郎女迷々日録 幕末東西

薩摩、長州、幕府、新撰組などなど。仏英を主に幕末の欧州にも話は及びます。たまには観劇、映画、読書、旅行の感想も。

「消された歴史」薩摩藩の幕末維新

2010年11月23日 | 幕末薩摩
 あるいは、もしかして……、最終的には、天璋院篤姫の実像の続き、になりそうです。

 「幕末下級武士のリストラ戦記」 (文春新書)の著者・安藤優一郎氏の下の本の感想です。

幕末維新 消された歴史
安藤 優一郎
日本経済新聞出版社


 「武士の言い分、江戸っ子の言い分」という副題がついています。
 この副題に関係してくるのですが、読み終わった後に、どうも釈然としない気分が残ります。
 それなりに、おもしろくないわけではないんです。部分、部分に嘘があるわけでもありません。
 いえ、それどころか、クローズアップされた部分には発見もあり、興味深い記述も見受けられます。
 しかし……、例えていうならば、ですね。
 象の鼻の部分と耳の部分と足の部分をルーペで拡大して見せられて、それぞれにおもしろい映像なのだけれども、象とはなになのか、全身像がさっぱりわからない、とでもいったところでしょうか。

 「武士の言い分、江戸っ子の言い分」「武士」とは、江戸っ子と並べているのですし、「消された歴史」なのですから、敗者、幕臣のことなのですよね。
 プロローグでは、「正史では当然のことながら、権力を握った勝者側に都合の悪い事実は抹消される」とされていまして、歴史は勝者が作る、ってことですから、それには、頷けます。
 モンブラン伯爵のことですとか、フランスと幕府の生糸独占公益ですとか、徴兵制の問題ですとか、明治6年政変の真相ですとか、桐野利秋の実像にしましても、勝者の都合で消された歴史を、私は掘り起こしているつもりです。

 ところが、ですね。安藤優一氏のおっしゃる「消された歴史」とは、「西郷たちのような倒幕を目指す勢力は薩摩・長州藩内でさえ小数派だった」ということなんだそうでして、「本書では、正史では記述されることのない歴史の真実の数々を明らかにしていく。今までの歴史観が根底から覆されてしまうような幕末の実像に出会えるはずである」とおっしゃっているのですが、私があっと驚きましたのは、天璋院篤姫についてだけ、でして、それにしましても、「篤姫すごーい!!! 薩摩おごじょの底力!!!……西郷さんも大変だったのねえ」という感想でして、歴史観は、まったく覆りませんでした。

 全体が四章に分かれています。
 1章は薩長同盟。
 2章は大政奉還。
 3章は王制復古。
 ここまでは、京都の政局です。クローズアップされているのは、薩摩藩と会津藩。幕臣はろくろく出てきません。
 最後の4章は戊辰戦争。ここに至って舞台は江戸になり、唐突に幕臣にスポットライトがあてられます。
 この構成が、なんともアンバランスでして、いったい著者がなにを述べたいのか、釈然としないのです。

 まず、1章の薩長同盟から検討してみましょう。
 「薩長同盟の目的とは倒幕。以降両藩は倒幕に邁進し、薩長同盟は幕府に引導を渡す歴史的役割を演じたというのが幕末史の常識だろう」と、まず問題提起され、「ところが、この薩長同盟が果たして倒幕を目指すものであったかについては、近年強い疑義が提示されている。結論から言うと、薩長同盟とは倒幕を目指したものではなかった(家近良樹『孝明天皇と一会桑 幕末維新の新視点』文春新書、2002年)」と、冒頭ですでに結論づけておられます。
 家近氏の『孝明天皇と一会桑』は、持っていたはずなのに出てきませんで、中央公論、今年の10月号に、家近氏が「薩長同盟は過大視されている」という論考を執筆しておられますので、そちらを参考にします。

 あのー、ですね。「薩長同盟は幕府に引導を渡す歴史的役割を演じた」というのは、結果論なんですね。すべてが終わった時点で、客観的に俯瞰してみれば、結果的にそういうことになっていた、ということでして、別に勝者の側から見て、ということではありません。
 で、リアルタイムで薩長同盟の話をしますならば、「薩長同盟の目的とは倒幕」であるわけが、ありません。だって薩長同盟は、第二次征長の前に結ばれたのですし、長州が領地を守りきれるかどうかさえ、わかってはいなかったんですから。

 家近氏以前、すでに1991年発行の「王政復古―慶応3年12月9日の政変 」(中公新書)で、井上勲氏は、薩長両藩はこの盟約で「敵を一会桑政権に定めて」いたとされ、またこの盟約を結んだ薩摩側の「小松と西郷に盟約締結の権限が与えられていた確証はない」とも指摘されています。

 安藤氏にしろ家近氏にしろ、なにをいまさら?????でして、リアルタイムの話と結果論を、故意に混同されている、としか思えません。
 家近氏は最新論考で、盟約の内容自体をたいしたものではなかった、とされ、「久光は西郷が過激に倒幕へ走るのを警戒し、桂久武を通じてその意志を伝えたので、久光の事後承諾が得られる内容になった」というような結論に達しておられますが、それはちがうでしょう。
 「モンブラン伯と「海軍」をめぐる欧州の暗闘vol3」で書いております長崎丸、加徳丸事件で、薩摩側は死者を出しているんです。久光の長州に対する怒りは相当なものでして、一橋慶喜に対する怒りとてんびんにかけて、どちらに傾くか、だったんでしょうけれども、家近氏がおっしゃるところの「たいしたことがない」盟約であっても、過激と受けとめたのではないでしょうか。
 私は、この時点において、薩長盟約締結は、少なくとも久光には隠されていて、だからこそ文章化されず、木戸が不安を感じていたのだと思います。桂久武は、見て見ぬふりをするために盟約締結に同席せず、その日の日記にそのことはなにもかかなかった、というわけです。

 井上勲氏は、「締結の時点での盟約は正式なものではなかったけれども、締結した小松、西郷の薩摩藩内における指導力が強いものとなり、条文が実行され、盟約は育ち、同盟となったのだ」とされていたのですが、安藤優一郎氏は、「王政復古―慶応3年12月9日の政変 」の書名はいっさい出されないままに、井上勲氏への反論を試みておられるように思えるのですね。「薩長盟約は鳥羽伏見に至るまで、同盟に育ってはいない」のだ、と。
 しかし、安藤氏の描かれました全体像に、説得力はないんです。
 なぜならば、安藤氏が描かれたいことが「維新とは大リストラだった」というのはわかるのですが、じゃあ大リストラは不要だったとおっしゃりたいのか、といえば、そうではなさそうで、故意に、だと思うのですが、「なぜ大リストラ(言い換えれば変革)が必要になったのか?」という問いが、省かれているから、です。

 安藤氏は、薩長同盟に至るまでの話も、8.18クーデターからに限定され、おかげで話は、会津、長州、薩摩の権力闘争、という側面にのみ、特化して語られます。
 もちろん、それに嘘はないんです。嘘はないのですが、では、なぜ3藩は京都で権力闘争をくりひろげたのか、その探求がありません。目的もなく、単に私闘をやっていただけ、といわれても、首をかしげたくなるばかりでしょう。

 2章、3章をも通して、安藤氏の描く会津藩は、幕府からさえ嫌われ、孤立しながら「京を引き揚げる機会を逃した」ということにつきてしまっているのですが、これでは「だれにも、なんの戦略もなく貧乏くじを引き続けたの???」と、不可解になるだけなんです。

 薩長同盟以降、京の政局を追うにあたって、将軍家茂の死、孝明天皇の崩御は、大きなポイントです。
 トップに立つ、将軍、天皇のキャラクターがまったく代わってしまったのですから、それに対処する側も、当然、見合った対処をしなければなりません。
 これは薩摩藩の描写について、主に言えることなのですが、そういった場面、場面の対処をクローズアップして、つまりは戦術の細部のみをとらえて、全体の戦略はまったくなかったかのように語られてしまいますと、嘘ではなくとも、嘘になってしまうのです。
 
 会津藩に話をもどしますと、大政奉還と桐野利秋の暗殺で書いておりますが、会津藩も一枚岩ではなかった、ということは、わかりきったことなんです。
 ただ、私のように、会津藩の史料をろくに読んでいない者からしますと、会津藩の内情をこそ、詳しく分析していただきたかったわけです。なぜ、8.18クーデターの会津代表だった秋月悌次郎は、蝦夷にとばされたのか、とか。
 なぜ?と問うことで、戦略が見えてきますし、そうでなければ、全体が見通せません。
 その時点で、未来がわからなかったのは、あたりまえのことなんです。
 しかし、藩というのは組織なんですから、通常は、戦術だけではなく、戦略があるんです。
 もしも戦略を持ち得なかったのならば、そこをなぜ?と追求してこそ、全体像が見えてきます。

 言うまでもなく、最大の不満は、薩摩藩の描かれ方です。
 薩摩藩が一枚岩ではなかったことは、井上勲氏の「王制復古」以来、常識でしょう。
 しかし、倒幕派は小数派、だったんですかしらん。
 どうもここでも、安藤氏は井上勲氏の著作を意識されているように見受けられ、「西郷たちのような倒幕を目指す勢力は薩摩・長州藩内でさえ小数派だった」、ということを示すために、個人の書簡や他藩の聞き書きを盛んに引用なさっているのですが、それを書いた人物のその時点の立ち位置、書いた目的について、必ずしも適切な解説がなされているわけではありません。
 「いまは兵を挙げるべきではない」といいます戦術の問題を戦略のレベルにすり替えまして、「倒幕派は小数だった」という結論を出すのは、こじつけにすぎるでしょう。

 モンブラン伯は維新回天のガンダルフだった!? 番外編でご紹介しておりますが、高木不二氏著の「日本近世社会と明治維新」のように、「薩摩藩の国家構想は、ドイツ連邦をモデルとした大名同盟国家、それぞれに主権を持った国家連盟方式」と言ってくだされば、「いえ、郡県制よりは分権的なものであったけれども、大名の連合体ではなく、統一国家元首(天皇)のもとでの連邦国家だった」と反論も可能なんですが、安藤優一郎氏の展開では、「薩長も含めて、大多数が現状維持のために右往左往。西郷、大久保、小松帯刀、木戸といった小数倒幕派が、やはり右往左往しながら強引に突っ走っただけ」という話になりまして、いったいなにがおっしゃりたいのか、「じゃあ、西郷、大久保、小松、木戸は、自分が権力を握りたいがためだけに武力倒幕を志し、それに藩兵が積極的についていった、とでも???」と、首をかしげてしまうだけ、なんですね。
 倒幕派が少数派だったのなら、なんで鳥羽伏見の薩長藩兵は、戦意旺盛だったんですかしらん。

 薩摩藩兵は、賴中教育の単位と重なって組織されていたんですね。
 薩摩藩の賴中は、士族版若者宿といってよく、土着性が強いんです。
 以前に書きましたが、基本的に銃は、藩がまとめて買ったものを個人で買い取りますから、私物ですし、義勇軍的性格を持っています。
 彼らの大多数が、藩主よりも西郷を、自分たちの親分と意識していたがゆえに、西郷は人望を担い、力を得ていたんです。
 これを小数派として、片づけてしまえるんでしょうか。

 アーネスト・サトウ  vol1の冒頭でひいておりますが、来日が鳥羽伏見の直後だったとはいえ、フランス軍艦デュプレクス号のプティ・トゥアール艦長は、戊辰の年に、こう述べています。

 われわれ(フランス)の外交政策は、将軍制度というぐらついた構築物の上に、排他と独占に基づく貿易制度の土台を築いたのである。
 それ故これが、イギリス人の敵意を、そして国事に関して外国人が干渉するのを感じて、憤怒している古い考えの日本人や宗教団体の憎悪を、タイクン(将軍)に向けさせることになった。
 薩摩と長門は、このような様々の要因を利用し、イギリス人とド・モンブラン伯爵の後押しを得て、もはや不可避となってしまっていた災難を早めさせたのであった。

 
 大政奉還で、幕府が倒れたわけではないんです。
 慶喜公が開港地を握ったままで、朝廷の主導者におさまり、四方八方うまくいく状況だったんですかね?

 井上勲氏は、薩長の動体化、朝廷の動体化を活写なさって、すでに現状維持は不可能なところまでいっていたことを語っておられるのですが、安藤氏は、それを否定することに、成功しておられません。
 要するに、「慶喜公やら春嶽公やら容堂公の主導で、おさまる段階だったんですかね???」ということなんです。
 プティ・トゥアール艦長は、堺事件直後に京都の薩摩藩邸に入り、上級藩士が藩主に対して恭しいにもかかわらず、下級藩士が藩主に礼を尽くしていないことに、驚いています。
 薩摩藩におきましても、下克上は、すでに幕末の段階から始まっていたのです。

 「天璋院篤姫の実像」で述べておりますが、篤姫さんは、鳥羽伏見直後に、「今の世の中、頼みがいがあり、実力のある諸侯(大名)もいなくって、ご迷惑でも、あなただけが頼りなの。わかって!」と西郷に手紙を書いていまして、きっちり、薩摩藩内の下克上を把握していたんです。

 その篤姫さんが、70万石で駿府移住という決定に愕然としまして、西郷を呼びつけても逃げられ、怒り心頭に発して、仙台藩主やら輪王寺宮さまやら会津藩主などに、「悪辣な薩長を討って!」と手紙を書きまくっていましたことは、私、この安藤氏の著作で初めて知りまして、どびっくりしました。
 いや篤姫さん………、維新以降、徳川宗家において崇められたはずですね。
 最後まで、「幕臣の運命に私は責任がある!」とがんばったのは、慶喜公ではなく、島津から嫁に来た篤姫さん、だったんですから。

 ありえない話なんですけれども、家茂公逝去の後、篤姫さんの望み通りに亀之助君が将軍となり、篤姫さんが後見職となっていたら、幕府の運命も変わっていたかもしれないですね。
 西郷、大久保、小松、その他、薩摩藩倒幕派も、さすがに、慶喜公が消えて、斉彬公養女の篤姫さんが正面に立ちはだかれば、女子供相手ということもあって、逆らい辛かったでしょうし、篤姫さんは、「幕末の尼将軍」として、慶喜公よりもはるかに上手く、幕府の最後に幕を引く能力を持っていただろうに、と妄想してみたり(笑)


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「龍馬史」が描く坂本龍馬

2010年11月14日 | 幕末土佐
 またまた突然です。
 「武士の家計簿 ―「加賀藩御算用者」の幕末維新」 (新潮新書)の著者、磯田道史氏が、龍馬暗殺について書かれているというので、読んでみました。

龍馬史
磯田 道史
文藝春秋


 全体が大きく3章に別れているんですが、最後の3章は付録といってよく、「龍馬を知るには、下手な伝記を読むよりも、直接、龍馬の書いた手紙を読んでみなよ」という話です。
 で、1章は、龍馬を中心に据えた幕末史。
 そして2章がまるごと、龍馬暗殺事件の解明です。

 龍馬暗殺について、現在、陰謀論が盛んです。よくは知りませんが、テレビで取りあげられているようですから、盛んなんでしょう。
 京都見廻組という定説は、動かしがたいということがさすがに知られてきまして、それでは話がおもしろくありませんから、「黒幕がいる!」ということで、ない謎を作ろうとしているのでしょうけれども、そういうテレビ局や出版社の都合は、わからないではありません。
 
 世間さまでは、「幕末といえば龍馬か新撰組」です。
 つくづく、司馬さんは偉大です。
 私もその口なんですが、司馬遼太郎氏の著作を読んで、あるいはそのテレビ化作品を見て、幕末に興味を抱いた人は多いでしょう。
 そういった人々の中から、漫画家や小説家、テレビ制作者、あるいは編集者が生まれ、龍馬と新撰組は、拡大再生産されているんでしょうね。

 なぜ、数多い司馬遼太郎氏の幕末作品の中で、龍馬と新撰組なのかといえば、「竜馬がゆく」「燃えよ剣」「新選組血風録」 の初期幕末作品は、娯楽に撤していて、とてもわかりやすく、おもしろいんです。
 ここで龍馬を選ぶか新撰組を選ぶかは、好みの問題でしょう。私は、「燃えよ剣」と「新選組血風録」の方が好きでした。

 私は、昭和30年代に書かれたこれらの司馬作品をリアルタイムで読んでいるわけではありません。
 したがいまして、おそらく、なんですが、龍馬と土方、どちらも幕末に青春をかけて夭折した男たちの物語に、もっとも影響を受けたのは、団塊の世代でしょう。
 それまで、西郷、大久保、木戸が維新の三傑とされ、彼らはいってみれば政治家であったわけなのですが、政治には清濁あわせ呑む側面も出てきますし、腹芸もあります。彼らが主人公では、「すっきり爽快青春物語」には、なり辛いわけなのです。

 しかも司馬氏は、竜馬と土方を、ちがう陣営にありながら、「合理的精神を持った新世代」として造形していまして、「新しい価値観で世を変えようとした爽快な若者の青春物語」をつむぎ出しているんです。
 それは、高度成長期にさしかかって、戦前を生きた父親の世代の既成の価値観を否定し、「親父たちの世代に属する政治家たちは薄汚い! 戦犯をかばうような奴らだ。俺たちの価値観が日本を変えるんだ!」と夢見た若者たちの気分に、ぴったりの物語、だったのではないのでしょうか。

 しかし、昭和30年代において、政治家たちの権威は巌のようにそびえていまして、いくら若者たちが逸脱して少々暴れたところで、日本という土台をささえる庶民の国家意識は強固なもので、しかも高度成長の上り坂。国はゆるがない、という安心感があってこそ、そういう夢物語に熱中もできたんです。
 司馬氏はもちろん、いわゆる「維新の三傑」の存在の大きさがわかっておられなかったわけではなく、それは前提として、「しかしね、維新は個人が成し遂げたものではなく、こういう新しい若者たちがいて、新しい価値観が生まれていたんだよ」というトーンで、あくまでも「夭折した若者の青春」を描いておられます。

 司馬氏における「合理的精神」は、「西洋的近代の受け入れ」の基礎となったもの、と考えられ、とすれば、司馬氏が語る明治維新は、「西洋型近代的国民国家の生みの苦しみ」であって、その大筋自体から、「龍馬暗殺、薩摩・土佐陰謀説」は生まれようがありません。

 ところがしかし、物語が拡大再生産されていきますうちに、特に龍馬は、「維新の三傑」にとって代わりまして、一人で幕末の政局を動かしえたかのような伝説の主人公になったんです、おそらく。
 しかも、ですね。どういう脈略か私には理解しがたいんですけれども、「大政奉還で平和的改革をめざした龍馬は議会制民主主義の旗手! 武力倒幕派は龍馬が邪魔だった」みたいな、?????な気分によって、明治維新は民主主義の挫折の物語として紡がれる、という、お口ぽっかーんな状況から、陰謀暗殺ミステリーがもてはやされるようになったのではないか、と、首をひねってみたり。

 つーか、ですね。慶喜公が大人気!!!なのならば、まだ、気分としての薩摩黒幕話もわからないではないんですが、かならずしも慶喜公に人気があるわけではありませんで、龍馬人気の基礎が一介の浪人、それも土佐では上士から差別された郷士だったというところにありますのに、なんで????? です。
 そもそも、慶喜主導、あるいは山之内容堂や松平春嶽やら、武力倒幕反対派の諸侯主導で、四方八方おさまりがつきえる場面だったんですかね?????

 まあ、そういうことですから、龍馬暗殺ミステリーを語りますのに、「維新とはなんであったのか?」という問いをぬきにしては、お遊び推理ゲームにしかなりえません。
 したがいまして、磯田道史氏が、その作られたミステリーに真面目に取り組むにおかれまして、龍馬を中心に据えた幕末史を先にもってこられたのは、もっともなことです。
 著者ご自身、「龍馬の生涯をたどるうちに、自然と、幕末史の体系的知識が身に付くような簡潔な」歴史叙述を試みた、とされています。

 うーん。
 しかし、ですね。幕末史の要約ほど、難しいものはありません。
 まして、龍馬中心というのは、至難のわざ、でしょう。
 実際のところ、ですね。尊王攘夷から話をもっていきますならば、龍馬ではなく、中岡慎太郎を中心に据えた方が、幕末は描きやすいんです。
 前編を書いただけで放ってありますが、「寺田屋事件と桐野利秋 前編」で、私も一つの側面から、幕末史の要約を試みようとして、以下の慎太郎の言葉を引いています。

「それ攘夷というは皇国の私語にあらず。そのやむを得ざるにいたっては、宇内各国、みなこれを行ふものなり。メリケンはかつて英の属国なり。ときにイギリス王、利をむさぼること日々に多く、米民ますます苦む。よってワシントンなる者、民の疾苦を訴へ、税利を減ぜん等の類、十数箇条を乞う。英王、許さず。ここにおいてワシントン、米地十三邦の民をひきい、英人を拒絶し、鎖港攘夷を行う。これより英米、連戦7年、英遂に勝たざるを知り、和を乞い、メリケン爰において英属を免れ独立し、十三地同盟して合衆国と号し、一強国となる。実に今を去ること80年前なり」

 これほど、維新のめざしたものを端的に表現した言葉は、他にないと思います。
 
 龍馬では、なぜ描き辛いのか。
 簡単なことです。海軍は幕末の激動の「きっかけ」であり、維新の大きな「目的」でもありますけれども、変革の主体にはなりえないから、です。
 古今東西、変革の主体は陸軍です。清教徒革命にしろ、アメリカの独立戦争にしろ、フランス革命にしろ、プロイセンのドイツ統一にしろ、イタリアのリソルジメントにしろ、なんですけれども。

 さらにいえば、「海軍」は規模を要求します。
 この当時、パクスブリタニカの根源になっていましたイギリス海軍は、いわば脅しの見せ札です。例えは悪いんですが、原爆のような側面を持ち、イギリスは、明治維新から60年も昔のトラファルガーの海戦以来、大海戦はやっていません。
 そのイギリスとアメリカと、正規の常設陸軍が非常に小規模で、義勇軍に頼る割合が大きい、地方分権的な国におきましても、コーストガードは別にして、海軍は中央集権政府の元にあります。
 モンブラン伯爵のシリーズなどで書いてきましたが(不完全なものですが、「モンブラン伯と「海軍」をめぐる欧州の暗闘vol3」がわかりやすいかと思います)、海軍熱心だった佐賀と薩摩は、ともにそのことを悟り、薩摩は、薩英戦争を経ることによりまして、幕府に代わってその集権の主導権を握ろうとしましたがために、倒幕に傾いていった、といえなくもありません。
 
 したがいまして、「海軍を作る」ことにおいて、一介の浪人は無力ですし、また海軍自体は、決して政治的な存在とはなりえないのです。
 であってみれば、磯田道史氏は、海軍を志した一介の浪人を中心として簡潔に幕末史を語る、という難しい作業を、できうるかぎり、無難にこなされている、と、言っていいのかもしれません。

 しかし、不満は残ります。
 龍馬が土佐にいる間は、いいんです。
 脱藩にいたって、ちょっとちがうだろう、という話になってきます。
 土佐勤王党に対する久坂玄瑞の呼びかけにしましても、吉村虎太郎の脱藩にしましても、漠然とした尊王攘夷論の高まりで、起こったわけではありません。島津久光の率兵上洛がもたらしたもの、です。
 ここでも、時代を動かしていたのは、「陸軍」なのです。

 だからといってもちろん、脱藩後の龍馬が海軍を志したことに、意味がないわけではありません。
 ここで龍馬がわざわざ激動の中心をはずれて、海軍に向かいましたことは、その「海軍」にこそ変革の動機と目的を抱き、なおかつ、変革の主体となりえる規模の「陸軍」をかかえます薩摩に、龍馬を近づけることだったから、です。
 幕末における海軍と交易、そして外交という面から維新を描くことを、私はモンブラン伯爵を中心にしようとして、知識不足と力不足で、覚え書き程度のものも中断しておりますが、もし日本人を中心に据えますならば、五代友厚しかいないでしょう。
 
 「いろは丸と大洲と龍馬 上」で書きましたけれども、司馬遼太郎氏は、あきらかに五代友厚がしたことを、龍馬がしたことに変換しています。
 海軍の創設と海外貿易。これは最初から、一介の浪人にはできないことです。大藩の保証があればこそ、できることでして、しかも、なぜ薩摩藩がそれを積極的になしえたか、といえば、「琉球という植民地」を持っていたから、です。植民地といいましても、形としましてはイギリスのインド統治に似て、入植はせず、琉球王朝を温存しました間接統治、です。
 「モンブラン伯は維新回天のガンダルフだった!? 番外編」で述べましたが、すでに薩摩は、琉球を指導して、オランダ、フランスと修好条約を結んでいました。

 「一介の浪人が海軍と貿易に取り組んだ!」といいますのは、司馬さんが龍馬像に託しました夢でして、私が磯田道史氏の書いておられることに、もっとも違和感を持っていますのは、龍馬と海軍の関係です。
 海軍の話をしますならば、幕府が長崎で行いましたオランダの海軍伝習をぬきには無理ですのに、龍馬中心でありますばかりに、突然、神戸海軍操練所です。
 この当時、幕府の本格的な軍艦操練所は築地にありました。
 オランダの海軍伝習の途中から、幕府は諸藩をしめだし築地もそうでしたので、勝海舟が神戸に、諸藩士入門可の神戸海軍操練所を作ったわけなのですが、築地のそれにくらべれば、あきらかに劣ったものですし、どれほどの有益な伝習が行われたかは、疑問です。
 あるいは勝海舟は、薩摩藩懐柔のために、薩摩と連携して神戸海軍操練所を作ったのではないか、と、私は憶測していまして、少なくとも、ここに多数の薩摩藩士が入塾していましたことは、事実です。

 また、体系的に、ちゃんと調べているわけではないのですけれども、薩摩藩がグラバーなど、長崎のスコットランド商人の協力を得て、海軍の実地訓練を重視していたことはあきらか、でして、「薩摩スチューデント、路傍に死す」に出てきますが、亀山社中の陸奥宗光は、薩摩の世話でイギリスの船に乗り、帆船の使用を学んでいたのですし、「美少年は龍馬の弟子ならずフルベッキの弟子」の前田正名の兄は、文久3年の段階で、蒸気船の釜焚として、薩摩藩の交易に従事していたんです。
 亀山社中、海援隊は、船壊しの名人としかいいようがなく、海軍への取り組みは、龍馬が主体ではなく、薩摩藩が主体です。
 それをまるで、龍馬が主体であるかのように書かれたのでは、「竜馬がゆく」の拡大再生産にすぎなくなってしまいます。

 それに関連もしてくるのですけれども、イギリスが手放しで薩長を応援した、ような書き方も、ちょっと違和感があるんですが、これに関しましては、「アーネスト・サトウ vol1」の冒頭にまとめておりますので、省きます。

 磯田道史氏の龍馬暗殺ミステリーそのものの解明は、大筋として、妥当なものです。
 あー、余計なことかもしれませんが、「人斬り半次郎」という言葉は、戦後に作られたものです(「続・中村半次郎人斬り伝説」参照)。
 そういえば、うちの母は最近、題名が恰好いいからと、池波正太郎氏の「人斬り半次郎 」を買ってまいりましたが、大昔から、私がもってるってば、もう!!!(笑)

 といいますか、戦前、桐野の赤松小三郎暗殺をそこそこ正確に述べていました有馬藤太の「維新史の片鱗」は、桐野と龍馬は薩長同盟以来の長いつきあいだったことを証言していますし、「中井桜洲と桐野利秋」で書いておりますが、中井は桐野と個人的に親しく、この当時海援隊に属して、「桐野利秋と龍馬暗殺 前編」にありますように、大政奉還の建白書に手を入れました(慶応3年6月24日「薩の脱生田中幸助来会、建白書を修正す」佐々木高行日記)。

 龍馬の功績、といいますならば、中岡慎太郎たち、多くの土佐脱藩士が長州の懐にとびこみましたのに対し、海軍を通じて薩摩の懐にとびこみ、両側から薩長を結びあわせ、そしてなにより、自藩土佐を倒幕勢力にひきずりこんだ、ことでしょう。
 その要に、中井桜洲はいたといってよく、これは磯田道史氏もはっきりと書かれていますが、龍馬と海援隊は、あきらかに土佐を倒幕にひきずりこむ側に属しているんです。

 で、もう一つだけ、磯田氏の述べられていますことへの疑問。
 磯田氏は、薩摩黒幕説が蔓延します理由について、「薩摩藩は、他者観をもたれていた」ということを、一番にあげられています。
 薩摩黒幕説は、戦前に蜷川新氏の著述があったにしましても、けっして、主流であったわけではありません。冒頭で述べていますように、戦後も、ごく最近になってからのブームです。
 それを、幕末京都におきます薩摩藩の人気のなさから語りはじめますのは、ちょっとおかしなことだと思います。

 磯田氏は、禁門の変におきます京都の長州人気、薩摩・会津の人気のなさから、「他者観」を持ち出されるわけなんですけれども、そういう理屈でいきますと、江戸におきます西南戦争時の西郷隆盛大人気の理由が、さっぱりわからなくなります。
 禁門の変当時の京都におきます、長州人気、薩摩不人気の理由は、はっきりしています。高々と尊王攘夷!をかかげました長州を、8.18クーデターで追い落としたことが、まだ尾を引いていたんです。

 外国との交易は、物価をつり上げましたし、シルクが主要交易品となり、海外へ流出していましたことで、絹織物が盛んでした京都の産業は、壊滅状態です。京都庶民の正義は、攘夷!にこそ、ありました。
 「モンブラン伯と「海軍」をめぐる欧州の暗闘vol3」に詳しく書いておりますが、外国と交易している、という理由で、長州藩が長崎丸、加徳丸という、薩摩藩が運用しておりました商船を攻撃し、しかも、「外国と交易している薩摩の方が悪い!!!」と、京都で自藩者を無理やり切腹させ、薩摩商人の首をさらすという理不尽な宣伝を行ったわけなのですが、京都庶民がそれを受け入れたのは、薩摩が他者だったからではなく、京都庶民も海外交易を憎んでいたからです。

 で、龍馬暗殺当時なのですが、薩摩は舵をきり、その人気の長州と手を結ぶ方向へ向かっていたのですから、京都庶民の気分から、薩摩黒幕説が誕生するわけはありません。
 鳥羽伏見直後の薩摩の不人気は、やはりなんといいましても、これまた、あまりにもあからさまな攘夷否定です。直後、京都の薩摩藩邸に政治顧問としてモンブラン伯爵を迎えていましたことを知ったときには、私でさえも、目が点になりました。
 確かに「薩摩藩は、なにをするやらわからない」ということは事実ですし、その現実主義が、しばしば薩摩藩のしていることを、他者にとってわかり辛くしていたことも事実ですから、磯田氏の薩摩藩解説が、まちがっているわけではないんですけれども。

 薩摩藩黒幕説につながる戦後の状況を、もし、戦前にまでさかのぼって考えますならば、龍馬を世に知らしめました明治16年発表の「汗血千里駒」が、土佐自由党の坂崎紫瀾によって書かれ、その土佐自由党弾圧の最前線にありましたのが、薩摩閥の三島通庸、だったことです。
 いえ……、それ以前に、土佐自由党結成のきっかけは、明治6年政変にあり、政変によって薩長藩閥政治を確かなものにしましたのは、大久保利通ですから、政府中枢にいます薩摩閥は、誕生当初から土佐自由党にとっては敵でして、しかし、自由党の一部が西南戦争に加担しようとしましたように、かつての薩摩藩そのものが敵だったわけではないんですけれども、戦後それが、奇妙な方向にねじまがったイメージとなった可能性はあるのではないか、と、私は憶測しています。

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中井桜洲と桐野利秋

2010年11月09日 | 桐野利秋

 えーと、またまた突然ですが、中井桜洲です。

 「桐野利秋と龍馬暗殺 前編」に書いているのですが、慶応3年後半、桐野が個人的なつきあいをしているらしい友人として、中井桜洲がいます。
 なぜ個人的か……、といいますと、桐野の愛人・村田さとさんの家に桐野が持っていたらしい部屋で会っているから、です。必ず永山弥一郎とともに、なんですが、けっこう仲よさげ、なんですよね。

 それもあるんですけれど……、明治11年3月発行の金田耕平編『近世英傑略伝』(近デジで読めます)に、短いながら桐野の伝記がありまして、これは、もっとも早く書かれた桐野の伝記ではないか、と思われますが、桐野がもっとも親しくしていた友人を、伊集院金次郎、肝付十郎、永山弥一郎の三人とするなど、かなり正確なんですよね。ただ、西郷隆盛とは幕末から一環して意見があっていなかった、という点が、ちょっと極端な感じなんですが。
 西南戦争終結間もなく書かれたこの伝記の最後は、田中幸介(中井桜洲)の話でしめくくられています。

 曾て京師に在るの日、同藩の兵士田中幸介の脱走して京師に在るに會し、始めて文事を談するを暁(さと)り、頗る天下の形勢を了知するの益を得たりと云ふ。此田中なる者は、曾て欧州に航し帰て、維新の際に尽力せし人なり。氏(桐野)は常に談を好み、日夜壮士を集め戦事を論するを常とせしが、他人之を論弁すれとも断乎として用ゆることなし。独り其之信聴する者は田中のみにして、田中は氏に逢ふごとに古今の形勢、各国の人情風俗を談ずるに氏は耳を傾むけて之を聴き、敢て非斥することなく、他人の若し田中を誹議する者あれば大いに憤激して之を排撃せしとぞ。惜いかな、この田中なる者は方今其の所在を知らず。若し田中をして氏の傍らに在らしめば、氏は必ず西郷の暴挙に左袒せざる@しと痛惜する人@しと云ふ。嗚呼、亦勢運の然らしむるに非ざるなきを得んや。

 これ、西南戦争を「西郷の暴挙」と表現しているんですが、このすぐ後に西郷隆盛の伝記があって、もちろんそちらの方はそういう書き方はしていませんで、あきらかに筆者がちがいます。
 そして、「この田中なる者は方今其の所在を知らず」といいますのは、意味深な書き方です。田中幸介は、中井弘と名を変えただけで、この当時、工部省の官僚です。
 つまり、なにが言いたいかといいますと、あるいは、この伝記は中井の筆になるのではないか、と、私は思うのです。桐野の友人として「伊集院金次郎、肝付十郎、永山弥一郎」の三人をあげることができるほど幕末期の桐野と親しく、明治11年初頭、死んでもいなければ入牢もしていないで、なおかつ筆が立つ人物といえば、ちょっと私には、中井しか思い浮かびません。

 それに、です。中井の伝記として、伊東痴遊が中井の異母兄の書いたものをもとにした、というものがありまして、私はこれ、痴遊の聞き書きではないかと思うのですが、講談調で、かなり疑問の多い伝記ではあります。
 が、ともかくこれに、中井生前の言葉として、西郷批判とともに、「西南戦争を起こしたのは、西郷ではなく桐野である。桐野は篠原のような西郷の子分ではなく、独立した親分だ」といったようなことが、書かれているんです。「西南戦争を起こしたのは桐野」という部分は、明治11年の桐野の伝記と正反対なのですが、西郷嫌いの気分と、桐野は決して西郷の子分ではない、独立した存在だ、といった部分は、共通しているんです。
 他に桐野のことを語り残した人物としては、有馬藤太がいますが、こちらは、本人が西郷を尊敬していますし、桐野が西郷と意見があわないでいたなどとは、一言も言っていないんです。

 つまり、西郷と桐野の関係は、見る者によってかなりちがって見えたのですし、中井の伝記に異母弟と痴遊のフィルターがかかっているにしましても、そこに描かれました中井の西郷・桐野観は、明治11年の桐野の伝記のトーンと似ていまして、伝記が中井の手になることを、思わせるのです。

 まあ、そんなこんなでして、昔から、中井のことは気にかかり、多少、資料をあさったりもしていたのですが、なにしろ私の関心が、桐野生存時、それも、幕末から明治初頭に集中しておりまして、となりますと、ろくろく資料がありません。
 fhさまが中井のファンとなられてから、相当に調べられたようなのですが、それでも幕末に関しては、講談みたいなお話しか出てきません。
 おもしろいのは、桐野の伝記を書き残してくれました春山育次郎が、中井に話を聞いて書いたエッセイです。私は、fhさまのブログで拝読しただけなのですが、ともかく中井弘という人は、二重にも三種にも尾ひれをつけた与太話で、他人を煙にまく名人だったようです。

 そんな中井の伝記を、ご子孫のお一人が出されたというので、さっそく買ったのですが、私もあっちこっちと関心が分散しておりまして、やっと先日、拝読いたしました。

中井桜洲 明治の元勲に最も頼られた名参謀
屋敷 茂雄
幻冬舎ルネッサンス


 いや、そのー、これまで、執筆と縁のない方ですし、仕方がないことなのだとは思うのですが、なんというのでしょうか、素材がもったいない、とでもいいますか。失礼な言い方かもしれませんが、あの人ともこの人とも、あらゆる有名幕末明治人士と親しくて、ということを強調なさるあまりに、肝心の本人像がぼやけたものになっているんです。
 資料を淡々と並べるか、そうするには資料が少なすぎる、ということならば、独断でいいんです。もっと中井の心情にまで踏み込んだものにならなかったものなのでしょうか。
 私の個人的欲求のみからいたしますと、新資料を単独で、全文収録してくださっていればあ、と(笑) 私にとりましては、肝心な部分が、かなり省かれております。
 
 新資料と言いますのは、中井の重野安繹宛書簡でして、そこに、かなり詳しく、自分の経歴を書いていた、というのです。
 しかし、ここでまたわかりませんのは、この書簡、実物ではなく「痴遊雑誌」に掲載されたものだそうでして、うーん。
 い、いや、確かにこれまであまり知られてなかったものだというのはわかるのですが、 「痴遊雑誌」って、柏書房が集成本を出しているみたいで、それならば国会図書館にはあるでしょうから、何年何月発行の何号に掲載と、書いていただくわけにはいかなかったんでしょうか。

 あと、そのー、どうにもわからないのが、この新資料から、中井が、脱藩(脱走と書いています)して大橋訥庵と親交を持ち、訥庵が「幕ノ嫌疑ヲ受タル時」、薩摩藩邸に捕らえられ、国許へ帰されて士族籍剥奪、終身禁固となった、とされながら、以下のように書いておられることです。

 「うなずけないのは、大橋や藤森たちが活発に行動したのは尊王攘夷運動である。それに加担したからといって、士族籍の剥奪や終身禁固などという刑を薩摩藩庁が科すであろうか」

 い、いや、「大橋ガ幕ノ嫌疑ヲ受タル時」と中井が書いているなら、それはあきらかに、坂下門外の変への関与を疑われたのであり、終身禁固くらいありえると思うのですが????? 

 (追記)忘れていました。書簡の解説文で???となった点がもう一つ。明治天皇に謁見するイギリス公使パークス一行が襲撃されたときのことなんですが、「各国公使の宿舎はオランダが相国寺、フランスは南禅寺であり、ここは中井の記憶ちがいである」と書いておられます。単純な思い違いでおられるんでしょうか??? 反対です。オランダが南禅寺で、フランスが相国寺です。したがいまして、中井の記憶ちがいは「オランダが天龍寺」としている点のみでして、それも確かー、いまちょっと資料が手元になくて記憶が定かじゃないんですが、当初、天龍寺だったような話もあったような。ともかく、堺事件直後でもっとも危ないと思われていましたフランスは、薩摩が警護しましたので、相国寺なんです。知恩院を宿にしましたイギリスは土佐が警護しましたし、オランダは加賀前田藩です。薩摩、土佐の警護したフランス、イギリスの宿について、中井の記憶は確かです。

 もう一つ、中井の父親が島流しになっていた、という件です。書簡の引用部分から、その部分は省かれ、確かなことだと、なにをもとに判断されたのか、読者にはわからないんです。
 これが確かなことだとしますと、中井の生き方、桐野との関係を見る上で、もしかしたら、という憶測を、私は抱いたのですが。
 
 桐野の父親も、遠島です。
 理由はささいなこととしか伝えられていないのですが、このおかげで非常に貧しく、どうも、一人前の藩士となる機会さえ、なかなか与えられなかった印象を受けます。

 えーと、ですね。海老原穆という薩摩人がいます。
 明治6年政変の後。東京で評論新聞という政府批判紙を立ち上げるんですが、「西南記伝」によれば、非常に桐野を信奉していた人だ、というんですね。
 司馬遼太郎氏の「翔ぶが如く」においては、なにをもとに書かれたのか、調所笑左衛門の親族であるような書き方をされているのですが、私は、証拠はつかんでないのですが、海老原清熙の親族だったのではないか、と思っています。
 海老原清熙は、調所笑左衛門の優秀なブレーンだった人です。

 で、この海老原清熙、「中村太兵衛兼高の二男で、文化5(1808)年、海老原盛之丞清胤の養子となった」ということを知りまして、もしかして、桐野の親族では? と調べてみたのですが、これもわかりませんでした。
 しかし、ふと、思ったんです。
 桐野の父親の遠島は、海老原清熙がらみだったのではないかと。

 調所笑左衛門の切腹は、お由羅騒動につながります。
 藩主の島津斉興が、正室との間の嫡子・斉彬になかなか家督を譲らず、側室・お由羅の子である久光にゆずるつもりではないのか、という疑いがもたれました。
 実質をいいますならば、斉興と斉彬、親子の確執があり、それに家臣団がからんだ、ということでしょう。
 斉興のもとで、経済改革を成し遂げた調所笑左衛門は、その財政引き締め政策によって、下級藩士たちの多大な恨みを買っていました。
 父親が家督を譲らないことに業を煮やした斉彬は、嘉永元年(1848年)、自藩の琉球密貿易を老中阿部正弘に密告する形で、その責任者・調所笑左衛門を切腹に追い込みます。しかし、調所が一身に罪をかぶって死んだため、斉興の隠居とはならず、斉彬の襲封には、至らなかったのです。
 このことは、藩内の緊張を高め、斉彬の男子の夭折をきっかけに、行動を起こそうとした斉彬派に対して、斉興派の徹底的な弾圧が行われます。下級藩士の多数は斉彬派で、西郷、大久保をはじめ、明治維新の中核となった者は、大方そうでした。
 したがいまして、薩摩において、調所は長らく悪者にされていたんです。あからさまに親子喧嘩だと言ってしまいますと、斉彬公の値打ちが下がりますから。

 島津家から養子が出ていた他藩の助力などもあり、ついに嘉永4年、斉興は隠居に追い込まれ、斉彬が藩主になります。
 従来、それによる報復人事は行われなかった、とされてきたのですが、どうもちがうように思われます。少なくとも、調所派だった海老原清熙は失脚し、後に島流しになっているのですし、やはり調所とつながりの深かった島津久徳も罷免されています。
 私、この件ではまだ、まったく史料を読んでいませんで、「斉彬公史料」でも読んでみる必要があるのですが、図書館で借り出せないんですよねえ、ふう。
 
 したがいまして、まったくの妄想なのですが。
 これだけ大規模なお家騒動になりますと、積極的な反斉彬派ではないにしましても、斉興の藩政の要だった調所や海老原や島津久徳や、に縁があった、あるいは、彼らの取立を受けていた藩士にも、粛清は及ぶでしょう。
 桐野の父親も中井の父親も、そうであったのではないのでしょうか。
 中井の父親の島流しが、明治2年まで許されなかった、ということしか、傍証はないんですけれども。

 中井はもちろん、なんですが、私にとりましては桐野も、どことなく、薩摩の下級士族団の絆から、浮き上がっていたように見えるんですね。
 父親が調所派だったのだとすれば、その背景が、納得できるように思うのです。
 これから調べてみたいこと、なんですけれど。

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スーパーミックス超人「龍馬伝」

2010年11月06日 | 幕末大河ドラマ
 「龍馬伝」に登場! ◆アーネスト・サトウ番外編の続きです。
 続きっていいますか……、書く予定はなかったんですけど、もう、笑い転げて涙が出まして、ちょっとつぶやかねば、笑いがとまらない勢いでして。
 「スーパーミックス超人龍馬伝」とでも、題名を変えた方がいいんじゃないんですかねえ、このドラマ。
 アーネスト・サトウ登場!に引かれて、見たんです、再放送を。
 ギャグもここまできますと、りっぱな学芸会です!

 大政奉還だ、オー!
「オー、がんばれえっー! 運動会かよ。ひー、けらけらけら」

 なに? このパークス。机も叩かないし、大人しいよ。かわりにサトちゃんが怒鳴ってら。
 「パークス! もっと気張れや! ひー、けらけらけら」

 なんで、この時期の長崎奉行でもない朝比奈さんが、長崎で水戸黄門の悪代官みたいなのやってるの?
「おー! 捨て台詞かっこいいぞお! ひー、けらけらけら」

 なにを悲壮な顔して逃げてんの? お元ちゃん。
「ここで逃げるかよ! ひー、けらけらけら。浦上四番崩れは、フランスカトリック教会の神父が、堂々と信仰表明すべき、とたきつけたから起こったんだろうがよ。ひー、けらけらけら」

 「パークスさんが家を用意していてくれるきに」「マリア様の拝める国へ行きます」
「も、もう、もうだめえ!!! ひー、けらけらけら。居留地の教会は日本人に伝道をしない約束なのに、その約束を公然と破ったフランスのカトリック教会に、イギリスは批判的だったんだけどねえ。しかも、よりにもよってイギリスが、マリア様の拝める国だって!!! ひー、けらけらけら。パークスちゃん、聞いてる? 怒鳴ってやってよ。ひー、けらけらけら」

 「アーネスト・サトウと龍馬暗殺」で書いておりますが、土佐にかかった犯人疑惑がなんとかおさまったのは、あきらかに、薩摩藩がイギリス公使館に働きかけたから、です。
 要するに、「西郷隆盛のやったことも、五代友厚がやったことも、後藤がやったことも、ぜーんぶ龍馬がやったことにして、しかも西郷も五代も、裏の裏を読んでイギリスに対していたのに、土下座と自慢話で相手を催眠術にかけるスーパーミックス超人龍馬ギャグをやりたいわけね。ひー、けらけらけら」

 やっぱ、このシナリオライター、頭に蛆がわいていますわ。少なくとも、数千匹は。

 つーか、こんな甘ちゃん学芸会歴史ドラマをNHKが作っているよーだから、どーしようもない甘ちゃんたちが政権とって、現場の苦労はそっちのけの勘違いした「柳腰」芸者右往左往のきちがい沙汰になるんでしょうか。
 「がんばれえ!!! 流出尖閣ビデオ。YouTube万歳!!!」(笑)

 (追記)「がんばれえ!!! テキサス親父、平成のエドウィン・ダン。愛してるよ!!!」(笑)


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「龍馬伝」に登場! ◆アーネスト・サトウ番外編

2010年11月03日 | 幕末大河ドラマ
 実はつい先日の日曜日、アクセスが爆発的に増えたんです。
 ?????と見てみましたら、「アーネスト・サトウと龍馬暗殺」「アーネスト・サトウ vol1」と、アーネスト・サトウの記事に集中しています。「文明と白いシャツ◆アーネスト・サトウ番外編」も読んでね(笑)

 な、な、な、なにごと???と驚いたんですが、「アーネスト・サトウ 龍馬」のキーワード検索が多く、「イカロス号事件」というのもけっこうありましたから、「そういや、龍馬伝でイカロス号事件をやるとかいってたっけ。もしかして……、サトちゃん登場したの???」と喜んで、検索をかけてみましたら、パックンがやったとのこと。
 パックンですかあ。外見は、そこそこ似てますね。
 ルパート・エヴェレットがイメージだったんですけど、若き日を演じるには、年がいきすぎましたねえ。まあNHKが、端役にそんなお金を使うはずもないんですけれども。
 ともかく、慌てて、土曜日の再放送、録画予約しましたわ(笑)

 えー、「アーネスト・サトウ vol1」の続きは、長らく放ったままですが、愛が募って書けない、ということもありまして、私は、サトちゃんに惚れていますし。

 有川弥九郎さんと楽しく酒盛りしたり、江戸留守居役・柴山良助の死を知って、「仇を討ってやりたいものだ」と日記に書いた、若き日のサトちゃん。
 
 その晩年、日本人の息子を連れて、リーズデイル卿、バーティ・ミットフォードのバッツフォード邸を訪れ(訪れたと思います)、竹林を歩きながら、遠い日本の過ぎ去った昔に思いを馳せるサトちゃん。

 どんな場面を思い描いても愛おしいのですが、以下の場面で涙ぐむ私は、病気かもしれません。

 
アーネスト・サトウの生涯―その日記と手紙より (東西交流叢書)
イアン・C. ラックストン
雄松堂出版

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 上の本から、です。
 明治36年(1903)11月14日、北京在住イギリス公使・アーネスト・サトウのもとに、日本公使館付き武官・山根武亮中将が現れます。転任の辞令があって帰国することになり、別れの挨拶に訪れたのです。日露開戦の3ヶ月たらず前のことです。
 その日の日記に、サトウはこう書きました。

「彼は最後に私に、公使としてではなく日本を知り全般的な情勢に通じた一私人として、日本はいま戦うべきか、それとも延期した方がよいかと尋ねた。私は考え込んで、暫くして、いまだ、と答えた」

 山根武亮中将は、嘉永6年(1853)、長州藩士の次男として生まれました。維新時は、まだ15歳。
 しかし、外敵への備えをまったくもたない小さな島国だった日本が、多くの屍を乗り越えて、光と闇を織りなしつつ、ようやくロシアと対峙できるまでになったその過程の、その渦中で成長し、年を重ねてきた人です。
 幕末から日本をよく知り、日本人の妻と息子をもっているイギリス公使に、どうか「一私人」として答えてくれ、と頼んだ山根中将は、果たして日本はロシア相手に戦いえるのかどうか、不安にゆれていたのでしょう。
 それに答えるサトウは、真剣でした。血をわけた息子の国なのですから。

「文明と白いシャツ◆アーネスト・サトウ番外編」でも引きましたが、日清戦争の直後、知人への手紙に、「私が日本に滞在中、日本が第3位、第4位の地位に上ると信じたことは一度もありませんでした。国民はあまりにも単なる模倣者であり、基本的なものに欠けているように思えました。しかし、私が一度でも疑わなかったことの一つは、サムライ階級の騎士的勇気でした」と書いたサトウです。

 サムライ階級は滅び、しかし、そのサムライ階級出身の中将が、これまで日本が積み上げてきたものが潰え去るかもしれない瀬戸際に立って、不安を押さえつつ、真剣なまなざしで問いかけてきたんです。
 サトウは、成長したわが子の決断のときを前にした思いで、答えたでしょう。
 力強い、励ましのようなその答えに、山根中将は心からの敬礼で応じ、サトウは万感を胸に秘め、その後ろ姿を見送ったにちがいありません。

 と、ですね、そんな場面を思い浮かべつつ、毎回龍馬伝を見ています妹に、
「前回、アーネスト・サトウが出てたんだって?」
 と、聞きましたところ、
「ちょっぴりね。そんなことより、長崎の芸者さんで、お元っていう龍馬の恋人がいるんだけどね、それがキリシタンで、捕まりそうになったもんで、龍馬がパークスに頼んで、イギリスに逃がすのよ。あの時代に日本人の女が一人でイギリスに行って、生きていけるわけがないじゃない。幸せになれると思う? 牢屋に入った方がなんぼかましよっ!!!」

 はああああ????? パークスが!!! あのフランス語がしゃべれなくて、サトウに通訳させながら、フランス公使ロッシュと喧嘩していたパークスが、フランスの修道会がカトリック教会に復帰させて鼻高々の日本のキリシタンを、幕府の意向を無視して、カトリック嫌いのイギリスに逃がすってええええ?????
 もう、茫然自失。

 い、い、い、いや……、そんな珍妙な、きちがいじみた冗談に、真剣になられても。
 ふきだしたいのをこらえて、つい、私は、言ってしまったんです。
「慶応3年よねえ。ちょうどパリ万博で、日本の芸者さんがものすごい評判になって、ジャポニズムが巻き起こっている最中よ。カトリック嫌いのイギリスじゃなくて、フランスへ行って、祖先から受け継いだ信仰を守り、現在に復活したカトリック芸者でござあーいって、見世物になったら、絶対、大もうけできるよ」
「私は、幸せになれるかどうかって、言ってるのよっ!」
と、妹に怒られてしまいましたわ。

 浦上四番崩れね。
 隠れキリシタンの信仰は、村落共同体の土着信仰でしたからね。村を離れては、意味のないものなんですわよ。
 フランス革命でいったんぐだぐだになりましたフランスのカトリック教会は、この19世紀半ばリニューアルし、新たな熱を集めて、東洋伝道に情熱を燃やしていました。その昔、弾圧で根絶やしになったと思われていた日本のキリシタン発見!!! わがフランスの伝導会がそれをカトリック教会に復帰させたぜい!!! と、たいした手柄だったわけです。

 パークスはもちろん、アーネスト・サトウにしましても、信仰の自由は信奉し、日本がキリスト教全体を邪教視していることには抵抗をもち、弾圧がいいこととは思っていませんでしたけれども、それとこれとは、別の話です。
 だいたい、当時のイギリスは、他国の信仰に口をはさむのは内政干渉とこころえておりましたし、カトリック排斥を国是とした歴史を持つ国ですし(当時、まだ根強くカトリック信者への差別もありました)、自国民が関係しているわけでも、ないんですからねえ。
 えー、もし、もしもです。龍馬がほんとうに
「わしのといちがキリシタンじゃきに、イギリスへ逃がしてやってつかあさい」
 と言ったとします。
「おとといおいで」でおわりでしょうが、サトちゃんはやさしいですから、片目をつぶって、「フランス公使へ訴えるのが筋です。通訳してあげましょうか?」と、言ってくれたりしたかも……、しれません(笑)

 しかしねえ。見るのが怖くなりましたわ。
 笑い転げそうで。
 きっとシナリオを書いている人の頭に蛆がわいている、にちがいありません。

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いろは丸と大洲と龍馬 下

2010年11月02日 | 幕末土佐
 いろは丸と大洲と龍馬 上の続きです。

 前回ご紹介しました諸史料を踏まえまして、「いろは丸終始顛末」を読み返しますと、かなり話が見えてまいります。
 こういうことでは、なかったでしょうか。

 慶応2年の7月、新式銃購入のため、長崎へ行った国島六左衛門と井上将策は、以前から藩内で、武田敬孝を中心に主張されていました蒸気船購入に、意欲を持っていました。問題は代金なのですが、往路で幕長戦争を目の当たりにし、ぜひともこの機会に蒸気船も、とあたってみると、薩摩藩の五代友厚が、耳よりな話を持ってきました。
 元薩摩藩の船で、現在ロウレイロ名義になり、アデリアン商会もからんでいるアビソ号ならば、オランダ領事のボードウィンが、全額融資をしてくれる、というのです。

 「いろは丸」は、もともとは薩摩藩が所有していた安行丸です。安行丸については、海軍省発行の「海軍歴史」(近代デジにあります)に載っていますが、それによれば、以下です。

 原名    サーラ(Sarah)
 舟形    蒸気内車
 船質    鉄
 幅長    長卅(30)間 巾3間
 馬力    45
 頓数    160
 製造国名  英 
 造年    1862(文久2年)
 造地    ギリーノック(スコットランド クライド湾 グリーノックGreenock造船所)
 受取年月  同年9月3日
 受取地名  長崎
 償     75000弗(ドル)
 原主    エアルテルバイ組合
       慶応元年丑年11月賞於和蘭ボウドウィン


 ちなみに同書には、大洲藩の所有船として、伊呂波(いろは)丸も載っているのですが、当然のことながら、ちがっているのは受け取り年月日以下、のみです。

 受取年月  慶応2年寅年(1862)
 受取地名  長崎
 償     70000弗(ドル)
 原主    和蘭ボードウィン
       慶応3卯年5月於中国内海與明光丸相○沈没


 一方、長崎運上所への届けには、「薩摩藩は慶応2年(1866)正月5日、ポルトガル領事ロウレイロに安行丸を売却した」旨、あるそうです。
 「慶応元年丑年11月賞於和蘭ボウドウィン」といいますことは、あるいはこのとき、ボードウィンが薩摩藩の借金の形に押さえたのかもしれません。
 船名につきましては、サーラの船名が安行丸に変わり、おそらくはロウレイロの名義になりました時点で、アビソ号となったわけです。
 
 えー、「モンブラン伯は維新回天のガンダルフだった!? 番外編」をご覧ください。
 「オランダとの取り引きは米中心であったとされていまして、これが米を運搬して有利な相場で売り払う、投機的なものであったとは、目から鱗、でした。
 なるほど。それで、オランダ商人(アルフォンス・ボードウィン)との取り引きのみはうまくいき、結局、押し詰まった時点での薩摩への出資者は、オランダのみになったわけなのですね」

 と書いておりますが、あるいは安行丸は、ボードウィンが一度押さえて、イギリス系商社に所有が移ったのかもしれませんし、薩摩との取り引きが上手くいっていたボードウィンは、薩摩藩の保証さえあれば金を貸した、ということなのではないしょうか。
 これを証明するには、玉里史料でもあさってみるといいのかもしれませんが、いや、そこまでする気はないのですけれども。

 また、契約書の立会人になっていますアデリアン商会はいったいなになのか、という問題もあります。アデリアン商会はベルギー系ともいわれ、だとすればモンブランもからんでいたりするのでしょうか。大洲藩が買った時点での、安行丸=アビソ号の実の船主は、結局、わけがわかりません。岡美穂子氏が論文を書かれるそうでして、楽しみなんですが、どこに発表されるのでしょう。読めなかったりしたら、とても残念なんですが。

 ともかく、です。
 海千山千の五代友厚の話に、国島と井上は飛びついたわけですね。
 いや、大洲藩が長州よりだとはわかっていることですし、五代にしてみれば味方にしておきたい小藩へのサービスかもしれませんし、薩摩藩の保証で蒸気船が買えるのは、小藩にとって、ありがたいことだったのかもしれないんですけれども。

 しかし、借りた金は返さなければならないんですし、大金の支出を、藩庁が認めるかどうかが、問題です。
 そこで思いついたのが、藩主・加藤泰秋への直訴、ではなかったでしょうか。

 泰秋は、弘化3年(1846)生まれ。このとき21歳という若い藩主です。元治元年(1867)、国許で藩主の兄が急逝し、江戸へ出て幕府に家督相続を認められますが、慶応2年の9月まで、お国入りが許されなかったのです。
 「大洲市誌」によれば、同年6月の武田敬孝の建白書には、まっさきに「一刻も早く藩主の帰国を願うべきこと」とあったそうです。

 広瀬常と森有礼 美女ありき10で書いたのですが、函館にいた武田斐三郎は、元治元年(1864)4月、江戸出張を命じられ、7月23日付けで開成所教授、次いで大砲製造頭取になり、江戸にいたんです。
 敬孝は、若い藩主の師であったようですし、大洲藩のために、洋式兵術の取り組みにおいて最先端にいる弟を、頼りにしないということがあるでしょうか。兄の頼みで、斐三郎が若い藩主の元を訪れ、新式兵器や蒸気船の必要性を訴えた可能性は、十分にあると思います。
 とすれば、泰秋は蒸気船購入に大乗り気だったかもしれませんし、加藤家関係者の手で編纂されたと思われる「大洲藩史料」が、いろは丸購入を「庁議を経たもの」であった、としたのは、あるいは、泰秋にとってはそうだったから、なのかもしれません。

 国島と井上は、ロウレイロと契約をかわし、ボードウィンから借りて、4万メキシコドル全額を払い、いろは丸と名付けましたが、ボードウィンと大洲藩の契約は、正式なものになっていなかったのでしょう。
 9月、いろは丸は薩摩藩の船印をかかげ、亀山社中の手を借りて、ちょうど泰秋の初のお国入りにあわせて、長浜港に回航されます。このときのいろは丸の船籍は、薩摩藩です。
 「いろは丸終始顛末」によりますと、「御召艦を曳き、運転の自在と速力とを親しく君侯の御覧に入れると云ふ計画てあった」ということなのですが、従来の和船の曳き船の舟子が失望する、というので、それは取りやめになったそうです。藩主のお召艦を曳くというのは、名誉なことだったんでしょうね。

 ともかく、です。泰秋の鶴の一声で、藩内の反対の声は抑えられ、ボードウィンとの借金契約も事後承諾され、家老たちも購入契約書に判を押さざるをえなかったのではないかと、私は思います。
 慶応3年末のことになりますが、西宮警備を受け持っていました大洲藩は、薩長芸出兵計画に同調し、まだ公式には復権していませんで(討幕の密勅は出ていますので、秘密裏には復権していますが)、朝敵のままの長州藩兵の西宮上陸に、全面的に協力しました。いくら長州と親密だったとはいえ、小藩にとって、これは大胆な賭けでしたが、藩主・泰秋の決断であった、といわれます。

 ただ、最初の頭金が、全額そろわなかったのではないでしょうか。
 いろは丸の代金と大洲藩の借金額につきましては、下の本に収録されました織田毅氏の「再考・いろは丸事件 ー賠償金はなぜ減額されたのか」が、紀州藩の史料を駆使して、詳しく述べてくれています。

共同研究・坂本龍馬
クリエーター情報なし
新人物往来社


 いろは丸の代金は、契約書とぴったり一致しまして、40000メキシコドル、邦貨にして31000両です。
 豊川渉の「いろは丸終始顛末」が「価約三万円で買受の契約が成立した」といっていますのは、この船のもともとの価を邦貨で述べたものなのでしょう。

 しかし、ボードウィンからの借金には、一割の利子がつきます。最初の頭金を含めて4回払いで、総額46600メキシコドル、邦貨にして36115両になります。
 「大井上家系譜」の「価メキシコドルテル銀四万五千枚」は、この借金総額、おおよそのところをメキシコドルで述べていると思われます。
 問題は、「大洲藩史料」です。「代金四万貳千両五度の拂込約定にて購求するを得たり」ということは、「邦貨42000両を5度にわけて払い込み」ということになるのですけれども、この謎をとく鍵も、織田論文にありました。
 
 一航海のみの約束で海援隊に貸し出されましたいろは丸は、慶応3年(1867)4月23日、紀州藩船・明光丸とぶつかって、沈みます。それにいたしましても海援隊は、船をおしゃかにする名人ですね。
 倍書金問題が持ち上がり、最終的には五代友厚が担ぎ出されるのですけれども、ボードウィンと大洲藩との借金契約をよく知ります五代が、書面上の借金総額につけくわえまして、大洲藩が支払った金額を、次のように述べているんです。

 このときまでに大洲藩がボードウィンに支払っておりました金額は、初回、慶応2年払い込みの6200両(80000メキシコドル)のみです。
 これに、10ヶ月分の利子一割、510両1歩3朱が上乗せされていた、というんですね。
 といいますことは、慶応2年中に、大洲藩は初回金を払いこめなかったことになります。
 いつ払ったのかはわかりませんが、海援隊に一航海500両でいろは丸を貸し出したことについても、この利子上乗せ分の500両をかせぐためだったのではないか、と思えます。

 五代はさらに、「金5250両 船買入につき通弁その外謝礼ならび道具代とも」としておりまして、これは借金契約に含まれませんから、初回、ロウレイロとの購入契約時に邦貨で払ったものと受け取れます。
 ボードウィンへの借金総額邦貨36115両に、初回支払い遅れで生じました余分の利子邦貨510両、借金とは別に、最初に払い込みました邦貨5250両をあわせますと、41875両となり、「大洲藩史料」が「邦貨42000両を5度にわけて払い込み」としていることの意味がわかります。
 大洲市立博物館学芸員の山田さま、ヒントをありがとうございました。

 「いろは丸終始顛末」によれば、慶応2年9月、丸に十字の薩摩藩の船印をつけ、亀山社中の手で長浜に回航されたいろは丸は、ちょうど初のお国入りで長浜に入港しました藩主・泰秋のお目にかけたのち、同月、再び慌ただしく長崎へ向かいました。最初の諸経費、5250両には、この往復航海の亀山社中への支払いも、含まれていたんでしょうね。

 そして11月、大洲藩の船印・赤字に白の蛇の目紋をかかげて長浜港に帰ってきましたいろは丸は、同月14日、新たな乗組員のもと、晒蝋、木附子(黒の染料)、松板といった大洲の産物を積んで、19日に出港します。豊川渉とその父が乗り組みましたのも、このときです。
 船の運用方に橋本久太夫、俗事方下役に和泉屋金兵衛、機関方に山本謙吉、柴田八兵衛と、亀山社中から4名を借り受け、協力を得ていましたが、船将、士官ほか、乗組員の多くは大洲藩士ですし、運用方、機関方には見習いを入れて、あきらかに、大洲藩の人員のみでの運用をめざしていました。もう少し後の話になりますが、長浜出身で、幕府軍艦に測量方として乗り組んでいた大塚明之助が呼び返され、乗り組んだりもしています。

 しかし、このとき、購入責任者である国島六左衛門は長崎に留まったままでした。
 借金の初回払い込み、邦貨6200両が用意がおぼつかなかった故ではないか、と推測されます。
 晒蝋、木附子など、大洲から運んでくる産物を、売り込んでその足しにする手配なども、あったんでしょうね。
 
 いろは丸が長崎へ着いたのは、22日の朝です。このとき長州は、下関を封鎖し、長州に敵対する松山藩の船などは通しませんでしたが、大洲藩は味方ですので、支障なく通ったそうです。
 いろは丸は、積み荷を陸揚げし、石炭を積み込み、いつでも出航できる状態となりましたが、なかなか、出航の日取りが決まらず、長崎に停泊したままでした。
 そして12月25日、ようやく出航がきまるのですが、その朝になって、国島六左衛門が突然、割腹自殺します。
 遺書はなかったそうなのですが、その理由を、豊川渉の「いろは丸終始顛末」は、次のように記しています。

 「国島氏の自裁に就ては遺言もなく、誰も知る者はなかったが、既に一ヶ月余りも徒しく碇泊したるも、実は金融上から出船の運ひにならず、幾回も出船の延引を重ねた末、年末の廿五日と発表にはなったものの、氏か数百円の責任を負うて居られたとのことである」

 これではっきりするのですが、大洲藩は、慶応2年中に払い込むはずの6200両を用意できず、国島がボードウィンと交渉を重ねた結果、10ヶ月分の利子一割、510両1歩3朱を上乗せすることで、決着がついた、ということでしょう。その上のせされた510両1歩3朱の責任をとって、国島は割腹したというのです。なんとも……、悲しい話ですね。

 大洲藩の金策の苦労を示すと思われる事実が、もう一つ、桜井論文に載せられています。
 大洲藩江戸留守居役・友松弘蔵は、12月16日付けで幕府に、「大洲藩領の町人・対馬屋定兵衛が、ボードウィンからいろは丸を買いました。大洲藩士がこの船に乗り込み、運用しています。九州。四国、中国はもちろん、ご当地(江戸)、奥州、松前、箱館辺へも航行する予定でして、風や潮の状況によりまして、どこの港へ入港することになるかわかりません。外国船とまちがわれては困りますので、日の丸はもちろん、大洲藩の船印をもちいたいと思いますので、その筋筋へお達し願えたら幸いです」と、届け出ているんです。
 頭金が間に合わず、大洲船籍にすることができないでいるいろは丸を、大洲藩の船として運用するための、苦肉の策だったんでしょう。
 文中、「奥州、松前、箱館辺」とありますことは、将来のいろは丸運用に、武田斐三郎が噛んでいるものと推測できますし、この異例の届け出も、幕臣である斐三郎の知恵と斡旋があったものと、考えていいのではないでしょうか。

 国島の自害は秘密にされていたのですが、どこから聞いたのか(おそらく井上将策が知らせたんでしょう)、五代友厚と坂本龍馬が訪れてきます。「いろは丸終始顛末」において、これが初めての龍馬の登場なのですが、実に印象的なのです。以下、引用です。
 「坂本氏は、国島氏の死体を検し、胸下の刀痕を己が指頭を以て探りなどして、武士たるものが己の所存が成立ねば死するの外はない。嗚呼、一知己を失ったと、嘆息して辞し去った」

 たったの510両1歩3朱です。しかし、小藩にとりましては、それさえ重荷だったのでしょうし、自分の責任でかならず大洲藩籍の船にしてみせる、という責任感を持って交渉に臨みました国島は、快く購入を認めてくれた藩主泰秋の手前もあり、交渉失敗の責任を思いつめたのでしょう。あるいは、なんですが、大洲藩の支払い能力を疑ったボードウィンが、いろは丸に大洲藩の旗印をかかげることさえ、拒否したかもしれませんし。
 もし、そうだったとすれば、国島の死によって、改めて五代が介入し、薩摩が保証するから大洲藩の旗印を、と、ボードウィンを説得したのでしょう。
 そして……、その薩摩藩のわずかな援助だけで、確実な後ろ楯なく、亀山社中を成り立たせようと苦労してきました龍馬にとっては、同じ交易商社の夢を追って活動しようとしている、わずか六万石の小藩の悲哀が、身に染みたのでしょう。

 とすれば、慶応3年の4月、亀山社中が海援隊となり、土佐という大藩の確かな後ろ楯を得ましたとき、最初に、いろは丸を借りたいと申し出ましたのは、国島六左衛門への哀悼の意を、形にしてあらわしたかったから、ではなかったでしょうか。
 一航海の借り賃500両は、ほぼ、国島がそのために死んだ利子の額にあたります。そしてそれは、なにがありましても、土佐藩から大洲藩に支払われることが確実なのです。
 結果的に、いろは丸は沈み、龍馬の好意は裏目に出た、ともいえるのですが、なにもそれは龍馬のせいではないわけですし、おそらく龍馬は、国島の悲願に思いを馳せながら、大藩である紀州との賠償交渉にのぞんだのだと、そう思えます。

 大洲藩は、長州藩と緊密な関係にあったことはすでに延べましたが、土佐藩ともそうでした。
 新藩主・泰秋の正妻・福子は、徳大寺公純の娘でしたが、山内豊資の養女になって嫁いでいたんです。
 武田敬孝は、いく度も、使者となって土佐へ赴いていて、慶応3年10月にも副使となって、正使・大橋采女とともに訪れていたのですが、4日に須崎に宿泊しましたところ、隣の宿に龍馬がいると知り、翌5日、会談しました。
 いろは丸と国島の話が、出たでしょうね。
 そのわずか40日後、龍馬は刺客に襲われ、維新を見ることなく世を去ります。

 私、書きながら考えるものでして、この結末を、最初から想定していたわけではないのです。
 事実は小説より奇なり。
 坂本龍馬は、とても情が深く、義理堅い人柄だったんですね。
 これまで、「流離譚」で安岡章太郎氏が描かれました龍馬が、一番好きだったのですが、今回、自分で書いていて、惚れました。

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いろは丸と大洲と龍馬 上

2010年11月01日 | 幕末土佐
 例によって、長くなりすぎましたので、上下編に分けていましたところ、ミスってしまって上が全部消えてしまいました。
 書き直しです。ふう。

 広瀬常と森有礼 美女ありき10で、大洲藩の幕末を調べておりますうちに、いろは丸購入のきっかけになりました建白を、武田成章(斐三郎)の兄、亀五郎敬孝が出しているのだと知り、ちょっと調べてみたくなりました。

 いろは丸って、海援隊が借りていて紀州藩の船にぶつかって沈み、賠償金問題で龍馬が活躍しました大洲藩の船です。
 大昔に、いろは丸の謎、みたいな本は読んだことがあったのですが、内容をほとんど忘れてしまい、それほど関心をもっていなかった私の頭の中には、「いろは丸は海援隊が運用していた大洲藩の船」というイメージが強固にありました。
 ところが、ちょっと資料や論文を読んでみますと、ちがうんですね。
 結論からいいますと、「いろは丸は大洲藩が運用していて、一航海だけ海援隊に貸し出した大洲藩の船」なんです。

 実は、NHK大河の「龍馬伝」、ほとんど見てないんです。初回、食事をとりながらBSハイビジョンの放送をちらちらっと眺めたんですけど、映像がこう、なんというのでしょうか、古い言い方かもしれませんが「ニューシネマ」っぽいのに、上士と郷士の対立が、お涙ちょうだいの母芸で終始してしまっている風で、「気持ち悪いなあ。この映像でやるなら、史実そのまま井口村事件をやるべき!!! ふんどし旗をおしたてた郷士の奮闘が似合う撮り方なのになあ」と、ぼんやり眺めていただけで、続きを見る気が失せました。(井口村事件につきましては古い記事ですが「大河ドラマと土佐勤王党」をご参照ください)

 したがって、いろは丸事件がどう描かれたかも知らないのですが、まあ、TVなどのフィクションで坂本龍馬を描くにあたって、焦点は賠償金交渉でしょうから、いろは丸の購入経緯なんぞというのは、一般にはどーでもいいこととして扱われているのでしょうけれども、「これって絶対、司馬さんの影響だよねえ」と思い、下の本を読み返してみましたら、やっぱりそうでした。

竜馬がゆく〈7〉 (文春文庫)
司馬 遼太郎
文藝春秋


 以下、引用です。
 「どうであろう、大洲藩はいっそ蒸気船を一隻買わんかい」
 と、竜馬はもちかけた。国島はおどろいて、
「無茶をいわしゃるな。大洲は山国ぞなア、それに蒸気船を買うても運転する者がありゃせんがの」
「運転はわしらでやってやる気に」
 と、竜馬は熱心にすすめた。
 国島はだんだんその気になってきた。


 いや、そのー、まず、大洲は山国じゃありませんから!!!
 えー、それに、国島六左衛門は郡中奉行ですし!!!

 さすが司馬さんです。
 これが、ですね。虚実とりまぜで、いくら愛媛県人とはいえ、普通は大洲藩領がどこからどこまでだったかなんて知りませんから、すっと無理なく頭の中に入ってしまうんですね。だって、大洲城は内陸の盆地にありますから。
 しかし、大洲城のある中心地には、肱川というかなり大きな川が瀬戸内海に向かって流れていまして、河口に長浜港という港があり、参勤交代は船ですし、お船手組だってちゃんといます。
 しかも大洲藩領は海岸線が長く、19世紀のはじめ、瀬戸内海に面した郡中(現在の伊予市)に、大洲藩は苦労して萬安港(現在の郡中港)を築き、国島六左衛門が奉行を務めていましたこの郡中は、商人が集住する港湾都市になっていたんです。

 いろは丸事件の基本文献のひとつが、豊川渉の「いろは丸終始顛末」(あるいは「いろは丸航海日記」)です。
 豊川渉は、長浜の廻船問屋・豊川覚十郎の息子でして、いろは丸が大洲藩のものになってから、国島に頼まれ、父の覚十郎は俗事方、渉は機関見習いとなって、乗り組んだんです。その間、日記をつけていまして、それをもとに後年まとめましたのが、「いろは丸終始顛末」です。日記の原本は、現在失われているそうです。
 司馬氏も、これを下敷きになさったと思われるのですが、実はこれにさえ、「いろは丸を大洲藩に斡旋したのは坂本竜馬」とは、書かれていません。では誰だったかといえば、「薩摩藩の五代友厚」です。
 以下、「いろは丸終始顛末」から、引用です。(カタカナをひらがなにし、句読点をおぎなうなど、正確ではありませんので悪しからず)

 慶応二年六七月頃、国島六左衛門氏に井上将策氏が随従して、軍用小銃購入として、長崎に出張になった。国島氏は豫て某々二三の同志と謀議があったものと見えて、薩洲士五代才助の周旋て、長崎出島に商館を構へていた「ボードイン」と云ふ阿蘭陀人の所有蒸気船、長さ百八十尺、約四百五十頓。六十五馬力、大洋中航海には帆を用ふるか故に三本檣の鉄船を船価約三万円で買受の契約が成立した。

 いろは丸購入の経緯につきましては、昭和50年、桜井久次郎氏が「伊予史談」に『いろは丸と洪福丸 大洲藩商易活動の挫折』という論文を発表されており、またそれを踏まえた上で、平成16年、澄田恭一氏が『大洲藩「いろは丸」異聞~「大洲藩史料」からの考察~』(温故 復刊第二六号)を発表され、それぞれに「いろは丸終始顛末」以外の史料が紹介されております。
 まずは澄田論文から、斡旋者について、ですが。

 大洲藩史料
「国島六左衛門、大井上将策、井上勤吾、右の彦兵衛に伴ひ長崎に至り、薩人五代才助に依て蘭人アデリアンに示談を遂け、代金四万貳千両五度の拂込約定にて購求するを得たり」

 大井上家系譜
「船号イロハ丸と称す。原和蘭国にてアビワと号。千八百六十二年打立、六十八馬力、百五十八馬力の功、長さ二百尺、幅二十九尺 深さ二十尺 一字九里行 石炭一日十トン 積高三百五十トン 和蘭国アデリアン所持 薩摩五代才助 和蘭コンシュール官ボードイエン周旋によりて約定す。価メキシコドルテル銀四万五千枚」

 「大洲藩史料」は、加藤家が所持していたものですが、大洲市立博物館の学芸員の方のお話では、原本は戦災で失われているのだそうです。写本がありますが、だれが、いつ編纂したものかは、不明です。
 国島六左衛門とともに、長崎へ蒸気船を買いに行きました井上将策は、維新後、苗字を大井上と改めました。したがいまして、これも後世の編纂資料ですが、「大井上家系譜」には、イロハ丸についての記述があります。

 双方とも、船の元の持ち主が、ボードウィンではなく、アデリアンになっているのですが、斡旋人が五代で、「大井上家系譜」の方は、五代と共に、ここでボードウィンが出てきます。

 斡旋者が龍馬ではなく五代であったことは、もともと豊川渉の「いろは丸終始顛末」がそうでして、わかっていただけたと思うのですが、蒸気船の元の所有者については、定説は豊川渉の記述に基づき、ボードウィンとされていました。澄田論文は大洲で発表されたものでして、一般には知られていません。
 ところがこの春、大洲市によって、いろは丸の契約書が見つかった旨発表され、定説が覆ったんですね。

 契約書はポルトガル語で、その翻訳を東京大学史料編纂所の岡美穂子氏に依頼していたため、発見から発表まで時間がかかったそうなのですが、現在、岡美穂子氏は「南蛮の華」という研究ブログを立ち上げておられまして、「いろは丸の契約証文」を拝見しますと、契約書のだいたいの内容がわかります。

 船の持ち主は、マカオ出身のロウレイロ。新聞報道などではポルトガル人とされていましたが、ロウレイロはマカオ商人で、イギリス系のデント商会に傭われ、来日していたんだそうです。立会人として、アデリアン商会のメンバーが名を連ねているそうです。「大洲藩史料」「大井上家系譜」が、ともに「アデリアン」の名をあげていますことも、故のない話ではないようです。
 岡氏は、「ボードウィンは大洲藩に金を貸していたのではないか」と推測されていますが、「大井上家系譜」が、周旋人として五代とともにボードウィンの名をあげていますことは、そう考えればうなずけます。

 他にはっきりしたことといえば、船の値段が4万メキシコドルだったことと、契約の日付が1866年9月22日、これは慶応2年8月14日で、つまり、国島六左衛門と井上将策が最初に長崎に出かけましたときに、すでに契約は済み、全額払い込まれて、船名はいろは丸に決まっていた、ということです。
 船の値段については、後で考察します。
 なにより、定説に波紋を投げましたのが、慶応2年8月14日に、すでに契約が済んでいたことでしょう。
 「定説」といいますのは、「いろは丸終始顛末」の以下の記述なんです。

 「(購入したことが)大洲藩の庁議を経たものではないからして、大洲藩船の名義にすることか不可能である」

 定説では、です。「新銃を買いに行ったのに、庁議を経たものではない蒸気船を買ってしまった」ということでして、国島六左衛門の切腹に結びつけ、そこに印象的に坂本龍馬が登場するものですから、往々にして、なにやら、いろは丸の運用自体を亀山社中、引き続いて海援隊が行っていたかのような話になっていたんです。
 それは、ちがうんです!!!
 とはいえ、「庁議を経たもの」であったかどうかは、微妙です。
 
 実は契約書には、時の大洲藩主・加藤泰秋と家老三名の名前と印鑑もそえられています。
 ただこれ、署名というには、全部が同じ筆跡でして、署名とはいい難いんですが、印鑑はそれぞれに押されています。
 果たして、いろは丸の購入は「庁議を経たもの」だったのでしょうか。

 「大洲藩史料」は、蒸気船の必要性は藩で討議され、「参政の輩協議を為し遂に汽船購求の議決に至り」としていまして、あきらかに「庁議を経たもの」だったことになっています。
 一方、「大井上家系譜」は、「いろは丸終始顛末」と同じく、舶来の銃を買うために長崎へ派遣されたが、おりしも長州と幕府が戦争をしている最中で、それを見て必要性を感じ、「私に謀て蒸気船を買込」、買った銃を載せて帰った、としていまして、こちらは「庁議を経たもの」ではなかった、ということなんです。

 そもそも大洲藩には、蒸気船購入の建白が、早くからあったんです。武田斐三郎の兄、敬孝のものです。
 武田敬孝は、下級藩士でしたが、藩校明倫堂教授、藩主の侍購となり、取り立てられて、周旋方を勤めました。弟子も多く、長崎でいろは丸を買った井上将策も、その一人です。

 桜井論文によれば、敬孝は文久3年(1863)、京で周旋方を勤めているときに、農兵取興しを建白して採用されますが、その建白書の中に「蒸気船大砲等速に新製可相成と奉存候」とあるんだそうです。
 以降も、機会ある事に兵器の新調を進言し続け、慶応2年(1866)6月にも、新銃の購入を建白。しかし新銃購入は、敬孝が幕長戦争(第二次長州征討のことですが、大洲藩は藩主の姉が長府毛利氏に嫁いでいることもあって、あきらかに長州よりですので、この表現にします)の芸州口探索に出向いています間に、門弟の森井千代之進と井上将策が建白し、入れられていました。それを知って大喜びした敬孝は、再建白書の中で、「森井井上二生○建言仕候鉄砲購求之義御採用相成候段奉歓喜候」と、書いています。
 
 一方、澄田論文に引用の「大洲藩史料」から、いろは丸購入にいたる経緯を、以下に要約します。
「元治元年(1864)に禁門の変が起こったとき、大洲藩では宮廷警護のために、急遽兵を上京させようとしたが、讃岐の多度津まで行ったところで、情勢を報告するため国許へ帰る京詰周旋方某に出会い、すでに騒動は終結したので上京の必要がなくなったことを知り、引き返した。その後、和船では緊急時に間に合わず、勤王において他藩に遅れをとるから、ぜひ蒸気船が欲しい、という話になった。平常には、藩産品を運び出したり、京大阪へ瀬戸内海を行き来する旅客を乗せたり、他藩の物産を運んで儲ければよいのだから、早く買おうという議論が起こった」

 「大洲藩史料」は、その議論を藩庁も考慮し、「参政の輩協議を為し遂に汽船購求の議決に至り」、いろは丸購入になった、としているのですが、その議論の中心になっていたのは、あきらかに武田敬孝です。
 なにしろ、敬孝の弟・斐三郎は、洋式兵術の専門家として幕府に取り立てられ、函館で、砲術、航海術を教えていたんです。
 さらにいえば、函館時代の斐三郎は、文久元年(1861)、船長となって、ロシア領のニコラエフスクまで交易に出かけているんですね(長州の山尾庸三がこれに加わっていたといわれます)。
 敬孝は弟と手紙のやりとりをしているのですし、弟の経験に刺激を受けないはずがありません。

 次回へ続きます。


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