郎女迷々日録 幕末東西

薩摩、長州、幕府、新撰組などなど。仏英を主に幕末の欧州にも話は及びます。たまには観劇、映画、読書、旅行の感想も。

近藤長次郎とライアンの娘 vol8

2012年12月22日 | 近藤長次郎

 近藤長次郎とライアンの娘 vol7の続きです。

 そのー、ですね。考えたいことがいろいろと出てきまして、ちょっと間を置きました。
 これは以前から気になっていたことなのですが、肝心な部分ほぼ4行分に黒々と墨線が引いてあります井上馨関係文書第92冊「近藤長次郎伝」の著者が坂崎紫蘭だったのではないかと私は推測いたしましたが、もしそうだったとしますと、一つ、不可解なことがあるんですね。
 明治16年の「汗血千里駒」、大正元年の「維新土佐勤王史」がともに、近藤長次郎の命日を1月14日としておりますのに、井上馨関係文書第92冊「近藤長次郎伝」はちがうんです。

 「史料から白峯駿馬と近藤長次郎を探る」(「土佐史談240号」収録)で、皆川真理子氏が、野村宗七の日記をもとに探求しておられますのが、近藤長次郎の命日でして、前回ご紹介いたしましたように、前河内愛之助(沢村惣之丞)、多賀松太郎(高松太郎)、菅野覚兵衛(千屋寅之助)が野村に、「上杉(長次郎)が自刃した」と告げに参りましたのが1月23日です。
 しかし、命日はその翌日とされたようでして、長次郎が葬られました長崎海雲山 皓台寺の過去帳には、1月24日とあります。

 伝記の中で、命日が正確に1月24日となっておりますのは、実は井上馨関係文書第92冊「近藤長次郎伝」「勤王事績調」(「山内家史料 幕末維新第5編 第16代豊範公紀」収録)の二つのみです。
 「勤王事績調」がいつ書かれたものかはわからないのですが、内容は「海南義烈伝」近代デジタルライブラリー「海南義烈伝.2編」)を短くしたような感じでして、あるいは双方に共通する文書があったのではないか、と思われます。しかし、なぜか命日は「勤王事績調」のみが正しく書かれています。

 おそらく、なんですが、「勤王事績調」のもとになった伝記は、河田小龍の手になったものではないかと思われ、だとすれば、小龍は長次郎の死から間もなく、京都の薩摩藩邸を訪ね、中村半次郎(桐野利秋)に話を聞いているのですから、正確な命日は知っていたわけなのです。

 しかし、内容につきましては小龍の話を元にしたと思われます明治15年出版の「海南義烈伝」が、なぜか10日まちがえまして、14日としているんですね。
 明治16年、坂崎紫蘭は、これもおそらくなんですが、「海南義烈伝」を踏襲して、「汗血千里駒」で14日とし、30年後の「維新土佐勤王史」も、同じにしているんですね。

 とすれば、井上馨関係文書第92冊「近藤長次郎伝」の著者は、坂崎紫蘭ではないのではないだろうか、と考え直しました。
 その理由をもう一つあげますと、さまざまな新しい史料を取り入れながら、「維新土佐勤王史」の長次郎に対します見解が、「汗血千里駒」とまったく変わらず、なんのためらいもなく、冷ややかなものであること、です。

 ではいったい、肝心な部分ほぼ4行分に黒々と墨線が引いてあります井上馨関係文書第92冊「近藤長次郎伝」は、誰が書いたのでしょうか。
 近藤長次郎とライアンの娘 vol5で書きましたように、土佐出身者であることは、まちがいなさそうです。

 もっとも肝心な点は、高松太郎か千屋寅之助から話を聞いたのではないかということなのですが、もう一つ、グラバーから直接話を聞いたか、あるいは、中原邦平が聞き取りましたグラバー談話を読ませてもらった、可能性が高い、ということがあります。

明治建国の洋商 トーマス・B.グラバー始末
内藤 初穂
アテネ書房


 近藤長次郎とライアンの娘 vol7に追記いたしましたが、、内藤初穂氏の「明治建国の洋商 トーマス・B.グラバー始末」によりますと、芝のグラバー邸は1893年(明治26年)3月20日に火事で全焼しまして、以降、グラバーは芝に邸宅は持たなかったそうなのです。一方、グラバーに受勲を、といいます動きは、明治31年ころから始まっているのだそうでして、どうも、中原邦平のグラバー談話は、明治30年前後のものであるようなのです。

 ここでもう一度、近藤長次郎の物語が、どう世間に伝わったかをまとめてみますと。

 明治15年、「海南義烈伝 二編」が出版されます。
 土佐出身者のみの伝記集ですから、それほど広く読まれたわけではないでしょうけれども、伝記としましては、以降かなりの期間、これが基本となり、その死は、「薩長同盟のために尽くしていたが、両藩の行き違いの責任を一身に引き受けてりっぱに自刃」と描かれます。

 ところが翌明治16年、龍馬を主人公としました自由民権政治小説「汗血千里駒」が高知の「土陽新聞」に連載され、その年のうちに大阪で、そして間もなく東京でも出版されまして、人気を得ます。ここで初めて長次郎の死は、「長次郎は洋行させてくれるという長州の誘いに乗り、社中の仲間を裏切ったので、龍馬が詰め腹を切らせた」と否定的に描かれます。
 これは小説でしたので、公式な場合の伝記としては問題にされませんでしたけれども、取材した様子がうかがえ、長次郎の生い立ちにつきましても詳しく、現代におきます司馬遼太郎氏著「竜馬がゆく (文春文庫)」のような感じで、一般にはむしろ、こちらが真実と受け取られるようになったのではないでしょうか。

 「明治建国の洋商 トーマス・B.グラバー始末」によりますと、明治17年、岩崎弥太郎の三菱に雇われていましたグラバーは上京し、息子を学習院に入学させ、横浜のビール工場を取得し、さらに、病にたおれました弥太郎に代わる弟・弥之助の相談役ともなるため、芝に別邸を設けます。
 弥太郎は翌明治18年2月7日に死去。
 前回に推測しましたように、明治17年、弥太郎は病の床で「汗血千里駒」を読み、そこに描かれました愛弟子・近藤長次郎の死に様に驚愕して、グラバーに話し、実情を聞いた可能性は高いと思います。

 
 明治24年ころ、馬場文英が「土藩坂本龍馬伝 附 近藤昶次郎、池内蔵太之事」を書き、これは「海南義烈伝」に近い内容なのですが、出版はされなかったようでして、世間にひろまった様子はありません。

海援隊隊士列伝
クリエーター情報なし
新人物往来社


 明治26年、芝のグラバーの別邸が焼け、グラバーが長次郎の形見として大切にしておりました刀が、失われます。
 同年、千屋寅之助(菅野覚兵衛)が死去します。
 「海援隊隊士列伝」の佐藤寿良氏著「千屋寅之助」によりますと、千屋は海援隊士として戊辰戦争に参加した後、明治2年、白峰駿馬(長岡藩出身の海援隊士)とともにアメリカ留学。明治7年に帰国し、海軍省勤務。西南戦争時に鹿児島の火薬庫接収を志願して失敗。白峰がいた横須賀造船所に転出しますが、活躍の場を見いだせず、明治17年、甥の千屋孝忠の誘いを受け、海軍を休職して、福島県郡山の安積原野開拓に参加します。

 調べてみましたら、ちょうど士族救済の国家プロジェクトで、安積疏水の灌漑が開始されたばかり、だったんですね。
 どうも、大久保利通のお声掛かりで開始されたプロジェクトみたいでして、海軍関係者に土地の割り当てが優遇されたりとか、なにか、あったんでしょうか。
 千屋は海軍を休職して参加しましたが、慣れない北国の田舎のきびしい開墾生活に、長男が死に、妻の起美(竜馬の妻・お龍さんの妹)は東京へ帰り、結局、千屋も一時海軍に復職することとなります。
 明治24年、千屋は再び安積開拓地の甥のもとに帰りますが、甥も開拓地を去り、千屋は体を壊して東京へ帰り、26年5月、東京で、52歳の生を終えました。

 明治31年11月7日、土佐において、龍馬の跡を継いでおりました高松太郎(坂本直)が病で死去します。享年57。
 この人のことは、これまでにも書いておりますが、明治22年に宮内省を免官になって、土佐へ帰ります。
 実は明治20年、自由民権運動の闘士で高知県会議員だった実弟の坂本直寛(南海男)が、建白のために上京し、保安条例違反で逮捕され、入牢しておりました。22年、憲法発布の大赦で釈放されて直寛は土佐へ帰り、それにあわせるように高松太郎は、免官になっているのですが、明治23年に東京で借金した証文が残っていまして(坂本龍馬記念館所蔵だそうです)、すぐに帰郷したわけではなさそうです。

 しかし、やがて帰郷して、直寛宅に身をよせましたことは、戸籍でわかるそうです。
 直寛は北海道開拓を志すようになり、明治29年に単身で出かけて準備し、31年5月、一家を挙げて北海道へ移住します。
 高知に残った高松太郎は、その年の11月に死去。残された妻子は、直寛を頼って北海道へ行きます。

 一方、ちょうどそのころ、京都におきましても、近藤長次郎にゆかりのある人物が、世を去っていました。
 河田小龍です。
 桐野利秋(中村半次郎)と海援隊◆近藤長次郎 vol1に書いておりますが、小龍は画家としての勉強を京都でしておりまして、明治のいつころからか土佐を出て、京阪神方面に住まい、明治27年からは京都の息子と同居しておりました。
 明治31年12月19日、土佐で高松太郎が世を去りましたおよそ一月後、75歳で生を終えました。

 そして明治32年の末、近藤長次郎とライアンの娘 vol5でご紹介しました 千里駒後日譚(青空文庫・図書カード:No.No.52179)が、土陽新聞に連載されます。
 龍馬の妻でしたお龍さんから話を聞き、談話を執筆しましたのは、川田雪山(瑞穂)。明治12年高知生まれですから、このとき若干20歳。
 どういう人なのか、慌てて調べましたところ、エドガー・ケイシーと学ぶ魂の学舎終戦詔勅の起草者と関与者(上-2)~川田瑞穂翁と安岡正篤翁~というページが一番詳しく、どこまで正しいのかわからないのですが、参考にさせていただきつつ、以下。

 明治28年、17歳にして大阪に出て、土佐出身の漢学者で自由民権運動の闘士・山本梅崖に漢学を学びます。
 31年に東京に出て漢学者・根本通明に学び、32年の末に 千里駒後日譚を高知の新聞に連載。
 35年に早稲田に入学しますが中退。京都へ行き、府会書記として就職し、かたわら政治文学雑志主宰。大正5年、維新史科編纂会嘱託になるんだそうなんです。

 もう、おわかりでしょうか。
 私、肝心な部分ほぼ4行分に黒々と墨線が引いてあります井上馨関係文書第92冊「近藤長次郎伝」著者は川田雪山ではなかったか、と思い始めているんです。

 実は、ですね。
  高松太郎が死去しました明治31年、千里駒後日譚が連載されました32年は、土佐におきまして、近藤長次郎の生涯が、大きくクローズアップされた年でもあったんです。

 
龍馬の影を生きた男近藤長次郎
吉村 淑甫
宮帯出版社

 
 明治31年7月、近藤長次郎は正五位を追贈されています。
 どうも、青山のじじい(田中光顕)の配慮だったようです。
 このとき、遺児の百太郎が、生まれてはじめて高知に足を踏み入れました。
 百太郎は、母・お徳さんの里、森下家の籍に入っておりましたので、追贈者の遺族であることを証明しますような手続きが、必要だったんだそうなんですね。
 そして翌明治32年、再び高知を訪れ、行方不明になってしまったんです。

 「龍馬の影を生きた男 近藤長次郎」の著者・吉村淑甫は、百太郎のご子孫から、高知郊外北山山中で獣に食べられた、というような風説も聞いておられ、「あるいは殺されたのかもしれない」というような感触を、持っておられたようなのです。
 「長次郎自身が殺されたのではないか」とも、思っておられたようですが、なんにしろ、坂崎紫蘭の「維新土佐勤王史」を否定しますだけの材料を、お持ちではなかったのでしょう。

  維新に遅れますこと12年、高知に生を受けました川田雪山は、六つの時に連載、出版されました「汗血千里駒」を読み、なにしろ、登場人物が育った場所はすぐそこで、まだみんな親族が健在ですし、身近なヒーローとして、坂本龍馬の活躍に、ワクワク胸をときめかせたのではないでしょうか。
 明治28年、17歳にして大阪に出る以前に、高松太郎に話を聞きに行ったのではないか、とは、十分に考えられることです。
 雪山の経歴からしまして、河田小龍からも直接話が聞けたでしょうし、あるいは百太郎やお徳さん、長次郎の妹・お亀さんにも、会っていた可能性があります。

 井上馨関係文書第92冊「近藤長次郎伝」には、最後に明治31年の長次郎贈位記事がありますので、それ以降に書かれたことはまちがいない、と以前にも書きましたが、著者が川田雪山だったと仮定しますと、書かれたのは、明治35年前後でしょうか。
 中原邦平のグラバー談話を参照し、書かれたものが井上馨関係文書として保管されたにつきましては、あるいは、青山のじじい(田中光顕)が世話したアルバイトだった、とは考えられないでしょうか。「千里駒後日譚」の連載で、じじいの目にとまったのではないかと。

 肝心な部分ほぼ4行分に黒々と惹かれた墨線につきましては、高松太郎から聞いていたことをそのまま書くべきではないかという20代前半の青年の良心と、敬愛する郷土の英雄・坂本龍馬の後継者の汚点を世間に知らせることへの抵抗と、せめぎあった結果 で、あったのではないかと、考えたいと思います。

 結局しかし、明治40年の「井上伯伝」は、馬場文英の「土藩坂本龍馬伝 附 近藤昶次郎、池内蔵太之事」を下敷きにして、「海南義烈伝」以来の「近藤昶次郎、薩長の板挟みとなって名誉の自刃説」をとり、「長次郎は洋行させてくれるという長州の誘いに乗り、社中の仲間を裏切ったので詰め腹を切らされた」という土佐の説は、異説として小さく併記しているだけです。

 大正元年に出ました「維新土佐勤王史」は、いわばこれに対する反論ともいえまして、かつて自由民権運動の闘士でした坂崎紫蘭の、長州閥に対します長年の嫌悪が、色濃く出た結果となっております。

 ユニオン号に関します動きを、まだ詳しく追っておりませんし、次回から、「井上伯伝」「維新土佐勤王史」をくらべつつ、真相を考えていきたいと思います。

 続きます。

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映画『ホビット 思いがけない冒険』は忠臣蔵か?

2012年12月19日 | 映画感想
 ちょっと近藤長次郎シリーズをお休みしまして、映画です。
 昨日、行ってまいりました。『ホビット 思いがけない冒険』を見に。『ホビット 』三部作は、『ロード・オブ・ザ・リング 』三部作の60年前のお話です。
 原作『ホビット の冒険』では出てこないガラドリエルのおばはんが出ていまして、嬉しゅうございました。

映画『ホビット 思いがけない冒険』予告編



 もしかして、アラゴルンは明治大帝かの続きになるでしょうか。
 古い記事です。シャルル・ド・モンブラン伯爵についての情報を求めて、せっせとブログを書き始めた当初でした。
 しかし、あんまりにも読者が少なすぎましたので、ふってみた話題がアラゴルン。

 えー、私、二次創作をやっておりましたほどの指輪(ロード・オブ・ザ・リング)オタです。
 幕末と指輪物語と、どちらに先にはまったか、といいますと、実は「指輪物語」です。
 ほんの少女のころに、J・R・R・トールキンの作品を夢中になって読み、映画化にいたるまでの長い年月、変わらずこの世界への愛を育んでおりましたのは、壮大な歴史の中で繰り広げられます栄枯盛衰に、しかし、人が生きるということへの哀歓が、ものの見事に歌われていたからでしょう。

 原作が好きで好きでたまらない、という場合、映画化は期待はずれであることが多いのですが、「ロード・オブ・ザ・リング」三部作は期待以上でした。
 イメージがちがいすぎる部分がなかったわけではないのですが、それを忘れさせてくれるときめきがあり、わけても二部「二つの塔」、三部「王の帰還」の騎馬王国ローハンの描き方は、原作以上のすばらしさ、と私には思えました。

Lord of the rings: Two Towers | Battle of Helmsdeep HD


 上は二部の角笛城の戦い。見ていてもう、涙が出てきまして、「ローハンの戦いは、なんかこう、日本人の心情に切々と訴えてくるよねえ」と思いましたら、パンフレットによりますと、この場面、黒澤明監督の「七人の侍」の影響を受けているんだそうなのです。
 下は三部のベレンノール野の戦いにおきます、ローハン騎馬軍団の突撃です。
 古い盟約を守り、全員が死を覚悟して、同盟国ゴンドールの窮地にかけつけたローハン騎馬軍団。
 「死を!」と叫びながらの決死の突撃に、胸を打たれます。

 Return of the King: The Great Battle - Arrival of Rohan



 実は、ですね。
 「ホビット」の上映は、吹き替え&3D版と字幕版の2種類を上映しておりまして、私の行きました映画館は、同じ階の二つのホールで、時間をずらして2種類上映していたんです。人が少なく、両方に入れてしまったりするものですから、私、字幕版を見るはずが、まちがえて吹き替え版のホールに入り、それが……、十分上映開始に間に合ったはずなのに、いきなりのクライマックスでして、おかしいなあ、と思いつつも、あまりの迫力に引き込まれてしまいまして、呆然と見ておりました。

ホビットの冒険〈上〉 (岩波少年文庫)
J.R.R. トールキン
岩波書店


 私、もちろん原作を読んでおります。
 「ロード・オブ・ザ・リング」三部作とちがいまして、「ホビット」三部作は、ドワーフが中心の物語のはずなのです。
 ドワーフといいますのは、どちらかといいますと無骨な感じの小人のはず、でして、「ロード・オブ・ザ・リング」のギムリは、原作のイメージに近く造形されておりました。
 「ホビット」でホビットのビルボとともに旅します13人のドワーフの中には、ギムリの父・グローインもおります。
 私、予告編もなにも見ていなかったものですから、思い描いていましたドワーフはずんぐり、むっつり。「前作とちがって地味な三部作になりそうだなあ」と思いつつ、見に出かけたわけだったのですが。

 いきなりのクライマックスシーンに、びっくり!です。
 「い、い、いや、三部作の最初だから物語前半のはずで、エルフや人間が戦うシーンなんてないよねえ???」
 しかし、なにしろ原作を読んでいますので、しばらく見とれていますうちに、「これドワーフなんだ! かっこうよすぎる……、トーリン・オーケンシールド!!!」と息をのみ、やっとのことで吹き替え版を見ていることに気づきまして、最初からやっております字幕版のホールに入り直しました。

 

 ドワーフの王、トーリン・オーケンシールドです。
 こんなイメージは持っていなかったのですが、ドワーフたちは、追われた故郷を取り返す旅に出ていたんですよねえ。
 帰ってから、原作を読み返してみましたら、ちゃんとそう書いてありましたわ。
 で、父祖の恨みを晴らす旅でもありまして、予告編にも使われています「はなれ山の歌(Song of the Lonely Mountain)」が、戦う男達の望郷の念をやどして、低く、響きわたります。
 「なんなの、この和テイストは!」とまたも感じました私、明治大帝に続きます七人の侍、そして今度は、「これ、忠臣蔵かも!!!」と思ってしまいました。

Tales of Old Japan
クリエーター情報なし
Tuttle Pub


 リーズデイル卿とジャパニズム シリーズでご紹介しておりますが、幕末に来日いたしましたイギリスの外交官、アルジャーノン・バートラム・ミットフォードは、帰国早々の1871年(明治3年)、忠臣蔵の英訳を出版しておりまして、今なおこの英訳は、英米で読み継がれております。

 本当の勇気と、ともに戦う男たちの熱い信頼の情。
 13人のドワーフたちは、なんとなく、中国軍に祖国を追われましたチベットやウイグルの人々を彷彿とさせます。
 祖国奪還のファンタジーだったんですねえ、「ホビットの冒険」は。

 一年後に公開のはずの第二部「ホビット スマウグの荒らし場」が待ちきれません。
 えーだって、私の大好きな、レゴラスの父・スランドゥイルが出てくるんです!!!



 よいですわ。
 この出で立ちは、出身がシンダールエルフ(海のエルフ)だとわかる感じでして、しっかり、大昔の話までやってくれるんでしょうか。
 えーと、ずいぶん以前に書きました愛しのレゴラスというページがまだ残っておりますので、ドワーフ嫌いの闇の森のエルフ王・スランドゥイルに関心がおありの方は、どうぞ。
 最後に、かつて私が二次創作で、中つ国に別れを告げるガラドリエルになりきってスランドゥイルに贈りました、言葉を。

 わらわはわらわなりに、スランドゥイルを愛しておりました。
 夫にしたいとはついぞ思ったことがありませぬし、夫や親族への情愛とは、また別の感情なのですけれども、もしかすると、これはわらわにとって、ただ一度の恋であったやもしれませぬ。
 さらば、中つ国。ここで紡がれし物語の数々。
 そして、緑森にありし君よ。
 これが、しばしの別れであらんことを。
 

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近藤長次郎とライアンの娘 vol7

2012年12月14日 | 近藤長次郎

 近藤長次郎とライアンの娘 vol6の続きです。

 私、グラバー談話につきましては、近藤長次郎とライアンの娘 vol5で、山本栄一郎氏の「真説・薩長同盟―坂本竜馬の真実」を見て、すでに考察いたしました。この大筋が、ちがっていたわけではないのですけれども。

真説・薩長同盟―坂本竜馬の真実
山本 栄一郎
文芸社


 ところが、ですね。
 山口県立図書館から届きましたコピーを読んでおりますと、グラバーは、実に生々しい話をしております。
 以下、引用です。

 その翌日坂本龍馬といっしょに来た人が、佐々木という人だろうと思いますが、それはたしかではありません。しかし二人で来て、上杉(長次郎)は非常に立派な自害をしたと話しました。ほんとうかと訊くと、ほんとうだと答えましたから、なぜ自害したか、どういう理由で死んだかとたずねました。するとわれわれ同志が盟いを立てたことがある。それを破ったから死んだという。よろしい、それなら私は刀をもらう約束がしてあるからそれを渡してくれというと、それはやるわけにはいかぬという。これは怪しからぬ、上杉はおまえたちが盟を破ったために自殺させたということであるから、殺したおまえたちに、その責任が生じてこなければならぬ。どうしてもその刀は受けとらねばならぬと談判したところが、坂本は顔を青くしてよく考えてみようという。実は、その刀は死骸と共に埋めてしまったのであるが、しかいう理屈をグラバがいうならば、よく考えてみようというので、乗物に乗って出て行った。やがて、短刀の方は持ってこなかったが、大きい刀を持って来てくれた。その刀は、この間まで持っていましたが、芝の火事で焼いてしまいました。 

 まず、ですね。このインタビューが行われました時期の訂正から、いたします。
 中原邦平は冒頭で、「今日の質問は、ミストル・グラバの履歴を調査するためではありません。旧長州藩(すなわち毛利公)の歴史編輯の材料ならびに伊藤井上二公の事績調査の参考とするのであります」 と言っていますし、グラバーの談話中「この間まで持っていましたが、芝の火事で焼いてしまいました」とあります芝の火事は明治42年4月のものと思われ、どうも、グラバー死去(明治44年12月)の直前、明治43年か44年ころのようなのです。

 そうだとしますならば、「井上伯伝」出版(明治40年)より後ですし、おそらくは、ほぼ4行分に黒々と墨線が引いてあります井上馨関係文書第92冊「近藤長次郎伝」が書かれた後、と思われます。

 (追記) 芝の火事でグラバー邸が焼けた時期を、私、勘違いしていたことが判明いたしました。詳細ははぶきますが、内藤初穂氏の「明治建国の洋商 トーマス・B.グラバー始末」によりますと、芝のグラバー邸は1893年(明治26年)3月20日に火事で全焼しまして、以降、グラバーは芝に邸宅は持たなかったそうなのです。一方、グラバーに受勲を、といいます動きは、岩崎弥之助によりまして、明治31年ころから始まっているのだそうでして、どうも、明治30年ころの聞き書きであった可能性が出てまいりました。このことは、次回の考察で反映する予定です。

 井上馨関係文書第92冊「近藤長次郎伝」「井上伯伝」のどちらが先に書かれたかは悩ましいのですが、「井上伯伝」が長次郎の死の原因をどう記述しているかと言いますと、近藤長次郎とライアンの娘 vol2ですでに書きましたが、なにしろ山 栄一郎氏がおっしゃいますように、「井上伯伝」は、馬場文英著「土藩坂本龍馬伝 附 近藤昶次郎、池内蔵太之事」を下敷きにしています。
 したがいまして、リアルタイムに社中の三人が薩摩屋敷に届け出ました、野村宗七日記の「同盟中不承知之儀有之」 から、大きくはずれるものではありませんし、「土藩坂本龍馬伝」そのままと言ってよく、桜島丸(ユニオン号)に長州海軍局の中島四郎が船長として乗り込み、長崎へ現れたので、約束にたがうと薩摩藩士が怒った、ということになっていて、以下のように記しています。

 「上杉はこれがため薩長連合の進行に破綻を生ぜんことを憂へ、責を一身に引請けて自刃したり」 

 ただ、小さく以下のような説もあることを載せているんです。

 「海援隊士が上杉に迫りて自殺せしめたるは、汽船購入に就き、彼が長州より巨額の金を収受したりとの嫉妬的非難もありたりといふ」 

 これ、近藤長次郎とライアンの娘 vol5でご紹介しました井上馨関係文書第92冊「近藤長次郎伝」の話を要約しただけと思えまして、とすれば、坂崎紫瀾が書いたと思われます井上馨関係文書第92冊「近藤長次郎伝」は、明治40年以前に書かれたものでしょうし、先に推測しましたように、紫瀾は中原邦平より先に、ユニオン号事件につきまして、グラバーに話を聞いていたのではないでしょうか。
 むしろ、中原邦平は、井上馨関係文書第92冊「近藤長次郎伝」の異説に誘発されまして、「井上伯伝」出版後の明治43年か44年ころ、再びグラバーに話を聞こうと思い立ったのでしょう。

 したがいまして、最初に引用しました生々しいグラバー談話を、です。紫瀾がそのまま先に聞いていたかどうかはわからないのですけれども、大正元年の「維新土佐勤王史」に、少々は反映されているように思われまして、似たような感じでは、聞いていたのではないでしょうか。

 要するにグラバーは、「社中のメンバーは、長次郎が死んだ翌日に『上杉(長次郎)は非常に立派な自害をした』と言いに来たが、自分には信じられなかった」といいますことを、後年まで、覚えていたんですね。
 「土佐史談240号」収録の皆川真理子氏の論文「史料から白峯駿馬と近藤長次郎を探る」から、野村宗七(盛秀)日記の関係部分を、孫引きさせていただきます。お断りしておきますが、適当に漢字を開いたりいたしますので、正確なものではありません。

1月13日(晴)
御邸へ出蘭岡色爾ボードウィンへさしこし、それより伊地知大人(壮之丞、貞馨)へさしこし候ところ、土州家上杉宗次郎(長次郎)あい見え、今夕、伊地知大人ならびに喜入(摂津)氏、上杉と小島屋
1月14日(朝5時ころまで雨、昼晴)
英人ラウダへ8後さしこし、今晩、上杉宗次郎、伊東春輔(伊藤博文)、菅野覚兵衛(千屋寅之助)とガラバ別荘へ約束いたし置さしこし候
1月23日
今晩8前、土州家・前河内愛之助(沢村惣之丞)、多賀松太郎(高松太郎)、菅野覚兵衛入来。上杉宗次郎へ同盟中不承知の儀これあり、自殺いたされ候だん、届け申し出候間、翌朝、御邸・伊(伊地知壮之丞)、汾(汾陽次郎右衛門)そのほかへ、届け申し出候
1月24日(晴)
上杉旅舎自殺いたし候小曽根方へさしこし、前河内と会とり、なおまた、始終を聞く。ガラバ方にて、伊東春輔と面会、上杉が次第を話す。
 

 伊藤博文は、このときグラバーの別荘に滞在していました模様で、あくまでも野村の日記によれば、ですが、長次郎の死を伊藤とグラバーに告げましたのは、薩摩藩士である野村本人です。
 しかし野村は、その前に沢村惣之丞に詳しい話を聞いているのですし、野村とともにか、その前後に別にか、どちらにせよ、社中のだれかが、伊藤とグラバーに話をしに行かない方がおかしいでしょう。
 
 この伊藤公直話 「詰腹切った近藤昶一郎」(近代デジタルライブラリー)、いったいいつ聞いた話なのかわからないのですが、伊藤が死んだのが明治42年ですから、グラバー談話よりも前であることは確かです。
 で、グラバーとともに長次郎が死んだことを聞きました伊藤博文は。

 「小松帯刀が、この男は後来役に立つ男だといって、いくらか金を出して洋行させることにした。それを他の海援隊の奴が聞いて、けしからぬといって切腹させてしまった。その前日なども一緒に酒を飲んでいたが、翌日になって、昨夜腹を切らしてしまったというような話だった。気の毒なことをした、これが一番役に立つ男だった」

 翌日に、おそらくは社中のメンバーから長次郎の死を知らされたグラバーと伊藤は、後年ですが、口をそろえて「長次郎は小松帯刀に洋行させてもらうことになっていた。それが原因で、社中に迫られて詰腹を切らされた」 と言っているわけです。

 前回もご紹介しました犬塚孝明氏の論文「第2次薩摩藩米国留学生覚え書 日米文化交流史の一齣」(日本歴史学界の「日本歴史 453号」p34-51)によりますと、長次郎の死後、慶応2年3月26日に長崎を出ました第2次薩摩藩米国留学の第一陣は、渡航の世話から留学中の費用一切、アメリカ商人ロビネットに任されていました。グラバーには一切、関係ありません。
 したがいまして、井上聞多が長次郎に頼んでおりました「薩摩の留学生に長州人もまぜて欲しい」という点に関しましては、1月13日、長次郎が、野村と伊地知壮之丞や喜入摂津などと会っていたときに、話し合われた可能性が高いと思われます。

 ではいったい、その翌日、1月14日にグラバーの別邸で、長次郎と野村に伊藤、千屋寅之助が話し合ったのはなんだったかと言いますと、もちろん、ユニオン号のことであったと思われます。
 しかし、千屋のいた席でその話が出たかどうかはわかりませんが、グラバー、伊藤、長次郎の三人は、前回、慶応2年12月10日付けの伊藤博文から桂小五郎(木戸)宛の書簡から推測しました「薩英会談に、長州の代表も加えて三者会談を実現させよう!」ということについて、頻繁に、つっこんだ話をしていたと思います。
 薩英会談の実現に、グラバーは相当に尽力していますし、下関開港は、グラバーの悲願でした。

 そして、薩摩に頼っての長州人の留学話にしろ、薩英会談に長州の代表を出席させる話にしろ、双方、井上聞多と伊藤博文が、近藤長次郎個人に頼んだ話でして、伊藤にしてみましたら、龍馬は別格として、社中の他のメンバーには、いっさい関係のない話なんですね。長次郎にしましても、薩摩側の判断がどう転ぶかまったくわからない段階で、長州からの頼み事を他にもらすことは、むしろ、してはならないことではないでしょうか。

 後年の伊藤の話が、どこまで正確なものなのかはわからないのですが、伊藤のいいます通り、長次郎が死にましたその日、伊藤と長次郎と社中のメンバー、それもおそらく沢村惣之丞、高松太郎、千屋寅之助が酒を飲んでいたのだとしまして、酒の勢いで、伊藤がなにげなく留学の話を長次郎に聞いたりするようなことが、あったのではないでしょうか。
 土佐勤王党のこの三人にしましたら、日頃、伊藤は長次郎ばかり特別扱いで、自分たちには、なにも話してくれない、という不満が募っていたのだと思います。
 後年のことながら伊藤は、長次郎について「これが一番役に立つ男だった」と言っているわけですし。

 後年の回想の上に重ねて、もはや憶測にしかならないのですが、長次郎が井上聞多から留学生についての周旋を頼まれていることは知らず、伊藤の言葉のはしばしから、沢村惣之丞、高松太郎、千屋寅之助は、逆に、長次郎の留学が長州の世話を受けたものだと誤解したのではないのでしょうか。
 そして、伊藤と別れ、小曽根邸へ帰りました長次郎と沢村惣之丞、高松太郎、千屋寅之助の間に実際になにがあったのかこそが、井上馨関係文書第92冊「近藤長次郎伝」黒々と墨線が引いてあって読めないほぼ4行分に書いてあることなのでしょう。

 ユニオン号問題の解決とともに、「薩英会談に、長州の代表も加えて三者会談を実現させよう!」としていましたグラバーと伊藤にとりまして、長次郎の突然の死は、呆然と、信じることのできないものでしかなかったと思われます。
 グラバーの回顧談に出てきます坂本龍馬と佐々木を、坂崎紫瀾は「維新土佐勤王史」を書きました時点で、高松太郎と沢村惣之丞だったと、理解したのでしょう。高松太郎はともかく、なぜ沢村惣之丞が前面に出て来たのかは、今のところ、私にはさっぱりわからないのですが、後に、「維新土佐勤王史」の記述とともに、ユニオン号をめぐります社中の動きを検証してみますので、なにか、考えつくことがあるかもしれません。
 私、書きながらでなければ、なにも考えることができないんです。

 近藤長次郎とライアンの娘 vol5に書きましたが、後年の談話ですし、グラバーの記憶は、いろいろなことをごちゃごちゃにしてしまっているのですけれども、冒頭で引用しました部分、どうやら「長次郎が自殺などするはずがない!」と感じて、社中のメンバー、おそらくは高松太郎と沢村惣之丞を問い詰めました部分は、やけに生々しいんですね。
 そして、長らくグラバーは、長次郎の形見の太刀を、大切に持ち続けていたわけです。

 これ、やはり私は、死ぬ直前の岩崎弥太郎が、明治16年に出版されました「汗血千里駒」を見まして、そこに書かれました愛弟子・長次郎の死の原因に驚愕し、グラバーに話したんだと思うんですね。グラバーなら知っているだろう、という思いもあったのだと思います。

 ご存知のように、岩崎弥太郎は後藤象二郎に抜擢され、土佐商会の長崎留守居役を務めますと同時に、龍馬の海援隊の経理も担当するのですが、長次郎の死について、龍馬と話したことがあったにしましても、近藤長次郎とライアンの娘 vol5で引用しておりますが、 千里駒後日譚(青空文庫・図書カード:No.No.52179)のお龍さんの回想からしまして、龍馬は真相を知りませんでした。
 河田小龍の塾からずっと長次郎と同じ道を歩み、長次郎の死後も遺児のめんどうをみたといわれます新宮馬之助は、このとき龍馬とともに京都にいまして、やはり事件の真相を、知ってはいません。

 もしかしますと社中の三人の知らせを受けました野村は、グラバー、伊藤とともに、その言い分を疑ったのかもしれないのですが、薩摩人らしく「社中の連中のためにはそうしておいてやるしかなかろう。りっぱな自決といえば、長次郎の名誉にもなるだろう」と、追及しなかったでしょう。

 そんなわけで、岩崎弥太郎にとりまして、「汗血千里駒」の記述は驚愕の種で、長次郎への哀悼の思いを深めて、長次郎の形見の刀を愛蔵していますグラバーに、あらためて話を聞いたのではないかと、思えるんですね。
 つまりグラバーは、明治16年ころに一度、岩崎弥太郎に話したこともあって、明治の終わりになりましても、この部分のみは生々しく、自分が「殺したおまえたち」とつめよったこと、つめよられた「坂本は顔を青くし」たことなど、語りえたのではないのでしょうか。

 実は私、千頭さまご夫妻にお目にかかる以前から、井上馨関係文書第92冊「近藤長次郎伝」は手に入れておりました。しかし、黒々と墨線が引いてありますほぼ4行分になにが書いてあるかなぞ、いまさら考えてもわかることではないと、放り出していたんですね。

 千頭さまご夫妻は、「長次郎は殺された」と確信しておられました。
 私、かならずしも最初から、ご夫妻の確信に、同意していたわけではありません。
 ただ、殺されたと言いましても、「酒の入った場で、感情の行き違いから言い争いになり、三人の誰かが勢いで、つい長次郎を刺してしまったのではないか」というお話でしたので、まあ、ありえないことではないけれども、と思いつつ、ユニオン号の話にしろ洋行の話にしろ、あまりにも情報がごちゃごちゃでして、整理して考えてみないことには、なんとも、と、ずっと留保しておりました。

 ご夫妻が、「長次郎が自殺したはずがない」と思われます最大の理由は、出産が近い妻お徳さんに、なんの遺言もなかったことです。長次郎の死の二ヶ月後に遺児・百太郎は生まれていまして、長次郎は妻が出産の時にそばにいられないことはわかっていましたから、「こう名付けるように」という手紙は、出していたそうなのですね。
 おそらく、なんですが、龍馬とともに上京しました新宮馬之助が、届けたのでしょう。
 それほどに気をつかっていました長次郎が、なんの遺言もなく、覚悟の自殺をするでしょうか? ということです。

龍馬の影を生きた男近藤長次郎
吉村 淑甫
宮帯出版社


 もう一つ。
 ご夫妻は、「龍馬の影を生きた男近藤長次郎」の著者、吉村淑甫氏とお知り合いです。
 吉村氏は、90を超えられてご健在だそうですが、「書けなかったことがある」というようなことを、ご夫妻におっしゃったそうなのです。
 これは私の推測なのですが、吉村氏が伝記を書かれました当時には、「玉里島津家史料」も刊行されておりませんし、また吉村氏は、野村の日記を見てみようとは、思いもかけておられなかったでしょう。
 「維新土佐勤王史」に反論しますには、あんまりにも材料不足でおられたのではないでしょうか。

 井上馨関係文書第92冊「近藤長次郎伝」黒々と墨線が引いてありますほぼ4行分になにが書いてあるのか。
 これ、短い伝記なのですから、なにも墨線を引いた部分を残さなくても、きちんと清書すればいいことなのです。
 だのになぜ、わざわざ墨線を見せつけるように残したのか。
 長次郎の死が不審なものであることを、後世に伝えたかったのだと、私には思えます。

 妄想だといわれますとそれまでなのですが、墨線の下には「長次郎は、高松太郎と沢村惣之丞に殺された」ということが、書いてあったのではないでしょうか。
 そして、それを坂崎紫瀾に話した人物は、高松太郎以外にいないでしょう。
 反対から言いますと、高松太郎が、長年の胸のつかえを打ち明け、世間へ公表するかどうかの判断をゆだねる相手としましては、実弟・坂本直寛(南海男)の自由民権運動仲間で、「汗血千里駒」の著者、坂崎紫瀾以外にいなかったのではないでしょうか。

 続きます。

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近藤長次郎とライアンの娘 vol6

2012年12月11日 | 近藤長次郎

 近藤長次郎とライアンの娘 vol5の続きです。

 井上馨関係文書第92冊「近藤長次郎伝」黒々と墨線が引いてあって読めないほぼ4行分には、いったいなにが書いてあったのか?なのですが、そこへ入ります前に、坂崎紫瀾が明治16年の「汗血千里駒」から「維新土佐勤王史」に至るまで、ずっともち続けました近藤長次郎の死の原因に関します「長州に頼っての留学が同志への裏切りと見なされ、自刃を迫られた」という説のうち、「長州に頼っての留学」は、本当だったのかどうか、考えてみたいと思います。

 前回、私、慶応元年11月10日付け伊藤の書簡に「同人(長次郎)英国行之志ニ御座候処、我が藩のため両三月も遅延」とあります長次郎の洋行につきましては、「団団珍聞社主のスリリングな貨物船イギリス密航」で書きました肥前鍋島藩の石丸、馬渡、安芸の野村といっしょに行くつもりで、資金は薩摩の小松帯刀が出す話だったのではないか、と推測しました。

 石丸、馬渡、野村の三人の洋行は、クラバーが所有する貨物帆船チャンティクリーア号で、長崎からロンドンへ直行したわけでして、食事代以外に船賃はかかりませんし、非常に安上がりです。しかも彼らは、ロンドンよりははるかに物価が安い、と思われますスコットランドのアバディーンで、グラバーの実家の兄さんの世話になっているのですから、薩摩藩の英国留学生などにくらべまして、滞在費も超格安、なはずです。

 しかし、グラバーの持ち船が長崎からロンドンへ直行する機会は、頻繁にはなかったように思うんですね。
 で、長次郎は、伊藤の書簡から察しまして、「長州のためのユニオン号の周旋でイギリス行きのグラバーの船に乗る機会を逃してしまった」のではないでしょうか。

 紫瀾が明治16年から一貫しまして、「長次郎の洋行費は長州に頼ったものだった」としているのに対しまして、グラバーと伊藤博文は、後年の回顧談ながら、「長次郎の洋行費は小松帯刀が出すはずだった」としているんですね。これは、最初に計画されていました石丸、馬渡、野村との洋行の話だったものと思われます。
 伊藤の回顧談につきましては、近代デジタルライブラリーの伊藤公直話 「詰腹切った近藤昶一郎」で見ることができます。

 そして、中原邦平がグラバーに聞いた話が載っています、明治45年発行「防長史談会雑誌」のコピーが届きました。
 これ、私、かなり大昔にコピーしてもらって持っていたはずなのですが、出てきませんで、また山口県立図書館にお願いしました。
 長次郎の洋行費用につきまして、グラバーは次のように述べています。

 問 上杉の洋行に就て旅費はどこから出しましたか。貴下がお出しになりましたか。
 答 多分私がやつたのだらうと思ひます。小松帯刀が幾らか小遣をやり、自分は無代で彼へ地往けるように切符をやり、其他幾らかやつたろうと思ひますが、判然覚えて居りませぬ。小松が多分金をやつたでせう。
 


真説・薩長同盟―坂本竜馬の真実
山本 栄一郎
文芸社


 山本栄一郎氏の「真説・薩長同盟―坂本竜馬の真実」は、近藤長次郎の洋行につきましても、詳しく考察しています。
 参考にさせていただきまして、私なりに、貨物船密航が不可能になりました後の長次郎の洋行について、考えてみたいと思います。

 慶応元年10月18日付け井上聞多宛の近藤長次郎の書簡が、「井上伯伝 中巻」(p147-151)に収録されています。その中に、以下のような一節があります。
 「第三 書生彼之国之名前にて遠方御遣しの事、この義は今しばらく評議中なり」

 「彼之国之名前」は、当然薩摩藩でしょうから、これは聞多が、「うち(長州)の書生を薩摩の名義で洋行させてもらえないかな」と長次郎に頼みんだことへの返答、と推測できます。「その件は、薩摩藩としては、もうちょっと相談させてくれ、ということだよ」ということです。

 桐野利秋(中村半次郎)と海援隊◆近藤長次郎 vol5で書いたことですけれども、中岡慎太郎が9月30日付けで故郷の親族に出しました手紙に、「先頃之思惑にては外国へ参り申度」云々、つまり、「外国へ行きたくて計画したけれど、用事ができて中止になった」とあります。
 これ、ですね。私、長州が金を出して、近藤長次郎とともに、石丸、馬渡、野村と同じグラバーの貨物船で洋行する計画だった、と推測したのですが、非常に安上がりな話ですし、近藤長次郎の費用は小松帯刀が、中岡慎太郎の費用は長州が、ということで、まちがいはなかろうと思います。

 しかし、実際に石丸、馬渡、野村が乗り込みましたグラバーの貨物船は、10月に出港しておりまして、風待ちで出港が遅れたことを考えますと、台風シーズンが終わりました9月末ころから、乗り込みメンバーは待機する話になっていたのではないか、と思われます。
 とすれば、ちょうど中岡が故郷に手紙を出したころ、薩長同盟の周旋で、中岡も長次郎も、乗り込むことが不可能になったのではないでしょうか。
 それで、新たな洋行話が持ち上がったのだと思うんですね。

 おそらく、なんですが井上聞多が、「うち(長州)の書生を薩摩の名義で洋行させてもらえないかな」と長次郎に頼みました中には、中岡慎太郎がいて、田中光顕がいて、そして長州人もいたのではないか、と思われます。

 えーと、ですね。翌慶応2年の4月には、幕府が、海外渡航を解禁します。
 この解禁について、私、まったく調べておりませんので、どなたか詳しい方がおられましたら、論文など、ご教授くださいませ。ともかく、いつころから計画されたことなのでしょうか。
 モンブラン伯と「海軍」をめぐる欧州の暗闘vol2に書いているのですが、慶応元年(1865)7月、横須賀製鉄所建設にともないます機材の購入と技術者雇い入れのために、柴田使節団が渡仏します。
 やがて、新納&五代の薩摩使節団もパリに滞在し、火花を散らすのですが、薩摩藩は、密航していながら、欧州におきまして、独立国然としましたやたらに派手な動きを見せまして、洋行を幕府に隠すつもりは、もはやまるでないかのようなのです。

 ここまで面子をつぶされますと、幕府としましても、渡航禁止に固執する方が変ですし、解禁に踏み切ろうという議論は、慶応元年の秋くらいから、あったのではないかと思います。しかし。

 日本歴史学界の「日本歴史 453号」( 1986年2月発行 )p34-51に、犬塚孝明氏の論文「第2次薩摩藩米国留学生覚え書 日米文化交流史の一齣」が収録されております。
 これに慶応元年10月13日付け、ですから、ちょうど長次郎が聞多宛に手紙を書いたころの、在京の大久保利通から薩摩の伊地知壮之丞(貞馨)と市来六左衛門(政清)に宛てた書簡が引用されております。

 「木藤市助ほかに一人、遠行の志にて出立候。全体英の含みに候えども、大抵御談之の上、仏の方に差し出されたく、左候えば、ほかに両三氏これあり、左候て、新納、町田如き人を差し出されたき事に候。なにぶん崎陽(長崎)の方に両君のうちにても御出あい成たく候。おおよそ異船は横浜の方とあい考え候えども、彼方は形跡を潜め候ことむつかしきゆえ、探索だけのことにござ候」
 
 なんだか、意味のとり辛い文面なんですけれど、犬塚孝明氏の後の解説を参考にさせていただきつつ、いいかげんな現代語訳を試みてみます。
 
 「木藤市助ともう一人が、洋行したいと言い置いて、京都を発ちました。イギリスに行きたいという話なのですが、私はフランスに行かせる方がいいのではないかと思い、そうなれば、ほかに三人、行きたいというものがいます。さらに、今回の新納や町田のような、家老級の家の人にも行っていただきたいですね。長崎の方へ、両君もお出まし願えればいいのではないでしょうか。外国へ行く船便は横浜の方が多いと思うのですが、なにぶん幕府の目をくらますことがむつかしく、出発前に見つけ出される危険もありますから」

 木藤市助は、高杉晋作とモンブラン伯爵で書きました。長次郎の死後になりますが、高杉晋作に詩を贈られました薩摩人で、アメリカに留学しながら、自殺しています。犬塚氏によりますと、尊攘派の過激分子で、英学の知識はまったくなかったそうです。
 この時期になってきますと、薩摩藩では、攘夷派の猛者が洋行を望むようになっていまして、中岡慎太郎や青山のじじいも、その影響を受けたのかもしれませんねえ。

 まあ、あれです。なにしろ薩摩藩には、広瀬常と森有礼 美女ありき3に書いておりますが、国学の大家にしまして、和歌のお師匠さま、「大理論畧」を著しました八田知紀じいさまがおられますっ!!! えーっ、八田のじさまによりますと、攘夷なんて、馬鹿のやること。日本人は大いに世界に出て、日本こそが神の国だと、世界に向かって説教するべきなんだそーなんですのよ、チェストーッ!!!

 「イギリスよりフランスに行かせる方がいい」という部分は、果たしてこの時点で日本に手紙が届いていたかどうかわからないのですが、もしかしますと、技術系の分野でロンドンでは日本人が通う適当な学校がなく、薩摩藩の第一次イギリス留学生のうち、ボードウィン門下の蘭方医留学生、中村宗顯(博愛)と朝倉(田中静洲)は、フランスに行っていまして、それが影響したのかもしれません。そこらへんのことと、新納&町田家の家柄につきましては、巴里にさようなら、薩摩貴公子16歳の別れ vol1をご参照ください。

 続きます「両君の長崎へのお出まし」がなんのことかと思うのですが、木藤市助が横浜からアメリカに渡る世話をしましたオランダ改革派教会の宣教師ブラウンが、ですね、本国のミッション本部宛書簡に「薩摩藩主の弟たちが留学する計画があり、木藤たちはその準備のためにそちらへ行く」というようなことを、書いているんだそうなんですのよ。つまり、実現はしませんでしたけれども、どうも、島津家の御曹司を留学に出そうという話が、あったようです。

 えー、藩主の弟君の洋行計画があったとしますならば、ですね。
 大久保のおフランスへのこだわりは、あるいは、セーヌ河畔、薩摩の貴公子はヴィオロンのため息を聞いたの新納とうさん(刑部)が、「大久保さあ、欧州貴族の共通語はフランス語ごわす!」と手紙に書いた、とか。

 そして、この時点ではまだ、薩摩藩にも、幕府が海外渡航の解禁を考えている、という情報は、入っていなかったようです。大久保は、「横浜からでは目につきやすいので長崎がいい」と言っていますし。
 およそ8ヶ月後、慶応2年7月3日、実際に木藤がアメリカ留学に旅立ちましたときには、解禁されていまして、木藤は横浜からアメリカの船で太平洋を越えています。

 あるいは、ですね。井上聞多が、「留学生も薩摩の名義を借りて」と思い立ちましたのは、沢村惣之丞と中岡慎太郎の夢見た欧州に書いておりますが、8月のはじめころ、沢村惣之丞は開成所のオランダ語教師として薩摩にいまして、大久保も薩摩に帰っておりまして、そこへ、小松帯刀の帰藩にあわせ、近藤長次郎が井上聞多を連れて、薩摩入りします。
 このとき聞多は、薩摩がまた留学生を送り出す、という話を聞いて、さっそく、「長州人もまぜて欲しい」と、とりあえず大久保と小松に頼んでいたのではないでしょうか。

 結局、薩摩の第二次留学計画は二転三転しまして、藩主の弟たちは洋行しておりません。そして、沢村惣之丞と中岡慎太郎の夢見た欧州でご紹介しましたが、中岡慎太郎が日記に「岩下方平と新納刑部は子供を海外留学に行かせるために、それぞれ知行を五百石出した」と書き付けております私費留学の新納、岩下少年はフランス留学で、モンブラン伯爵の世話になっておりますが、残りの藩士達はみな、費用が安くてすみますアメリカ留学に変更になりました。
 
 しかし、犬塚氏によりますと、その第一陣、仁礼景範、江夏蘇助、湯地定基、吉原重俊(大原)、種子島敬助は、慶応2年3月26日、幕府の渡航解禁直前に、長崎を出港しました。彼らは、上海経由、喜望峰まわり、ロンドン経由でアメリカに行っていまして、ロンドンで一週間、薩摩藩英国留学生たちの案内で見物しております。
 つまり、ですね。彼らは、第一次英国留学生のような派手さはありませんで、アメリカの帆船(おそらく貨物船)で、この旅をしたようですが、イギリスへよっているのですから、長州から留学生を頼まれましたら、イギリスまでいっしょに連れていくことは可能でしたし、それほど高価な旅でもなかったんですね。

 私、長次郎が生きていましたら、この第二次の薩摩藩米国留学生に同行し、そしておそらく、中岡慎太郎と田中光顕、あと長州人がいく人か、とともに、イギリスへ行く話になっていたのではないか、と思います。
 長次郎の最初の洋行は、伊藤の書簡によれば、どうも、ユニオン号の周旋で、長州のために行けなくなったわけですから、お詫びの意味で、長州からも多少の資金援助は、ない方が失礼な話、ではないでしょうか。

 「井上伯伝」に、ユニオン号の扱いにつきまして、下関でちょうどもめている最中、慶応2年12月10日付けの伊藤博文から桂小五郎(木戸)宛の書簡が載っています。以下、引用です。

 「井上先生出足の節、委曲談じ置き申し候ことにつき、御聞きとりくださるべく候ところ、英ミニストルの論は、幾重も密々御熟慮御謀り、まづ廟算を厚く御取極めの上、薩へ御談合あられたく、反覆熟考仕候へは、これすなわち皇威回復の基ともあいなるべきかと存じ奉り候。さすれば、千載の一時、機を失うべからざる事につき、ひとえに御尽力あられたく、伏願い奉り候。上杉もこれが為に英行したき存念にござ候ところ、ミニストル左様の主意これあり候へば、実にこの間に力を尽くしてみたしと雀踊しおり候。とくと井上先生より御聞きとらるべく候。私崎陽(長崎)行つかまつり候へば、上杉もぜひ同行したきと申す事にござ候。さすれば無理に蒸汽(船)でなくても、陸行にても苦しからずと存じ奉り候」 
 これまた、意味がとり辛い文面なのですが、ご参考までに、以下、超いいかげんな現代語訳です。

 「井上聞多先生がそちらへ向かいまして、細かいことは話しておきましたので、お聞き取りください。イギリス公使パークスの論は、あくまでも内密の内によくお考えになって、深謀をめぐらして取り決めた上、薩摩へ話し合いをされるべきで、よくよく考えてみましたならば、これが朝廷の権威を回復する基ともなろうかと思います。だとすれば、これはまれな機会で、時期を逃すべきではなく、上杉(長次郎)もこのために、イギリスに行くつもりでいるのですが、イギリス公使にそのような考えがあるのなら、間に立って力を尽くしてみたいと、張り切っております。じっくりと聞多先生よりお聞きになってください。私、長崎へ行きますが、上杉もぜひいっしょに行きたいということです。無理にユニオン号ではなくても、陸行でもかまわないと思っています」
 
 なにより、です。「イギリス公使パークスの論」とはなにか???でして、わけがわからないのですが、中原邦平が次章で解説していますところでは、高杉晋作とモンブラン伯爵に書いております五代友厚のものすごい反幕プロパガンダにつながる話です。
 モンブラン伯爵につきましては、アーネスト・サトウ  vol1に書いておりますが、在日イギリス公使館の若き日本語通訳官アーネスト・サトウに並びまして、薩摩の味方につき来日までしまして大活躍したわけなのです。しかし薩長の元勲たちの、これだけはものの見事な連携で、その足跡が歴史から消されまして、中原邦平にわけがわかっているのだとは、とても思えません。

 とはいいますものの、中原邦平が書いております大筋がまちがっているわけではなく、おおざっぱにいえば、フランスに対抗しまして、イギリスが薩長の後押しをする、という話です。
 実際フランスは、レオン・ロッシュの公使着任により、元治元年の半ばくらいから幕府よりの姿勢をとり、排他と独占に基づく貿易を指向まして、在日イギリス商人の多大な反発を買っていたんですね。
 だいたい、私がこのブログを始めましたのは、えー、桐野利秋(中村半次郎)ゆえではなく、実はモンブラン伯爵に関する情報をどなたかもってきてくださらないものかと、せっせと書き始めたわけでございまして、結局、ブログゆえに得られた情報といいますのはほとんどなったのですけれども(それまでの友人がくださった情報は大きかったですけれど)、ともかく、横須賀製鉄所と生糸交易と薩摩藩幕末イギリス留学生と幕末維新の英仏兵制論争は、すべてモンブラン伯爵がからみますので、このブログの大きなテーマです。

 そして……、桐野利秋(中村半次郎)と海援隊◆近藤長次郎 vol4を書きました時、このテーマに、近藤長次郎も大きくかかわっていたことを知ったのですが、いや……、私、龍馬のまわりにこれほど優秀な人材がいたことをこれまで知らずにいまして、驚きました。

 ともかく。
 伊藤の手紙が書かれました慶応元年の12月は、モンブラン伯は維新回天のガンダルフだった!? vol2で書いておりますように、五代友厚のフランスでの策動はすでに終わっていましたが、まだ帰国の途にはついていませんし、寺島宗則のイギリス政府への働きかけは、まだ本格化しておりません。

 しかし。
 考えてみましたら、五代と寺島は、藩庁と関係なく動いていたわけではないのですから、日本国内で、この年閏5月に公使として着任しましたハリー・パークスを、薩摩へ招く動きはすでにあったでしょうし、薩摩が中心となった雄藩連合構想も、あるいは形になりつつあったかもしれません。
 そして、パークス本人はともかく、通訳官のアーネスト・サトウは、なにしろ長州には海上交通の要所下関がありますし、すでにもう、雄藩連合には長州を加えるべきだと考えていて、イギリスはそれを後押しすると、伊藤、井上に語ってしまった可能性があります。

 高杉晋作とモンブラン伯爵で、慶応2年3月、高杉晋作は、伊藤とともに薩英会談に同席して、その足で洋行しようと考えますが、実はこの薩英会談に、長州の代表も加えて三者会談を実現させよう、ということこそ、伊藤が書簡で「上杉(長次郎)も間に立って力を尽くしてみたいと、張り切っております」と書いたこと、だったんじゃないんでしょうか。
 長次郎の死で、長州を代表する高杉の薩英会談同席をセットできる人材は、消えてしまったわけです。

 こうして見て参りますと、長次郎の洋行は長州に頼ったものとは言い難く、むしろ長州の方が、長次郎を仲介として薩摩に頼りたい、ということだったと、わかって参ります。
 にもかかわらず坂崎紫瀾が、「長州に頼っての留学」と一貫して書き続けたにつきましては、やはりこれは、高松太郎から出た話だったろうとしか、思えないわけなのです。

 それで、肝心の井上馨関係文書第92冊「近藤長次郎伝」黒々と墨線が引いてあって読めないほぼ4行分には、いったいなにが書いてあったのか?なのですが、長くなりすぎてしまいました。
 グラバー談話のコピーが届いたことは、すでにお話ししましたが、実は、これを読んでいますうちに、墨塗り部分には、グラバー談話も関係するのではないだろうか、という感を強くしまして、勝手ですが、次回に続きます。
 今度こそ、ちゃんとお話できようかと思います。

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近藤長次郎とライアンの娘 vol5

2012年12月07日 | 近藤長次郎

 近藤長次郎とライアンの娘 vol4の続きです。

  国会図書館憲政資料室の井上馨関係文書第92冊「近藤長次郎伝」は、著者不明で、肝心な部分が4行ほど、墨で黒々と消されている!謎の伝記です。

 皆川真理子氏が土佐史談に書かれました論文の脚注で、私はこの伝記の存在を知りました。
 憲政資料目録 の●井上馨関係文書、●書類の部、●碑銘・建碑・記伝とクリックしていきますと「712-10 近藤長次郎伝」が出てきます。

 えーと、その。
 私、幕末オタクですし、若いころから、国会図書館の憲政資料室で、かなりの幕末維新関係の史料を複写できることは、知っておりました。
 憲政資料のあれが見たい、と思いました場合、近くの公立図書館で相談してみればいいことも、です。
 地方に住んでいますと交通費がかかりますが、国会図書館へ直接足を運びますのが、やはり一番早くはあるのですが。
 ともかく、この謎の伝記を自分の目で確かめてみたい、と思われましたら、どちらかで、どうぞ。

 まず、この井上馨関係文書第92冊「近藤長次郎伝」が書かれました時期です。
 文末に、長次郎の顕彰記事があるんですね。
 明治11年に靖国神社に祀られましたこと。
 明治18年に建立されました、高知の東大島岬の神社(現在の護国神社)の南海忠烈碑に名前が刻まれましたこと。
 高知県護国神社さんのHP南海忠烈碑銘に碑面の写真がありますが、裏面上から三段目の左端に、近藤長次郎の名前があります。
 そして最後が贈位記事なのですが、「明治三十一年七月特旨を以て正五位を追贈せらる」とありまして、明治31年以降に書かれたものであることには、まちがいがいありません。

 ただ、ユニオン号事件につきまして、あまり詳しく書かれているわけではありませんし、なにしろ井上馨関係文書ですから、私、「井上伯伝」が出版されます明治40年よりは以前に書かれたものと、推測しました。

 著者はだれなのか、ですが、最初、私、「井上伯伝」を書くための材料として中原邦平が書いたのかな、と憶測していました。文中、長次郎が高杉晋作に漢詩を贈られたことが出てきますので、ますますそんな気がしたのですが、そこで、一坂太郎氏の「高杉晋作 漢詩改作の謎」を思い出しました。

高杉晋作 漢詩改作の謎
一坂 太郎
世論時報社


 これによりますと、高杉晋作の漢詩文集「東行遺稿」は、明治20年、土佐の田中光顕(青山伯)の手で、改作された上(大方は悪意の改作ではなく、漢詩上手が添削した形らしいのですが、青山のじじいは、よほど自分が高杉に漢詩を贈られていませんのが残念だったようで、高杉が「(薩摩の)西郷隆盛の漢詩を読んで」と題名に書いておりますのに、「田中光顕が西郷の詩を見せてくれた」と、自分の名前をもぐりこませているそうです。p75-76)、自費出版されているんですね。
 近代デジタルライブラリーの「東行先生遺文」に「東行遺稿」が収録されていまして、確かに266コマp37の最後に「送上杉宗二郎」も掲載されておりますね。

 としますと、例えば高知県護国神社に祀られたことが詳しく書かれているなど、高知出身者が書いたものではないのか、という感を深くしまして、考えてみましたら、馬場文英の「土藩坂本龍馬伝 附 近藤昶次郎、池内蔵太之事」を下敷きにしております「井上伯伝」よりも、内容がはるかに、大正元年に刊行されました坂崎紫瀾の「維新土佐勤王史」に近いんですね。
 それで私、著者は坂崎紫瀾でまちがいなかろう、と思います。

 長次郎の死の原因は、はっきりと、「一人だけ留学しようとしたことが社中の掟に背いていたので、社中全員から自刃を迫られて、そうするしかなかった」と書かれています。手に入れるのがめんどうなものですし、関係部分を引用しますと、以下のようです。ただし、カタカナをひらがなにし、句読点を補い、漢字を開きますなど、改変を加えますし、まちがいもあるかもしれないことをご了承ください。

 はじめ長次郎、勝氏の塾にあって海外文物の盛んなるを慕ひ、遊学の心切なりといえども、学資を得る道なく、空しく志を遂くるを得ず。井上聞多、伊藤俊輔(博文)等の親愛を受け、その委託をもって汽船を求め、巨額の金員を授受するに至って素志勃発し、ほとんど制すべからず。ついに長藩に頼って素志を遂げんことを図り、聞多等に就て懇請して金を借り、英船の帰便に附搭するを約し、まさに明日をもって発せんとす。同志中、このことをもれ聞きする者あり。同志を集めて相議しもって違約となし長次郎を責問す。はじめ同志盟約書に連著し九つ事は大小なく必ず相議して行ふべく、もし相謀らずして行う者あれば違約の責は割腹をもって謝するの文あり。長次郎陳謝する道なく●●●●●●●●

 ここで、ほぼ4行分、黒々と墨線が引いてありまして、読めないんです!!!

 そして、●●●●●●●●遂に小曽根の家において自尽す。実に(慶応)二年正月二十四日なり。

 自尽の理由は、「汗血千里駒」と同じく、「長州藩に頼っての留学」なのですが、嘘か本当かはわかりませんが、社中の「盟約書」なるものがあったことになっておりまして、「長次郎に自尽を迫ったのは龍馬ではなく、社中の面々だった」ということです。
 「維新土佐勤王史」になりますと、社中の面々の代表としまして、沢村惣之丞の名前が出てくるのですが、井上馨関係文書第92冊「近藤長次郎伝」、読めます部分に限っての話ですが、個人の名前は出てきておりません。

 ただ、この井上馨関係文書第92冊「近藤長次郎伝」、ユニオン号をめぐります長州往来の中で、沢村惣之丞の名前ばかりが頻繁に出てくるんですね。
 しかし沢村惣之丞は、「沢村惣之丞と中岡慎太郎の夢見た欧州」に書いておりますが、井上聞多が汽船の名義借りの交渉で、小松帯刀、近藤長次郎とともに薩摩入りしましたときには、開成所(薩摩の洋学校)のオランダ語教師をしておりまして、ユニオン号購入に関しまして、当初はほとんどかかわってなかった、と思われます。
 したがいまして、「井上伯伝」の近藤長次郎とともに当初から活動していましたのは高松太郎であった、という方が、正確ではないか、と思うのですが、いま「井上伯伝」が手元にありませんし、そこらへんの考察は、また後日にまわします。

 坂崎紫瀾がずっと、「近藤長次郎の死は長州に頼っての洋行が同志を売るものとされたから」と信じ続けていたにつきましては、坂崎紫瀾著、明治31年発行の陸奥宗光(近代デジタルライブラリー)に25コマ、p27の最後に、「近藤のみは学才ありしが、たまたま軍艦買入の葛藤起り、長藩とひそかに洋行の内約をなせしは同志を売る者なりとて、割腹してその罪を謝したり」とあることで、知れます。
 
 坂崎紫瀾の経歴は、wiki-坂崎紫瀾に詳しいのですが、「汗血千里駒」の成功によりまして、自由党の星亨が主宰します小新聞「自由燈」に招かれて、上京します。
 星亨は陸奥宗光に近い人でして、紫瀾が後に林有造、陸奥宗光の伝記を書くことになったことから見ましても、この二人は西南戦争呼応挙兵を企てて、入牢した人物ですし、板垣退助とは距離を置くようになったのではないか、と思われます。
 そして、明治37年ころから「維新土佐勤王史」執筆の準備に入ったというのですから、井上馨関係文書第92冊「近藤長次郎伝」は、その材料集めの段階で、中原邦平の求めに応じて、生まれたものではないでしょうか。

 コトバンクー中原邦平の「デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説」の方を見ますと、中原は紫瀾より一つ年が上なだけで、どうも同じくらいの時期に、ロシア正教の宣教師ニコライ・カサートキンの塾にいたようなのですね。
 ニコライ・カサートキンは、神田のニコライ堂の創設者で、その最初の日本人の弟子は、龍馬の実の従兄弟・沢辺琢磨です。

 紫瀾が陸奥宗光の伝記を執筆しました翌年、明治32年のことですが、16年前、紫瀾が「汗血千里駒」を連載しました土陽新聞に、川田雪山の龍馬の妻・お龍さんへの聞き書き 千里駒後日譚(青空文庫・図書カード:No.No.52179)が、連載されました。
 以下、引用です。

 ある日、伏見の寺田屋へ大きな髻わげを結つた男が来て、「阪本先生に手紙を持て来た」と云ひますから、私は龍馬に何者ですかと聞くと、アレは紀州の伊達の子(陸奥宗光)だと云ひました。此時から龍馬に従つたのです。持て来た手紙は、饅頭屋の長次郎さんが長崎で切腹した事を知らせて来たのです(千里駒には龍馬が長崎に於て近藤を呼び出し切腹を命じたりとあれど誤り也)。長次さんは全く一人で罪を引受けて死んだので、俺が居つたら殺しはせぬのぢやつたと龍馬が残念がつて居りました。アノ伊藤俊助さん(博文)や井上聞多さんは社の人では無いですが、長次さんの事には関係があつたと見え、龍馬が薩摩へ下つた時、筑前の大藤太郎と云ふ男が来て伊藤井上は薄情だとか卑怯だとかやかましく云つて居りましたが、龍馬は、ソンナに口惜しいなら長州へ行つて云へと、散々やり込めたのです。

 これは後年の聞き書きですから、どこまで本当のことかはまったく謎だったのですが、「桐野利秋(中村半次郎)と海援隊◆近藤長次郎 vol5」でご紹介しております皆川真理子氏の論文「史料から白峯駿馬と近藤長次諸を探る」(土佐史談240号収録)で、「桂久武日記で、上杉宗次郎の自殺を京都へ告げに来ている小松帯刀の家来・錦戸広樹は陸奥宗光の変名」と解明されていまして、現在では、陸奥が使者だったことは事実だったと、確かめられております。

 陸奥宗光は、長次郎の死を、長崎から京都の龍馬まで告げに駆けつけたわけでして、もしも紫瀾が、生前の陸奥にその話を聞いていましたら、その伝記に書かないはずはない、と思われますのに、書いておりません。
 紫瀾が生前の陸奥宗光に、まったく龍馬の話を聞いてなかった、とは思えないのですが、陸奥は入獄、洋行の後、要職にあり、海外赴任の期間もありましたし、最後は肺結核が進行しておりました。詳しく話が聞けるような機会を、紫瀾は得ることができなかったのだろうと思うのですね。

 しかし紫瀾が、おそらくは馬場文英の「土藩坂本龍馬伝 附 近藤昶次郎、池内蔵太之事」も目にしたと思いますのに、「近藤長次郎の死は長州に頼っての洋行が同志を売るものとされたから」という「汗血千里駒」の以来の持論を捨てませんでしたのは、それが紫瀾の創作ではなく、高松太郎から出た話だったから、ではないのでしょうか。

 そして、私、「汗血千里駒」執筆当時の紫瀾は、近藤長次郎とライアンの娘 vol3で推測しましたように、坂本南海男(直寛)から、高松太郎の話を又聞きしただけではなかったか、と思うのですけれども、明治31年に高松太郎が世を去ります前に、紫瀾は直接、話を聞いたことがあったのではないでしょうか。

 それともう一つ、紫瀾は、トーマス・グラバーにも、直接話を聞いていたのではないか、と推測されます。

真説・薩長同盟―坂本竜馬の真実
クリエーター情報なし
文芸社


 ユニオン号事件に関しますトーマス・グラバーの談話につきましては、明治45年2月刊行の「防長史談会雑誌」27号に、中原邦平が聞き取ったものが掲載されていまして、現在、山口県立図書館にコピーをお願いしているのですが、まだ届いておりませんで、山本栄一郎氏の「真説・薩長同盟―坂本竜馬の真実」に一部引用されておりますので、参考にさせていただきます。

 このグラバー談話、ですね。活字になったのは明治45年ですが、グラバーは明治41年に叙勲されておりまして、山本氏によれば、これは井上聞多と伊藤博文の強力な推薦だった、というんですね。そして、そのために経歴をまとめる必要があり、聞多が中原邦平に頼んだ一環で、中原邦平はグラバーにインタビューしたのではないか、だとすれば、明治41年より前にそれは行われていたはず、ということなのです。

 グラバーの晩年は、基本的に東京住まいです。
 私、「維新土佐勤王史」の執筆準備を始めました坂崎紫瀾が、グラバーの話を聞かなかったはずはない、と思うんですね。
 森有礼夫人・広瀬常の謎 後編下に書いておりますが、維新以降、グラバーを引き立てましたのは、大久保利通と大隈重信でして、グラバーのパートナーは岩崎弥太郎です。
 後藤象二郎の伝記を書きました紫瀾が、グラバーに話を聞きますのは、自然の成り行きかと思います。

 それで、近藤長次郎自刃につきましてのグラバー談話なのですが、山本氏によりますと、おおよそ以下のようです。
 「浪士たちが血判して攘夷団体ができて、長次郎はその一員だった。ところが長次郎は薩摩の人と交際するようになって攘夷に反対するようになり、薩摩の小松帯刀がイギリスへ逃がしてやってくれと頼んできた。そこで私の船に乗せたが、風が反対になってその日は出帆することが出来なかったので、日本を離れるなごりに一夜、長崎の茶屋で長次郎が遊んでいたら、坂本龍馬が踏み込んできて、攘夷の盟約に背いたと長次郎を責め、切腹になったということだ」

 これ、ですね。クラバーはもう、さまざまな記憶をごちゃごちゃにして、おもしろおかしく語っているようなのですけれども、まず。
 社中が攘夷団体であった、ということにつきましては、実際には薩摩から給金を受けていたのですけれども、薩摩は客分あつかいしておりましたし、ユニオン号の交渉では、社中のメンバーが伊藤博文、井上聞多とともにグラバーの前に現れ、長州よりの浪人たち、というような印象が残ったんでしょう。

 グラバーが長州への武器と軍艦の売り渡しをしぶっていたにつきましては、近藤長次郎とライアンの娘 vol2で書きましたように、長崎奉行所に届け出ることのできない朝敵・長州との取り引きは条約違反となる、といいますことも、もちろんあるのですが、伊藤と井上が長崎に武器と軍艦を買いに行きました慶応元年(1865)のほんの2年前、高杉晋作「宇宙の間に生く!」と叫んで海軍に挫折に書いておりますが、文久三年(1863)の馬関攘夷戦におきまして長州海軍は、オランダ海軍士官の助言を受けて砲を据えつけました洋式帆船・庚申丸、砲10門のイギリス製の小さな木造帆船・癸亥丸などで、見境もなく、外国商船に襲いかかったんですよ? 
 ついでにいいますと、モンブラン伯と「海軍」をめぐる欧州の暗闘vol3に書いておりますが、長州攘夷派は、薩摩商船を二度も攻撃しましたが、薩摩商人が殺害され、積み荷も船も焼き捨てられました加徳丸は、グラバーに売り渡す綿花(アメリカの南北戦争で国際価格がつり上がっていました)を積んでいたんです!
 この時期、自由貿易を信奉しますイギリス商人たちも、さすがに、狂犬みたいに襲いかかってきました長州に、武器を売ろうという者はおらず、薩摩の名義借りに関係がなかった井上・伊藤とは別ルートの買い入れは、失敗に終わっているんです。

 「私の船に乗せたが、風が悪く出帆することが出来なかったので、茶屋で遊んでいた」、の部分は、おそらく、「団団珍聞社主のスリリングな貨物船イギリス密航」の、肥前鍋島藩の石丸虎五郎と馬渡八郎、安芸の野村文夫の密航とごっちゃになっているんでしょうね。
 私、「桐野利秋(中村半次郎)と海援隊◆近藤長次郎 vol5」でも推測しておりますが、伊藤が書簡で「同人(長次郎)英国行之志ニ御座候処、我が藩のため両三月も遅延」と言っていました長次郎の洋行は、肥前鍋島藩の石丸、馬渡、安芸の野村といっしょだったのではないか、と思うんですね。石丸はオランダ海軍伝習を受けていたのですから、当然勝海舟の知り合いです。野村も勝海舟の門人に知り合いがいたようですし、長崎で知り合って、そのまま洋行話になって、おかしくないのではないでしょうか。

 これ、いわばグラバーの持ち船でしたし、野村の日記に、風待ちで出港が遅れた話や、日本を離れるなごりに、上陸して長崎の茶屋で思う存分遊んだ話が出てきます。
 なにしろ長崎からイギリス直行の貨物船ですから、あまり費用はかかりませんし、桐野利秋(中村半次郎)と海援隊◆近藤長次郎 vol4で書きました長次郎の海軍振興の上書(建白書)(やはり「玉里島津家史料三」にありました!)は、使節と留学生とのイギリス密航に向けまして、最後の決断をしようとしておりました島津家にとって、非常に参考になるものだったでしょうし、少々の費用ならばと、小松帯刀が出す話になっていたのではないでしょうか。
 そして、おそらくは伊藤の言う通り、長次郎はユニオン号の周旋で、石丸たちとは洋行できませんで、また別の洋行話が持ち上がったんだと思うんですね。
 しかし、それはまた後に検討することにいたしまして、グラバー談話です。

 最後に、「坂本龍馬が踏み込んできて、盟約に背いたと長次郎を責め、切腹になった」という部分ですが、これは、「汗血千里駒」の照り返しでしょう。
 当然のことなのですが、グラバーは、長次郎の死の状況がどうだったのか、知らないんです。知っていたのは、沢村惣之丞、高松太郎、千屋寅之助の三人だけです。
 グラバーは「汗血千里駒」が描きました長次郎の死の状況を、本当のこととして、聞いたのだと思います。誰からって、岩崎弥太郎からです。

 覚えておいででしょうか? 桐野利秋(中村半次郎)と海援隊◆近藤長次郎 vol1で書きましたが、長次郎は岩崎弥太郎の愛弟子でした。弥太郎は明治18年に世を去りましたが、その2年前に、「汗血千里駒」は出版されていまして、弥太郎が読んだ可能性は高いと思います。
 森有礼夫人・広瀬常の謎 後編下に書いておりますが、弥太郎は最晩年、井上聞多が後援します共同運輸会社と熾烈な競争をくりひろげ、その心労で病死したともいえるほどでして、その時期に、幕末からの知己で、長年のパートナーでしたグラバーに、最新の出版物が語ります龍馬と長次郎のことを、話したとしてもおかしくないのではないでしょうか。

 というわけでして、グラバー談話は、ほとんど事実に即していないのですけれども、坂崎紫瀾は、そのうち「イギリス船で翌日欧州へ出発するはずだった」を採用し、井上馨関係文書第92冊「近藤長次郎伝」を書いたのだと、私は推測しています。「盟約に反したと仲間に攻められた」といいます部分は、グラバーの裏付けも得られた、と思っていたのではないでしょうか。

 では、黒々と墨線が引いてあって読めないほぼ4行分には、いったいなにが書いてあったのでしょうか。私は、この部分こそ高松太郎から聞いた話だったと思います。なぜならば、なにが起こったのか事実を知っていたのは、沢村惣之丞、高松太郎、千屋寅之助の三人だけだったのですから。
 
 次回、私の推測を述べたいと思います。

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近藤長次郎とライアンの娘 vol4

2012年12月05日 | 近藤長次郎

 近藤長次郎とライアンの娘 vol3の続きです。

 明治15年に発刊されました土居通豫の「海南義烈伝」(近代デジタルライブラリー「海南義烈伝.2編」)は、近藤長次郎の人柄につきまして「人と為り温厚質直下問を恥じず」とあります。つまり、「温厚で素直な人柄で、自分より年下の者にものを問うのを恥じなかった」というんです。
 おそらくこれは、河田小龍の語ったことではないか、と私は思うのですが、「坂本龍馬関係文書/藤陰略話」(Wikisource)を読みまして、長次郎がさまざまな人々からその才を愛でられ、援助してもらっていることを考え合わせますと、温厚で素直、というのは、あたっていたと思うのですね。

 にもかかわらず、なぜ長次郎が、まるで才を誇って誠意がなかったかのように言われることが多いのか、といいますと、 坂本竜馬手帳摘要(青空文庫・図書カード:No.52148)に残ります「術数有余而至誠不足」「上杉氏之身ヲ亡ス所以ナリ」という二行の言葉が原因でしょう。現代語訳しますと、「策略ばかりで誠意が足らなかった」「それで上杉氏は身を亡ぼした」とでもいったところです。

 実は私、「これ、ほんとうに二行とも龍馬が書いたのだろうか? もしも書いたのだとしても、上杉氏が長次郎だと断言できるの? また一行目の主語を長次郎と決めつけることができるの?」という疑念を持っていまして、「桐野利秋(中村半次郎)と海援隊◆近藤長次郎 vol5」の「追記」を書きましたとき、中村さまにお電話で、坂本竜馬手帳摘要という史料の性格を説明しがてら、少々はお話しました。

龍馬の手紙 (講談社学術文庫)
宮地 佐一郎
講談社


 青空文庫にはないのですけれども、この講談社学術文庫版「龍馬の手紙 」に収録されております坂本竜馬手帳摘要には、龍馬全集と同じ解説がついております。
 実はこの手帳摘要、原本が残っておりませんで、龍馬全集は「坂本龍馬関係文書二」を典拠としております。
 で、「坂本龍馬関係文書二」収録の「手帳摘要」、注解は土方直行で、土方直行の以下のような後記があるのだそうです。カタカナをひらがなにし、漢字を開くなど、手を加えますのでご了承ください。
 なお、土方直行につきましては、佐川くろがねの会HP佐川の歴史的人物/土方直行に略伝がありますが、坂本龍馬よりも四つ年上の土佐勤王党士で、田中光顕(青山伯)と同じ佐川町の出身です。

 「この手帳は小さき普通の横巻にて、坂本直(高松太郎)氏の蔵本なるを借覧せり。しかるに龍馬氏の心覚へに止まる略記、草々の揮毫にて字体も弁じがたきほどのものもこれあり、巻尾と考へ披見すれば逆さまになるところあり。またとり直して巻尾を巻首として見れば読むべきところあり。二冊とも過半は白紙、年支日月あるもあり、また総てなきあり。縦横乱字、真に磊々楽々の性、今なお昔日あい見るの感あり。そのうちにつき引用ともなるべく、また読めるものを写し置く左のごとし」

「この手帳は小さな普通の横巻のもので、坂本直(高松太郎)氏が所蔵しているのを借りて見せてもらった。龍馬が自分の心覚えにしたためたメモなので、字体が崩れすぎて、なんと書いてあるのかわからない部分もあり、ここが巻の終わりかと思えば反対で、巻の終わりを始まりとして読んでみれば、意味の通じるところもある。二冊とも半分以上は白紙で、なにも書いておらず、年月日のある部分もあれば、まったくない部分もある。縦横に字が書き散らされて、豪放な龍馬の性格のなせるわざなのだろう。見ていると、これが書かれた昔の日々が、リアリティをもって迫ってくる。伝記を書くときなど、ここから引用もできるだろうと、読めるものを左のように書き写した」 

 つまり、ですね。
 高松太郎が所蔵していた龍馬のメモ帖を、高松太郎の生前に土方直行が借りて書き写したわけなのですが、なぐりがきのメモ帳ですから、読めない文字も多く、どこから始まってどこで終わるのかもわからないようなもの、だったというんです。
 「術数有余而至誠不足」「上杉氏之身ヲ亡ス所以ナリ」の二行がどういうふうにつながっていたのか、他に文字がなかったのか、原本がなくなっているというのですから、今さら確かめようもありません。

 写しでは、慶応2年正月、京都におきまして、いわゆる薩長同盟の会談があり、その後寺田屋で龍馬が襲われ、2月に近藤長次郎の死を陸奥宗光が知らせて来たころの日付はあるんですけれども、長次郎の死どころか、自分が襲われましたことも書いていません。
 6月まで記事がありましてその後、年月がなく日にちだけの記事があります。

龍馬「伝説」の誕生 (新人物文庫)
菊地 明
新人物往来社


 菊池明氏の『龍馬「伝説」の誕生』によりますと、従来、この日付を10月のものと見なして、大極丸購入に関するもの、という見解があるのだそうです。しかし菊池氏は、慶応2年3月のものとされているんですね。(p260)
 根拠の一つは、近藤長次郎とライアンの娘 vol2でもご紹介しました長崎県文化振興課のサイト「旅する長崎学」歴史探検コラム 【長崎と坂本龍馬と船】その1 ワイルウェフ号の購入記録 に載っております、「慶応二丙寅年 諸家届伺船買入御附札御条約外之船渡来達書」です。
 これによれば、薩摩藩の長崎屋敷から長崎奉行所へ、ワイルウェフ号の購入願いが出された日付が慶応2年3月26日ですから、手帳摘要で「28日 船受取」とのみ書かれていますのを慶応2年3月28日とすれば、話がぴったり、なのです。

 ただ菊池明氏は、「薩摩藩海軍関係史料」の慶応元年12月22日(西暦1866年2月6日)付け、新納刑部と五代友厚連名で、「コントテ白山伯」に出しました契約書だか書簡だかの中に「アメリカの南北戦争中、南軍がイギリスの造船所に注文して、イギリスが輸出を止めた軍艦ワイルウエルンを買いたいので、調べてみてほしい」とありますのを、ワイルウェフ号のことだとしていまして、それがために私は、この本のp257にしおりをはさんでいたのですが、もちろん、それはちがいます。

 これが書かれました状況ですが、「モンブラン伯は維新回天のガンダルフだった!? vol2」に書いておりますが、新納と五代はパリにいまして、慶応元年12月26日、つまり4日後に帰国の途についたわけです。
 「コントテ白山伯」とは、もちろんシャルル・ド・モンブラン伯爵です。
 そして、社中のワイルウェフ号は運送用の老朽帆船ですし、新納&五代が欧州で目をつけていましたワイルウエルンは、南軍がイギリスに発注しておりました最新の軍艦なのですから、まったく別の話です。

 それにいたしましても。
 「手帳摘要」の日付のみの記事がワイルウェフ号の購入記録ではないか、と菊池明氏のおっしゃることはもっともでして、だとすれば、これ以前にすでに慶応2年3月の日付はあり、そのころ龍馬は鹿児島にいて、お龍さんと霧島で温泉巡りをしていたことが書かれています。
 といいますことは、実際にプロイセン商人に面会して、ワイルウェフ号の購入交渉をしましたのは龍馬ではなく、直前に「周旋多賀(高松太郎)なり」とあるのですから、高松太郎だった、ということになり、6月までの龍馬の記録の後に、再び3月のワイルウェフ号購入記録を書き付けましたのは龍馬ではなく、高松太郎ではないか、ということになりはしないでしょうか?

 「手帳摘要」の年月日のあります記事は慶応2年で終わり、その後にイロハ丸の名前が出まして、次は風薬について。

 そして「倒にして巻首より左のごとし。二冊とも参考に用なき一時の心覚様の者多し。ここにその一類を写して望蜀の念なからしむ」、つまり「逆さにして巻の始めからは左のように書いてあった。二冊とも、後々の参考にするというようなものではなく、一時の心覚えのようで、ここにその一部を写して、これ以上は解読をあきらめる」と、土方直行の注釈があって、漢籍「貞観政要」からの記事、次に日本書紀から水時計を作った記事、そしてまた漢籍からかと思える記事がありまして、次の2行が、「術数有余而至誠不足」「上杉氏之身ヲ亡ス所以ナリ」なんです。

 先に見ましたように、この手帳二冊、すべて龍馬が書いたとは限らないわけでして、例えばワイルウェフ号の購入など、自分が経験したことについて、高松太郎が補って書き込んでいた可能性だって、ありえるのではないんでしょうか。
 別に悪気があったわけではなく、明治2年に高知へ帰りましてから、「龍馬の家を継ぐように」と新政府に呼び出されますまでの2年近く、高松太郎はいわば逼塞していたわけでして、叔父・龍馬が生きていたころの活動的な日々がなつかしく、形見の手帳の殴り書きをながめるうちに、「このころ社中はこうしていて、これはこうだった」と書き加えたとしても、おかしくはないでしょう。ちゃんと清書した日記ではなく、殴り書きのメモ帳なんですから。

 そして、あるいは高松太郎が書き加えたわけではなく、龍馬が書いたものだったにしましても、「上杉氏之身ヲ亡ス所以ナリ」という2行目、この「上杉氏」を上杉宗次郎であり、長次郎のことだと解釈するのが通常みたいなのですが、千頭の奥様が、「龍馬が昶次郎(長次郎)のことを上杉氏と呼ぶでしょうか?」とおっしゃっておられまして、私も同感です。

 確かにユニオン号事件当時、長次郎は上杉宗次郎と名乗ってはいたのですが、龍馬とは幼なじみといってもいい知り合いです。
 慶応元年9月9日付けの乙女姉さん宛龍馬の手紙(青空文庫)では、「水道通横町の長次郎」と親しく書いておりますのに、だれに見せるわけでもないメモ帳に「上杉氏」は、なんとも奇妙じゃないでしょうか。
 
 さらに、「術数有余而至誠不足」の主語が「長次郎」だという確証が、いったいどこにあるのでしょうか?
 まず一つ考えられますことは、これ以前の7行ほどが、どうも全部故事のようなのですから、これも例えば、関ヶ原の上杉氏のことを書きつけたと見ることもできるのではないでしょうか。

 また、例え2行目の「上杉氏」が長次郎のことだったにしましても、「術数有余而至誠不足」の主語は、井上聞多(馨)か伊藤博文か、と考えることもできますし、それで長次郎が身を亡ぼした、という話ならば、よくわかります。
 ユニオン号事件の詳細は、また後日、まとめて探求したいと思いますが、私にはどこからどう見ましても、長次郎に「術数」があったとは思えません。むしろ、愚直にすぎたような気がするんですね。

 続・龍馬暗殺に黒幕はいたのか?で、私、「彼玄蕃ことハヒタ同心ニて候」の解釈につきまして、ちょっと考えてみたのですけれども、どうも、ですね。龍馬の書いたものって、あらぬ思い入れで解釈されることが、多すぎるように感じます。

海援隊隊士列伝
土居 晴夫
新人物往来社


 ところで、土方直行が、坂本竜馬手帳摘要を書き写したのは、いったいいつのことなのでしょうか。
 上の「海援隊隊士列伝」に、土居晴夫氏著の高松太郎(坂本直)伝がありますが、これによりますと、高松太郎は明治22年に宮内省を免官となり、高知へ帰って、 明治31年(1898)11月7日、57歳で死亡しました。戸籍簿によれば、弟の坂本直寛(南海男)と同居していたそうでして、縁につながられる土居氏は、「不遇だったが、直寛とともに高知教会の熱心な信者であった」と述べておられます。
 手帳摘要が書き写されましたのは、高松太郎の生前ですから、 明治31年以前、おそらくは明治20年代だったのではないでしょうか。

 ここでちょっと、これまでの整理をしますと、明治15年、土居通豫の「海南義烈伝」におきまして、長次郎の死は「薩長の和解を志みる過程で行き違いが生じ、責任を感じた自発的なもの」とされいます。
 ところが翌明治16年、高知の土陽新聞で坂崎紫瀾の「汗血千里駒」が連載され、「洋行させてくれるという長州の誘いに乗って社中を裏切ったため、龍馬によって切腹させられた」という説が唱えられます。

 「汗血千里駒」は、明治16年のうちに大阪の摂陽堂から出版され、2年後には東京の春陽堂版が出て、どうもその後も版を重ねたようです。
 小説ですから読みやすく、あるいは、司馬遼太郎氏の「竜馬がゆく」が現代の龍馬像の基本を形作りましたように、「汗血千里駒」は明治の龍馬像を形作り、しかもそれが司馬氏の「竜馬がゆく」の原型であるわけです。

 しかし、小説は小説ですから、近藤長次郎の伝記としましては、「海南義烈伝」の方が信用が高かったようでして、明治24年に大阪で刊行されました「日本勤王篇 : 王政維新」近代デジタルライブラリー「日本勤王篇 : 王政維新」)の「近藤昶事績」は、ほとんどが「海南義烈伝」と同じ文章です。ただ、最後にとってつけたように「事みな龍馬の処置に出ず。しかして龍馬また大義のやむをえざるによりたるものなり」と書いていまして、自刃の理由は「薩長の行き違いに責任を感じた」ながら、自発的といいますより、龍馬が命じたような書き方です。これはあきらかに、「汗血千里駒」の影響でしょう。

 明治24年前後には、馬場文英の「土藩坂本龍馬伝 附 近藤昶次郎、池内蔵太之事」「坂本龍馬全集 」収録)もすでに書かれているはずなのですが、これは毛利家文庫に所蔵されていたものでして、果たしてどのくらい、世間に知られていたのでしょうか。
 そしてこれは、長次郎の死の原因に関しまして、「汗血千里駒」の影響は、まったく受けておりません。

 近藤長次郎が、ユニオン号にかかわっています時期、洋行の志を持っておりましたことは事実でして、伊藤博文の書簡や、高杉晋作の漢詩で確かめられるのですけれども、その洋行が、長次郎の死にかかわっていた、といいますことは、「汗血千里駒」で初めて出てまいりまして、これがもし、坂崎紫瀾の創作ではないのならば、高松太郎から出た話だろう、という推測は、前回述べました。

 さて、明治40年に「井上伯伝」が出版されますまでに、もう一つ、注目したい伝記があります。
 国会図書館憲政資料室の井上馨関係文書「近藤長次郎伝」なのですが、著者不明で、肝心な部分が4行ほど、墨で黒々と消されている!謎の伝記なのです。
 次回は、そのお話からはじめたいと思います。

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近藤長次郎とライアンの娘 vol3

2012年12月02日 | 近藤長次郎

 近藤長次郎とライアンの娘 vol2の続きです。

 毛利家文庫「土藩坂本龍馬伝 附 近藤昶次郎、池内蔵太之事」「坂本龍馬全集 」収録)の著者・馬場文英は、近藤長次郎につきまして、以下のように書いております。

 英案ずるに近藤昶次郎(長次郎)が直柔(龍馬)の依託を諾し、薩長の間に和談の周旋に労を尽し、既に六分の巧を達する事すこぶる大ひなりとす。しかるに今いささかの過失を慚愧し、節操義胆ここに自刃なす事痛ましいかな。予一面識の人ならざれども、その胆勇義魂節に歿する情実を賞誉し、憫然感涙に絶へず。

 私、馬場文英が考えますところ、近藤長次郎が龍馬からの依託を了承し、薩長の和解に尽力して、すでに六分まで事を成し遂げたわけですから、その功績は非常に大きいでしょう。ところが、ごくささいな過失に責任を感じ、節操高く、義に厚く、胆力にすぐれ、自刃したのは、ほんとうに痛ましいことです。私、長次郎さんには一度もお会いしたことがないのですが、その胆力と勇気、義に殉じる節操には、感嘆のあまり涙をこらえることができません。

 馬場文英は長次郎の行動を絶賛していまして、脚色はしていても、決してそれは、悪意あるものではありませんでした。
 明治初期には、土佐人の間でも、この認識は共有されていたものと、思えます。

 明治15年、高知出身で、京都府に奉職しておりました土居通豫が、「海南義烈伝」近代デジタルライブラリー「海南義烈伝.2編」)を発行しておりまして、その中に「近藤昶」として、長次郎の伝記が収録されております。
 土居通豫が語ります長次郎は、龍馬とも対等な関係ですし、薩長和解に動いたことも、龍馬からの指示があったとはされていませんで、経歴も正確です。この伝記で書かれました経歴は、以降、そのまま踏襲されることがけっこうありまして、それについては、また書くことがあろうかと思います。
 土居通豫に長次郎に関します情報を提供しましたのは、河田小龍ではなかったか、と、私は思います。
 さて、その「海南義烈伝」が記します長次郎の死の原因です。

 この時に当たって薩長あい善からず。昶(長次郎)すこぶるこれを憂ひ間に居て和解せんことを勉む。その往反の際事図を支牾を生し罪昶か一身に帰す。昶時に博多に在り之を明弁するに由なし。ここにおいて屠腹をもって心を明にす。薩藩の士某、昶の死を止んと欲し走てその旅舎にいたる。いたれば昶すでに死す。某天を仰て嘆いていわく、ああ天この良士を亡すと。よって慟哭するものこれを久しくす。

 長次郎は、薩長の和解を志して活動していたが、その間に薩長の行き違いが生まれて、その罪が、長次郎の一身に背負わされることになってしまった。長次郎はそのとき博多にいて、弁明するすべもなく、切腹して、自分が両藩和解にのみ心をくだいていたことを明かそうとした。ある薩摩藩士が、長次郎が泊まっていた宿に駆けつけて、切腹をとめようとしたが、長次郎はすでに死んでいた。その薩摩藩士は天を仰ぎ、「ああ、こんなにりっぱな志のある男を天は召されてしまった」と、いつまでも嘆いていた。

 なぜ、長次郎の死んだ場所が博多になっているのかがわからないのですが、あるいは、河田小龍から聞いた話が簡略にすぎまして、勝手に死んだ場所を博多にしたり、なんでしょうか。
 人づてに、簡略な小龍の話を聞いていたとしましたら、おそらく中村半次郎(桐野利秋)が小龍に、野村宗七の嘆きを伝えていたんでしょうねえ。
 ともかく、ここでも長次郎の死の原因は、「同盟中不承知之儀有之」からはずれてはいません。

 話が大きく変わってまいりますのが、翌明治16年、土陽新聞(現在の高知新聞)に連載されました坂崎紫瀾の「汗血千里駒」です。

汗血千里の駒 坂本龍馬君之伝 (岩波文庫)
坂崎 紫瀾
岩波書店


 以下紫瀾の経歴は、主に上の岩波文庫版「汗血千里の駒」、林原純生氏の解説によります。
 坂崎紫瀾は、嘉永6年(1853)、江戸の土佐藩邸に生まれました。
 藩医の息子だったそうです。
 安政3年(1856)には一家で高知へ帰り、慶応3年(1867)、紫瀾は維新の前年に藩校に入学します。
 維新の年に15歳でして、戊辰戦争に従軍してはいません。

 明治6年(1874)、政変の年に上京しまして、政変で下野しました板垣退助たち、土佐と肥前の重臣が中心となって結成しました自由民権運動の政治結社・愛国公党の創立に参加します。その後、東京と信州松本で新聞ジャーナリズム活動に従い、高知に帰って、明治13年7月に創刊されました第二次高知新聞の編集長となります。
 この新聞は、自由民権運動の機関紙のようなものでして、度重なります政府の弾圧を受けてすぐに発行停止となり、翌14年12月には、身代わり紙として第二次土陽新聞が創刊され、明治16年、「汗血千里駒」が連載されることになります。

 えーと、ですね。
 明治6年政変と「民選議員設立建白書」を提出しました愛国公党につきましては、古い記事ですけれども、「幕末維新の天皇と憲法のはざま」と、「半神ではない、人としての天皇を」を、ご覧下さい。私の考える基本的な方向は、記事を書きました当時と変わっておりません。

 政変で板垣・後藤とともに下野し、愛国公党の主要メンバーとなりました江藤新平は、佐賀の乱に担がれて刑死しております。
 一方、板垣退助は、高知に帰りまして片岡健吉,林有造などと立志社を結成していましたが、明治10年、この立志社の林有造や大江卓などが、元老院議官でした陸奥宗光と連絡をとり、西南戦争に呼応して高知で兵を挙げようとしたことが発覚しまして、入獄しています。

 この時期、坂崎紫瀾は高知にいませんでしたので、挙兵騒動にはまったく関係しておりませんが、西南戦争後の日本におきまして、高知の自由民権運動派は、最大の反政府勢力であり、弾圧もまたすさまじいものがありました。
 紫瀾は政治小説などを執筆するだけでなく、高知の各地で演説をして自由民権を唱えていたのですが、その演説が法に触れたとして、明治14年の暮れには、一年間の演説禁止処分を申し渡されます。

 そんな中で執筆されました「汗血千里駒」は、政治小説ともいえるものでして、幕末の土佐勤王党に、弾圧される土佐自由民権運動が仮託されていた、といえるのではないでしょうか。
 そして、自由民権運動の指導者・板垣退助は、連載がはじまります前年の明治15年、岐阜で暴漢に襲われ刺されました。幸い命に別状はなく、そこまではよかったのですが、年の暮れから後藤象二郎と洋行しまして、指導者としての求心力を失い、運動は分裂します。

 板垣洋行問題の詳細は、田中由貴乃氏の「板垣洋行問題と新聞論争」(佛教大学大学院紀要文学研究科篇第40号)に詳しいのですが、要するに板垣の洋行費用が、運動を弾圧しています政府から出ているのではないか、という疑惑が問題を引き起こしたわけでした。

 紫瀾は、「汗血千里駒」連載中、短期間ながら、集会条例違反と不敬罪で入獄したほどの運動家でした。紫瀾のうちに、板垣洋行問題によりまして、運動指導者の洋行に対します否定的イメージが生まれたのではないか、という憶測は、許されるでしょう。

 さて、「汗血千里駒」なのですが、坂本龍馬が縦横無尽に活躍します伝記小説です。
 しかしでは紫瀾は、まったく取材しないで書いたのか、といえば、さすがはジャーナリスト、そういうことはないんです。
 いや、まあ、住んでいるのが高知ですし、維新からわずか16年、坂本龍馬と同時代を生きた人々の大多数が、まだ生きています。

 実は、ですね。
 私が今回、長次郎に強く関心を抱くようになりましたきっかけ、「坂本龍馬関係文書/藤陰略話」(Wikisource)は、「汗血千里駒」のために書かれたのではないか、という推測があります。川田維鶴撰「漂巽紀畧 付・研究・河田小龍とその時代」(高知市民図書館発行)の宇高隨生氏著「解題」(p127)に、以下のようにあります。

 これ(藤陰略話)は明治の中頃手記されたものと思われる節がある。それはその頃板崎紫瀾の「干血千里の駒」が土陽新聞に連載中、同社の記者で小龍とも親交のあった野島嘯月が坂崎の依頼を受けて海援隊の近藤長次郎の経歴を尋ねて来た。その問いに答え手記したものではないかと思われる。

 えーと、ですね。
 「汗血千里駒」の連載は明治16年ですし、宇高隨生氏がその推測の典拠として出されています河田小龍の日記の日付は、明治26年1月24日でして、話がわからなくなるのですが、「藤陰略話」そのものではありませんでも、紫瀾が野島嘯月を通して小龍に近藤長次郎のことを問い合わせ、その回答を「汗血千里駒」の材料に使った可能性は、非常に高いと思います。
 といいますのも、長次郎に関しましては、「藤陰略話」と同じエピソードが書かれておりますし、それどころか、神戸での結婚のことまで書かれていまして、長次郎の妹の亀さんにも話を聞きに行ったのか、と思わないではないのです。

 しかし、ですね。
 いろいろと取材したにしましては、ずいぶんと荒唐無稽に脚色しておりますし、またそして、ここで初めて洋行話と長次郎の人格に関します否定的見解が出てまいります。

 まずユニオン号(桜島丸、乙丑丸)の話なのですが、船名が、長次郎の死後に高杉晋作がグラバーから購入しました小型貨客船オテント丸(丙寅丸)に変わってしまっています。
 しかし、「龍馬が京都にいるときは、社中の指導者は近藤昶、つまり長次郎であった」、となっていまして、基本的には、ちゃんと長次郎を評価しています。

 長次郎は、薩摩の客分であります社中に船の運用を任せてくれるのであれば、薩摩が長州に名義を貸すのだが、と高杉に持ちかけ、高杉が喜んで承知しましたので、イギリス人より軍艦を買って、これにオテントと名付けます。社中の浪士が乗り込み、下関へ着きましたところが、長州ではすでに乗り組みの藩士を選んでいまして、社中の浪士たちは「堂々たる長藩にして約に背き人を売るは不義不正のはなはだしきなり」と憤激し、「軍艦を渡さず、下関を焼き討ちしてやる」と騒ぎます。
 そこで長州側は奇兵隊をくりだす騒動になるのですが、たまたま龍馬が京都から下関へ来て、高杉は「社中の浪士たちは粗暴にすぎる」と怒り、龍馬は「長州のやり方に誠がない」となじるのですが、たび重なる交渉の結果、長州から社中の浪士へ慰労金を支払うことで、問題は解決しました。

 どうも、「ユニオン号事件は龍馬が解決した」といいます伝説は、「汗血千里駒」に始まったみたいです。

 それはともかく。
 この後龍馬は長崎で社中の浪士をよび集めまして、「われわれ社中は、友を裏切って売るような行為があれば、死をもってあがなうと誓約したわけだが、いま諸君のうちに、そうすべき人物がいる」と、きびしい口調で言いつのります。
 それが長次郎のことでして、長次郎が口を開こうとしますと、「近藤君、この後におよんで議論は無用だよ!」とつめより、長次郎を切腹させます。
 その理由は、以下に引用する通りです。

 かの浪士輩が高杉等と葛藤(もつれ)の折近藤は脆(もろ)くも長藩の誘う所となりて反覆しその報として近藤を洋行せしむるの内情あるによりてなりと。

 つまり、「社中の浪士が長州ともめたとき、長次郎は洋行させてくれるという長州の誘いに乗って、社中を裏切って長州の側についた」というんですね。

 い、い、いや、あのー、現実には長次郎はむしろ、薩摩の言い分の方を尊重し、長州海軍局と対立し、龍馬の方が長州海軍局の味方について話にわりこんでいるのですが、それはひとまず置いておきまして。
 「汗血千里駒」は()書きで、こういう説もあると、「海南義烈伝」が描きます長次郎の最後も併記しておりまして、かならずしも全部創作したのだとも思えないんですね。
 ユニオン号事件について、坂崎紫瀾は、いったいだれに取材したのでしょうか?

 ここから先はもう、私の憶測にしかならないのですが、「汗血千里駒」は坂本龍馬の伝記小説です。本文の最後に名前が出てきます坂本南海男(直寛)に話を聞かなかったということは、ありえないんじゃないんでしょうか。
 以下、「汗血千里の駒」の最後の部分を引用します。
 
 しかしてその坂本の家督を継ぎし小野淳輔は龍馬の甥にして前(さき)に高松太郎といえる者なり。現に宮内省に奉職せり。ちなみに説く。この淳輔の実弟南海男(なみお)は龍馬の兄権平の家督を継ぎて坂本と名乗りけるが、つとに立志社員となりて四方に遊説し人民卑屈の瞑夢を喝破するに熱心なるが如き、すこぶる叔父龍馬その人の典型を遺伝したるものあるを徴すべく、あるいはこれを路易(ルイス)第三世奈波侖(ナポレオン)に比すと云う。(完)

龍馬の甥 坂本直寛の生涯
土居 晴夫
リーブル出版


坂本龍馬の系譜
土居 晴夫
新人物往来社


 坂本南海男(直寛)は嘉永6年生まれ。坂崎紫瀾と同じ年です。
 母が龍馬の長姉・千鶴、父は高松順藏で、龍馬の甥にあたります。兄は高松太郎。
 明治2年、龍馬の兄・権平の養子となり、坂本家を継ぎます。
 その後、一時、東京に遊学していた時期があるようなのですが、明治7年には高知にいて立志社に加盟。明治9年から立志学舎の英学校に学んでいます。
 自由民権運動の闘士で、各地で演説をし、高知新聞、土陽新聞など、民権派の新聞に論説を寄稿する、坂崎紫瀾の同志でした。

 兄の高松太郎、ですが、龍馬の野辺送りに桐野(中村半次郎)と同道しておりますことは、桐野利秋と龍馬暗殺 後編に書きました。
 戊辰戦争に際しましては、海援隊とは別れ、清水谷総督の一行に加わりまして、箱館に向かいます。それについては、明治初頭の樺太交渉 仏から米へ 中編に出てまいります。
 その後、ですね。箱館戦争になるわけなのですが、政府軍の反攻作戦に参加し、戦後再び箱館府に勤務。しかし明治2年の末になぜか免職となり、高知へ帰ります。
 明治4年、朝廷から、坂本龍馬と中岡慎太郎の家名を建てるように沙汰があり、高松太郎は名を坂本直と改め、叔父・龍馬の後を継ぎ、東京府や宮内省に奉職して、東京住まいでした。

 近藤長次郎の死に立ち会い、野村宗七にそれを告げに来た三人のうち、沢村惣之丞は慶応4年に長崎で自刃していますし、千屋覚兵衛は維新後、アメリカ留学の期間が長く、ユニオン号事件について故郷で実家の家族に語るようなことは、あまりなかったのではないか、と思われるんですね。
 一方、高松太郎は、箱館府を首になってから2年ほどは高知にいたわけですし、また、実弟の南海男が東京へ出ていた期間もあるわけでして、語っていてもおかしくはありません。
 坂崎紫瀾が高松太郎から直接話を聞いたとは、とても思えないのですが、南海男が聞いていた話を又聞きし、想像を膨らませたのではないのでしょうか。

 事実として、龍馬は近藤長次郎の死の現場に居合わせていませんから、長次郎に切腹を迫った者がいたのだとしましたら、それは沢村惣之丞、 高松太郎、千屋寅之助のうちのだれか、ということになりますが、その原因として、洋行話があげられているのは、どうなのでしょうか。
 長州に頼っての洋行が即裏切り、といいますあたり、伊藤博文が出した政府の金で賄われたからよくないと騒がれました板垣洋行問題とあまりにも似ていまして、どこまでが事実で、どこまでが紫瀾の創作なのか、ちょっとわかりかねます。

 ただ、もしかしまして、高松太郎は長次郎にあまり好意を抱いていなかったのではないかと、憶測できるような材料が、もう一つあります。
 次回は、龍馬が手帳に書きつけていたとされます有名なくだり、「術数余りありて至誠足らず、上杉氏の身を亡す所以なり」についての考察から、入りたいと思います。

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