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郎女迷々日録 幕末東西

薩摩、長州、幕府、新撰組などなど。仏英を主に幕末の欧州にも話は及びます。たまには観劇、映画、読書、旅行の感想も。

普仏戦争と前田正名 Vol10

2012年04月14日 | 前田正名&白山伯

 普仏戦争と前田正名 Vol9の続きです。

 なんといえばいいのでしょうか。

 前田正名が主人公だというので「巴里の侍 」(ダ・ヴィンチブックス)を読み、あんまりといえばあんまりな……、普仏戦争の記述にあきれまして、普仏戦争関連の読書をはじめましたところが、モンブラン伯爵とリンクしましてのシーボルトに出会い、そのシーボルトがまた、美貌のバイエルン国王ルートヴィヒ2世とリンクしていた、という予想外の展開に、私、かなりな、どびっくり状態です。

月曜物語 (旺文社文庫 540-2)
アルフォンス・ドーデ
旺文社


 お客さまが見えられて、コメント欄に続きを紹介してくださっておりますが、「盲の皇帝」によりますと、ドーデは普墺戦争の最中にミュンヘンへ行き、シーボルトに会います。
 ところが、シーボルトが贈ると約束してくれていました日本の悲劇「盲の皇帝」の訳本(何語に訳したものなのかはわかりません)は、ヴュルツブルクにいますシーボルト夫人の手元にあり、ヴュルツブルクにはプロイセン軍が迫っていまして、フランス人が出かけていくことは不可能でした。
 (追記)コメント欄にて、ver a soia氏が、フランス語の訳本であった旨、詳細に推論くださっています。ご覧になってください。

 さて、夫人をヴュルツブルクに置いて、なぜシーボルトがミュンヘンにいたのか、なんですけれども、シーボルトは、自分の日本コレクションをバイエルン王国が買い上げてくれるように働きかけていまして、王宮の一部を提供され、史書や絵画や工芸品や武具や、すばらしく雑多なそのコレクションを整理していたんです。

黄昏のトクガワ・ジャパン―シーボルト父子の見た日本 (NHKブックス)
ヨーゼフ クライナー
日本放送出版協会


 「黄昏のトクガワ・ジャパン―シーボルト父子の見た日本」収録のブルーノ・J・リヒツフェルト氏著「ミュンヘンのシーボルト・コレクション」を見ますと、1866年(慶応2年)、普墺戦争が終わりました後の秋に、シーボルトがミュンヘンの王宮でコレクションを展示しておりました最中、風邪で体調をくずし、死去した経緯が、詳しく述べられています。

 ミュンヘンのシーボルト・コレクションは、シーボルト二度目の来日時に、主に江戸で、買い集められましたものです。
 帰国後の1863年(文久3年)、シーボルトはそのコレクションをアムステルダムで公開展示し、図録を作り、オランダ政府の買い上げを希望したのですが、すでに日本の開国後で、それほど珍しいものではなくなっていたため、かないませんでした。

 そこでシーボルトは、コレクションをヴュルツブルクの学校の講堂に移して、バイエルン王国に買い上げを打診しました。
 時のバイエルン王、マクシミリアン2世(ルートヴィヒ2世の父親)は、シーボルトのコレクションを核として、民俗学博物館を設立する構想を持つようになりましたが、 実現しないまま、1864年(元治元年)に死去します。
 リヒツフェルト氏の推測によりますと、シーボルトは、19歳で即位しましたルートヴィヒ2世に謁見して、さらに買い上げを依頼したのではないか、ということです。

 しかし、なかなか実現に至りませんでした間に、ヴュルツブルクの学校の講堂が使えなくなり、シーボルトは、コレクションの収納場所を、早急に見つける必要に迫られます。
 それが、ちょうど1865年(慶応元年)の冬のことだったのですが、シーボルトはパリに滞在しておりました。
 結局、バイエルン王国文部省から、ミュンヘンのホーフガルテン、王宮の公園に面しています宮殿内の北部ギャラリーホールの使用許可がおり、1866年の3月、シーボルトは帰国し、自費で、コレクションをミュンヘンに移します。

 コレクションの展示公開は、1866年5月19日から行われました。
 当初、シーボルトは、移送費と展示運営のために、低額ながら入場料を取ろうとしたのですが、国王(ルートヴィヒ2世です!)から断られ、一般公開はやめて、招待者のみに限定しました。

 その上で、ですね。
 シーボルトは、「日本の学術研究と武道をヨーロッパに広めるために日本の士官と学者をヨーロッパに招いて、ここミュンヘンをはじめ、他の都市でもシーボルトの責任のもとで研修会を開く」という計画で、「1866年8月26日付で国王の許可も下りていた」(ルートヴィヒ2世です!!! 仰天)そうなのですが、この計画も買い上げも、1866年10月18日のシーボルトの死去により、実現しませんでした。

 結局、バイエルン政府がコレクション購入を決定しましたのは、1874年(明治7年)、普仏戦争が終わり、ドイツ帝国が成立した後の話です。

 以上の事実と、ドーデの小説をくらべてみますと、シーボルトのパリ来訪の時期をずらしております以外に、シーボルトの死の時期も、普墺戦争の最中にずらしています。

 しかし、ミュンヘンでのシーボルトのコレクション展示公開が1866年5月19日からのことでして、プロイセンがオーストリアに宣戦布告しましたのが6月15日ですから、前年パリで世話になったお礼に、シーボルトがドーデを招待していまして、ドーデは戦争見物も兼ね、6月の半ばすぎてからミュンヘンへ出かけた、というようなことがありましても、これは、おかしくありません。

 この小説の軸になっています、日本の悲劇「盲の皇帝」云々の話はどうなのでしょうか。
 ドーデは、出来事の時期をずらし、物語の時間を短くしまして劇的にし、シーボルト死去の時に居合わせたことにも、してしまっています。
 「盲の皇帝」の訳本をシーボルトが贈ってくれる予定だった、という話も、創作であった可能性が高そうに思います。
 シーボルトから『妹背山婦女庭訓』のあらすじは聞いて印象に残っていたのでしょうし、訳本もあったのかもしれませんけれども、結局、この小説を、「普仏戦争によって、かわいそうな盲の皇帝は、遠い異国の物語の中にではなく、現実のフランスにいるとわかった」と、ナポレオン3世への揶揄でしめくくりたかったがために、話をふくらませたのではなかったでしょうか。

 それにいたしましても。
 ドーデが描いています、王宮に展示されましたシーボルト・コレクションの描写は、迫真です。

 プロイセンの鷲勲章を与えられているオランダの軍人として、大佐(シーボルト)は自分がここにいるかぎり何びともあえて自分のコレクションには手をつけまいと考えていた。そしてプロイセン軍の到来を待ちながら、国王が彼に与えた王宮の庭のなかにある三つの細長い広間を礼装して歩きまわるほかはもう何もしなかった。この広間はパレ=ロワイヤルのようなもので、ただ本物のパレ=ロワイヤルよりももっと緑が多くもっと陰気で、フレスコ画をえがいた壁にとりまかれている。
 この陰鬱な大宮殿のなかで、札をつけて陳列されたこれらの骨董品は、まさに博物館というもの、つまりその本来の環境から切り離されてはるばると招来された品物の、あのものさびしい寄せ集めをなしていた。シーボルト老自身もこの寄せ集めの一部であるかのように見えた。わたしは毎日彼に会いに行き、彼とふたりで版画で飾られたあの日本の写本や、あるものは開くためには床に置かねばならないほどばかでかく、あるものは縦の長さが爪ほどしかなく、虫めがねでしか読めないような、金色に塗った、繊細で貴重な科学書や史書をひもといて長い時間を過ごした。

 
 そしてドーデは、この「青の国」と題されました章を、こうしめくくっているんです。
 
  とりわけ大佐が清純で品位があって独創的でひじょうに深遠な詩情を持つあの日本の短詩の一つを読んでくれた日など、漆や玉や地図のけばけばしい色彩だのの、ああいったきらめきを目のうちに残しながらそこを出ると、ミュンヘンの町はわたしに奇妙な印象をあたえた。日本、バイエルン、わたしにとっては目新しいこの二つの国、わたしがほとんど時を同じゅうして知り、その一方を通して他方を見ているこの二つの国が、わたしの頭のなかでもつれ、混り合い、一種の茫漠とした国、青い国となるのだった……。今しがた日本の茶碗に描かれた雲の線や水の素描のなかに見たあの旅路の風物の青い線を、城壁の青い壁画のなかにわたしはまた見出した……。そして日本の兜をかぶって広場で教練しているあの青服の兵士たちも、忘れな草(フェアギスマイニヒト)と同じ青さのあの静かな大空も、わたしを「青ぶどう」ホテルへ連れ帰るあの青服の御者も!……

 どびっくりです!!! 日本とバイエルンが重なって見えるって!!!
 青い国四国というのは聞いたことがありますが、青い国バイエルンと日本だそうで。
 1890年(明治23年)にルートヴィヒ2世を題材にして『うたかたの記』(青空文庫図書カード:No.694)を書きました森鴎外は、ドーデがこんなことを書いているって、知っていたんでしょうか?
 知らなかったんでしょうけれども……、おそらく。

 一方の「盲の皇帝」、ナポレオン3世です。
 普仏戦争の直接の原因は、エムス電報事件でした。
 スペインでクーデターが起こり、ブルボン朝のイサベル2世が王位を追われ、スペイン臨時政府は、プロイセン王ヴィルヘルム一世の従弟で、ホーエンツォレルン=ジクマリンゲン家のレオポルド王子に、スペイン王位に就くことを要請したんですね。

 レオポルド王子の母方の祖母は、ステファニー・ド・ボアルネ。ナポレオン3世の母オルタンス・ド・ボアルネの又従姉妹で、ナポレオンの養女になっていた人です。
 ナポレオン3世にしてみましたら、レオポルド王子は親族ですし、反対する筋合いもないことだったんですが、フランスの新聞が大騒ぎをはじめます。

 歴史的に見ましたら、スペイン・ブルボン朝は、フランスの太陽王ルイ14世にはじまってはいるのですが、すでに第二帝政のフランス自身がブルボン家を追い出しているのですから、レオポルド王子でもよさそうなものなのですが、ラインラントを領有しますプロイセンの親戚の王子がスペイン王となることが、いかにフランスにとって危険か、フランスの新聞は書き立てたんですね。
 あるいは、もしかしまして、フランス人が王だった国に、ドイツ人の王が立つことへの単純な反発、だったりしたのでしょうか。

 このときの帝政は、帝政といいましても自由帝政ですし、だいたいそもそも、ナポレオン3世は普通選挙で皇帝になった人ですから、新聞が騒ぎ、世論が騒ぎますと、それに答えなくてはいけません。
 フランス政府は、反対の意向を公にしますと同時に、駐プロイセン大使を、保養地エムスのヴィルヘルム1世のもとへ差し向け、「フランスは大騒ぎで、このままでは紛争の種になりかねないから王位を辞退してもらえないか」と、懇願します。

 ヴィルヘルム1世にしてみましたら、クーデタが起こりました不安定な状況の国へ、親戚の王子を差し向けますのは、さして望ましいことでもなく、王子とその父親に相談し、結局、辞退することになりました。
 ことは、これで終わったはずだったのですが、かさにかかりましたフランス政府が、「今後とも絶対にプロイセン王家筋がスペインの王位につかないと確約させろ」と大使に命じるんです。
 これは、ナポレオン3世はもとより、首相でさえも知らず、ウージェニー皇后と外相がしたことではなかったか、といわれているようです。

 大使は、またもヴィルヘルム1世に迫り、本国の意向を伝えたのですが、当然のことながらヴィルヘルム1世は「すでに辞退を決めて問題は終わっている。確約の必要はない」と、拒否します。大使はしつこく、午後にまた会見を願い、ヴィルヘルム1世は断りました。
 ことの次第を、ヴィルヘルム1世はエムスから、ベルリンのビスマルクに打電しました。
 一般に、ビスマルクはこの出来事に少々の脚色を加え、電報をドイツの新聞社に流した、といわれます。

 このエムス電報事件によりまして、フランスの世論はわき上がり、ドイツへの宣戦布告にいたります。
 なぜそこまで、フランスの世論がわいたのかが、私にはいまひとつ、よくわからないのですけれども。
 普墺戦争でオーストリアが敗北しまして以来、同じカトリックのオーストリアと南ドイツ諸国に味方するべきだった、と主張していましたフランスの保守勢力は、プロイセンへの敵対意識を燃え上がらせていました。
 ドイツ人が、老大国オーストリアではなく、隣国のプロイセン(ラインラントを領有しています)を中心として統一しますことには、不気味なものを感じていたのでしょう。
 
 ビスマルクの工作はフランスに宣戦布告をさせるためであった、といわれるのが常なのですが、本当にそうなのでしょうか。
 いくらビスマルクであっても、これでフランスが宣戦布告する、とまでは、予想していなかったのではないのでしょうか。
 ではなんのためか、といいますと、つい4年前には敵として戦った南ドイツ諸国が、ドイツ人意識を持ち、積極的に同盟国としての約束を果たしてくれることを目論んで、だったのではないか、と思われます。

 
ドイツ史と戦争: 「軍事史」と「戦争史」
三宅 正樹,新谷 卓,中島 浩貴,石津 朋之
彩流社

 
 上の本の中島浩喜氏著「第一章 ドイツ統一戦争から第一次世界大戦」より、引用です。
 「エムス電報事件でビスマルクによって脚色されたフランス大使の振るまいに対するドイツ人の怒りは、プロイセン一国に向けられたものではなく、ドイツ全体に対するフランス人の行動としてみなされたゆえに、大きな憤激を呼びおこした」

狂王ルートヴィヒ―夢の王国の黄昏 (中公文庫BIBLIO)
ジャン デ・カール
中央公論新社


 さて、ルートヴィヒ2世です。
 普仏戦争で宣戦布告しましたのは、フランスの方です。
 バイエルン王国に、選択の余地はほとんどなかったと言ってよく、プロイセンを中心としますドイツ統一の中で、プロイセンに恩を売り、独立性を保つためにも、積極的な参戦が必要でした。

 ルートヴィヒ2世は軍と首相の助言により動員令を発し、緊急に召集されました議会では、賛成89票、反対58票で、動員令が承認されます。
 反対58票は、カトリック教会を中心とします保守勢力です。
 しかし、ミュンヘンの民衆は開戦を支持していました。
 動員令直後、ルートヴィヒ2世に歓呼しました民衆は、バイエルン軍を指揮しますプロイセンのフリードリッヒ皇太子が到着しますと、熱狂的な歓呼で迎えます。

 動員されましたバイエルン兵は10万5千にのぼり、ドイツ軍の三分の一をしめていた、といいます。
 「狂王ルートヴィヒ―夢の王国の黄昏」より、以下、引用です。

 ドイツ軍の勝利のなかで、バイエルンもまた血の価を知った。フランスのバゼイユ近郊では、バイエルン軍は海軍陸戦隊第一師団を包囲して打ち取り、町を略奪して歩いた。今回の戦争でのバイエルン軍の損失は、将校二百十三名、兵四千名にのぼった。ライオンのように勇敢に戦ったバイエルンの兵士たちは、その代償としてプロイセンから「永遠に眠る」という栄誉を与えられた。

 ミュンヘンにセダンの大勝利が伝えられましたとき、戦争を嫌悪していましたルートヴィヒ2世は、国民の祝賀にバルコニーで応えることを拒み、プロイセン出身の母マリー・フォン・プロイセンに代わりを頼んだんだそうです。
 
 それにいたしましても。
 バゼイユにおきますバイエルン軍の蛮行は、よほど有名になったようでして、ドーデの「盲の皇帝」にも皮肉が出てまいります。ここらあたりまでまいりますと、この小説、バイエルン王国への罵詈雑言に満ち満ちてきまして、それはそれで、おもしろいんですけれども。


 数年前からフランス人の盲目的愛国主義(ショーヴィニスム)、愛国心からの愚行、虚栄心、誇張癖についていろいろと書かれているけれども、わたしはバイエルンの国民以上に高慢ちきでいばりくさってうぬぼれた国民がヨーロッパにいるとは思わない。ドイツ全史のなかから取りだした十ページばかりのごくささやかなバイエルンの歴史が、絵画となり記念物となってばかでかく仰山にミュンヘンの町々に誇示されている。まるで子どもにお年玉としてやる絵本の趣だ。文章はほとんどなく、絵がむやみに多いのだ。パリには凱旋門は一つしかない。バイエルンには十もある。勝利の門だの、元帥の柱廊だの、「バイエルン戦士の勇武のために」建てられたいくつとも知れぬオベリスクだのと。
 この国で有名人であるってことはたいしたことだ。その名前はいたるところで石やブロンズに刻まれ、すくなくとも一度は広場の中央に、ないしは白大理石の勝利の女神像にまじってフリーズの高いところに彫像を立ててもらえること請合いなんだから。この彫像や英雄崇拝や記念物への熱中は、この善良な国民にあっては実にとほうもないものになっていて、そのため彼らは町かどに、まだ未知のあすの名士をのせるため万全の準備をととのえて、主のない台座をちゃんと立てているほどなのだ。今ではどの広場もふさがってしまっているに相違ない。一八七〇年の戦争は彼らに無数の英雄を、無数の武勲談を供給したろうから!……
 たとえばわたしは、緑の小公園のまんなかに古代ふうの簡易な衣服で立っている有名なフォン・デア・タン将軍を想像すると楽しい。その美しい台石の片面は「バゼイユの村を焼き払うバイエルンの戦士たち」を、他面は「ヴェルトの看護所でフランス負傷兵を虐殺するバイエルンの戦士たち」をあらわすバス・リリーフで飾られているのだ。なんという豪華な記念物となることだろう!


 ミュンヘンの凱旋門につきまして、ネット検索をかけてみました。
 ひとつだけ、ミュンヘン大学のそばにあるものが出てきたのですが、ミュンヘンは、第二次大戦の空襲で相当な被害を受け、この凱旋門も、復興されたものだそうです。
 もともとは、1814年から15年にかけての解放戦争、つまりは対フランスの諸国民戦争の勝利を祝い、1852に建てられたものだそうでして、おそらく、ドーデが見た記念碑といいますのは、ほとんどが対フランス戦の勝利に関するものだったのでは、なかったでしょうか。

壊滅 (ルーゴン=マッカール叢書)
エミール ゾラ
論創社


 普仏戦争と前田正名 Vol7で書きかけておりましたエミール・ゾラの「壊滅」に話をもどします。

 主人公モーリスの双子の姉アンリエットは、バゼイユへ出かけていた夫のヴァイスが帰ってきませんで、心配して、戦場のただ中へさがしに出かけます。
 命がけでバゼイユにたどりつきましたアンリエットは、ようやく夫にめぐりあうのですが、そのときすでにヴァイスは捕虜になっていまして、銃殺されようとしていました。
 正規の兵隊ではなく、民間人が銃をとって戦ってしまったわけですから、バイエルン兵は、即座に射殺していい、ということだったんでしょうね。

 目の前で夫を殺されましたアンリエットは、せめて夫の遺体のそばにいたい、と願うのですが、奪還をめざすフランス海軍陸戦隊とバイエルン兵の猛烈な戦闘がはじまり、やがてアンリエットは撤退する兵士たちの波におされて街を出て、さ迷いますうちに、やはり敗走していました弟のモーリスとその戦友ジャンにめぐりあい、ともにセダンの城壁内に帰り着きました。

 ヴァイスはアルザスのミュルーズ生まれで、もともとはと言いますと、ドイツ語圏だった地域の住人でしたし、ドイツ人の知り合いも多く、戦争に賛成ではなかったんです。
 しかし、居住区が戦場になってしまい、女子供も砲弾にやられ、自分の家が破壊されますと、銃をとらずにはいられなかったわけですし、一般住民が銃をとるような戦いで、攻めるバイエルン兵も殺気だったということなのでしょう。

図説 プロイセンの歴史―伝説からの解放
セバスチァン ハフナー
東洋書林


 セバスチァン・ハフナー氏著「図説 プロイセンの歴史―伝説からの解放」より引用です。

 ホーエンツォレルンとボナパルと、この両王家間の名誉をかけた争いとして始まった戦争は、ドイツ対フランスの国民の戦争となった。その際両者の側で爆発した荒々しい国民憎悪の源は、この戦争をひき起こした諸原因よりも、むしろナポレオン戦争時代の想い出にあった。
 ビスマルクをも驚かさずにはおかなかった新たな現象は、突然に戦ったのが一八六四年や一八六六年の時のように国家対国家ではなく、国民対国民だったということである。


 ということで、ようやく次回、この未曾有の国民戦争の渦中に身を置きました、前田正名のお話に入りたいと思います。
 自叙伝その他をもとに、龍馬との関係のあたりから、始めようかな、と。
 
 「壊滅」のジャンとモーリスにつきましては、パリ・コミューンにまで話が進みましたら、もう一度、登場願う予定でおります。
 このシリーズ、次回に続きます。

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普仏戦争と前田正名 Vol9

2012年04月11日 | 前田正名&白山伯

 普仏戦争と前田正名 Vol8の続きです。

 アルフォンス・ドーデです。
 「最後の授業」は、知っている方もけっこうおられるんじゃないでしょうか。
 簡単に言ってしまいますと、普仏戦争の結果、ドイツ領となりましたアルザスの学校でフランス語を教えることができなくなった、という物語です。
 なんだかお説教くさくって、私、好きではありませんでした。

 しかし、ですね。この「最後の授業」は、普仏戦争を題材にしました短編集『月曜物語』の中の一遍であると知りまして、私、この際、『月曜物語』を読んでみようかなあ、と思ったんですね。

月曜物語 (旺文社文庫 540-2)
アルフォンス・ドーデ
旺文社


 岩波文庫からも訳本が出ていたようなんですが、私が読みましたのは大久保和郎氏の訳でしたので、旺文社文庫版と同じもののようです。
 実は私、Voyager Booksで購入し、iPadで読みました。

 読んでみますと、ですね。「最後の授業」はむしろ例外でして、実におもしろい短編が多かったんですけれども、一番最後の「盲の皇帝」には仰天しました。
 短編と言いましても、「盲の皇帝」はちょっと長めで、一章のタイトルが「フォン・シーボルト大佐」 です。

 1866年の春、オランダに仕えるバイエルン人の大佐で日本の植物誌に関するすばらしい著述で学界によく知られているフォン・シーボルト氏は、彼が三十年以上も滞在したあの驚くべきニポン=ジェペン=ジャポン(日出ずる帝国)の開発のための国際協会という大計画を皇帝に提案するためにパリに来た。

 冒頭が、これです。
 シーボルトが日本に「三十年以上も滞在した」ってありえないですし、小説ですから、どこまで本当なの? という気もするのですが、この小説、ちょっとエッセイっぽいんですよね。
 あるいは、史実との関係が、司馬遼太郎氏の幕末エッセイくらいにはある、と思ってもいいかもしれません。

 私、これまで、シーボルトについては、ほとんどなにも書いていません。
 シーボルト本人よりもその娘のおイネさんについて、仕事で書いたりしたことがけっこうありまして、ちょっとあんまり……、触手が動きませんでした。
 といいますのも、おイネさんが女医さんになるための最初のめんどうを見ましたのが、シーボルトの弟子で、伊予宇和島藩領で開業していました蘭方医・二宮敬作でした。四賢侯の一人で、長面侯といわれました宇和島藩主・伊達宗城は蘭学好きで、おイネさんを奥の女医さんとして迎え、おイネさんの娘・タダを、奥女中として処遇したりもしています。
 そして、二宮敬作の甥で、大洲藩に生まれました三瀬周三(諸淵)は、再来日しましたシーボルトに師事し、やがてタダと結婚します。
 そんなわけで、愛媛県限定のローカルな仕事をしておりました私は、おイネさんについて、書くことが多かったんです。

 さて、シーボルトです。
 フランツ・フォン・シーボルトは、1796年、ヴュルツブルク司教領で、ヴュルツブルク大学医学部教授を父に、生まれました。
 そうなんです。フランス革命戦争のただ中に、神聖ローマ帝国領邦に生まれたわけなんです。
 ヴュルツブルクは、1803年に一度、バイエルン選帝侯領となりましたが、1805年の仕分けではヴュルツブルク大公国となり、1815年のウィーン会議で、再びバイエルン王国領となりました。

黄昏のトクガワ・ジャパン―シーボルト父子の見た日本 (NHKブックス)
ヨーゼフ クライナー
日本放送出版協会


 主にヨーゼフ・クライナー氏編著「黄昏のトクガワ・ジャパン―シーボルト父子の見た日本」を参考にしまして、シーボルトの生涯を、簡単に述べます。
 父親は早くに亡くなり、シーボルトは司祭だった母方の叔父のもとで育ちました。1815年、19歳にして、かつて父親が教えていましたヴュルツブルク大学で医学を専攻します。
 卒業後、オランダ陸軍の軍医となり、バタビアへ赴任し、父親の親友だった総督に好遇されて、長崎・出島への赴任が決まります。
 来日は、1823年(文政6年)、シーボルト27歳のときです。

 ヨーゼフ・クライナー氏は、なぜシーボルトは父親と同じく、ヴュルツブルク大学に奉職しなかったのか、という問いのひとつの答えとして、ウィーン会議後のドイツ諸国の閉塞感をあげておられます。

 一度燃え上がりましたドイツナショナリズムの炎は、ナポレオンの没落で消えるものでもなく、ドイツ各地の大学で結成されました大学生組合によって、ロマン主義的なドイツ統一運動が盛り上がったのですが、大方、保守的な政治勢力によって、弾圧されました。
 また産業革命の中で、小国に分かれましたドイツ全体が、イギリス、フランスはもちろん、オランダにさえも経済的に遅れをとり、植民地や拠点がありませんので、欧州の外に出る術も少なく、多くのドイツ人研究者が、他国に雇われる道を選んだ、というんです。

 オランダが若いシーボルトに期待したのは、医術だけではありませんでした。
 シーボルトは、医学専攻だったとはいえ、自然科学を広範囲に学んでいましたし、オランダが極東で独占貿易を営んでおります日本について、さまざまな角度からの調査を依頼されていました。

 オランダが、ナポレオン戦争の最中にフランスに併合され、1811年にはフランスに敵対していましたイギリスに植民地のジャワ島(インドネシア)も奪われ、世界中でただ一カ所、長崎の出島にのみ、オランダ国旗をかかげていた時期があったのは、けっこう知られていると思います。

 イギリスがジャワを占領する以前、1808年(文化5年)の話ですが、フェートン号事件もありました。
 オランダ船拿捕を狙っていましたイギリス船フェートン号が、オランダ国旗を揚げて船籍を偽り、長崎に入港し、オランダ商館員を人質にとって薪水や食料を求めたんです。日本側にはろくな防備が無く、イギリスの言いなりになるしかありませんでした。
 長崎奉行は切腹し、長崎警備当番だった鍋島藩は、勝手に警備兵を減らしていたこともありまして、家老数人が切腹。

 この事件の直前に起こりました文化露寇(文化3年)につきましては、明治初頭の樺太交渉 仏から米へ 前編に書いておりますが、このときのロシアの極東進出は、ナポレオンのロシア侵攻により、それどころではなくなって一段落したような次第でして、すでにこのとき、日本列島は、欧州の嵐の影響をまともに受けるようになっていました。

 ナポレオン没落の後もオランダは、しばらくの間、イギリスからジャワを返してもらえず、1819年になって、ようやく取り返しました。
 実は、フランス革命戦争中の1799年に、オランダ東インド会社は解散させられていまして、オランダ政府は直接、返還されましたジャワの植民地経営を手がけることになりました。
 イギリスは、シンガポールに足がかりを得て、東アジアでの通商活動を活発化させています。オランダは、対日本独占交易のもっと有益な活用を、模索していました。
 ジャワ返還から4年、オランダがシーボルトによせる期待は、大きかったんです。

 当時、日本側も西洋の知識を求めていまして、特に医学について、そうでした。
 時の長崎奉行は、シーボルトが出島を出て日本人を診察しますことを許可し、また、日本人蘭方医に教えることをも認めます。
 これにより、知識に飢えていました日本人蘭方医が各地から長崎に集まり、二宮敬作もそうだったんですが、教えを受ける一方で、植物、地理、歴史、言語、宗教、美術など、多方面にわたりますシーボルトの日本研究に、協力もします。

 国立国会図書館の「江戸時代の日蘭交流」第2部トピックで見る 1. 来日外国人の日本研究(3)にシーボルトの項目がありまして、簡略かつ的確に、業績が述べられています。
 デジタルで見ることが出来ます資料は、日本語じゃありませんので、ちょっと参考にし辛いのですが、シーボルトの著作『日本』も紹介されていまして、挿絵は、1826年(文政9年)、シーボルトがオランダ商館長の江戸参府に従いました際に、大坂で見た歌舞伎「妹背山婦女庭訓」なんです。
 実はこれが、ドーデの「盲の皇帝」の元ネタになったようなんです。

 なお、このときの将軍は精力絶倫子沢山の徳川家斉でして、御台所は後の広大院、蘭癖贅沢薩摩藩主・島津重豪の娘、茂姫です。
 将軍の岳父であります特権を、フルに活用しました重豪は、豊前中津藩に養子にいっていました息子の奥平昌高と、曾孫の島津斉彬を連れまして、商館長とシーボルトに会いに大森まで出向いたことが、シーボルトの『日本』には、書かれています。

 シーボルトは、来日して間もなく、16歳の商家の娘・お滝を見初め、当時、素人の日本女性がオランダ人とつきあうことは許されていませんでしたから、お滝は遊女となることによってシーボルトの日本人妻となり、出島に暮らします。(遊女であったお滝をシーボルトが見初めた、という説もあります)
 1827年(文政10年)、娘のイネが生まれました。

 ところが1828年(文政11年)、任期満ちて離日しようとした際、シーボルトが日本地図などの禁制品を持ち出そうとしていたことが発覚し、事件になります。地図を渡した高橋景保が死罪になりました他、日本側に多くの処罰者が出て、シーボルトも国外追放、再渡航禁止で、二度と来日がかなわないことになってしまったんです。

 オランダへ帰りましたシーボルトは、オランダ軍医の身分のまま、日本研究に没頭し、日本の専門家として、欧州に名を知られるようになります。
 「日本」出版と研究費を調達しますために、ロシアやオーストリア、ドイツ諸国など各地に出かけもしました。
 1845年(弘化2年)、49歳にして、プロイセン女性ヘレーネ・フォン・ガーゲルンと結婚します。
 ヘレーネがオランダを嫌ったため、プロイセン国籍をとり、プロイセン領だったラインラントのボッパルトに館を買って住みます。

 ペリー来航により、開国しました日本にオランダが働きかけ、シーボルトの渡航禁止処置が解けます。
 1859年(安政6年)、シーボルトは13歳の長男アレクサンダーを連れ、63歳にして、30年ぶりに来日しました。オランダ貿易会社顧問の肩書きでした。
 すでに30歳を超えました娘のイネと再会し、弟子で、イネの世話をしてきました二宮敬作とも会い、甥の三瀬周三を弟子にします。
 桐野利秋(中村半次郎)と海援隊 上に書いていますが、大政奉還の建白書を起草したとされます海援隊の長岡謙吉が、このときやはり、シーボルトに師事したようです。

 1861年(文久元年)、シーボルトは幕府顧問となって江戸に出ますが、あまり上手くはいかず、翌年、15歳のアレクサンダーをイギリス公使館の日本語通訳生として残し、帰国します。
 そして、1864年(元治元年)、オランダの官職をすべて辞めて、生まれ故郷のヴュルツブルクへ帰ります。

 国籍は、どうなんでしょうか?
 ペーター・パンツァー氏の「国際人としてのシーボルト」によりますと、シーボルトはヴュルツブルク生まれということで、最初はバイエルン王国のパスポートをもって国を出ましたが、結婚してプロイセン国籍をとりましたし、おまけにシーボルトの「フォン」という貴族の称号は、祖父がフランス革命戦争で神聖ローマ帝国軍の負傷兵を治療し、ハプスブルク家の皇帝よりもらったものでしたので、オーストリア貴族ということも、できるんだそうです。

 さて、冒頭のドーデの小説「盲の皇帝」からの引用です。
 1866年の春に、「ニポン=ジェペン=ジャポン(日出ずる帝国)の開発のための国際協会という大計画を皇帝に提案するためにパリに来た」とドーデーは書いているのですが、1866年(慶応2年)というのがちょっと、ちがうのではないか、と思いました。

 実は、ですね。
 モンブラン伯と「海軍」をめぐる欧州の暗闘vol4を書きましたとき、柴田剛中の「仏英行」(日本思想大系〈66〉西洋見聞集収録)を見ましたら、1865年(慶応元年)の夏、パリで柴田剛中を訪ねてきました人物として、モンブラン伯爵と並びますように、といいますか、まるで連れだって現れたかのように、シーボルトの名が書かれていたんです。

 以下、「仏英行」慶応元年(1865年)7月28日条より、抜粋引用です。
 「シーボルトは、仏商民会社を立、日本へ渡し置の策を、当国帝へ建議せんと欲するにより、同意有之度旨を縷術」
 要するにシーボルトは、「日本との交易商社設立をフランス皇帝ナポレオン三世に建議したいからあなた(柴田)も了承してくれ」と言った、というわけですから、ドーデが小説で述べて言っていることと、あまりかわらないんです。

 モンブラン伯は維新回天のガンダルフだった!? vol3バロン・キャットと小栗上野介に書いておりますが、このときの柴田の渡仏は、横須賀製鉄所設立がらみで、そしてその資金調達の方策として、駐日フランス公使・レオン・ロッシュの友人、フリューリ・エラールが中心となりました「フランス輸出入会社」、ソシエテ・ジェネラールに良質生糸と蚕種を独占的に取り扱わせるについての話し合いも、あったと思われます。

 こういったロッシュ公使の画策は、イギリス、オランダ商人の大きな反発を買っていまして、その証拠は、オランダ領事ホルスブルックの手紙など、いくつも見ることができます。
 私、シーボルトはおそらくオランダ商人の依頼を受けていまして、フランスの生糸独占交易とならないよう、もっとオープンに、オランダ商人も参加できるような日本交易取り扱い会社の設立をナポレオン三世に提案するつもりだったのだろう、と思ったのですが、証拠がありませんし、めんどうになって、この時、シーボルトについては触れませんでした。

 「仏英行」7月20日条に、柴田は、モンブランの従者・斎藤健次郎(ジェラールド・ケン)がもってきた新聞を見ての感想としまして、「アールコック(初代駐日イギリス公使オールコック)、シーボルト、出水泉蔵(薩摩の密航使節団の一員としてイギリス滞在中の寺島宗則)、ロニ(レオン・ド・ロニー)等一穴狐となるの勢あり」と、すべてモンブランの仲間で、同じ穴の狢となってなにかを企んでいる、というような、ものすごい感想……といいますか、ある程度、正鵠を射ていますような、そんな見方を柴田は書き付けていまして、モンブランもぼろくそにけなしていますが、シーボルトに対しても、まったくもっていい感情は抱いていません。

 
シーボルト日記―再来日時の幕末見聞記
クリエーター情報なし
八坂書房


 上記、「シーボルト日記―再来日時の幕末見聞記」に詳細な年表がありまして、確かめてみました。
 やはり、1865年(慶応元年)の夏から、シーボルトはパリを訪れ、10月にはナポレオン3世に謁見していますが、翌1866年の春にパリへ行った事実はなく、ドーデの思い違いか、あるいはわざと半年ずらしたか、だと思われます。
 なおこの年表によりますと、シーボルトは1864年(元治元年、)池田長発が正使を務めました横浜鎖港のための遣欧使節団にも会っていまして、妙にモンブランと行動が重なります。

 それはともかく。ドーデの「盲の皇帝」です。
 ドーデによりますと、このときシーボルトがチュイルリー宮殿でナポレオン三世に謁見できましたのは、ドーデのおかげだそうなんです。
 これは、本当であってもおかしくはありません。
 この当時、ドーデは、ナポレオン3世の異父弟シャルル・ド・モルニー侯爵と親しく、秘書として待遇されていたんです。

 そしてシーボルトは、そのドーデの労に報いるため、ミュンヘンから「『盲の皇帝』と題する十六世紀の日本の悲劇を送ると約束」したそうなんです。
 これがどうも、先述しました「妹背山婦女庭訓」らしく、この人形浄瑠璃&歌舞伎は18世紀のものなんですが、天智天皇が盲目、という設定で登場します。

 おそらく、これが言いたくて、ドーデはシーボルトの謁見を1866年春にずらしたのだと思うのですが、「不幸にして彼(シーボルト)の出発から数日後ドイツで戦争〔一八六六年の普墺戦争〕がはじまり、例の悲劇のことはそれっきりになった。プロイセン軍がヴユルテンベルクとバイエルンに侵入したのだから、大佐(シーボルト)が愛国の熱情と外敵侵攻の大混乱のなかでわたしの『盲の皇帝』のことを忘れたとしても当然と言えば当然だった」ということなんです。

 で、嘘か本当か、ドーデは『盲の皇帝』が気になってたまらず、また戦争がどういうものかも見てみたいと思って、ミュンヘンへ出かけたんだそうなんです。
 『盲の皇帝』の話はともかく、ドーデが普墺戦争の最中にミュンヘンへ出かけたのは、どうも本当のことのような気がします。
 ドーデによれば、戦争の最中だというのに、バイエルンはとてつもなくのどかでした。
 ドーデは、普仏戦争の後に、この小説を書いています。

 いくら血のめぐりのわるい国民だって! 戦争の最中のこのかんかん照りのなかで、ケールからミュンヘンまでのライン彼岸の全域は、まったく冷静でおちつきはらっているように見えた。シュヴァーベン領をのろのろと重たげに横切って行くわたしの乗ったヴュルテンベルクの客車の三十の窓を通して、さまざまの風景がくりひろげられて行く。山、谷、せせらぎの涼気の感じられる豊かな緑のかさなり。列車の動きにつれて転廻して消えて行く山腹には、百姓の女たちが赤いスカートをはき、びろうどのブラウスをきて羊の群れのまんなかにいやにぎごちなく立っており、彼女たちのまわりで木々は青々として、樹脂と北国の森林の芳香のする、あの樅の小箱のなかから取り出した箱庭の牧場そっくりだった。ときどき緑の服の十人ぐらいの歩兵が牧場のなかを、頭をまっすぐ立て、足を高く上げ、銃を弩のようにかついで歩調を取って歩いている。これはナッサウのなんとか公の軍隊だった。ときどきまた大きな舟を積んだ汽車が、われわれのそれと同じようにのろのろと通った。寓意画に出て来る車みたいにそれに満載されたヴュルテンベルクの兵士たちは、プロイセン軍からのがれながら三部合唱で船歌をうたっていた。そしてわたしたちはどの駅の食堂にもはいる。給仕頭の変わらぬ笑顔、ジャムをそえた巨大な肉片を前にして顎の下にナフキンを結んだあのドイツ人らしい上機嫌な顔、そして大型馬車や脂粉や乗馬の人々でいっぱいのシュトゥットガルトの王宮前庭園、泉水をかこんでワルツをかなでる楽団、カドリーユ、キッシンゲンでは戦争しているというのに。実際そういうことを思いだしてみると、そしてまた四年後〔普仏戦争の年〕の同じ八月に見た、まるで烈日でボイラーが狂ってしまったように行く先も知らずに錯乱して突っ走る汽罐車、戦場のまっただなかに停止した客車、たちきられた線路、立往生した列車、東部の鉄道線が短くなるにつれて日ごとに小さくなって行くフランス、そして見捨てられた線路の全長にわたって辺鄙な土地にぽつんと残されたあの駅々の混雑、荷物のようにそこに置き忘れられたいっぱいの負傷兵たちを思うと、プロイセンと南部諸国との一八六六年のこの戦争は茶番でしかなく、だれがなんと言おうとゲルマニアの狼どもはけっして共食いなどしないのだとわたしは信じるようになる。

 さらにドーデは、こうも書いています。

 奇妙なことではないか! これらの善良なバイエルン人たちは、われわれがこの戦争について彼らの味方にならなかったことをあんなに怨んでいたくせに、プロイセン人に対してこれっぱかりも敵意をいだいていなかったのだ。敗戦を恥じる気も、勝利者への憎悪もない。「やつらは世界最強の兵隊ですよ……」と、キッシンゲンの戦闘の翌日、「青ぶどう」館のおやじはある種の誇りをもってわたしに言ったものだ。そしてこれがミュンヘンの一般の気持ちだった。

 私、それがために前回、延々とフランスとドイツ諸国の宗教について述べたのですけれども、基本的に、バイエルンを含みます南ドイツ諸国はカトリックで、プロイセンをはじめとします北ドイツは、プロテスタントだったんです。
 したがいまして、宗教を言いますならば、南ドイツはオーストリアの方に親近性があり、またフランスとも同じ基盤を持っておりました。

 しかし、フランス革命戦争、ナポレオン戦争は、すべてを変えてしまったと言ってもよく、バイエルンがプロテスタント人口を抱え込みましたと同じく、プロイセンもラインラントをはじめとしますカトリック人口をかかえこみ、ドイツ諸国におきまして、プロテスタントもカトリックも、一国内で同等の権利を持つようになっていて、国家と宗教の関係は、国家の方がはるかに重くなっていたといえるでしょう。

 それにいたしましても。
 ナポレオン3世は普墺戦争で傍観するべきではなかった、とよく言われます。
 実際フランス国内には、オーストリアに味方して、せめてラインラント(プロイセン領です)との国境線に軍をはりつけるべきだ、という意見も強くあったんです。
 ところがナポレオン3世は、それを退けました。

 プロイセンが善戦して長期戦になるだろうけれども、最終的にはオーストリアが優勢だろうから、中立の立場から仲裁に入ってプロイセンに恩を売り、あわよくばラインラントでもをせしめよう、そのためにも、かえって軍は出さない方がいい、という計算だったんです。
 ビスマルクの外交がまた上手く、事前にナポレオン3世を訪問して、「ラインラントはちょっと困るが、中立を保ってくれるならば、ルクセンブルグのフランス併合を認めてもいい」というようなことを、ほのめかしていたんですね。

 結局、プロイセンが普墺戦争でやりたかったことは、ドイツ統一の主導権をとる、ということだけでして、開戦二週間、サドワとケーニッヒグレーツの間にある平原で、プロイセンはオーストリアに電撃的勝利をおさめて、フランスが介入してくる以前に、早々と講和しました。
 プロイセンはオーストリアに領土も賠償金も要求しませんで、北ドイツ、中部ドイツの諸国を併合し、南ドイツ諸国には進駐することもなく、同盟を結んだだけでした。

 実際、当時のドイツ諸国の新聞の報道でも、あまり戦争への熱意はうかがえず、「兄弟戦争と呼んでナショナリストたちは嫌悪した」そうでして、ドーデの観察は、まちがってはいなかった、といえるでしょう。

 長くなりましたが、もう一度だけ、シーボルトとバイエルンと普仏戦争のお話が、続きます。

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普仏戦争と前田正名 Vol8

2012年04月09日 | 前田正名&白山伯

 普仏戦争と前田正名 Vol7の続きです。

 バイエルン王国です。
 バイエルン選帝侯領は、グリム兄弟が生まれましたヘッセン=カッセル方伯領と同じく、神聖ローマ帝国の領邦国家でした。
 ヘッセン=カッセル方伯領との大きなちがいは、カトリックが支配的な宗教であったことです。

バイエルン王国の誕生―ドイツにおける近代国家の形成
谷口 健治
山川出版社


 谷口健治氏の「バイエルン王国の誕生―ドイツにおける近代国家の形成」の「終わりに」より、以下引用です。

 1789年の革命によって近代国家に転換したフランスの軍事的圧力を受けて、領邦国家の連合体というかたちで生き延びていた神聖ローマ帝国は、1801年に崩壊を始めた。その渦中で、領邦国家の整理統合が行われ、最終的には35の領邦国家が生き残った。生き残った領邦国家は消滅した領邦国家に所属していた領土を抱え込むことになり、旧来の領土と新しい領土を融合させるために中央集権的な近代国家体制を採用せざるをえなくなったのである。1806年に神聖ローマ帝国は消滅し、領邦国家の君主は完全な主権を獲得したので、領邦国家体制にとどまっている必要もなくなった。さらに、そこに、フランスの法体系や社会体制の輸出を目論むナポレオンの圧力が加わった。大国のプロイセンすらナポレオンの軍隊に抗しきれず、1807年には近代国家建設に向けて舵を切らざるをえなくなった。

 前回、すでにご紹介しておりますセバスチァン・ハフナー氏の「図説 プロイセンの歴史―伝説からの解放」によりますと、プロイセンは決して大国ではありませんでしたし、1806年以前にも、「革命後のフランスに進歩性や近代性で負けまいとして、またフランス革命の成果を上からの改革によって模倣しようとして、感動的とさえ言える必死の努力をしていた」のであって、決して、ナポレオンの圧力によって近代化が推し進められたわけではないそうなのですけれども、フランスの圧力があったがゆえに必死の努力をしないわけにはいかなかった、という言い方もできますから、大筋において、谷口健治氏の述べておられることにまちがいはないでしょう。

 ドイツ領邦国家の整理は、神聖ローマ帝国の解体にともなって、必然的に行われたことです。
 フランス革命は、なにしろ王の首を斬り落とし、新しい秩序を打ち立てよう、というところまでいってしまいましたので、王を王たらしめていましたカトリック教会とも、当初、徹底した縁切りをするしかなかったんです。

 ジャン・ボベロ氏著、フランスにおける脱宗教性(ライシテ)の歴史 (文庫クセジュ)によりますと。
 アメリカは清教徒の国でしたから、その独立宣言には「創造主によって……侵すべからざる権利を与えられている」「この宣言を支えるため、神の摂理への堅い信頼とともに、我らは相互に以下のものを約する」とありまして、人権をもたらしたのは神(God)なのです。

 一方、フランスはカトリックの国でしたから、「人権宣言の第三条は、主権(=至高性)を宗教から独立したものにしている。つまり、主権は国民から来るのであって、もはや神授権に与る国王は存在しない」ということなのです。

 カトリックは古い宗教で、司教が領主であったり、世俗の権力でもありましたから、そのカトリックを国の宗教としておりましたフランスでは、革命前から宗教の世俗化が進んでおりました。
 アーネスト・サトウ  vol1に書いておりますが、フランスにおきますカトリックは、いわば日本の葬式仏教に近いような状態で、アメリカの清教徒のようなプロテスタントの方が、はるかに信心深い場合が多かったわけです。

 とはいいますものの、それまで、それなりに社会を律していましたカトリックを、一挙に全否定してしまいますことには無理があり、ロベスピエールが権力を握りました時期には、ルソーのいわゆる至高存在を神のようなものととらえ、市民教という奇妙な宗教を作り出そうとする模索もありましたが、失敗に終わります。

 再びジャン・ボベロ氏によりますと、結局、フランス革命におきますライシテ(脱宗教性)は不完全で、矛盾をはらみ、非常に不安定な状況を生み出したのですけれども、その混沌を受け継ぎましたナポレオンは、ローマ法王とコンコルダート(政教条約)を結んでカトリック教会と和解しますが、「革命で得られたいくつかのことが安定したやり方で具体化されているし、市民と認められた人間(男性)の法の前での平等が達成されている。また、限界こそあれ、宗教と信条の自由がきちんと与えられている」というような、施策をとります。

 ナポレオンは、コルシカ島の弱小イタリア貴族の子弟にすぎませんで、神授権を否定した革命の申し子でした。
 神聖ローマ帝国の否定は、その帝冠をひきずったオーストリアのハプスブルク家の権威の否定でありますと同時に、カトリックの頭領ローマ法王の権威の否定でもあったんです。

 ナポレオンがオーストリアをたたきのめした後、1801年に結ばれましたリュネヴィル講和条約によって、神聖ローマ帝国領邦国家の整理統合がはじまりました。
 結果、谷口健治氏によりますと、以下のようなことになります。

 帝国代表者会議によって正式決定された領土の変更は、非常に大規模なものであった。この領土の変更によって、マインツからレーゲンスブルクに移転したもとのマインツ大司教とドイツ騎士団の領土を除いて、68の聖界諸侯領はすべて姿を消した。また、51の帝国都市のうち、45の都市が帝国直属の地位を失った。聖界諸侯から取り上げられた領土や帝国都市は、ライン左岸がフランスに割譲されたために領土を失った世俗の帝国諸侯に補償として分配された。これによって、神聖ローマ帝国は重要な支柱であった聖界諸侯と帝国都市の大半を失い、崩壊への歩みを速めることになった。

 まあ、あれです。
 聖界諸侯領を天領に置き換えれば、廃藩置県で日本に起こったことに、似ているといえば、いえなくもありません。
 薩摩とか土佐とか長州とかは、「領邦国家」でも規模が大きく、薩摩にいたっては、琉球国名義で独自外交をくりひろげて西洋諸国と独自の通商条約を結ぼうとしていたのですから、幕末、幕府の統制がゆるんでバイエルン王国並になっていた、とはいえるでしょう。
 しかし、わが愛媛県、7世紀の令制国の一つであります伊予国は、江戸時代、十五万石の松山藩を筆頭に、小は小松藩、新谷藩の一万石まで、十近い藩に分かれていまして、別子銅山を中心とします天領も混在していました。

 ツヴァイヴリュッケン公爵マクシミリアン・ヨーゼフは、ルートヴィヒ2世の曾祖父ですが、1799年2月、縁戚で嫡出子がいませんでしたバイエルン選帝侯カール・テオドーアの死によって、バイエルン選帝侯領を受け継ぎました。
 マクシミリアン・ヨーゼフは、フランス王軍のドイツ人部隊、アルザス連隊の司令官の地位にあったくらいでして、フランス文化になじんでいました。
 しかし、フランス革命のためにその職を失い、しかも1795年、やはり嫡出子がおりませんでした実兄が死に、ツヴァイヴリュッケン公爵となりましたときには、その公国はフランスに占領され、無くなってしまっていました。

 私、これもまったく知らなかったのですが、バイエルン人は伝統的に、オーストリアが嫌いだったんだそうです。
 そうは言いましても、フランス革命勃発直後、1792年に始まりました対フランス戦争は、プロイセンとオーストリア、そして神聖ローマ帝国領邦諸国が戦ったのですから、バイエルンに迷いはなかったでしょう。

 しかし、1795年、プロイセンが戦線を離脱しましてから、国内には親フランス勢力もあって、厭戦気分がひろがっていたようなのですが、前選帝侯カール・テオドーアが親オーストリアだったことも手伝い、マクシミリアンが選帝侯になりましたときには、バイエルンは対仏同盟に取り込まれて、オーストリアの大軍が国内に駐留していました。

 マクシミリアンは、オーストリアを牽制する意味からも、ロシアに近づき、ロシアの仲買でイギリスからの補助金を受けることにしました。
 イギリスVSフランス 薩長兵制論争4に書いているのですが、伝統的に正規常備陸軍が小規模でしたイギリスは、同盟国の陸軍に資金援助をすることがよくありました。
 イギリスはまた、 神聖ローマ帝国のハノーファー選帝侯領と同君連合でして、ときのイギリス王ジョージ3世はハノーファー選帝侯ゲオルク3世でもあったわけですから、ナポレオンによります攻勢は、他人事ではありませんでした。
 しかし、バイエルンのイギリス補助金軍と言いますのも、なんだか奇妙です。

 その補助金軍は、オーストリア軍に合流しまして、スイス方面からドナウ川添いに東進してきますフランス軍と戦いましたが、敗退し、フランス軍はバイエルン領内に入って、首都ミュンヘンを占領します。
 いったん退却しましたオーストリア&補助金軍は、さらに1800年12月、ホーエンリンデンで大敗を喫しました。
 この年の6月、北イタリアのマレンゴでも、オーストリアはナポレオンが指揮するフランス軍に敗れていまして、ついにリュネヴィル講和条約が結ばれ、前述しました神聖ローマ帝国領邦国家の整理統合、となったわけです。

 もともとが領土の大きかったバイエルンは、敗戦国でしたし、この整理統合で、領土をひろげたというほどではありませんでした。
 しかしフランスは、オーストリア、プロイセンを牽制する意味で、この地域に中規模国家を育成したがっていましたので、バイエルンは近隣にあった司教領や修道院領、帝国都市を得ることとなり、領土一円化の足がかりができました。
 以降、バイエルンはフランスに近づき、オーストリアと手を切ります。
 
 再び、「バイエルン王国の誕生―ドイツにおける近代国家の形成」より引用です。

 1799年にマックス(マクシミリアン)・ヨーゼフの政権が誕生すると同時に近代国家への模様替えが始まっていたバイエルンの場合も、その後の事情はほかのドイツの領邦国家と変わらなかった。1801年から始まる神聖ローマ帝国の崩壊過程で、バイエルンはナポレオンと手を結んで領土を拡大した。バイエルンの場合、領土の拡大に近代国家への転換の出発点があるわけではないが、領土の拡大が近代国家体制の整備を促したことは間違いない。1806年にはバイエルンは王国に昇格し、神聖ローマ帝国も消滅したので、近代国家体制を整備するうえでの障害物もなくなった。その後、ナポレオンとの外交的駆け引きのなかで、1808年にはバイエルン最初の成分憲法が制定されて、非常に中央集権的な近代国家が生み出されることになった。

 結局のところ、プロイセンにしろバイエルンにしろ、です。
 フランス革命戦争からナポレオン戦争へ、フランスが欧州に巻き起こしました嵐の中で、自国の独立を保ちますためには、上からの近代化をはかる以外に、方法はなかったんです。
 そういった点において、当時のドイツ領邦国家群は、欧米列強に対抗するためには、彼らのルールごと、積極的に西洋近代を受け入れるしかないという結論に達しました幕末維新期の日本と、似ています。

 先に書きましたが、バイエルンは基本的にカトリックの国でした。
 ところが、領土が拡大しますことによって、四分の一のプロテスタントの人口をかかえこみます。
 それまで、もちろん、領邦によって宗教政策はちがっていたのですが、バイエルンが国としてまとまりますために、宗教政策も中央集権化する必要に迫られ、1809年、宗教勅令によって、キリスト教宗派の平等な取り扱いを保証し、宗教活動の自由を認め、と同時に、カトリック教会に対しては、国家の統制権を強化し、ローマ法王とコンコルダート(政教条約)を結んで調整する方向へ進みます。

 ただし、谷口健治氏によりますと、個々の住民の宗教の自由は保障されましたが、バイエルン国内で宗教活動が行えるのは、カトリックとプロテスタントのルター派、カルバン派のみでして、これらの宗派に関しては、国がその人事や財政にも深くかかわっておりまして、徹底的にライシテ(脱宗教性)が追究されたわけでは、ありませんでした。
 しかし、それが19世紀ヨーロッパ近代国家のグローバルスタンダードでしたし、それによって国の安定が得られたわけです。

 国の近代化は、軍隊の近代化に直結します。
 どうも日本では、軍の近代化といいますと、銃器だとか火器の話になってしまうのですけれども、何度か書きましたが、簡単にいいまして、19世紀の大陸国家の陸軍の近代化とは、国民を総動員しまして、ものすごい数の歩兵をそろえることが基本なのです。
 志願兵制で、ものすごい数の歩兵が集まるわけがないですから、必然的に国家が強制力を持って施行する徴兵制となります。

 いわば、ごく一般の人々が大量に、軍隊の最下級の一兵卒になるわけですから、ここでやたらめったら鞭がふるわれたり、奴隷そのもののような扱いですと、徴兵制は機能しません。
 軍の組織そのものが、人権を配慮しましたものに近代化される必要も、出てくるんです。

 そして、ごく一般の農民や商工業者の子弟が大量に動員されるといいますことは、どこの国と同盟してどういった外交を展開するのか、自国の外交が自分たちの運命に直結することになりますから、庶民に政治参加への意欲が生まれ、国民としての意識も強固なものとなり、ナショナリズムが燃え上がりやすくなるわけなのです。

 バイエルン人のドイツナショナリズムが燃え上がりましたのも、プロイセンと同じく、前回に書きましたナポレオンのロシア遠征によって、でした。
 ロシア遠征に参加しましたバイエルン軍3万6千人のうち、無事に帰国できたのは5千人あまりだった、といいます未曾有の惨状に、バイエルン人の対仏感情は極度に悪化し、ドイツナショナリズムが野火のようにひろがっていきます。

 しかし、ナポレオンと手を結び、国を大きくしてきましたバイエルンにとりまして、外交転換の舵取りはむつかしく、1813年、諸国民戦争の最後の最後の段階で寝返り、退却するナポレオン軍に反旗をひるがえします。
 6万のナポレオン軍に襲いかかりました2万5千のバイエルン軍(オーストリア軍とあわせて4万3千)は完敗し、9千人の犠牲者を出すのですが、この犠牲のおかげで、ナポレオンと戦ったという実績が残り、連合軍の仲間入りをして、フランス国内に攻め入ります。
 そして、戦後処理におきましても、バイエルンは領土を減らすことなく、中規模王国として、ドイツ連邦の一員となることができたのです。

 それからおよそ50年、初代国王マクシミリアン・ヨーゼフの曾孫の代になりまして、再びフランス国内へ攻め入って戦うことになったわけなんですけれども。
 バイエルン王国のその後の50年を解説した参考書にはめぐりあえませんで、またしても「図説 プロイセンの歴史―伝説からの解放」を参考に、簡単にまとめます。

 
図説 プロイセンの歴史―伝説からの解放
セバスチァン ハフナー
東洋書林


 1815年、ウィーン会議の結果、勢力均衡がはかられ、欧州には平和が訪れました。
 フランスの王政復古とともに、ドイツ領邦諸国も保守的な雰囲気につつまれますが、しかし、フランス革命とそれに続きましたナポレオン戦争によって、神聖ローマ帝国は消えてしまったわけですし、けっして後戻りのきかない変化が生まれていました。
 セバスチァン・ハフナー氏によりますと、「国民は民族としての同一性を意識しはじめ、民主主義的民族国家を要求しはじめ、勃興しつつあった市民階級は自由主義的憲法を欲していた」ということになります。

 そして、ナポレオンの没落で訪れました欧州の平和は、イギリス一国が先行しておりました産業革命の本格的な波を大陸にもたらし、鉄道が敷かれ、中産階級(ブルジョア)の層が厚くなりますと同時に、都市労働者の数が急増していきました。

 ライン川西岸のラインラントは、神聖ローマ帝国の小領邦国家が並んでいた地域だったんですが、ナポレオン戦争時にはフランスに占領され、ウィーン会議によりまして、プロイセンの領土とされました。
 この地帯は、フランスに隣接していました上に、プロイセンからは飛び地で、自由主義的傾向が強かったものですから、当初は、「オーストリアのメッテルニヒが、プロイセンにお荷物を背負わせようともくろんだことではないのか」とまでいわれましたが、鉱工業が栄え、産業革命の牽引車となった地域です。
 ウィーン会議から間もない1818年、カール・マルクスが、このラインラントに生まれています。

 ドイツ関税同盟は、飛び地ラインラントの存在から、流通の不便を痛感しましたプロイセンが、1828年にまずはヘッセン=ダルムシュタット大公国と関税協定を結び、北ドイツ関税同盟を成立させたことにはじまります。
 しかし、当初はドイツ連邦諸国の警戒を招き、バイエルンはヴュルテンベルクとともに南ドイツ関税同盟を立ち上げ、またザクセン、ハノーファーを中心としまして、グリム兄弟の祖国ヘッセン=カッセル選帝侯国などを含む中部ドイツも、通商同盟を作ったのですが、結局のところ、この分裂はドイツ連邦経済にとってマイナスでしかありませんで、プロイセンが個々に働きかけて、切り崩し、ついに1834年、ドイツ関税同盟が発足します。
 この経済的な一体化は、域内の流通を促進しましたし、さらに政治的な一体化を求める声も、大きくなっていきました。

 欧州で活発になってまいりました民族運動は、多民族国家でしたオーストリアにとりましては危険きわまりないものでした。
 しかしプロイセンは、ほぼドイツ民族のみの大国でしたので、他民族の反乱の心配はなく、むしろドイツ連邦諸国の民族主義者から、統一国家の核となることを望まれていました。
 しかし、オーストリアの政治家・フェリックス・シュヴァルツェンベルクは、多民族帝国オーストリアにドイツを呑み込んで、いわばかつての神聖ローマ帝国を、近代版として蘇らせるような構想をもっていまして、シュヴァルツェンベルクが長生きをすれば、あるいはそういう可能性も皆無あったかもしれない、といわれております。

 ともかく、紆余曲折がありましたけれども、プロイセンとオーストリアは、ドイツ統一の主導権を争いまして、1866年、普墺戦争(プロイセン=オーストリア戦争)となりました。
 このときのプロイセンとオーストリアを、現代の感覚で見ますと、ちょっと事実とちがってしまうでしょう。
 いまのオーストリアは小国ですが、当時のオーストリアは、広大な領土を持った老大国です。
 当時の民族主義者は、自由主義者でもありまして、いわば進歩的な勢力と見られていたのですが、プロイセンを核とした統一を望んでいましたドイツ人は、大方そういう人々でした。

 そして当時、オーストリアがプロイセンに勝つ可能性の方が高いと、見られてもいました。
 プロイセンの側につきましたのは、北ドイツの小邦のみで、バイエルン、ヴュルテンベルクの南ドイツはもちろん、中部ドイツも、オーストリアの味方につきました。
 プロイセンが同盟を結びましたのは、ほぼ統一を果たしたイタリアです。イタリアの目的は、オーストリアの支配下にあったヴェネト地方でした。

狂王ルートヴィヒ―夢の王国の黄昏 (中公文庫BIBLIO)
ジャン デ・カール
中央公論新社


 ジャン・デ・カール氏の伝記によりますと、若きバイエルン国王ルートヴィヒ2世は、普墺戦争を目前にして国事を放り、崇拝する作曲家のワーグナーに会いに行ったりしていたのですが、ワーグナーの説得でようやく議会の開会宣言を行い、その宣言の中で「偉大なる祖国ドイツ」を語って野党自由党の拍手をあび、しかし「一触即発の状態にある内戦を嫌っている」と述べて、保守派の顰蹙を買ったんだそうです。

 よく知られている話だと思うのですが、この当時のオーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世と、美貌のオーストリア皇后エリーザベトは、従兄妹です。
 フランツ・ヨーゼフの母親ゾフィー・フォン・バイエルンとエリーザベトの母親ルドヴィカ・フォン・バイエルンは姉妹で、ルートヴィヒ2世の曾祖父、初代バイエルン国王マクシミリアン・ヨーゼフの娘でした。

 しかも、当時のプロイセン王ヴィルヘルム1世の兄で、先代の王だったフリードリヒ・ヴィルヘルム4世の王妃、エリーザベト・ルドヴィカ・フォン・バイエルンもまた、マクシミリアン・ヨーゼフの娘でした。
 つまり、オーストリア皇帝夫妻の母親と、プロイセンの王太后は姉妹で、ともにバイエルン王国の王女だったわけです。

 さらに、ルートヴィヒ2世の母親、マリー・フォン・プロイセンは、ヴィルヘルム1世の叔父の娘、つまりはプロイセン王の従妹で、王家の話をしますならば、ドイツ諸国はどこもが親戚状態でして、まさに内戦でしかありませんでした。

 そしてルートヴィヒ2世だけではなく、実はバイエルン国民も、この戦争を嫌がっていたのではないか……、という証言が、他にもあります。
 実は、これが私をバイエルンに深入りさせたのですが、19世紀のフランスの作家アルフォンス・ドーデが、普仏戦争を描いた連作の中で、なんと!!!バイエルン王国と幕末の日本を重ねて描いているんです。
 バイエルンと幕末の日本になんの関係があるか、ですって?
 それが……、シーボルトなんです。
 シーボルトは、バイエルンの出身でした。

 長くなりましたので、続きます。
 バイエルンのお話は次回で終わり、その次から、正名くんのお話に入る……、はずです。

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普仏戦争と前田正名 Vol7

2012年04月06日 | 前田正名&白山伯
 普仏戦争と前田正名 Vol6の続きです。

 今回、「巴里の侍 」(ダ・ヴィンチブックス)に感謝すべきなのかも、と思いましたのは、このさい普仏戦争に関する本をもっと読んでみよう、ということで、いろいろと読み返したり、新しい本にめぐりあったりで、発見が多々あったことでした。

壊滅 (ルーゴン=マッカール叢書)
エミール ゾラ
論創社


 このゾラの「壊滅」は、戦争文学として傑出していると、私は思います。
 と、ここまで書いて間が開きすぎまして、なにが書きたかったのかも、忘れるほどなんですけれども。

 これまでに、「壊滅」の主人公で若きインテリのモーリスと、年のいった農民ジャンが、戦友としての絆を深めながら、セダン(スダン)の戦いで敗走するところまで、ご紹介したんですけれども、二人は、セダンの城壁内に逃げ込みますこの敗走の途中で、なんと、モーリスの双子の姉・アンリエットに出会います。
 
 アンリエットは、普仏戦争と前田正名 Vol5で書きましたが、セダンの織物工場の監督になっているヴァイスという好青年と、恋愛結婚をしていました。
 ヴァイスは、仕事の都合でセダンに住んでいたのですが、近郊のバゼイユに家を持っていて、プロイセン軍が迫ってくる中、様子を見に出かけていて、市街戦にまきこまれます。
 まきこまれたといいますか、敵の砲弾が、息子の病気で避難できなかった街の女性を殺し、自分の家が破壊されるのを見ましたとき、ヴァイスは思わず、死んだ味方の兵士の銃を取り、戦闘に加わらないではいられませんでした。

 バゼイユを守っていましたのは、フランスの海軍陸戦隊です。
 以前にもご紹介いたしました松井道昭氏のブログ、普仏戦争 開戦 集団的熱狂の綺想曲(2) 第2章 泥縄式編成の軍隊を読ませていただきますと、海軍は圧倒的にフランスが勝っていたことがわかります。

 しかし、大陸国家同士の場合、この時期、海軍の優劣はあまり戦争全体の勝敗に影響しなかったようなのですね。
 1864年、第二次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争(デンマーク戦争)のヘルゴラント海戦では、デンマーク海軍がオーストリア・プロイセン海軍に勝ち、1866年、普墺戦争のリッサ海戦では、オーストリア海軍がプロイセンの同盟国イタリア海軍に勝ちましたけれども、いずれも、海戦では勝った側が負けています。

 普仏戦争では、制海権はフランスが握りましたまま大きな海戦はなく、そのせいなのか、あるいは陸軍の兵隊が足りなくなったあまりなのか、よくはわからないのですが、フランスはずいぶんと、海軍陸戦隊を船から降ろして、内陸戦に使ったみたいです。

 それはともかく。
 バゼイユを攻撃しましたのは、南ドイツ連邦のバイエルン王国軍です。
 私、ですね。普仏戦争におきますバイエルン王国軍が、ものすごい勇猛ぶりを見せて奮戦した、という事実を、つい最近まで、まったく存じませんでした。

 
ルートヴィヒ 復元完全版 デジタル・ニューマスター [DVD]
クリエーター情報なし
紀伊國屋書店


 おそらく、このルキノ・ヴィスコンティ監督の映画、「ルートヴィヒ 神々の黄昏」の影響です。
 美貌のバイエルン王、ルートヴィヒ2世につきましては、ずいぶん以前に『オペラ座の怪人』と第二帝政で書いたんですが、この若き王が、普仏戦争をあんまりありがたがっていませんでしたことは、確かに映画の描く通りにそうだったんでしょうけれども、考えてみましたら、王が嫌がったからって、国民が嫌がったとはかぎらないんですよねえ。
 それで、ルートヴィヒ2世の伝記を読み返してみました。

 
狂王ルートヴィヒ―夢の王国の黄昏 (中公文庫BIBLIO)
ジャン デ・カール
中央公論新社


 私、相当なうっかり屋です。
 といいますか、映画の印象が強すぎまして、後で読みました伝記の内容が、まったく頭に入っていなかったのでしょうか。
 ジャン デ・カール氏によりますと、美貌のルートヴィヒ2世は、かなり冷静に外交を考え、バイエルン王国のためをはかって、プロシャに味方しての参戦を承諾した、ということなんですね。
 
 説明の必要があるでしょうか。
 神聖ローマ帝国について、書いたことがあったはず、と思いましたら、ずいぶんと古い記事なんですが、アラゴルンは明治大帝か、でした。まだ、じぞうさまといっしょに、パロディ本に参加させてもらっていたころ、ですねえ。
 必要部分を、再録します。

 ところで、神聖ローマ帝国です。
日本の天皇制が西洋で理解されないのと同じくらい、日本人には理解し難いものですが、ごく簡単に言ってしまえば、「中世ドイツ王国を基礎にして10世紀から19世紀初頭までつづいた帝国。盛期にはドイツ・イタリア・ブルグントにまたがり、皇帝は中世ヨーロッパ世界における最高権威をローマ教皇とのあいだで争った」となるんでしょうか。
 帝国は大中小さまざまな諸侯国から成り立ち、わずかな数の有力諸侯が選挙権を持って、諸侯の中から皇帝を選んだわけですが、15世紀から、ほぼハプスブルグ家の世襲となり、皇帝の権威がおよぶ範囲は、ドイツ語圏に限定されましたので、「ドイツ人の神聖ローマ帝国」と呼ばれるようになりました。
しかし、そうなりながら、フランス王が皇帝候補として名乗りを上げたりもしていますので、なんとも複雑です。

 近代国民国家の成立は、神聖ローマ帝国を解体する方向で進みます。
 近世、ヨーロッパの王家の中で、ハプスブルク家だけが皇帝を名乗るのですが、これは神聖ローマ皇帝であり、しかしハプスブルク家が統治する領域は、神聖ローマ帝国と重なる部分はあるにせよ、一致しないんですね。
 つまり、神聖ローマ帝国は、領域国家ではなかったんです。

 最終的に、神聖ローマ帝国を葬ったのは、ナポレオンです。
 一応貴族ではありましたが、王家の血筋とはまったく関係のないナポレオンが、実力によって、自ら皇帝を名乗ったのです。このときから、ハプスブルク家は名ばかりとなっていた神聖ローマ皇帝の名乗りを捨て、オウストリア・ハンガリー帝国という領域国家の皇帝となりました。
 ナポレオンが、神聖ローマ皇帝という古い権威を否定するために持ち出したのは、古代ローマ皇帝です。もちろん、「古代ローマ皇帝に習う」とは、実質、新秩序の立ち上げです。


 基本的には、こういうことで、まちがってはいないと思います。
 「それが幕末維新になんの関係があるの?」といわれるかもしれませんが、以前の記事にも書いております通り、私は、大ありだと思っています。

 伝説の金日成将軍と故国山川 vol1に書いておりますが、簡単に言ってしまいますと、幕末維新の日本は欧米列強に対抗するためには、彼らのルールごと、積極的に西洋近代を受け入れるしかないという結論に達したわけでして、いわば、当時の西洋のグローバルスタンダードにあわせて独立を保つべく、懸命に、無理を重ねて、変革に挑みました。

 とかく、ですね。日本史は日本史のみで見る傾向があるんですけれども、それは、ちがいます。
 日本は、世界の中にあるのですし、まして幕末維新は、ロシアの南下に始まります西洋近代との衝突が、直接国内の動乱につながっていったわけです。
 生麦事件と攘夷寺田屋事件と桐野利秋 前編など、たびたび引用してまいりました中岡慎太郎の言葉が、もっとも鋭く、維新がなんだったのかを語ってくれています。

 「それ攘夷というは皇国の私語にあらず。そのやむを得ざるにいたっては、宇内各国、みなこれを行ふものなり。メリケンはかつて英の属国なり。ときにイギリス王、利をむさぼること日々に多く、米民ますます苦む。よってワシントンなる者、民の疾苦を訴へ、税利を減ぜん等の類、十数箇条を乞う。英王、許さず。ここにおいてワシントン、米地十三邦の民をひきい、英人を拒絶し、鎖港攘夷を行う。これより英米、連戦7年、英遂に勝たざるを知り、和を乞い、メリケン爰において英属を免れ独立し、十三地同盟して合衆国と号し、一強国となる。実に今を去ること80年前なり」

 攘夷感情は、国民国家を成り立たせますナショナリズムとなります。
 維新は、ドイツ、イタリアの統一とほぼ同時代の出来事ですし、慎太郎が、「日本の攘夷は、アメリカの独立戦争と変わらないんだよ」と述べていますのは、本質を突きました世界史的理解なのです。

 
ドイツ史と戦争: 「軍事史」と「戦争史」
三宅 正樹,新谷 卓,中島 浩貴,石津 朋之
彩流社


 上の本の中島浩貴氏著「第一章 ドイツ統一戦争から第一次世界大戦」に、非常にわかりやすく、ドイツ統一までの道程をまとめてくれていますので、引用します。

 地域としてのドイツは、ドイツ語によって、国家が成立する前から認識されていた。プロイセン、オーストリア、バイエルン、ザクセンといった諸国が地域としてのドイツには存在していたからである。地域名でしかなかったドイツが民族の統一的な国家の土台として認知されるのは、フランス革命戦争とナポレオン戦争の時期においてである。革命の炎によって生まれ出た国民国家フランスとの軍事的衝突、そしてフランスによる占領は、ドイツ地域に住む人々のナショナリズムを高めることになった。しかし当時その愛国主義の中核となるドイツ民族の国家は存在していなかった。この点で、ヨハン・ゴットフリート・フィヒテの『ドイツ国民に告ぐ』は、愛すべき祖国のない思想家の嘆きとしてもとることができよう。当時のドイツにあったのは、細かく分かれた小国家にすぎなかった。
 ドイツ国民のナショナリズムと統一国家への傾斜の発端を「はじめにナポレオンありき」という言葉で表現したのは、ドイツの歴史家トマス・ニッパーダイであるが、少なくとも隣国の変化が国民国家ドイツの建設を促進したことは否定できない。1871年(明治4年)のドイツ帝国の成立まで、統一国家としてのドイツは存在しなかった。普墺戦争の後の1867年(慶応3年)に、北ドイツ連邦が設立され、そして、その後の普仏戦争をへてドイツはプロイセンを中心とした統一国家になっていくのである。


ブラザーズ・グリム DTS スタンダード・エディション [DVD]
クリエーター情報なし
ハピネット・ピクチャーズ

 
 グリム兄弟の神風連の乱に感想を書いておりますが、映画「ブラザーズ・グリム」は、グリム兄弟の若かりし日、フランスに占領されましたドイツ領邦国家の攘夷の物語を、すばらしいパロディにしてくれています。

 グリム兄弟は年子でして、1785年とその翌年に、ヘッセン=カッセル方伯領で生まれました。
 フランス革命の始まりが1789年ですから、兄弟が三つ、四つのころです。
 フランス革命は、フランス国内の秩序を破壊しただけではありませんで、その変動はヨーロッパ全土の秩序をゆるがします。
 フランス革命期の対外戦争は、ナポレオンに受け継がれました。

 1805年、アウステルリッツの戦い(三帝会戦)で、オーストリア・ロシア連合軍は、ナポレオン率いるフランス軍に敗退します。
 それまで、名目的にではありましたが、オーストリアのハプスブルグ家が、神聖ローマ帝国(ドイツ帝国)皇帝として、ドイツ領邦国家群の上に君臨しておりましたが、この敗戦により退位して、神聖ローマ帝国は消滅します。
 1806年、領邦国家群のかなりの数が、ナポレオンの圧力により、フランスを盟主としたライン同盟に参加します。
 ちょうど日本では、ロシア人が樺太、択捉で日本人を攻撃しました文化露寇が起こり、国防が憂慮され始めましたころです。

 プロイセンは、フランス革命の初期はともかく、ナポレオンに対しましてはずっと中立を保ち、対イギリスでは同盟国にさえなって、むしろ領土をひろげていたのですが、神聖ローマ帝国が解体され、今度はフランスに対ロシアでの同盟を求められて、ついに反旗をひるがえします。
 しかし、1806年イエナ・アウエルシュタットの戦いで、プロイセンはあっけなく破れ、プロイセンを支持していましたヘッセン選帝侯国(ヘッセン=カッセル方伯領)は消滅し、フランス軍に占領されて、ナポレオンの弟が統治するヴェストファーレン王国に組み入れられました。
 グリム兄弟は、青年期に祖国が消滅し、フランスの統治下に入る経験を持ったわけです。
 プロイセンのベルリンで、フィヒテが、「ドイツ国民に告ぐ」と名づけられました十数回の演説で、国が独立を失うことへの危惧を訴えましたのは、このフランスの占領下でした。
 
グリム兄弟―生涯・作品・時代
ガブリエーレ ザイツ
青土社


図説 プロイセンの歴史―伝説からの解放
セバスチァン ハフナー
東洋書林


 上の二冊の本を参照しまして、述べてまいりますと。
 1812年のナポレオンのロシア遠征は、60万もの大軍によるものでしたが、その遠征軍の三分の一はドイツ人でした。
 そのうちの半分、ヨルク将軍が率いていましたプロイセン軍は、バルト海沿岸地帯の側面防備にまわされていましたために、モスクワから退却中のフランス軍が被りました破滅からまぬがれ、単独で、ロシアと講和を結びます。
 
 これが、ドイツナショナリズムに火をつけるんです。
 フランスの徴兵制で、フランスのためにロシアまで連れていかれて、戦わされて飢えと寒さにさらされ、負傷させられたり、病気にさせられたり、あげく戦死させられたりしたのでは、ドイツの農民はたまったものではありません。

 1813年、プロイセン王はむしろ消極的だったのですが、国民の熱気が募り、プロイセンはロシアとの同盟、フランスへの宣戦布告に踏み切ります。
 フィヒテの弟子で、スウェーデン領で生まれました詩人・エルンスト・モーリッツ・アルントは、「バイエルン人ではなく、ハノーファー人ではなく、ホルンシュタイン人ではなく、オーストリア人ではなく、プロイセン人ではなく、シュヴァーベン人ではなく、己をドイツ人と呼ぶことが許されているすべての人々が、敵対するのではなく、ドイツ人がドイツ人に味方するのだ」と宣伝し、多くの人々が、「祖国ドイツの自由と統一を戦い取るために」、義援金を出し、また義勇軍に参加しました。

 当初、プロイセンの出兵は敗北に終わるのですが、オーストリアとフランスの交渉が決裂し、ドイツ民族解放闘争は、1813年10月、プロイセン、ロシア、イギリス、スウェーデン、オーストリアが同盟してナポレオン軍に対しました諸国民戦争の勝利で、ついに結実します。
 グリム兄弟もまた、積極的に祖国解放運動に参加し、ヘッセン選帝侯国が蘇り、ドイツ連邦の一員となる喜びを味わいました。

 えー、脱線のしすぎでしょうか。
 なぜ普仏戦争でバイエルンのドイツナショナリズムが燃え上がったか、というお話です。
 最近、なんとなく、ですね。
 薩摩はなぜ、バイエルンたりえずにプロイセンにならざるをえなかったのか、なんぞと思ったりもしていまして、もう少しおつきあいください。

 長くなりましたので、次回に続きます。

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普仏戦争と前田正名 Vol6

2012年01月25日 | 前田正名&白山伯

 普仏戦争と前田正名 Vol5の続きです。

 
巴里の侍 (ダ・ヴィンチブックス)
月島総記
メディアファクトリー


 またちょっと「巴里の侍」に話を返します。
 この小説中の前田正名の戦友として、架空の日本人がいます。
 えー、度会晴玄という名で芸州人だそうですから、渡六之介(正元)から思いついた登場人物なんでしょう。本物の渡六之介については、また追って書きたいと思うのですが、本物の渡がサン・シール陸軍士官学校に入りますのはもっと後の話ですが、度会晴玄はパリへ着いたとたんに士官学校へ入学しています。
 なめんなよ、サン・シールを!!!!!です。筆記試験がないとでも思っておられるのでしょうか。昔の日本の陸士は言うにおよばず、今の防衛大学だってけっこう難しいでしょうに。
 詳細はfhさまのところにあるのですが、本物の渡は30歳と年もけっこういっていましたし、普仏戦争後、公使として赴任してきました鮫ちゃん(鮫島尚信)が、「リセ就学ぬきでサン・シールに入れてやってはくれまいか?」と当局と交渉を重ねた結果、特別にサン・シール入学を認められたような次第です。
 通常ですと、オルチュス塾からサン・ルイ校(リセ)へ進学、そしてサン・シール受験です。

 そのいいかげんな設定の度会晴玄が、です。
「わしゃァかの土方歳三率いる隊を向こうに回して、一歩も引かん戦ぶりを見せたんよ?」 と自慢し、それを士官学校のフランス人同級生に話したところ鼻で笑われた、と怒るんです。
 もうーねえ。
この軍事好きだという芸州人は、1867年1月12日(慶応2年12月8日)フランス軍事顧問団 が来日して、戊辰戦争の幕府側にフランス人が参加していたことをしらなかった!!!!とでも言うのでしょうか。
 確かに度会は、函館までは戦ってない設定になっていますが、幕府軍がフランス軍事顧問団の伝習を受けていたことを知らない、軍事好きの日本人なんてありえませんし、ブリュネ大尉を中心としますフランス人の函館戦争参戦は、局外中立違反として、外交問題になっていたんです。一応、正名くんは、フランス人で、なおかつ日本の欧州総領事になっていましたモンブランの秘書です。知らないなんて、これまたありえません。

 ブリュネ大尉のことは、函館戦争のフランス人vol1に書いておりますが、鈴木明氏の「追跡―一枚の幕末写真 」(集英社文庫)によれば、帰国後、当然ですが普仏戦争に従軍し、セダン近郊で捕虜になっています。釈放は戦後。
 悲惨なセダンの戦場には、土方歳三とともに戦ったフランス人が他にもいました。
 函館戦争のフランス人vol3(宮古湾海戦)の一節を、以下、再録です。

 ニコールは、ブリュネ大尉たちとともに降伏寸前の五稜郭から抜け出し、コラッシュも結局、フランス公使に引き渡されて、二人は海軍を首になり、フランスへ帰されます。ところがその翌年、普仏戦争が勃発。
二人とも、一兵卒としてフランス陸軍に志願し、セダンの戦いでニコールは戦死。コラッシュは負傷しますが生き残り、明治4年、手記を出版したわけです。
セダンの戦いは、フランス軍にとっては無惨なものでした。

 
 白山伯も食べたお奉行さまの装飾料理にて訂正しておりますが、ウージェーヌ・コラシュが宮古湾海戦の折りの手記を旅行専門誌に発表しましたのは、1874年(明治7年)のことです。



 上、宮古湾参戦当時のコラシュを描いた手記の挿絵です。
 ニコールとコラッシュが、セダンで同じ隊にいたのかどうか、詳しいことはまったくわからないのですが、見習い士官の身でともに脱走して、日本での冒険に身を投じました二人は、普仏戦争でも同じ隊にいて、あまりのやりきれない事態に気が滅入ったときには、日本での楽しかった(普仏戦争の現実にくらべれば、格段に楽しかったと思います)戦いの思い出を語り合ったりしたのではないかと、想像したくなります。
 ニコールは、土方歳三と同じく、甲賀源吾が艦長をしておりました回天に乗り込んで負傷し、そして一兵卒としてセダンで戦死。
 前田正名とそれほど年もちがわなかったこのフランス人の若者の、最期の瞬間に思いを馳せるとき、私は言葉を失ってしまうのです。
 ニコールにとっての普仏戦争は、祖国防衛戦ですし、戊辰戦争とくらべて格段に重かったはずなのです。それが……、ありえないほどの思惑違いの連続だったのですから、無念というのでしょうか、納得できない激情を、死の瞬間までかかえていたのではなかったでしょうか。

壊滅 (ルーゴン=マッカール叢書)
エミール ゾラ
論創社


 実在のニコールとコラッシュは同年代の戦友ですが、「壊滅」の主人公、ジャンとモーリスは、39歳と20歳。倍近くも年が離れた戦友です。
 二人がいたアルザスの軍団は、プロシャ軍に退路を断たれる!という知らせに慌てて、プロシャ軍を見ることもなく、ミュルーズからベルフォールへ引き上げたのですが、兵士たちが極度の疲労の中で、四日ぶりに暖かい食べ物にありついたとき、とんでもない真相を知ることになったのです。
 そもそも、彼らがミュルーズへ向かったときの「マルコルスハイムにプロシャ軍が向かっている」という郡長の知らせは、事実ではなかったんです。恐怖のあまりか、郡長が幻に踊らされた、ということでして、水鳥の羽音に驚いて逃げた富士川の平家のようなものでした。

 そして、フニンゲンでプロシャ軍がライン川を渡った、という知らせは、確かに事実と言えば事実だったんですが、シュバルツバルト軍団(南ドイツ連邦の連合軍、と思います)のうち、ヴュルテンベルク王国の少数の分遣隊にすぎなかったんです。それが巧妙にも、攻撃と退却を反復して3~4万の軍団に見せかけていまして、その見せかけにおびえた退却途上、フランス軍はダンヌマリーの陸橋を爆破し、周辺の住民をパニックに陥れ、「卑怯者!」とののしられたんです。
 「どういうことなんだ! 俺たちは敵と戦うために出張っていたんじゃないのか? ところが敵は一人もいないぞ! 四十八キロ前進、四十八キロ後退、それなのに猫一匹いないぞ! こんなことしても何にもならないし、冗談にもほどがあるぞ!」
 兵士がそう大声で罵り、士気を無くしてしまったのは、無理もないことでした。

 そしてまたベルフォールで一週間、なんの情報もないままに、軍団は放っておかれます。ドゥエ将軍が命令を要請しても、梨のつぶてだったのです。
 ジャンとモーリスの部隊は、ベルフォール城塞の補強工事にかり出されました。
 兵士たちは不満でしたが、しかしこれは、けっして無駄なことではなかったのですけれども。

 ベルフォールの要塞は、基本ヴォーバン式要塞でして、広瀬常と森有礼 美女ありき10において、五稜郭の建築を思いついたのは仏軍艦コンスタンチン号が伝えたパリのヴォーバン式(稜堡式)要塞ゆえらしい、と書いたのですが、要するにあの五稜郭のような星形要塞が基本にはあります。
 ベルフォールは、ヴォーバン式でも最新式でしたところへ、その後も手が加えられ、ついこの5年ほど前にも大規模な補強工事をしたところでした。
 前回ご紹介いたしました松井道昭氏のブログ、「普仏戦争 地方の決起 第二節 ヴェルダン、ビッチュ、ベルフォール」にありますし、またベルフォールで検索をかけましても出てまいりますが、ベルフォールの街は、この補強されました要塞のおかげも被り、1万5千というわずかな籠城軍で、猛烈な砲撃にも耐え、自国政府の休戦命令が届くまで戦いぬくのです。
 この勇猛な抵抗は、相手のドイツ軍にも称えられ、戦後、アルザスがドイツ領とされる中、ベルフォールはフランス領にとどまります。

 一週間の要塞補強工事の後、ジャンとモーリスの部隊に命令が届きます。
 部隊は家畜車にぎゅうぎゅうにつめこまれて、パリへ。
 しかし、すぐにその夜、列車はランスへと向かいました。シャロンのマクマオン軍が、ランス郊外、広大なサン=ブリス=クールセルの平野に退却してきて野営をしていて、それにに合流したのです。
 ランスはシャロンよりパリに近く、モーリスは、パリまで退却してプロシャ軍を迎え撃つことになったのではないか、と推測します。

 ところが、ちがっていたんです。
 前回書きましたように、パリカオ伯爵と摂政のウジェニー皇后が皇帝とマクマオン軍のパリ帰還を拒み、メスのバゼーヌ軍と協力すべくヴェルダンをめざすように指示を出したわけなのですが、プロシャ軍の位置もつかむことなく、ろくに状況もわからず、なんの準備もなく、十万を超える軍団にともかく早く動けと後方からわめくのは、混乱を招くだけのことでしかありませんでした。
 見渡すかぎりに野営した軍が、いっせいに動き出した騒動の中で、モーリスはそれでも、今度こそ敵と面と向かい合って銃を撃ち、勝利を引きよせられると信じていました。

 しかし、それはすさまじい行軍だったのです。
 十万の軍には、なんの補給の準備もありません。街道筋の食料は、先に進んだ部隊が食べつくし、後を行く部隊には、ろくに食べ物も行き渡りません。プロシャ軍がどこにいるのかはわかりませんが、やがて、槍騎兵の噂を聞くようになり、姿の見えない敵の影が不安を呼び起こします。
 実はプロシャ軍は普仏戦争において、槍騎兵を強行偵察に使うという新しい戦法を採用していました。機動力のある騎兵が、まずは敵情をさぐり、他の部隊の前進はその後のことなのです。
 フランス軍の方は、ただ闇雲な前進です。
 しかもヴェルダンへの前進はパリからの命令で、皇帝もマクマホン元帥も、決して納得していたわけではありませんでした。
 モーリスは、空腹の上にあわない靴で足を痛め、絶望的な行軍の中、伍長のジャンに助けられ、心を通わせます。

 モーリスは彼(ジャン)の腕に身をあずけ、子供のように抱えられて歩いた。今までいかなる女もこれほどまでに暖かい手を彼に差し伸べてくれなかった。この悲惨な極限状態にあって、すべてが崩壊し、死を目前にして、彼を愛し介抱してくれる人間がいると感じることは、彼にとってまさに甘美な慰めであった。そして農民は土にへばりついている単純な人間だと最初嫌悪していた心のうちの考えが、今になって感謝のこもった無限の愛情へと変わったのであろう。すべての教養や階級を超えた友情、自ずから敵の脅威を前にして、相互に助け合うという日常の必要性から深く結ばれる友情、これが世の始まりの友愛ではなかったであろうか? 彼はジャンの胸の中にその人間性が高鳴っているのを聞いた。そして彼は自分自身がそれを強く感じ、救い上げ、心服しているのを誇りに思った。一方でジャンは自分の感情をよく確かめもしなかったが、自分にとって発育をとげていないこの友人の中にある優雅さと知性を保護することに喜びを味わっていた。

 いったいなにがしたいのか、行軍している本人たちにもさっぱりわからない迷走の末、モーリスの部隊は、スダン郊外、アルジェリー高原に布陣することになります。
 セダン(スダン)城内(セダンに城があるわけではなく、セダンの街を取り巻く城壁の内、という意味です)にはナポレオン三世がいて、その本隊を守るための布陣といえばそうなのですが、すでにプロシャ軍は多人数で包囲を終えていて、袋の口を閉じられ、セダンに押し込められた、という状態でした。
 
 この瞬間に大砲の最初の一撃がサン=マンジュから発せられた。まだ霧がもやもやと漂っている向こうで、何やらわからなかったが、雑然とした一群がサン=タルベールの隘路に向けて進んでいた。
 「ああ、奴ら」がいる!」とモーリスが言った。彼はあえてプロシア軍と言わずに、本能的に声を潜めていた。「僕たちは退路を断たれたんだ。畜生!」


 プロシャ軍の砲撃は激しく、部隊は三百メートル後退し、キャベツ畑で伏せて待機し続けます。

 砲弾が炸裂して、最前列にいた兵士の頭を粉々にしてしまった。叫びを上げることもなく、血と脳漿が飛び散った。ただそれだけだった。
 「気の毒な奴だ!」とサパン軍曹は蒼白になっていたが、取り乱すことなく、ただ呟いた。「だがこの次は誰だ!」
 しかし誰もがもはや理性を失い、とりわけモーリスは言い知れぬ恐怖におののいた。


 フランスの砲兵隊は、モーリスの部隊のすぐ近くにいました。しかし、あきらかに劣勢で、しかもプロシャ軍の砲隊は、新たにフランス軍が放棄した場所に陣取り、集中砲火を浴びせはじめたのです。

 さらにこの恐ろしい砲撃戦は続き、伏せている連隊の頭上を越え、炎天下の誰も見えない死んだような焦熱の平野の中で激しさを増した。この荒涼たる光景の中で展開されているのは砲撃の轟き、破壊の大旋風だけだった。時間は刻々と過ぎていったが、それは少しも止まなかった。だがすでにドイツ軍砲兵隊の優勢が明らかになり、長距離であっても直撃弾はほとんどすべてが炸裂した。一方でフランス軍の放った砲弾ははるかに射程距離が短く、標的に届く前にしばしば空中で燃えてしまった。だから全員が塹壕の中で小さくなっているしか手立てがなかったのだ! 銃を持つ手をゆるめ、茫然自失し、溜息をつくしかない。というのも誰に向かって撃つのか? なぜならば相変わらず地平線上には誰一人姿が見えないのだ!

 見方の砲隊はやがて沈黙し、敵の十字砲火は激しさをまし、次々に隊員が倒れ、しかし敵の姿は見えず、恐怖は極限まで達します。
 そのとき、前方四百メートル、小銃射程距離内の小さな森から、プロシャ軍が姿を現しました。その姿は、すぐにまた森の中に消えたのですけれども。

 だがボードワン中隊は、彼らを目撃してしまったので依然としてそこにいると思った。軍用銃が自ずから撃ち出された。最初にモーリスがその一撃を放った。ジャン、パシュ、ラブール、その他全員の兵士たちがそれに続いた。命令が下されたのではなく、大尉はむしろ銃火を止めようとした。するとロシャが気晴らしも必要だと言わんばかりに、大きな身振りを示したので、大尉は認めるしかなかった。さあ、ついに撃ったのだ! 一ヵ月以上も一発も撃たずに持ち回っていた薬包をついに使ったのだ! モーリスはそのことにとりわけ上機嫌で、恐怖も忘れ、銃声に恍惚となっていた。森の外れは死んだように音もなく、木の葉一枚そよともせず、プロシア兵も再び姿を見せなかった。そして兵士たちは不動の樹木に向けていつまでも銃を撃ち続けた。

 なんの効果もない銃撃、といいますか、弾が無駄になるだけのことなんですが、銃を撃ち続けることで、不安と恐怖がごまかせるんですね。
 砲撃にさらされるだけの長い長い待機の後に、ようやく前進命令が出ますが、すでにそのときには、前進どころか、逃げ惑うだけしかない状況に追い込まれています。
 予備のフランス軍砲兵隊がそばに来て布陣し、その中には、モーリスの従兄弟のオノレ・フーシャルがいました。しかし、布陣間もなく、プロシャ軍の砲撃に吹き飛ばされ、沈黙します。
 モーリスの歩兵部隊ではボードワン大尉も砲弾に倒れ、連隊長も死に、イイ高原のフランス軍騎兵隊は、自殺行為にも等しい壮絶な突撃をプロシャ軍にかけ、ほぼ全滅してしまいます。

 ロシャ中尉が中隊の退却を告げ、部隊はセダンの街中に向けて敗走をはじめますが、そのとき、砲弾の破片がジャンの頭をかすめ、ジャンは昏倒します。
 モーリスはそれを見捨てることができず、渾身の力を振り絞ってジャンを運び、川の水をくんでジャンの顔にかけます。そのとき、ふと遠くの谷間を見やると、朝見かけた農夫が、そのまま麦畑で働き続けています。
 ジャンは気をとりもどし、そうなってみると傷はたいしたことはなく、二人は自分たちの中隊に追いつき、プロシャ軍の嵐のような砲撃がおいかけてくる中、ガレンヌの森をつっきります。
 
 ああ、凶悪な森、殺戮の森だ! そこでは瀕死の樹々がむせび泣き、次第に負傷者たちの苦痛のうめき声が充満するようになってしまったのだ! 樫の木の下でモーリスとジャンは内蔵をはみ出させ、された獣のような叫びを上げ続けている一人のアルジェリア歩兵を目にした。さらに離れたところに別の兵士が火達磨になっていた。青い帯が燃え、炎は髪にまで及び、焼けこげていたが、おそらく腰のあたりをやられてしまい、動くことができず、彼は熱い涙を流していた。それから一人の大尉は左腕を引きちぎられ、右の脇腹は腿のところまで裂け、うつ伏せに倒れ、肘で這いながら、甲高く恐ろしいまでの哀願の声で殺してくれと頼んでいた。他にもまだ何人もがおぞましい苦しみの中にあり、草の小道にあまりにも多くの兵士たちが散らばって倒れていたので、通るときに踏み砕かれないように用心しなければならなかった。だが負傷者も死者もかまっているどころではなかった。倒れてしまった同僚は見捨てられ、忘れられた。後を振り返る余裕すらなかった。それが宿命だった。他人のことなどかまっていられなかったのだ!

 森の出口で、連隊旗を持った少尉が、肺に弾丸を受けて倒れます。

 「俺はもうだめだ。くたばるしかない! 連隊旗を頼むぞ!」
 そして彼は一人取り残され、何時間も苔の上でのたうち回り、この森の甘美な片隅にあって、麻痺する手で草をかきむしりながら、胸からうめき声を上げるのだった。


 フランス軍には、個々の兵士の勇気が欠けていたのでしょうか?
 いえ……、決してそうではないでしょう。
 圧倒的に強かったプロシャ軍ですが、一年に満たない戦争で13万人以上の死傷者(フランス軍28万以上)を出していますし、小銃同士の近接戦に持ち込めた場合には、プロシャ軍のドライゼ銃よりもフランス軍のシャスポー銃の方が射程が長く、フランス軍が善戦しているんです。
 なかなか、近接戦に持ち込ませてもらえなかったんですね。
 
 普仏戦争の戦死者は全体で25万人といわれますが、そのほんの2年ほど前の戊辰戦争の戦死者は、双方でわずか一万三千人あまり。
 火力の差もありますが、まずなによりも動員された兵士の数が圧倒的にちがいます。
 鳥羽伏見の戦いで、多めに見積もって幕府軍一万五千、薩長軍五千ですが、普仏戦争はセダンの戦いのみで、フランス軍が十万を超え、プロイセンはおよそ二十四万です。
 徴兵制ゆえの大軍です。島国で海軍中心のイギリスは、第一次世界大戦まで徴兵制はしかず、この時点で、こんな大陸軍は備えていません。
 いったい、フランスを見習って徴兵制を導入しました明治陸軍は、当初、どこの国のどんな攻撃に備えるつもりでいたのでしょうか。私には、明治初年からの長州の徴兵大陸軍指向が、さっぱり理解できません。

 それはともかく、セダンの戦いがフランスにとって悲惨だったのは、倍の数の敵軍により、十万を超える軍が狭い地域に押し込められ、圧倒的な火力をあびせかけられたがゆえ、です。
 人にしろ馬にしろ、あまりな数の死体で、勝者のプロイセン軍も、始末をつけることに難渋し、腐敗し、悪臭を放って、疫病が蔓延します。捕虜になったフランス軍は、これもその数の多さゆえに、なってなお、飢えに苦しみ、多数の死者を出します。

 ニコールは宮古湾海戦で、回天に乗り組んでいまして、艦長の甲賀源吾は戦死し、ニコールも軽傷を負いましたが、少なくとも、数がもたらす悲惨さからは、まぬがれていたと思うのです。
 命が助かったコラッシュは、普仏戦争が終わって宮古湾海戦をふりかえったとき、おとぎの国の戦いででもあったかのような、そんななつかしさを抱いたのではないでしょうか。
 ところで、その回天が、実はプロイセン海軍が初めて自国で作った軍艦、ダンジック号であったということも、なんとも数奇な運命です。
 回天について、詳しくはwiki-回天丸をご覧ください。

 なかなか、話が正名くんにいきつきませんが、次回に続きます。

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普仏戦争と前田正名 Vol5

2012年01月13日 | 前田正名&白山伯

 普仏戦争と前田正名 Vol4の続きです。

 大佛次郎氏の「パリ燃ゆ I」をじっくり読んでみまして、「巴里の侍」 (ダ・ヴィンチブックス)の月島総記氏がどのように誤読なさったかは、なんとなくわからないでもないのかな、と思いもしたのですが、それにいたしましてもすさまじい誤読です。
 ぱらぱらっとめくって目についたところだけでも、まだまだ多数あります。

 ウィサンブールは原野の丘じゃなく、鉄道が停車する街だから!!!というあたりはまだしもこう、誤読の経緯の見当がつかなくもないのですが、ウィサンブールの戦いの折りの「大本営」とやらは、セダン(スダン)ではなくメスでして、ウィサンブールの戦いの敗残兵が翌日にセダンに逃げこむって、ありえんでしょ!!!と、このあたりはどうなんでしょうか。
 「パリ燃ゆ」にはちゃんと「メェッスに置かれた大本営では」とあって、こうなってまいりますと、「あーた、ほんとに読んだの???」と聞きたくなります。
 とりあえず、地図で地名をひろってみましたので、ご参照のほどを。

 Googleマップ 普仏戦争
 
 要約が下手というより、読解力がなさすぎなのかどーなのか、大佛次郎氏に失礼です。
 普仏戦争について、日本語で書かれた本は少ないのですけれども、うまい要約でしたら、鹿島茂氏がしてくださっています。

 
怪帝ナポレオン三世 第二帝政全史 (講談社学術文庫)
鹿島 茂
講談社


 上の本から引用です。

 八月二日、両軍はザーレブリュック(ザールブリュッケン)で最初の衝突をした。敵軍の機先を制するつもりでナポレオン三世がプロシャ領内のザーレブリュックの攻撃を命じ、プロシャ軍を町から撤退させたのである。この「勝利」の知らせはパリで大きく報じられた。
 八月四日にはまずプロシャ領内のヴィセンブルク(ウィサンブール)でアベル・ドエー将軍率いるフランス軍部隊が皇太子カイザー・ヴィルヘルム二世の率いるプロシャ軍に蹴散らされ、六日には、ロレーヌのフォルバックでフロサール軍がフリードリッヒ・カルル王子麾下のプロシャ第一軍に、またアルザスのレショーファン(ライヒショーフェン)ではマクマオン軍がフリードリッヒ・ヴィルヘルム王子率いるプロシャ第三軍に、それぞれ急襲されて大敗北を喫し、退却を余儀なくされたのである。こうして、アルザスとロレーヌはプロシャ軍に占領され、第一次世界大戦までドイツ領となるのである。
 この大敗北をメッスの総司令部で知ったナポレオン三世は、絶望のどん底に突き落とされた。総司令部の将軍たちは、辛うじて退却に成功したフロサール軍とマクマオン軍を一カ所に集め、反撃を用意すべきだとしたが、ナポレオン三世は遠方のシャロンまで思い切って後退し、その地で予備役軍と合流し、パリ防衛のための強固な軍を再組織すべきだと考えた。


 文中、ヴィセンブルク(ウィサンブール)をプロシャ領となさっている点は、私が見ました普仏戦争の地図では、フランス領アルザスになっていまして、ちょっと疑問符をつけておきます。1801年、ナポレオン一世とローマ教皇の間で結ばれましたコンコルダート(政教条約)以前は、ドイツ諸国側のシュバイエル司教区管轄だったそうですが、第二帝政期にはどうだったのでしょうか。

 ともかく開戦当初、フランス軍とプロシャ軍は、アルザスとロレーヌの二カ所でぶつかります。
 フランス軍もドイツに侵攻する気がなかったわけではないのですが、不手際が重なり、結局、防御陣をしいてドイツ軍を待ち受ける形になるのですが、それが、ロレーヌのティオンヴィル(メス北方で国境を越えればルクセンブルク)を中心とした地域から、アルザスのベルフォール(ストラスブールの南で国境の向こうはスイスのバーゼル)まで、二百キロを超えるドイツ圏国境線に、20万人をばらまいたんですね。
 このことは、「パリ燃ゆ」にも「(フランス軍)敗北の主たる原因は二百六十キロに渡る国境線に軍を散開させたに依るものとされた」と、ちゃんと書いてあります。

 アルザス、ロレーヌは、もともとはドイツ語圏でして、アルザスは17世紀半ば、ロレーヌは18世紀半ばにフランス領となりました。しだいにフランス文化が浸透し、同化してはいたのですけれども、隣接しますドイツ語圏との関係も濃く、ドイツ人が親戚を訪ねたり、あるいは出稼ぎや取り引きに出向くことも多々ありましたので、いても目立ちませんし、プロシャは早くから多数のスパイを放っていたんですね。
 一方のフランスは、挑発されて、国民が熱狂してしまい、政府が戦争をするしかない状態に追い込まれての開戦。なんの準備もなく、士官、将官さえ、ろくに戦場の地図ももっていない状態だったと言います。

独仏対立の歴史的起源―スダンへの道 (Seagull Books―横浜市立大学叢書)
松井 道昭
東信堂


 松井道昭氏は、近代フランス社会経済史がご専門の先生で、大佛次郎記念館の嘱託研究員もなさっておられた方だそうです。この本は、ヨーロッパ史の中における普仏戦争開戦までのドイツ・フランス関係史を、わかりやすくまとめてくださっていますが、普仏戦争開戦時の状況について、以下のように述べておられます。

 準備万端整った国と不用意に挑発に乗ってしまった国との勝負では、実力以上の差が出てしまうであろう。しかも、戦争の大義はドイツ側にあった。ドイツは国家統一の達成という目的を掲げていた。対するフランスはそれを妨害することによって、綻びの目立つ帝政を繕うという目的を持っていた。だれの眼にも、燦然と輝く大義と、手前勝手で見栄えのしない大義とのコントラストと映った。

 兵力に歴然たる差があった。動員・装備・訓練・指揮のいずれをとってもドイツ側に一日の長がある。動員令が発令されると、ドイツ軍の総数五〇万人は四軍体制でもって記録的なスピードで所定の配置につく。鉄道が彼らの迅速な行動を保証した。全軍は、国境突破せよという命令を今や遅しと待つ。
 対するフランス軍は最初から混乱状態に陥る。正規軍は部隊編制不十分なまま闇雲に国境をめざすが、鉄道ダイヤはないも同然で時間を空費する。いざ部隊が目的地に着いてみると、兵器も弾薬も糧食も届かず、おまけに指揮官さえ到着していないという有様であった。予備役軍にいたってはめいめいが装備を整えたうえで市町村役場に出頭し、ここで命令書を受け取って目的地に向かう。鉄道便のあるところは、それを利用するが、それがないところでは歩いて行かざるをえない。ともかく七月中に動員された兵力は二五万人にしかならなかった。作戦計画はないも同然だったから、スイス国境に近いバールからルクセンブルクまで兵士を漫然と薄く並べたにすぎない。


 松井道昭氏は、普仏戦争について、詳しくブログに書いてくださっています。近々、本にされるそうで楽しみに待ちたいと思いますが、こんなに詳しいものをiPadで読ませていただけるとは、これだけでも幸せです!

 松井道昭氏のブログー普仏戦争

 松井氏のブログも参考にさせていただいて、アルザス、ロレーヌの大敗北以降を簡単にまとめますと、絶望したナポレオン三世は、バゼーヌ元帥に総司令官の地位をゆずり、軍を二つにわけます。アルザスにいた軍を中心とするマクマオン軍と、直接バゼーヌが率いる18万もの精鋭軍と、です。
 ナポレオン三世の当初のつもりでは、バゼーヌ軍もシャロンへ、ということだったのですが、結果的にバゼーヌ軍はメスに釘付けにされてしまいます。

 一方、ナポレオン三世とマクマオン軍はシャロンで、パリからの援軍と落ち合います。
 アルザス、ロレーヌ敗戦の報が届いたとき、開戦内閣は総辞職となり、太平天国の乱で活躍したパリカオ(八里橋)伯爵ことモントーパン将軍が、戦時内閣の首班となっていたのですが、なまじ軍人であったばっかりに、この人が摂政ウジェニー皇后といっしょになって、パリからマクマオン軍を指揮しようとするのですね。
 シャロンは守りに向いた地ではなく、皇帝はマクマオン軍とともにパリへ帰って防衛するつもりでした。しかし、パリカオはそれを拒み、メスへ帰ってバゼーヌ軍と合流するように要請します。
 結局、2万の軍だけをパリへ帰し、残り13万のマクマオン軍と皇帝は、メスへ向かうこととなりました。
 あげくの果てに、プロシャ軍にはばまれてメス方面には行けず、セダンに追い込まれ、袋の鼠になったというわけです。

 前回、エミール・ゾラの「ナナ」 (新潮文庫)のラストに、普仏戦争開戦の日のパリが描かれている、とお話しましたが、ルーゴン=マッカール叢書の最後を飾る19巻「壊滅」は、時期的にはこの直後、アルザス防衛の最前線から話がはじまります。当時を生きたジャーナリストのゾラが、綿密な取材を重ねて普仏戦争とパリ・コミューンを描いていますから、非常なリアリティがあり、大佛次郎氏も、資料として「パリ燃ゆ」で使っておられます。

壊滅 (ルーゴン=マッカール叢書)
エミール ゾラ
論創社


 主人公は、開戦直後、アルザス南端、ベルフォールにいましたフェリックス・ドゥエ将軍率いる第七軍団第二師団に属する、二人の兵士です。
 ジャン・マッカールはナナの叔父にあたり、実直な農民です。
 1859年、イタリア統一戦争に際して、フランスが統一を志すサルデーニャ王国に味方してオーストリアと戦ったソルフェリーノの戦いに、一兵卒として従軍していました。妻を亡くし、土地を失ったちょうどそのときに、戦争が始まるという噂を聞き、39歳にして志願しました。10年前の従軍経歴により、伍長になっています。

 モーリス・ルヴァスールは、セダンに近いシェーヌ・ポピュール(ル・シェーヌ)の出身で、祖父はナポレオン一世軍の英雄でした。
 父親は収税役人でしかありませんでしたが、モーリスを法律の勉強のためパリに遊学させます。
 しかし、若いモーリスは、帝政バブルのパリで放蕩の限りをつくし、父親は全財産を亡くして死にます。
 モーリスには、アンリエットという双子の姉がおり、弟を案じておりましたが、一文無しになりながら、スダンの織物工場の監督になっているヴァイスという好青年と、恋愛結婚をしていました。
 二十歳にして、実家を破産させるという不名誉を背負ったモーリスは、熱狂しやすく、そして感じやすいインテリです。
 当時の進歩的な思想でありました進化論にのめりこみ、戦争は国家の存亡のためにやむをえない必然的なことだと、信じていました。
 以下、引用です。

 大きな戦慄がパリを震撼させ、狂乱の夜が再び出現し、通りは群衆や松明を振りかざした団体群であふれ、「ベルリンへ! ベルリンへ!」と叫び立てていた。市役所の前で、女王のような顔をした大柄な美人が御者台に立って旗を振りながら、「ラ・マルセイエーズ」を歌っているのがずっと聞こえてきた。だからパリ自体が熱狂の中にあった。

 このパリの熱狂にかられてモーリスは志願し、一兵卒となりますが、一兵卒として経験する軍の現実、つまり垢にまみれて悪臭がし、教養もない(読み書きができないものも多数)粗野な兵隊仲間とのつきあいや、機械的で体は疲労し、頭は鈍くなる一方の訓練が、彼をうんざりさせます。
 それでも、部隊が汽車でベルフォールへ出発するときには、勝利を確信して、再び熱狂がモーリスをつき動かしたのです。
 ところが、です。

 すべての物資をまかなうはずであったベルフォールの軍事倉庫は空になっていて、悲惨極まりない欠乏状態に追いやられてしまった。テントもなければ、鍋もない。フランネルの腹帯も、医療行李も、馬の蹄鉄も足枷もないのだ。一人の看護兵もおらず、また一人の兵站担当者もいなかった。最近になって、銃撃戦に欠くことができない小銃の予備品が三万挺も紛失しているのに気づき、そのために一人の士官がパリへ派遣され、かろうじて何とか五千挺を工面して持ち帰ったと判明したばかりだった。

 というような状態でして、しかもフェリックス・ドゥエ将軍には、味方の他の軍団がどうしているのか、敵はどこにいるのか、さっぱりもってなんの情報も、入ってはきませんでした。これはなにも、この軍団に限ったことではありませんで、二百キロを超える国境線に散在した20万人のフランス軍団の連絡は、まったくもって上手くいってはいなかったのです。
 これもまた、どこもがそうだったのですが、なにもかもが足らず、予定の人数もそろわないベルフォールで、無為に二週間の時が流れます。
 そして、8月3日に突然、前日のザールブリュッケンの勝利が熱狂的に伝えられ、二日後、ウィサンブールの部隊がプロシャ軍のふいうちをくらって全滅との知らせ。
 
 地図を見ていただければわかるのですが、ベルフォールの東方、アルザスとバーデン大公国(南ドイツ連邦国でプロシャと同盟)の国境は、ほぼライン川の流れと一致します。この国境にそって、フランス・アルザス側の大きい都市はミュルーズで、バーデン大公国側はフライブルク(関係ないですが松山の姉妹都市です)。
 郡長から急報があり、プロシャ軍がライン川を渡ってきて、マルコルスハイムに向かっている、とのこと。
 ジャンとモーリスが属するベルフォール軍は、あわててミュルーズへ張り出すことになり、ろくに食料の準備もなく強行軍です。
 ようやっとたどりつき、ミュルーズから2キロの郊外で野営し、さあ戦うぞ!と意気込んでいましたところが、今度はまた突然、来た道をベルフォールへ退却。
 フランス軍の敗報が次々に伝わってくる中、マルコルスハイムとは別のプロシャ軍の部隊が、ミュルーズの南方、フニンゲン(エフリンゲン=キルヒェン)でライン川を越えて、アルトキルシュへ向かっているとの知らせがあり、このままではベルフォールへの退路を断たれて孤立してしまう、という不安から、一発も弾を撃つことなくの退却となったわけでした。

 パニックに陥ったのは、この地方の住人です。
 自分たちを見捨てて、フランス軍が引き揚げていくのです。一発の弾も撃つことなく。
 土地に愛着を持つ農民は、逃げるわけにもいかず、踏みとどまっていました。
 虚ろな目で、退却する兵士たちを見つめる農民のそばに、まだ若いその妻がいて、その腕に一人、そのスカートにすがる一人の子供とともに、泣いていました。
 しかし、背が高くてやせたその家の祖母は、怒っていました。
「卑怯者! ライン河はそっちじゃないぞ……ライン河は向こうの方だ。卑怯者、卑怯者め!」
 老婆の罵声に、自らも農民であるジャンは、目に大粒の涙を浮かべます。
 
 一見、水と油のようなジャンとモーリスは、負け戦の中で無二の親友となって、衝撃の結末を迎えることになります。
 
 えーと、話が正名くんまで行き着きませんでしたが、正名くんもモンブラン伯爵も、ジャンとモーリスと同時代のパリで、生きていたんです。
 次回に続きます。

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普仏戦争と前田正名 Vol4

2012年01月10日 | 前田正名&白山伯

 普仏戦争と前田正名 Vol3の続きです。

 普仏戦争、パリ包囲戦におきます前田正名。
 正名くんは実際にその経験をしたわけでして、私なども、さまざまに想像してみるわけなのですけれども。

巴里の侍 (ダ・ヴィンチブックス)
月島総記
メディアファクトリー


 この本への文句ならば、最初からもう、山のようにあります。
 まず、いったい坂本龍馬がフ・レ・ン・チのなにを知っているというの?????、です。
 「エゲレスとは仲の悪い国じゃがの」「フレンチの屋台骨を支えるんは、軍の力、農の力、そして商と工の力じゃ。何にも負けぬ軍とそれを支える農民。盛んに貿易をして世界中から財を集め、それを元手に物を造る。豊かになるのはまあ道理じゃの」なんぞと、えらそーに正名くんに語ったことになったりしているんですが、もう、なんといいますか。

 第二帝政期のフランスはイギリスとは仲がいいんです。イギリスでの亡命生活が長かったナポレオン三世が、ちょっといきすぎなくらいの親イギリス政策をとっていたんです。クリミア戦争の出兵など、その典型でしょう。
 広瀬常と森有礼 美女ありき10に書いておりますが、フランスは、イギリスとの共同作戦で極東にまで来てペトロパブロフスク・カムチャツキー包囲戦をくりひろげ、函館で傷病兵を休ませて、五稜郭ができるきっかけを作っております。
 太平天国の乱でもフランスは、英国といっしょになって鎮定軍を組織し、そのときにフランス軍を指揮しましたパリカオ将軍が、普仏戦争の陸相、次いで戦時内閣の首班になっていたりします。

 農の力はさておき、軍の力も商と工の力もイギリスの方がはるかに上です。「盛んに貿易をして世界中から財を集め、それを元手に物を造る」って、それはイギリスのことであって、フランスではないですから。
 これまでさんざん書いてまいりましたが、幕末、日本が開港しました当初、ヨーロッパで蚕の病気が流行り、さっぱりと生糸の生産ができなくなります。絹織物産業の盛んなフランスでは非常に困り、中国、次いで日本から生糸を輸入するわけなのですが、極東からヨーロッパへ生糸を運んで売るのはイギリス商人でして、まずはイギリスに荷揚げされ、それからフランスに輸出されていたんです。そういうルートがすでに確立してしまっていました。
 これをなんとか打破しようとしましたのが、フランスの駐日公使レオン・ロッシュで、知人で銀行家のフリューリ・エラールを抱き込み、日仏独占生糸交易をもくろみ、在日イギリス商人たちの多大な反発を買うわけなんですけれども、これはいわば、ロッシュ個人がもくろんだことでして、フランスが国として、イギリスと仲が悪かったわけでは、決してありません。
 前々回にも書きましたが、フランスがイギリスの上をいっておりましたのは、旺盛な消費意欲です。

 いや、ですね。
 こんなにものを知らない龍馬にフ・レ・ン・チのことを聞きませんでも、慶応2年当時の長崎には、正名くんと同年代の薩摩人でパリ帰りの町田清藏くんがいるんです!!!巴里にさようなら、薩摩貴公子16歳の別れ vol2参照)
 長崎に留学します前の正名くんは、門閥のおぼっちゃんである清藏くんのヨーロッパ密航留学が、うらやましくってうらやましくってたまらなかったわけなのですから、帰国しました清藏くんが、薩摩藩長崎留守居役の汾陽(かわみなみ)から、「ここの老人仲間におられてはご窮屈であるから、書生のところにおいでなさい」といわれて、自分たち長崎留学生のもとに来たのを幸い、清藏くんの話に、目を丸くして聞き入ったにちがいありません。あるいは、清藏くんを丸山遊郭に誘って費用を払わせた書生って、正名くんだったりしないともかぎりませんしい(笑)。
 なんといいましても清蔵くんは、「私が仏国留学中、モンブラン伯の御妹子が男爵家に御婚儀が調ひました時、あたかもその時はゼルマン(プロイセン)とオーストリヤとの戦争中でありましたから、男爵家の観戦御旅行に随従しましたが、私もまだ16歳の時で、かつまた戦ということは、前九年後三年の絵本で見たばかりで、実物の鉄砲戦は生まれて始めて見る事で、それはそれは恐ろしきや面白いようでした」ということでして、起こったばかりの普墺戦争の見学までしてきているのですから、その話がおもしろくないはずがありません。

 えー、言い始めるときりがないわけですが、普仏戦争とパリの薩摩人 Vol1で最初にふれましたように、どうもこの小説は、下の司馬さんのエッセイ集に収録されています「普仏戦争」に着想を得て、明後日な方向に膨らましてみただけのようです。

余話として (文春文庫 し 1-38)
司馬 遼太郎
文藝春秋


 「龍馬の弟子がフランス市民戦士となった???」「美少年は龍馬の弟子ならずフルベッキの弟子」を続けて読んでいただければわかるのですが、司馬さんにとっては、エッセイも説話です。
 
 それで、です。
 題名が「巴里の侍」というくらいでして、おおざっぱに言ってこの小説は、正名くんを主人公に「普仏戦争とパリコミューンに参加して戦って、日本の侍としての誇りを取り戻し、コンプレックスを解消する!」というような、荒唐無稽な筋立てなんですが、普仏戦争とパリコミューンって、侍の誇りとは水と油ですし、だ・か・ら、いつの時代のどこの話???と聞きたくなるくらい、わけのわからないことになっています。

 なにがいやだって、です。戦う話なんですから、せめて戦争のおおざっぱな、一般的な事実関係くらい正確に書いてもらいたかったんですけど、下の本を参考書に挙げながら、かなりの曲解をしていませんか?と、首をかしげたくなるんです。

新装版 パリ燃ゆ I
大佛 次郎
朝日新聞社


 いや、ですね。「パリ燃ゆ」はずいぶん昔に書かれたものですし、パリ・コミューンの位置づけなどについては、ソ連の崩壊以降、かなりちがった見方がされるようになってきてはいるんですけれども、そういった解釈の問題はさておき、大佛次郎氏は膨大な資料を駆使されていて、事実関係が大きくちがっていたりはしないんですけれども。

 最初に、普仏戦争開戦決定の日のパリです。
 このときのパリの民衆の大騒動は、ものすごく有名な話だと私は思っていたんですが、ちがうんでしょうか。
 大佛次郎氏が書いていないはずはない、と思いましたら、やっぱり、書かれてはいたんです。

「ベルリンへ!」
「ベルリンへ!」
 この声が不安を圧倒し去った。戦争には、いつものことだ。そのことしか見えなくなる。軍歌が危惧を打消し、また、その目的の為に一層声を高らかに歌われる。
 

 軍歌といいますのは、ラ・マルセイエーズです。
 ラ・マルセイエーズは革命歌でもありますから、王制や帝政期には、国歌ではなかったんです。しかし、対外戦争において、ナショナリズムを鼓舞する歌でもあるわけでして、戦争になると歌われるんです。

ナナ (新潮文庫)
ゾラ
新潮社


 前回もご紹介しましたエミール・ゾラの「ナナ」なんですが、この小説のラストシーンが開戦の日のパリなんです。
 私が読んだのは、確か高校生のころ。感じやすい年ごろだったせいでしょうか、グランドホテルの一室で、若くして天然痘で死んでいきますナナの無惨な姿と、窓の外の「ベルリンへ! ベルリンへ!」という群衆の熱狂の対比に圧倒され、ずっと記憶に残り続けました。
 ゾラは当時、政治ジャーナリストとしてパリにいて、実際にこの騒ぎを体験して、小説の中に描き残したんです。
 以下、引用です。

 その日、議会は戦争を可決したのだ。無数の群衆が街という街から出て来て、歩道に流れ、車道にまで溢れていた。
 
 ー見てごらんよ、ほら、見てごらんよ! 大変な人だわ。
 夜がいっぱいに拡がり、遠くのガス燈が一つ一つ灯っていた。だが、窓という窓には、物見高い人の顔が見分けられ、一方、並木の下には、人の波が刻々に膨れ上がって、マドレーヌ教会からバスティーユの監獄にかけて、巨大な流れとなって進んでいた。馬車ものろのろとしか進めなかった。同じ情熱のもとにひとつに塊まって、足を踏み鳴らし、熱狂したい欲求から集まってきた、まだ物も言わずにぎっしり詰まっていた群衆から、どよめきが湧き起こってきた。


 群衆は相変らず増えていった。店屋の光に照らされ、ガス燈の揺らめく灯りの幕の下には、帽子を運んでゆく両側の舗道の上の、二つの流れがはっきり見えた。この頃になると、熱狂が次から次へと伝わり、人々は作業服の一団のあとにくっついてゆき、絶え間ない人波が車道を掃いていった。あらゆる胸という胸から叫び声が迸り出て、断続して執拗に繰返した。
 ーベルリンへ! ベルリンへ! ベルリンへ!


 グランドホテルといいますのは、現在のインターコンチネンタル・パリ・ルグランのことでして、オペラ・ガルニエのすぐそばですから、グラン・プルヴァールと呼ばれましたパリ一番の繁華街。ティボリ街から、簡単に歩いて行ける距離です。

 司馬さんが、もしも開戦の日の正名くんを描いたとしましたら、かならずやゾラのこの名場面を引用し、ナショナリズムについて語ったりされたんだと思うのですが、「巴里の侍」の月島総記氏は、ある日正名くんが平穏なパリの街を歩いてティボリ街の公使館に着くと、モンブランが狼狽してこう言った、というような、唖然とするしかない珍場面に仕立ててくれているんです。

「今朝未明。我がフランスと隣国プロイセンが、交戦状態に入った」
「プロイセンとー?」
「そう、戦争だ」

 い、い、い、いや、いくらなんでも、パリの住人が、開戦の日に至って「プロイセンとー?」なんぞと暢気に聞くなんぞ、間抜けの馬鹿以外の何者でもないでしょ。

 えー、以降、書かなければいいのに、普仏戦争の一般的な描写が続きまして、これがまた、嘘ばかり。以下に、列挙してみます。

 ー瞬く間に時は過ぎ、それから約二週間後。八月二日の午後一時。
 所はパリの東、およそ五百km離れた平野地帯。
 広大な緑の草原の中に、なだらかな小高い丘がある。
 フランス=プロイセン国境傍の『ウィサンプールの丘』。そこには見渡す限りフランス軍兵士が並んでいた。
 恐らく今日、プロイセン軍との最初の衝突が起こると予想されている。

 い、い、い、いや、8月2日の最初の衝突は、アルザス国境のウィサンブールじゃなくって、ロレーヌ国境に近いプロイセン領のザールブリュッケンだから。ウィサンブールはその二日後。

 皇帝は開戦が決まってからしばらく、国境から遠く離れた後方に待機し、動こうとはしなかった。軍の指揮を行うよりも、外交戦術の方を優先していたのである。
 しかしその交渉の目処が立たぬまま、プロイセン軍が侵攻してきたのを聞き、ようやく三日前に重い腰を上げ、大本営入りしたのだった。

 い、い、い、いや、いくらナポレオン三世が軍事音痴でも、そこまでの間抜けじゃないから。ザールブリュッケン攻撃は皇帝の命令だし、小競り合いながら勝利してドイツ軍が撤退した直後、皇帝は皇太子を連れて視察と激励に入っているの。

 フランス軍の主力砲『四斤山砲』ー長さ九十六㎝の砲身に大きな車輪をつけた、運用の容易な移動砲台。爆発を伴う砲弾を使用し、火力にも優れたその砲が、十五門用意されていた。
 兵数もさることながら、装備も極めて充実している。

 あーた、フランス軍の前装四斤山砲が、プロシャ軍の後装クルップ砲に負けていた、というのは有名な話でしょうが。

 フランス軍に決定的に欠けていたものは、兵力でもなければ装備でもない。
 ただ一つ、士気であった。

 フランス軍の方が兵数もはるかに少ないし、輸送の不手際から装備もそろわず、食い物さえろくに配給されなかったりする状態だったりしたんだけどねえ。兵士の士気だけは旺盛だったのに、一発も撃たないうちに退却させられたり、右往左往させられたのでは、士気も萎えるでしょうよ。

 架空戦記じゃあるまいし、なんでここまで、一般的な記述で嘘を書いてしまえるんでしょうか。嘘といいますかなんといいますか、極めつけはこれです。
 
 当時のプロイセンはオーストリアとの戦いを制し、勢力を急速に拡大していた。
 その拡大した勢力地図に、フランス領が隣接していた。プロイセンにとって大国フランスは、自国の躍進を阻む目の上のたんこぶである。

 え、え、え、えーと。ラインラントは1815年からプロシャ領で、プロシャは普墺戦争の結果でフランスと国境を接したわけではないんだけどねえ。そして、普墺戦争も普仏戦争も、プロシャはドイツ統一のためにやったわけだし。

 この時期のフランスの対外戦争と外交は、プロシャがドイツ統一を志していたことと、サルデーニャがイタリア統一を果たそうとしていたことをぬきにしては、まったくもって語りようもないわけなのですが、普仏戦争をあつかいながら、この小説ではまったくの無視。
 戦争がただひたすら、個人的な勇気を披露する場でしかないのならば、実在の戦争の名をおっかぶせなくとも、架空のファンタジーでやってくださればよさそうなものなのですが。
 
 ブログの方は、実際の普仏戦争と正名くんを追って、次回に続きます。

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普仏戦争と前田正名 Vol3

2012年01月08日 | 前田正名&白山伯

 普仏戦争と前田正名 Vol2の続きです。
 
 前回書きました名倉予何人と三宅復一について、なんですが、モンブラン伯の明治維新に、日記の孫引きをしております。2006年初頭の記事で、ろくにモンブラン伯爵のことがわかっていなかったころのものなのですが、大きな訂正はありません。

 ただ、ちょっと、ですね。クリスチャン・ポラック氏が、「絹と光―知られざる日仏交流一〇〇年の歴史」に五代友厚をはじめとする薩摩視察団を「サンジェルマン・デプレの自邸に迎え入れる」と書いておられる件、いったいなにを資料とされているのか、いまもってわかりませんで、気にかかっています。

 普仏戦争とパリの薩摩人 Vol1に書きましたが、新納竹之助(武之助)少年が通っておりましたオルチュス塾は、パリ左岸サンジェルマン・デプレにあり、としますと、五代がパリを訪れていた当時、ジェラールド・ケンがいて、後に町田清蔵くんが住むことになりました下宿は、やはりサンジェルマン・デプレであろうかと推測されるわけなのですが、一方で、「優雅な生活―“トゥ=パリ”、パリ社交集団の成立 1815‐48」によりますと、セーヌ川をはさんで、テュイルリー宮殿とむかいあっておりましたフォブール・サン=ジェルマン地区、第二帝政期にオルチュス塾があった地域なんですけれども、その地区は、ルイ一五世時代に貴族が屋敷をかまえていたんだそうなんですね。
 大革命期には政府に没収されたりしたのですが、その後返還されたものも多く、復古王制期になりますと、新興貴族の中にもこの古いお屋敷町を好む者が増えて、品のいい貴族街になったんだそうなんです。

 モンブラン邸のありますショセ=ダンタン地区は、いわば成り上がりの街です。
 モンブラン伯は維新回天のガンダルフだった!? 番外編の後半に書いておりますが、モンブラン家が伯爵となったのは1841年のことで、7月王制下、「中産階級のごきげんとりをする俗悪なルイ・フィリップ王」によって、です。
 それより以前、おそらくはモンブランの父親がインゲルムンステル男爵となったころに、新しく開発されていましたヨーロッパ街区の高級住宅地を買って邸宅としたのではないか、と思われるのですが、例えば叔母さんの家とか、母親の持ち家とか、サンジェルマン・デプレにも屋敷があったとして、おかしくないような気がしないでもありません。

 ところで、ショセ=ダンタン通りは一時、モンブラン通りという名だったことがあります。
 モンブラン(山です)を領地としておりましたサルデーニャ王国(ピエモンテ王国とも)をフランスが占領し、モンブランがフランス領となりました記念に、です。しかし、1815年、ナポレオン失脚後のウィーン会議で、サルデーニャは旧領を回復し、モンブランもフランス領ではなくなりましたので、再びショセ=ダンタン通りとなりました。
 いったいなぜモンブラン伯爵家なのか、あるいはモンブラン家はサルデーニャ王国、サヴォイアの出身だったりしないのかなあ、と憶測してみたり、です。

黒衣の女ベルト・モリゾ―1841-95
ドミニク・ボナ
藤原書店


 ベルト・モリゾは、1874年の印象派の旗挙げに、ただ一人の女生として加わっていました画家です。
 ブルジョワのお嬢さんですが、マネはモデルとしてベルトを気に入り、この表紙の絵は、マネの筆になります。
 それはさておき、上の本から引用です。

 ティボリ公園の跡地に作られたヨーロッパ広場の界隈には個性がある。サン=ラザール駅に近いことから、画家たちは容易に田舎や、アルジャントゥーユやオンフルール、あるいはポントワーズに行くことができ、快適な季節には戸外で喜んで絵筆を握る。界隈は大きな建物と、小市民階級がとりわけ好む小庭のある家々が奇妙に混じりあい、パティニョル地区のように、裕福な雰囲気の中に「労働者階級の」様子をとどめている。年金生活者や小市民階級、商人たちが暮らし、豪奢な邸宅には妾が囲われている。パリの中心にあるという利点を提供しながら、家賃は左岸や、十七区のもっと貴族的でもっとスノッブな地区、つまりマルセル・プルーストの十七区、クールセル大通りやテルヌ大通りより安い。生涯のある時期に、ここにアトリエを持つことになる、マネやバジール、ヨンキント、モネ、シスレー、ルノワール、ホイッスラー、ピュヴィ・ド・シャヴァンヌたちにとって、またさほど遠くないモンセー街に住んでいるゾラにとって、また、パティニョル街八十九番地、次にモスクワ街二十九番地、さらにローマ街八十九番地にひどく質素に暮らすことになるマラルメにとって、パティニョル地区は望外の幸せだ。十九世紀末に非常に多くの芸術家たちが集まる。やがて旗印と集合地点になるだろう。印象派という用語のもとに結集する前に、印象派の画家たちの大部分が「パティニョル派」、つまりマネの友人たちのグループに属していたといえるだろう。

 「十七区のもっと貴族的でもっとスノッブな地区」といいますのは、第二帝政期のオスマン大改造で開発されました、モンソー公園周辺の高級住宅分譲地です。
 引用文中にも名前が出てきますが、ボードレールに続き、マネを擁護しました文筆家、エミール・ゾラは、第二帝政期を舞台にして20巻におよびます小説、ルーゴン=マッカール叢書を書いております。ゾラはもともとジャーナリストでして、綿密な取材に基づき、風俗を描写してくれていますので、当時のパリを知るのにとても役立ちます。
 一番有名な9巻目の「ナナ」 (新潮文庫)については、喜歌劇が結ぶ東西に詳しく書いておりますが、パリ万博が始まった1867年4月から、普仏戦争開戦の1870年7月までのパリが舞台です。
 この主人公の高級娼婦・ナナの豪壮で最新の流行に彩られた邸宅が、モンソー地区にあったりします。



 マネが描きましたナナです。
 背景に日本画みたいな絵がありますよね。実際、原作にも、ナナの家の調度品として「気取った日本の屏風」があげられていまして、日本の美術工芸品は、当時の最新流行の調度品だった、と考えてよさそうです。
 マネは、作者ゾラの肖像も描いていますが、その背景には、あきらかに日本の屏風と浮世絵があります。




 この肖像画は、1867年から1868年に描かれていまして、これは、1867年のパリ万博に日本が出品したものを購入したのでは? とも思えるのです。
 リーズデイル卿とジャパニズム vol10 オックスフォードに書いておりますが、1862年の第二回ロンドン万博には、駐日イギリス公使ラザフォード・オールコックの手配で日本の美術工芸品が出品され、日本の文久遣欧使節団も会場に姿を見せておりました。
 この使節団には、夢の国の「シルクと幕末」に出てきます本間郡兵衛も通訳として加わっておりましたし、彼は北斎の弟子でした。
 また、奇書生ロニーはフリーメーソンだった!などに書いておりますが、使節団はフランスをも訪れていて、レオン・ド・ロニーが接待役を務め、関心を呼んでいますし、すでにこのころのパリには、日本の美術工芸品を専門に扱う店もあって、美術家たちには、絵草紙や浮世絵が非常な人気だったといわれます。

 
ジャポニスム入門
クリエーター情報なし
思文閣出版


 上の本によれば、「ジャポニスムという見地からマネが興味深いのは、日本美術からの造形的な刺激を自らの問題意識にそった形で作品の中に生かしているからである」ということでして、また、マネ自身は加わりませんでしたけれども、1874年にモネ、ドガ、ルノワール、セザンヌ、ピサロ、モリゾなど、マネの友人たちが開きました第一回印象派展を評して、カスタニャリは「印象派の画家たちは絵画の日本人たちと呼ばれている」と伝えているのだそうです。
 マネ、ゾラと親しく、印象派の擁護者だったテオドール・デュレもまた、「印象派の成り立ちを説明するにあたって日本美術からの影響を明確に指摘し、特に日本の絵冊子に見られる陽光の輝きに満ちた大胆で斬新な彩色からの刺激を協調した」と言います。

 マネは1864年から二年間ほどは、バティニョール大通り34蕃地に住んでいましたが、1866年から死ぬまで、サン・ペテルスブール街にアトリエと住居をかまえていました。このうちのサン・ペテルスブール街46蕃地のアパルトマンは、ベルン街とまじわるところにありまして、サン・ラザール駅のごくそば。モンブラン伯爵のティボリ街の邸宅からも、ほんの300メートルあまりの距離、といったところです。



 上のマネの絵は、マネが普仏戦争後の1873年(明治6年)に描いたものですが、「鉄道」という題名で、鉄格子の向こう、左手の建物がサン・ペテルスブール街46蕃地のマネのアパルトマン、右手にはさだかではありませんがヨーロッパ橋が描かれ、白い煙は機関車のもの。つまりは、サンラザール駅なのです。

 これまでに、ずっと書いてまいりましたが、1863年ころから、ティボリ街のモンブラン邸には、日本人ジェラールド・ケンが出入りしていまして、幕府関係の使節団員も姿を現し、慶応元年には新納久脩、五代友厚の薩摩使節団、次いで薩摩密航留学生たち、薩摩パリ万博要員と、数多くの日本人の姿が見られたはずなのです。
 同じ界隈にいましたマネやゾラが、果たしてそれを知らないでいたのでしょうか。

 ただ、ここで考えておかなければならないことは、この当時、ゾラは小説を書き始めたばかりの無名のジャーナリストですし、マネはスキャンダラスなばかりで一つも絵が売れない新米画家ですし、印象派は旗挙げさえしていなかったんです。
 彼らの本格的なデビューは、普仏戦争があって第二帝政が倒れ、第三共和制となってからのことなのです。
 モネ、ドガ、ルノワール、セザンヌなど、現在では知らない者がないほどの印象派の巨匠ですが、当時は、均整のとれた古典美を無視する変な趣味の無名の若者たちでした。
 当時、パリでもっとも有名で売れていた画家といえば、ヨーロッパの王侯貴族御用達の肖像画家、フランツ・ヴィンターハルターじゃなかったでしょうか。wikiにページが立ち上がっていますね(wikiフランツ・ヴィンターハルター)。
 新古典なのか新ロココなのか、マネの絵とくらべてみてください。ものすごく典雅です。

 

 ヴィンターハルターによる、ウジェニー皇后(ナポレオン三世妃)と侍女たちです。
 描かれたのは1855年(安政二年)ですから、第二帝政の前期、篤姫が徳川家定に嫁ぐ一年前です。正名くんは、まだわずか5歳。

 日本の浮世絵は、マネとその友人たち、後の印象派にとっては大胆で斬新だったわけでして、既成のアカデミックな画壇からしますと、得体の知れない極東の島国の美術などというものは、けっこうそれだけで、スキャンダラスな要素を持ったものでした。
 
 モンブラン伯爵は、どういう立ち位置にいたのでしょうか。
 私がモンブランに興味を持ちました最大の理由は、モンブラン伯の日本観に書いておりますように、柔軟で自由なその日本観です。
 男爵な上に伯爵なお方ですが、双方、父親の代からのことでして、レオン・ド・ロニーに同じく、日本に深く興味を持つといいますことは、もうそれだけで、当時の欧州では、革新的な変わり者と見られる存在、だったのではないでしょうか。

 とすれば、マネとその友人たち、後の印象派の人々とも、けっこう親和性があったようにも思います。

 次回、ようやっとお話は、普仏戦争にまでもってゆけそうです。

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普仏戦争と前田正名 Vol2

2012年01月07日 | 前田正名&白山伯

 普仏戦争と前田正名 Vol1の続き、です。
 えーと、ですね。第二帝政普仏戦争のお話は、カテゴリー 日仏関係の過去記事に、けっこう出てきますが、古い記事ですねえ。読み返していて、いや、けっこう、昔は短いながらにいちいち解説していたりするんだなあ、と感心。
 もしかしまして近頃は、すさまじいオタク記事になっていたりするんですかねえ。

 カテゴリー最初の『オペラ座の怪人』と第二帝政を書いたのが2005年です。このときにはモンブラン伯爵のこともよくわかっていなかったりしたんですが、モンブラン伯は維新回天のガンダルフだった!? 番外編で書きましたように、モンブラン伯爵が維新に果たした役割を正当に評価する学術論文も現れてきたりしている昨今です。

 『オペラ座の怪人』と第二帝政の後半に、パリのオスマン大改造のことを書いておりますが、これは、それほど訂正の必要はなさそうに思います。
 ただ、つけくわえますと、パリの再開発、経済復興は、すでに王制復古期にはじまっていた、ということでしょうか。

優雅な生活―“トゥ=パリ”、パリ社交集団の成立 1815‐48
アンヌ マルタン=フュジエ
新評論


 上の本によれば、ショセ=ダンタン地区全体、高級住宅街として開発がはじまったのが王制復古期からですし、「近代都市パリの誕生---鉄道・メトロ時代の熱狂 」(河出ブックス)によりますと、サン・ラザール駅に侵食されましたヨーロッパ街区は、ヨーロッパ全土の制覇をめざしましたナポレオン帝政が倒れた後、ヨーロッパの調和的発展を願って、街路にヨーロッパ各地の名前がつけられたんだそうなんです。
 
まあ、あれです。ナポレオンが外征によってフランスの栄光をどのように高めましょうとも、軍事的緊張の中での経済開発は難しく、王制復古により、少なくとも対外的な平和は保証されたわけでして、内需拡大へ指向が向いた、ということなのでしょう。

 しかし、ですね。一度、徹底的に踏みにじられました権威が、元のままに返るということはありえないんですね。
 フランス革命は、王政とともに社会を律していました宗教(カトリック)をも全否定する道をたどり、新しい社会創出を試みて、革命前の伝統社会は「アンシャン・レジーム(旧体制)」と呼ばれるようになったのですが、しかし伝統の存在は存在でして、無いものにしてしまうことには無理があり、革命後の社会もその上に築くしかなく、非常に不安定なものとならざるをえなかったわけです。
 ここらへんのことは、フランソワ・フュレの「アンシャン・レジームと革命」(「記憶の場―フランス国民意識の文化=社会史〈第1巻〉対立」収録)がわかりやすく解説してくれていますが、フュレが指標としていますのが、下の本です。

「フランス二月革命の日々―トクヴィル回想録」 (岩波文庫)
アレクシス・ド・トクヴィル
岩波書店


 アレクシス・ド・トクヴィルは1805年、ナポレオン帝政のはじまりの時期に生まれた人でして、直接には革命を知りません。しかし、貴族の家の三男に生まれ、両親は処刑されかかって、母親はそのときの恐怖から精神に異常をきたしていた、といわれます。
 両親も兄も親戚も、当然、ブルボン正統王朝派で、王政復古支持者でした。
 しかし、アンシャン・レジームを直接知らないで政治家になりましたトクヴィルにとり、ブルボン正統王朝は尊敬に値し、感情の上からは慕わしいものであったのですが、一方で、このままでは生まれたときから吸っていた自由の空気がなくなってしまうのではないか、という危惧も抱いていました。

 あまりにも旧式な復古王政には無理が多く、打倒され、ブルジョワに押されたオルレアン家のルイ・フィリップが即位し、7月王制がはじまります。
 25歳のトクヴィルは、親族に「裏切り者」と言われながら、ルイ・フィリップ王に忠誠の宣誓をします。中産階級(ブルジョワ)を中心に上下がうまく融合した、イギリスのような安定した立憲王政に移行できるのではないかという、期待を持ってのことでした。

 どこかで7月王制のことを書いた、と思いましたら、「リーズデイル卿とジャパニズム vol8 赤毛のいとこ」でした。
 バーティ・ミットフォードの父親ヘンリー・レベリーは、1804年生まれ、トクヴィルとほぼ同年代のイギリス人です。あるいは、知り合いであったかもしれません。以下、再録。

  幼いバーティは、チェイルリ宮殿前の広場で、お供はいつも一人だけで、地味な灰色のコートを着て散歩しているルイ・フィリップ王を見て、畏敬の念を抱いたのだそうですが、父ヘンリー・レベリーのもとに集まってくるフランスの友人たちは、それに賛成しませんでした。
 どうやらヘンリー・レベリーの友人は、正統王制派ばかりだったようでして、バーティが父の友人たちから聞いたのは、「中産階級のごきげんとりをする俗悪なルイ・フィリップ王」への嫌悪、でした。


 そもそもフランス革命以前から、フランスは非常に中央集権化が進んでおりまして、工業化を待つまでもなく、パリに人口が集中する傾向があったんですが、一応政情が落ち着きました王制復古期から7月王制期にかけまして、遅ればせながら産業革命が始まり、鉄道も敷かれますし、農村からパリへ、どっと人口が流れ込みます。首都に流れこめばともかく食べられますし、僅かながら、一攫千金の夢もあります。
 しかし、ブルジョワ中心の政治は金権に陥って腐敗し、貧富の差がはげしくなって、2月革命が起こります。
 その渦中に、43歳になったトクヴィルがいました。以下、「フランス二月革命の日々」から引用です。

 産業革命は、三十年このかた、パリをフランスで第一の工業都市にしたのであり、その市壁の内部に、労働者という全く新しい民衆を吸引した。それに加え城壁建設の工事があって、さしあたって仕事のない農民がパリに集まってきた。物質的な享楽への熱望が、政府の刺戟のもとで、次第にこれらの大衆をかり立てるようになり、ねたみに由来する民主主義的な不満が、いつのまにかこれら大衆に浸透していった。経済と政治に関する諸理論がそこに突破口をみいだして影響を与えはじめ、人びとの貧しさは神の摂理によるものではなく、法律によってつくられたものであること、そして貧困は、社会の基礎を変えることによってなくすことができることを、大衆に納得させようとしていた。

 カール・マルクスは、トクヴィルより13歳若いプロシヤ人でしたが、7月王政下のパリで活動をはじめ、ベルギーへ移って、1848年にはエンゲルスとともに「共産党宣言」を書いています。
 フランス革命は、労働者が主体となって起こったものではありません。過激なジャコバン派にしましたところで、中産階級(ブルジョワ)でした。
 1848年の2月革命は、世界で初めて起こった労働者主体の革命でした。産業革命により、都市部には多数の労働者が生まれ、従来の政治では、おさまりがつかなくなろうとしておりました。

 ルイ・フィリップは退位し、第二共和政が始まります。
 早々と普通選挙(ただし男子のみ)を採用しましたことが、この体制の命取りでした。地方の農民は保守的でして、パリを中心とする都会の労働者は、まだまだ少数派です。2月革命直後、パリの失業者慰撫のために臨時政府が設けました国立作業場は、普通選挙が終わり体制が確立すると同時に閉鎖されるのですが、これを不満として起こった6月暴動は、多数の信任をとりつけておりました共和国政府によって、武力鎮圧されます。

 そして、同年の12月、大統領選挙が行われるのですが、ナポレオンの甥、ルイ=ナポレオンが、圧倒的な多数票を集めて当選します。
 なにしろ、普通選挙が始まったばかりです。
 フランスの栄光を対外的に輝かせたナポレオンの名は、フランス人ならば誰でも知っていて、しかも農村の記憶では、ナポレオンの時代はそう悪いものではなく、いわばまあ、ナポレオンの名前だけで、大統領になったようなものなのでしょう。

 フランスの軍艦マーチに書いておりますが、ルイ=ナポレオン、クーデター後のナポレオン3世に関しましては、下の本が詳しく、参考にさせていただいております。

「怪帝ナポレオン三世 第二帝政全史 」(講談社学術文庫)
鹿島 茂
講談社


 えーと、ナポレオン三世はトクヴィルより3つ年下、ほぼ同年代です。ナポレオンの没落とともに、ナポレオンの親族は亡命を余儀なくされていまして、少年期からフランスを離れておりました。
 つまり、ルイ=フィリップが退位し、ようやく帰国がかなって大統領になったとはいいましても、フランス国内にさっぱり、政治的基盤がありませんでした。あったのは、農民を中心とします大衆の圧倒的な支持ばかり、です。
 やがて、退役軍人クラブを立ち上げ、軍隊と警察を掌握し、協力者を得て、クーデター。成り行き上、血まみれクーデターとなってしまいましたことから、マルクスやら、フランスの国民的作家のヴィクトル・ユゴーやらは、大統領から皇帝になりましたナポレオン三世と、成立した第二帝政を、もうくそみそにけなし続けます。
 しかし、ティエリー ・ランツの「ナポレオン三世」 (文庫クセジュ)によれば、当時の暴動鎮圧に流血はつきもので、他の騒動と比べて犠牲者の数が多かったわけではない、とのことなんです。

 またクーデターの後、きっちりナポレオン三世は国民投票で大衆の支持を取りつけておりまして、第二帝政を独裁政権と呼ぶことには無理があります。
 マルクスによりますと、ナポレオン三世を支持しましたのはルンペンプロレタリアートだそうでして、いやはや、ナポレオン三世その人ではなく、支持しました大衆に投げつけた罵声なんですから、すさまじいですね。

 ところで鹿島茂氏は、ナポレオン三世には母性本能をくすぐるようなところがあって、女にもてたとしておられますが、母性本能の欠如しました凡人の私には、なにが魅力的なのやら、よくわかりません。
 なんだか、目つきがどんよりしておりますよねえ。
 伯父のナポレオンには似ても似つかない軍事音痴でして、実は母親の浮気の産物でナポレオンの家の血は引いていない、という噂もあったそうですが、三世の方の政治目標は貧困をなくす!でして、7月王政時よりも、はるかに大規模で徹底しましたオスマン大改造により、パリの街を近代化し、同時に景気を浮上させました。
 といいますか、地上げによります、あぶく銭やらなにやら、浮上させすぎましてバブル状態。

 豊かな文化は、旺盛な消費とともにあります。
 経済力、軍事力、外交力。それら、国力のすべてにおいて、当時、イギリスはフランスをはるかに引き離しておりましたが、消費文化という点にかけては、パリがロンドンを圧倒しておりました。
 社会の変化は、芸術におきましても新たなムーブメントを生み出し、ロンドンでもパリでも、古典的なアカデミズムを否定する人びとが現れるのですが、イギリスにおけるそれは象徴主義につながるラファエル前派であり、一方パリでは、世界の美術界をリードする印象派が、胎動し始めます。
 
 「近代絵画の創始者」 と呼ばれますエドゥアール・マネは、1832年生まれ。モンブラン伯爵より、一つだけ年上です。代々高級官吏を勤めてきたパリのブルジョワの名家の長男に生まれ、両親は息子に海軍士官への道を望んでいましたが、兵学校受験に失敗し、両親もあきらめて画家になりたいという息子の希望を受け入れます。
 なにしろ資産家のお坊ちゃんですから、別に絵が売れなくとも生活に困りはしないのですが、やはり両親の手前、アカデミー画壇から評価を受けたい気分はあったらしいのです。それがなぜか、超スキャンダラスな絵を描いてしまうのですね。
 1863年にサロン(官展)に出品しました『草上の昼食』です。下の本の表紙になっております絵です。実物はパリ、オルセー美術館蔵。

もっと知りたいマネ―生涯と作品 (アート・ビギナーズ・コレクション)
高橋 明也
東京美術


 今となりましては、いったいなにがスキャンダラスなのやらよくわかりませんが、えーと、ですね。
 ヴィーナスの誕生とか、ギリシャ・ローマ神話など、歴史上のはるかな過去を題材に裸体を描きますことは、アカデミー画壇からも、りっぱに認められたことでした。
 しかし、あきらかな現代風俗で、「ブローニュの森なの?」と見えるほど身近に、生々しく裸体を描くことは御法度だったんです。
 そして、美術界も変わろうとしていました。上の本から引用です。

 じつは、この年、国立美術学校(エコール・デ・ボザール)にも大変革が起こっていた。1819年に設立されたこの美術学校では、いまだ旧弊な時代錯誤の教育が行われていたが、画家の登竜門だったローマ賞のコンクールから「歴史的風景画」のジャンルが廃止されたのである。

 写真の誕生により、記録する、という意味での絵画の役割は後退していました。
 そして、神話や歴史をあったことのように記録する絵画の役割も、消え去ろうとしていたのです。
 日常、身近にある一般的な風景や、隣に住んでいる人々。
 娼婦であろうが場末のカフェであろうが、そして煙を吐く超現代的な機関車であろうが、画家が面白いと思ったものはなんでも画材になる、という時代が、到来してきていました。

 1863年といいますと、文久3年。薩英戦争の年です。
 前田正名13歳、錦江湾に姿を現しましたイギリス軍艦に武者震いしていたころです。
 「モンブラン伯と「海軍」をめぐる欧州の暗闘vol2」に書いておりますが、文久3年のモンブラン伯爵の動向は、よくわかっていません。しかし翌元治元年、パリを訪れた横浜鎖港談判使節団の前に姿を現し、そのうちの名倉予何人と三宅復一は、まちがいなくティボリ街のモンブラン邸を訪れています。

 そして、そのモンブラン邸のごく近所に、エドゥアール・マネがアトリエをかまえていまして、サン・ラザール駅界隈は、印象派揺籃の地だったんです。
 次回へ続きます。

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普仏戦争と前田正名 Vol1

2012年01月03日 | 前田正名&白山伯

  一応、モンブラン伯の長崎憲法講義の続きでしょうか。これ以降、前田正名のことをまとめて書いたことは、なかったと思いますので。

 あけましておめでとうございます。
 昨年は年明けから体調をくずしていまして、確定申告が終わったらブログ再開、と思っていましたら大震災。その直後に、姪が東京の大学へ進学することになり、その手伝いで、放射能と電力不足の騒ぎの最中の東京へ。
 もともとが、けっこう時事好きの私です。頭の中がもう、すっかり政府への罵倒で渦巻き、熱くなりすぎましてブログも書けないありさま。ついでに禁煙をいたしましたところが、なにしろ私にとりましての書く作業は、ずっと喫煙と結びついてきておりまして、「文章を書くとタバコが吸いたくなるにきまっている」という脅迫観念から、書くことの方もやめてしまいました。
 半年を超えて、ようやくタバコを吸うことの幸せの記憶が少しは薄れてきたかなと。

 それはさておき、去年の11月から、時代劇専門チャンネルで、昔の大河ドラマ「獅子の時代」をやっておりまして、これ、モンブラン伯爵が登場する唯一の大河ドラマです。えー、1~5話がパリ万博でして、事実関係にはおかしなところもありながら、大筋で悪くはないですし、なかなかにおもしろいのですが、モンブランに関しては、ちょっと、ですね。もっと悪者に描いてもいいですから、印象に残る役者さんにお願いしたかったなあ、と。ただの小太りのおっさん、なんですわ。

 そして、さらに。暮れに下の本を読んだんです。

巴里の侍 (ダ・ヴィンチブックス)
月島総記
メディアファクトリー


 「美少年と香水は桐野のお友達」に書いておりますように、正名くんはどうやら桐野利秋のお友達です。
 桐野ファン大先輩の中村太郎さまが、「正名くんが主人公の小説が出た!」ということで、さっそく読まれましたところが、桐野は出てきませんし、ともかくつまらない、ということでして、「坂本龍馬と親しかった、という資料が、あるんですか?」とおっしゃるので、「いや、刀をもらったのは本当らしいですし、陸奥宗光と親しかったみたいですから、親しくないこともなかったんでしょうけど、司馬さんが書いてるほどではなかったと思いますよ」とお答えしますと、「司馬さんが書いているんですか?」。私は、「はい。エッセイですけど」と、ブログの過去記事「龍馬の弟子がフランス市民戦士となった???」「美少年は龍馬の弟子ならずフルベッキの弟子」をご紹介いたしました。
 それにしても、話をお聞きするだけでつまらなそーですし、その時は読む気にならなかったんですが、宝塚でやるということを知りまして、「正名くんが宝塚??? これはちょっと読んでみなければ!!!」となったような次第です。

 それでー、なにがいやだって、愛がないんですっ!!! 正名くんへのというよりも、この時代に対するー、なんですが。時代物のハーレークイン・ロマンスなんかで、「えーと、なんでこの時代にしてるの? 単にびらびらの衣装着せたかっただけ???」みたいな、コスプレ指向のものがけっこうありますが、それと同じです。

 まっ、そういう大本の話は、順を追ってすることにしまして、細かなお話から始めます。 
 まず、この小説、モンブラン伯爵のパリでの住まいをリヴォリ街だと勘違いしているようなんですけれど、ティボリ街です。
 一見、どうでもいいことのようですが、後述しますように、このティボリ街界隈、かなりおもしろい場所なんです。

 って、パリの話に入る前に、正名くん洋行の状況を整理しておきますと。
 モンブラン伯の長崎憲法講義で書きましたように、正名くんの渡航費用はモンブランが出しています。鮫島尚信在欧外交書簡録に証拠の書簡が入っていまして、確かなことです。

 渡航の時期は、「ニッポン青春外交官―国際交渉から見た明治の国づくり 」(NHKブックス)によれば明治2年11月23日(1869年12月25日)でして、モンブラン伯とパリへ渡った乃木希典の従兄弟に書いておりますが、長州の御堀耕助(大田市之進)といっしょ、です。
 モンブラン、前田正名、御堀耕助の一行に先立ちまして、山県有朋と西郷従道が、パリへ行っています。
 
 国立公文書館のサイト、宰相列伝・山県有朋に「山県有朋露仏2国に差遣し地理形勢を視察せしむ(明治2年)」という書類がありまして、二人の通訳を中村宗見(博愛)が務めています。中村の任命時期から見まして、旅立ちは6月22日以降、のようですね。
 この山県、西郷の渡仏、詳しい資料がなくて困っているんですが、確か「青木周蔵自伝 」(東洋文庫 (168))に、山県と御堀が二人でプロシャに来た、みたいな記述がありましたし、中村博愛はモンブラン伯爵の世話でパリに留学していた薩摩藩留学生ですし、なんといいましても、このときのモンブラン伯爵は日本公務弁理職(日本総領事)ですし、パリのモンブラン邸はそのまま欧州日本総領事館ですし、一行が立ち寄っていないはずはありません。
 ただ、山県、西郷、御堀、そして中村博愛も、普仏戦争開戦直前に欧州を離れまして、確か船の中だかアメリカだかで、開戦の報を聞きました。

 なお、ですね。
 慶応2年の末に新納竹之助(武之助)少年が、慶応3年には岩下長十郎くんが、モンブランを頼って渡仏しておりまして(「セーヌ河畔、薩摩の貴公子はヴィオロンのため息を聞いた」 「岩下長十郎の死」参照)、ずっとパリで勉学に励んでいたわけです。この二人に、正名くんが日本からの便りを手渡しただろうことは、「セーヌ河畔、薩摩の貴公子はヴィオロンのため息を聞いた」に書いておりますように、十分に推測できることです。

 モンブランが日本へ行っております間、二人はおそらく、「巴里にさようなら、薩摩貴公子16歳の別れ vol2」の町田清蔵くんのように、とても家庭的な下宿に預かってもらっていたでしょう。あるいは、清蔵くんがいたところそのもの、だったかもしれません。

 で、その下宿の場所です。fhさまの「かっつんころころ☆倉庫」2007.03/03 [Sat] 備忘にもならない戯言3に出てまいりますが、「幕末・明治期の日仏交流 」(中国地方・四国地方篇1)に収録されております入江名簿(明治5年秋頃のものと推定されるパリの日本人留学生名簿)によりますと、新納武之助(竹之助)少年は、オルチュス氏塾で学んでおりまして、このオルチュス氏塾とはなにかと申しますと、リセで学ぶ前の進学塾のようなものです。これまたfhさまのところの2007.02/19 [Mon]にあるんですが、l'Institution Hortus(オルチュス塾)で検索をかけますと、住所は94 rue du Bac(バック通り94蕃地)、唯美派作家ユイスマンスが少年時代に寄宿していた塾だということがわかります。
 「ユイスマンス伝」、読んだのがずいぶん以前でして、記憶がちょっとあれなんですが、ユイスマンスは竹之助くんよりはるかに早く、1856年にオルチュス塾に入り、1862年には名門リセ・サン=ルイ(Lycée Saint-Louis)に進学しています。したがって、いっしょに受業を受けた、ということはありえなさそうなんですが、オルチュス塾の寄宿舎からサン=ルイに通っていまして、わずかながら、同じ敷地にいた時期があったようです。

 私といたしましては、竹之助くんがものすごく不味い食事を出した!といわれますオルチュスの寄宿舎にいたとは思えませんで、教師の家に下宿して塾に通ったのでは? と推測するのですが、やはりそれは、オルチュス塾のあるパリ左岸、サンジェルマン・デ・プレ界隈の学生街だったのではないでしょうか。

 さて、しかし。
 正名くんは一応、モンブラン伯爵の秘書です。
 1870年(明治3年)2月11日(「ニッポン青春外交官―国際交渉から見た明治の国づくり 」)、パリに着いてとりあえずは、ティボリ街の伯爵邸に入ったのではないかと思われるのですが、その場所です。
 Rue de Tivoli.8.(ティボリ街8蕃地)のティボリ街とは、宮永孝氏の論文「ベルギー貴族モンブラン伯と日本人」によれば、現在のrue du Amsterdam(アムステルダム通り)ですが、下の写真、「優雅な生活―“トゥ=パリ”、パリ社交集団の成立 1815‐48」、P408の地図によれば、rue du Athènes(アテーヌ通り)です。



 下の本のP82の地図でも、現在のアテーヌ通りが、rue de Tivoliですので、現在のアテーヌ通りとアムステルダム通りが交わるあたりの角、と考えればいいのかもしれません。

「近代都市パリの誕生---鉄道・メトロ時代の熱狂」 (河出ブックス)
北河 大次郎
河出書房新社


  パリ9区、ショセ=ダンタン地区の一部でして、王制復古から7月王制期にかけては、新興大ブルジョワや新興貴族、そして芸術家など、流行りの先端を行く富裕層が住む高級住宅街、であったようです。
 それが、ですね。ちょうど幕末維新と重なります第二帝政期には、あんまりにもサン・ラザール駅が近すぎまして、繁華街すぎて場末っぽい雰囲気もあり、どういうこと???と疑問だったんですが、上の本が見事に答えてくれていました。
 現在のサン・ラザール駅一帯は、ヨーロッパ街区と呼ばれ、ティボリ庭園周辺の土地を中心に、王制復古期の1821年から開発が始まった新興高級住宅分譲地でした。

 現在、サン・ラザール駅のすぐそば、線路の上にヨーロッパ橋があります。



このカイユボットの「ヨーロッパ橋」は、1877年(明治10年)のものですから、正名くんが、故郷薩摩でくりひろげられています西南戦争に思いを馳せながら見た景色です。

 しかし、実は当初の住宅地開発予定では、ここは地上のヨーロッパ広場であり、リヴォリ街の建物のように統一された高級住宅が建ち並ぶ予定、だったのだそうです。
 ところが、です。これと競合して鉄道計画が持ち上がり、1837年、ヨーロッパ広場のすぐそばに、パリ市内初めての鉄道駅であるサン・ラザール仮駅が出現します。しかも計画では、マドレーヌ広場の北側まで線路が延びて、終着駅ができるはずだったのですが、界隈の有力地権者の反対で実現せず、サン・ラザールが終着駅となってどんどんと膨れあがり、すでに1867年(慶応3年)に、ヨーロッパ広場は駅に呑み込まれて、線路の上にかかるヨーロッパ橋となってしまっていた、というわけなのです。
 下は「近代都市パリの誕生---鉄道・メトロ時代の熱狂」P102から、駅が広場を呑み込む経緯を示した地図です。



 
 カイユボットもそうなのですが、マネ、モネといった印象派の巨匠たちがこのサン・ラザール駅を描き残していまして、それはなぜなのか、モンブラン伯爵の邸宅があり、幕末から明治にかけ、正名くんを含む多くの日本人が訪れたこの場所はどんなところだったのか、次回に続きます。

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コメント (2)
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