本日はまた、前回の
鹿鳴館と軍楽隊の続きです。
実はこの「三つの君が代」、著者ご自身の内容紹介ページがありました。
三つの君が代
上のページでありがたいのは、ウイリアム・フェントン作曲の最初の君が代の曲が、聞けることです。
著者は音楽がご専門で、本の方は音楽的な分析に詳しく、この最初の君が代のメロディー、よく作曲といわれるんですが、採譜であったと断言しておられることが、私にとっては意を得た感じでした。
「君が代」の歌詞を国歌として選択した経緯については、さまざまな説がありますが、明治3年(あるいは2年)、大山巌説が、いまのところ定説といいますか、一番信じられているようです。
前回、「日本の本格的な洋楽導入は、明治2年、薩摩藩が、駐日イギリス軍の軍楽隊に協力を求め、島津久光公の肝いりで、高価な楽器を注文して、軍楽隊を結成したことにはじまります」と書いたんですが、その駐日イギリス軍(第10連隊第一大隊)所属の軍楽隊長は、ジョン・ウィリアム・フェントンでした。
つまり、薩摩バンドはフェントンの教えを受けることになったわけでして、そのフェントンが、教え子たちに、日本も国歌を作るべきだ、と言ったことに、定説の話ははじまります。
そこで、教え子たちが、薩摩藩軍の大隊長たちに相談し、その中の一人(大山巌説が有力です)が、「君が代を歌詞にしてはどうだろうか」と提案し、フェントンが作曲したのだというのです。
薩摩バンド、海軍軍楽隊、そして海軍軍楽隊と同じくフェントンから教えを受けた式部寮伶人(前回出てきた雅楽の人達です)が、みなフェントン作曲の「君が代」を演奏していますので、国歌誕生に、薩摩バンドがからむのは、ほぼまちがいのないことでしょう。となれば、大山巌のほかに、野津鎮雄、川村純義など、薩摩の陸海軍隊長の名が出てくるのも、当然なのかもしれません。
こういった話は、後世、薩摩バンドのメンバーだった人達から聞き取ったり、書面で事情をよせてもらったり、といったもので、フェントンが「国歌が必要」と言い、薩摩バンドのメンバーの一人がそれを薩摩軍関係者に相談し、君が代の歌詞が提示された、という大筋以外は、あまり確実性のないものなのですが、雑誌「日本及日本人」に載った大山巌の談話にいたっては、こういうことになっています。
「其時、英国の楽長某(姓名を記憶せず)が『欧米各国には皆国々に国歌と云うものがあって、総ての儀式の時に其の楽を奏するが、貴国にも有るか』と一青年に問ふた。青年が是に答えて『無い』と云ふたれば楽長の曰く『其は貴国にとりて甚だ欠点である。足下よろしく先輩に就いて作製すべし』」
それで、大山が君が代の歌詞を提示した、というのですが。
いえ、後世、聞く方はみな、「国歌とは歌うものだ」という認識のもと、君が代の歌詞がどうして国歌となったか、それを知りたがって聞いているわけなんですから、仕方がないのですが、フェントンは「儀式の時に其の楽を奏する」として、曲を欲しがっているのです。
軍楽隊は通常歌うものではないですし、儀式で演奏するために「国歌」のメロディが欲しかったのであって、とりあえず歌詞は欲していません。
で、フェントンが「作曲するから歌詞を」と言ったという話になるのですが、これは、ありえないんじゃないでしょうか。
フェントンは、少年鼓手からのたたき上げで、後のエッケルトやルルーのように、専門の音楽教育を受けた人ではなかったんです。
ちなみに、陸軍分列行進曲の作曲者シャルル・ルルーは、パリのコンセルヴァトワールで学んでいます。現行の君が代の編曲者であるエッケルトもまた、ヴロツワフ(現在はポーランド領)とドレスデンの音楽学校で勉強しています。
フェントンが、他国の国歌を作曲してあげるから、と言い出したとは、ちょっと思えません。
それで、フェントンがもっともなじんでいた自国、イギリスの国歌「God Save the Queen (King)」なんですが、作曲者不明の古いメロディですし、「God Save the Queen (King)」という歌詞も、王令発布や議会の開会、閉会や、艦隊命令などで、繰り返されてきた慣用句なのだそうです。
God Save the Queen(You Tube)
だとすれば、です。フェントンはもともと歌詞を求めたのではなく、イギリスと同じく日本も君主国ですし、儀礼上からいっても、なんですが、「国歌として使えるような、帝を称える古い歌はないのか。あれば急いで吹奏楽用に編曲するから」と、言ったのではないでしょうか。
なぜかあまり顧みられてないようなのですが、そうであったのではないか、と思わせる説があります。
国書刊行会昭和59年発行「海軍軍楽隊 日本洋楽史の原点」に載っているのですが、もとは昭和17年に刊行された、澤鑑之丞技術中将著「海軍七十年史談」に出てくる話なのだそうです。以下、引用です。
明治二年英国貴賓を現在の浜離宮で饗応するに当り、日英両国国歌を演奏する必要から、日本の国歌はどうしたらよいかを軍楽長が接伴掛に問い合わせた。接伴掛は英語に堪能な原田宗助(薩摩藩士・後の海軍造船総監)、乙骨太郎乙(静岡藩士・沼津兵学校教授)が選ばれた。接伴掛の両名は、さっそく軍務局に問い合わせたところ、よきに計らえということではたと当惑した。そこで協議した結果、乙骨が思いついたのは、旧幕時代、徳川将軍家大奥で毎年元旦に施行されてきた「おさざれ石」の儀式に唱う「君が代」であった。
この歌なら天皇陛下に失礼ではないと評議一決した。これに歌詞をつけることになったが、原田が鹿児島で演奏される琵琶曲に「蓬莱山」という古歌があり、それにも「君が代」の歌詞がある。そこで時間もないことだから原田が軍楽長を招き、数回繰り返してフェントンに聴かせた。フェントンはその場で採譜し、大至急で吹奏楽に編曲し、隊員を集めて練習を重ね、浜御殿の饗応の宴でこの「君が代」を英国国歌とともに演奏し、面目を全うしたという。
まず、この話にも少々錯誤があります。
「明治二年英国貴賓を現在の浜離宮で饗応するに当り」といえば、明治2年9月、エジンバラ公(ビクトリア女王の次男)の来日時のことです。
薩摩バンド(鼓笛隊)が、横浜に駐留するイギリス駐日陸軍付属軍楽隊長であったフェントンのもとへ弟子入りに出向いたのは、明治2年陰暦の9月からなんです。仮に、明治2年のもっと早い段階から弟子入りしていたにしましても、楽器がありませんでした。和楽器などで間に合わせて、これは私の推測ですが、イギリス軍の古い楽器とかを譲り受けたかもしれませんし、そこそこの練習はしたようなんですが、やはり、翌明治3年7月に、イギリスへ注文していた楽器が届いてから、本格的な吹奏楽の練習がはじまったんです。
とすれば、です。海軍造船総監だった原田宗助の談話を聞き取ったのだろうこの話の筆記者が、どうも勘違いしているようなんですが、この話の軍楽長とは、駐日イギリス軍軍楽隊長フェントンのことであり、「浜御殿の饗応の宴でこの君が代を英国国歌とともに演奏し」たのは、イギリスの軍楽隊でしょう。
浜御殿という場所もどうなのでしょう。
以前に
モンブラン伯は維新回天のガンダルフだった!? vol1でご紹介しました
「英国外交官の見た幕末維新―リーズデイル卿回想録 」によりますと、確かにエジンバラ公は浜御殿に滞在しています。
しかし、イギリス陸軍軍楽隊が演奏した場といえば、リーズデイル卿が「横浜港に8月31日に入港し、通例のことだが、挨拶や接見や歓迎の辞など、きまりきった退屈な行事が終わると」と簡略に書いているこの部分でしょう。
なにしろリーズデイル卿にとって「きまりきった退屈な行事」なのですから、この場はすべてイギリス側が取り仕切ったものと推測できます。
で、「接伴掛は英語に堪能な原田宗助、乙骨太郎乙」という「接伴掛」なのですが、リーズデイル卿は「その当時は、現在のように日本人は、西洋の週間に慣れていなかったので、パークス公使に対して準備不足のないように私に手伝って欲しいとの依頼があった。それで現地に駐在するため、浜御殿の部屋の一部が私のために準備され、そこに私は一ヶ月の間滞在したのである」と述べていまして、この接待準備、横浜での行事も含めて、イギリス側との連絡係だったのが、接伴掛の二人じゃなかったでしょうか。
フェントンが、横浜の儀式で両国国歌を演奏する必要から、困って、「接伴掛」であった二人に問い合わせた。しかし、「なにか国歌になりそうな歌はないか」と言われても、二人も困ったでしょう。軍務局に問い合わせてはみても、おそらく軍務局では「国歌」という概念がわからず、「よきにはからえ」となった。そこで、「おさざれ石」の「君が代」案が出て、おそらく原田宗助は、これからフェントンに弟子入りする予定の薩摩鼓笛隊のリーダー格に相談したと。
大奥の「おさざれ石」という行事、知らなかったものですから、ぐぐってみました。
江戸城大奥の正月行事で、元旦の朝、御台所が将軍を迎える前に、清めの儀式で、御台所と御中老が小石の三個入った盥をはさんで向かい合い、御中老が「君が代は千代に八千代にさざれ石の」と上の句を述べると、御台所が「いわほとなりて苔のむすまで」と応じ、御中老が御台所の手に水を注ぐ、というものなのだそうです。
たしかにこれは儀式歌といえますが、しかし、メロディというほどのものはないでしょう。
そこで、薩摩琵琶歌が出てきたのではないでしょうか。
私、君が代の歌詞があるという「蓬莱山」は聞いたことがありませんが、薩摩琵琶歌として、「川中島」と「敦盛」はCDで持っています。これを五線譜に直すってえ!? と絶句するんですが、フェントンも相当苦労したんじゃないでしょうか。
えーと、です。「君が代」の歌詞は、文字記録としては、冒頭の句が「我が君は」となったものが、詠み人知らずの句として、古今和歌集に出てくるのが最初です。
詠み人知らずの句というのは、歌謡の一種であった場合もあり、実際、次にこの句が記録されているのは、「和漢朗詠集」で、いろいろな写本が伝わる中、鎌倉初期だかには、すでに「君が代」になったものがあるのだそうです。
君が代は賀歌でして、その後もさまざまな歌謡に歌い継がれ、維新の時点で、大奥の祝歌にも、薩摩琵琶歌にも、君が代の歌詞があったんですね。薩摩では特に親しまれていたようで、島津重豪公は、ローマ字で君が代の歌詞を書き残していたりします。
しかし浄瑠璃や瞽女唄にもあるそうですから、日本人のあらゆる階層に親しまれていた賀歌で、たしかに、国歌の歌詞としてはふさわしかったでしょう。
問題は、メロディでした。
エジンバラ公の訪日行事も無事終わり、薩摩鼓笛隊はフェントンに弟子入りします。
しかし、前述の通り、楽器が届いて本格的に練習をはじめたのが、翌明治3年の7月です。
一ヶ月ほどで、なんとか形にはなったようでして、8月には横浜山手公園で、イギリス軍楽隊と競演。
それからまた一ヶ月、明治3年9月8日に、越中島で、天皇ご臨席の薩長土肥四藩軍事調練があり、そこで、薩摩バンドがデビューすることになったんですね。ここで君が代が演奏されていますので、通説である大山巌や薩摩の大隊長が出てくるのは、この時のさわぎなのじゃないでしょうか。
前年の譜面が、当然あったでしょう。
国歌といえば、歌詞が必要です。薩摩バンドのメンバーに、楽譜をくばるにあたって歌詞を入れようとし、フェントンは、前年、原田宗助が歌った歌詞を問い合わせ、国歌の歌詞がそれでいいのかどうか、念押ししたのではないでしょうか。
後年、この2年間にわたる出来事が、当事者、関係者の頭の中で混乱し、さまざな証言になったのだと、私は思うのです。
薩摩バンドが中心となり、引き続きフェントンが教師を務めた海軍軍楽隊は、薩摩琵琶歌をフェントンが採譜、編曲した第一の君が代を、国歌として演奏し続けました。
しかし、歌詞をつけて歌ったのは、前回に述べた雅楽の人達のみ、です。
天長節の宮廷儀式で歌ったのですが、「歌い辛かった」との回想があります。
一方、フランス式を採用し、フランス軍事顧問団のラッパ手だったシャルル・ダグロンから軍楽を教わることとなった陸軍軍楽隊(こちらの中核メンバーも薩摩バンドです)は、「国歌」演奏の必要が生じた場合、外国の国歌や、フランスのラッパ曲「オーシャン」を演奏していたといいます。
もっとも、薩摩バンドのメンバーが多数残り、軍楽長フェントンを教師としていた海軍の方が、陸軍より演奏技術がすぐれていたのは当然でして、公式行事では、海軍軍楽隊がメインとなっていたのですが。
その海軍軍楽隊も、薩摩琵琶歌にわか採譜のメロディを、気に入ってはいませんでした。
薩摩バンドの若手メンバーで、初代海軍軍楽長であった中村裕庸は、「フェントンの作曲は当時英語の通訳たりし原田宗助の歌へる国訛りの曲節を聞き日本の曲風をとらんとしたるものの如く三十一文字ことごとく二分音符を配したる誠に威厳なきものなりしをもって、(薩摩バンドの)楽長鎌田新平は他に改作を期することとし採用したるものなるにより」と、語り残していまして、歌詞は君が代でいい、としたものの、吹奏楽用向けの編曲にはまったく向かず、しかも日本の音楽を代表するわけでもない薩摩琵琶歌では、国歌として威厳に欠けると、当初から、雅楽による作曲を考えていたようなのです。
海軍軍楽隊は、新たに君が代のメロディを作ろうと、和歌と音楽との関係を雅楽の人達に教わったりもしていたのですが、実現しないうちに、フェントンが去り、エッケルトが来日して、現行の君が代メロディが誕生したわけです。
海軍省から宮内省に雅楽での作曲が依頼され、いくつか候補曲が出て、その中から和声をつけて編曲しやすいものをエッケルトが選んだ、という順番であったとか。
「国歌」という概念は、ヨーロッパにおいて、近代国民国家とともに生まれたものです。
日本では、歌詞ばかりが注目される傾向が強いのですが、儀礼歌としては、演奏される場面の方が多く、独立国として、欧米諸国とつきあうにおいて、最初に必要とされるのはメロディの方です。
しかし、器楽演奏そのものが西洋のものですし、西洋諸国以外の国では、よく知られた賛美歌などのメロディを借りて国歌としていた国も多く、ごく最近までありました。
日本でもそうなのですが、民間歌謡はそもそも、一つの歌詞に一つのメロディということはなく、
三千世界の鴉を殺しで述べました都々逸のように、歌詞も変われば、メロディも変わるものです。
国歌を、まずは歌うものとしてとらえると、メロディはある意味、どうでもよくなるのです。
日本は、薩摩藩のいち早い西洋音楽導入の試みによって、国歌におけるメロディの重要性を認識することとなり、日本における儀礼音楽といえば雅楽ですし、雅楽による作曲で、メロディにも国柄を盛り込むことができたのだといえるのではないでしょうか。
最後に、これは趣味です。YouTubeの君が代独唱の中では、Gacktが一番(笑)
君が代ーGackt(YouTube)
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