて、今回はだめでした。
イギリスの舞台俳優だという話で、けっして下手な役者さんじゃないんですけどねえ。
貴族的な尊大さ、というよりも、若さゆえの内気、に見えてしまうんですよねえ。

ブログに載せる写真を選ぶにも、どうも、室内のドレスアップシーンにはいいのがなくて、これになりました。
二人とも、いい表情なのですが、オースティンの描くエリザベスとダーシーでは、ないですね。
この二人で撮るなら、なんかもっと別の恋物語にした方が、よかったんじゃないんでしょうか。

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グリム兄弟の神風連の乱


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グリム兄弟の神風連の乱

2005年12月10日 | 映画感想
ブラザーズ・グリム公式サイト

実は昨日、『ブラザーズ・グリム』を見に行ってきました。
テリー・ギリアム監督の他の作品は見ていませんし、ネットでの評判をかいま見たところ、絢爛豪華なおとぎ話シーンを期待するのは無駄のようでしたし、どうしようかな、と迷いに迷っていたのですが、どうも悪評がかえって気になって、なにかありそな気がしたんですね。
昨日が最終日だったので、タクシーをとばして見てきました。
正解! でした。のっけからもう、笑いっぱなし。フランス軍が出てきたときには、それだけで爆笑。
いえね、監督の他の作品を見ていませんし、細かなパロディには気づいてなかったりするのでしょうけれども、コンセプトそのものが、見事なパロディなんですよね。
グリム兄弟の採話が、実のところ、ドイツ人の土俗のものではなく、フランスからドイツに亡命した新教徒の子孫のもので、シャルル・ペローの影響が強かったということは、けっこう知られていると思うのですが、そのグリム童話が、ナポレオンのドイツ侵攻を直接的なきっかけとして生まれた、近代的な国民国家ドイツの国民文学となってしまったという現実自体が、非常に皮肉です。

土俗的な物語というのは、そもそもが幻影です。土俗が近代に接したとき、攘夷感情が物語を育みます。しかしその物語は、結局のところ、国民国家を成り立たせる民族の物語として、近代に取り込まれるのです。
しかし、それでもなお、あったかもしれない土俗は、反近代の夢を見させてくれますし、だったかもしれないね、という思いは、押しつけられた近代の息苦しさに、風穴をあけてくれます。

えーとね、だから必然的にグリム兄弟は詐欺師だったんですけど、詐欺はいつしか、真実となったのかもしれない、のですよね。それが、物語というものでしょう。

と、理屈を並べましたが、けっして理屈っぽい映画ではありません。映像は美しいですし、コミカルですから陰惨ではありませんし、それでいて、ほどほどなリアリティもあります。
ギリアム監督は、もっとリアルに、当時はろくに歯医者もなかったのだから、登場人物の歯をきたなくしたりしたかったそうなのですが、そこまでしてくれなくていいです。歯がきたないのは、パゾリーニの映像でこりました。ハリウッド流でけっこう。
そして、モニカ・ベルッチの美しさには、声もありませんでした。この人が美しくなければ、物語の側の真実に、リアリティをもたせることはできなかったところです。
これはもう、絶対に、DVDを買ってしまいますね。

ブログめぐりをしていて、気づかせていただきました。モニカ・ベルッチ演じる鏡の女王の衣装、たしかに、ギュスターブ・モローの影響を受けてますね。いわれてみれば『一角獣』の左側の女性の衣装、そっくり。

ところで、最近続けて映画館に足を運んだせいで、『プライドと偏見』が映画化されていて、近々公開されることを知りました。ジェーン・オースティンの『高慢と偏見』です。
ヒロインは、キーラ・ナイトレイ! 『パイレーツ・オブ・カリビアン』の男前なねーちゃんです。うーん、どーなんでしょ。現代的すぎません?
それより心配なのはダーシー卿。
いえ、BBC版の『高慢と偏見』をDVDで持っているんですが、コリン・ファース演じるダーシー卿には、イギリスの多くのご婦人方と同じく、目を見張りました。えー、ダーシ卿って、こんなに魅力的だったっけ? と思ったほど。ついに『ブリジット・ジョーンズの日記』で、本人のコリン・ファースがパロディを演じたほどのはまり役、かなう役者さんがいるんですかしらん。
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